チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

水底に消えた王国

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タイとコーム

−タイとコーム−水底に消えた王国(2)

古い伝承本を読んでいますと、今の我々の考える国境という概念は何処にも見られません。彼らは点を支配し、そこに集落を作って暮らしていたようです…ネ。そして、点と点の間はかなり自由な空間であったのでしょうか。

シンハナワットが長い移動の末に今のタイ北部に辿り着いた当時、この地一帯には『コーム(KHOOM)』と呼ばれる人々が住んでいたようです。コームとはカメーン(KHAMEER)、即ち、クメール、現在のカムボジアを意味するらしいのですが、彼らがこのタイの北にいたというのは驚きですね…でもラオスの伝承では、不祥の生まれと讒言された王子が従者共々河に流され、カムボジアに流れ着き、その地の統治者に育てられて後年ラオスに凱旋した、という伝説もありますから、案外クメール民族はかなり広い範囲に分布していたのかもしれませんね。何しろ、彼らは海真臘と陸真臘という二つの国に分かれていたらしいのですから…
彼らコームは『ムアン・ウモーンカセーラー・ナコーン(MUANG UMOONGKHSEELAA NAKHOR)』という名前の町を建設して住んでいました。国を建設して定住の場所を得たシンハナワットは、周辺の未開民族ミラック―この言葉そのものに未開民の意味があり、部族名であるとは限りませんが―に傘下に入るよう勧告して武力によらずに支配下に置きましたが、このコームだけが支配下に入ろうとはしませんでした。それはそうでしょうね。先住者であり、少なくともそれなりの文明を持っていたでしょうから、新参の部族に頭を下げることがなかったとしても不思議ではありません。
そこでシンハナワットは、軍を起してこのコームを討ち、この流域を支配しました。伝承は、コーム制圧の年をシンハナワットの建国後3年のこととしています。そして、王の版図を北は中国の大理、東はトンキン湾にまで至り、南はロッブリー―ここで言うロッブリーとはハリプンチャイ、即ち現在のラムプーンのこと―にまで至るとしています。
こうした突拍子もない信じられない伝承の中にも、彼らが遠くどこか分からない忘れてしまった遥かかなたよりの移動の末にこの地に辿り着いたことを伝えているのでしょう。そして、そこには既にコームという先住民族がいた…という事実が隠されているのでしょう…か?
兎も角、シンハナワットを指導者と仰ぐ流浪の民が、このタイの北部に定住の地を見つけました。それが何時のことなのか??は、茫漠として分かりません。ただ、その後の動きを見ていくと。千数百年前であったでしょう。

ところで、その『ムアン・パントゥ・シンハナワット・ナコーン』というのは何処にあったのでしょうか。『ラーンナー・タイ伝承集』という北部各地の伝承を纏めた西暦1973年版の本に収録されている『シンハナワット伝』では、コーム人たちのムアン・ウモーンカ・セーラー・ナコーンはクッカーナティー河、即ち、コック河の上流にあり、ムアン・パントゥ・シンハナワット・ナコーンはカラナティー河、即ち、メコン川の西岸にあった、と伝えています。
大雑把に見て、コック河流域とメコン川の間のどこか、としておきましょう。
これも先に述べた通り『ヨーノック王朝伝』では、サーイ河の辺と記しています。この『パントゥ・シンハナワット・ナコーン』こそが『ムアン・ヨーノック・ナコーン・ラーチャターニー・シーチャーンセーン(MUANG YOONOK NAKHOR RAACHA THAANII SRII CHAANGSEEN)』に他なりません。昔の書物を読んでいると、いきなり同じ町の名前が別の名前で出てきて困ってしまいます…このチャーンセーンという名前を持って、今のチエンセーンが史上最古の町であるかの如く言う場合がありますが、今のチエンセーンがずっと後に出来た町であることは間違いありません。ただ今のチエンセーンも古い町の跡に建設された、と伝承は伝えていますが…

ここに出てきたチャーンセーンという名前ですが、これについても面白い話が伝わっています。ある日、釈尊がインドからこの地にやって来た、というの…信じられないでしょうけど、伝承はそう伝えているのよ。
釈尊の到着を知ったシンハナワットは、喜び勇んで食事を用意してもてなしました。しかし、彼の飼っている象が釈尊の威光に恐れたのか、いきなり大きな声を出すと、カラナティー河、即ち、メコン川に向かって走り出し菩提樹の木陰で立ち止まると、一際大きな声を発しました…とさ。
食事を終えた釈尊の頬が幽かに綻んだのを見た摩訶迦葉尊者が、その分けを尋ねると、仏陀は、象が大音声を発したその場所は、『チャイブリー・シーチャーンセーン』と名付けられるだろう、と言った…そうです。そして、釈尊は、菩提樹の麓にいる象の近くのある山の頂に上り、それから東方に向かって結迦趺座して座り、遥かな将来、高貴な一人のプラヤーが、この地にウィアンを打ち立て、その町は、チャイブリーチャーンセーンと呼ばれ、その後、ウィアン・チャーンセーンは、名前を変えてチエンセーンとなるであろう、と言ったのです…伝説では…ね。
そう言ったというのです。
それは、釈尊が大悟して15年目の安吾が明けた時だと『ムアン・チエンセーン伝』は伝えています。一方、『ヨーノック王朝年代記」では、その年を大悟の後17年のこととしています。釈尊は、この年ヨーノック・ナーカパントゥ・シンハナワット・ナコーンの領域のウィアンから西北方向に1000ワー離れたドーイ・ノーイに逗留していたことになっています。

(続)


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