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英雄クン・チュアン−謎の出自−
『クン・チュアンは戦場の英雄である』
これは、中等教育副読本『北の町の物語』の中の『重要人物編』の中で第一番に取り上げられている人物評です。
どの国にも英雄はいるものです。タイにもたくさんいます。
豊かな食料を誇示するかのような『田の中に米あり、水の中に魚あり』と言う碑文の内容で有名なスコータイの『ラームカムヘーン王(RAAMKHAMHEENG MAHAA RAACH)』、ビルマを駆逐した『プラ・ナレースアン王(PHRA NAREESUAR MAHAA RAACH)』、タイ近代化の基礎を築いたとされる『ラーマ五世王(PHRA BAATH SOMDEC PHRA CULACOOMKLAU CAU YUU HUA)』、その他にも、東北部タイ入り口のナコーン・ラーチャシーマーには『タウ・スラーナーリー(THAAW SURANAARII)』と言う女傑がいます。そして、南のプーケットにも名前は失念しましたが、確か二人の女傑がいると聞いたことがあります。
北に目を向ければ、この『クン・チュアン(KHUN CUANG)』は英雄中の英雄でしょうね。そして、それはあのコームをこの地から駆逐した『プロームマクマーン(PHROHMMAKUMAAR)』に引けをとることはないでしょう。ただ両名とも伝説の中に生きている人物ですが…
ラワチャンカラートを始祖とする『ンガーンヤーン王国』の統治者は、代々頭に『ラーワ(LAAWA)』と言う名前を持っています。これを『ラーウ(LAAW)』と読めば、隣国ラオスの民族名になることは、既に話した通りです。
でもこの物語の主人公は、通常『クン・チュアン』と呼ばれて『ラーウ』も『ラーワ』も付いていません。じゃあ、彼は誰なのでしょうか?
彼の父は本当に『ラワチャカ』の血を引いた王なのでしょうか…
『十五代王朝伝』では、ンガーンヤーン王朝第十七代目の王『ラーワチョン(LAAWACONG)』には『ラーワチューン(LAAWACHUUN)』と『チョームパーラーン(COOMPHAALAANG)』という二人の男の子がいました。そして、弟のラーワパーラーン(LAAWACOOMPHAALAANG)が第18代の王位に就き、その子供が『クン・チュアン』で第19代目のプラヤーとして記されています。
一方、『プーンムアン・チエンマイ伝』では ラーウチョンの次男の名前が異なっています。『王朝物語伝』同様に『チョームパールアン(COOMPHAARUANG)』で、39歳にして父王ラーワチョンの死を受けて王位を継承しました。そして、その子供が『クン・チュアン』で、ラーワチョン亡き後、第19代目プラヤーになった、というのです。従って、ここでいう『ラーワパーラーン』と『ラーワパールアン』は同一人物でしょう。
しかし、不思議なことに『ヨーノック王朝伝』の巻末に記されている王統系譜を見てみると、『クン・チュアン』は、『プーンムアン・チエンマイ伝』の中のヒラン・ナコーン王朝の王統系譜の中で第19代目に配されながら、その名前は『ラーワチャーン(LAAWACAANG)』となっています。勿論『ラーワチャーン』と『クン・チュアン』即ち『プラヤー・チュアン(PHRAYAA CUANG)』は同一人物です。なぜなら、王統系譜の備考には『ラーワチャーン』は、ラーンチャーン(LAANCHAANG)、ナーン(NAAN)との戦いに勝利したとなっているからです。
でも不思議なことに、同書巻末の『パヤウ』に伝わる王統を見ると、ラワチャカより41代目に『クン・ンガーン(KHUN NGAAN)』と言う王が出ます。41代目と言うだけでかなり怪しいものを感じますが、まあ、ここではそれとしておきましょう。所詮『伝承』ですから。歴史学者の中には、『パヤウ伝』は信憑性に乏しい、と言う人もいるくらいですから。信憑性というなら、どれも所詮『伝承』ですから怪しいと言えばそれまでですけどね。
そのクン・ンガーンには『クン・チョームタム(KHUN COOMTHARM)』という子供がいて、ヒラン・ナコーン・ンガーンヤーンより出て東に向かい、現在のイン河(MAE NAAM ING)の辺のドーイ・ドゥアン(DOOY DUAN)の麓に位置する古いムアンであるプーカームヤーウ(PHUUKAAMYAAW)を統治に向かわせた、と言うのです。このムアンは、昔より廃墟となっていた古いナコーンで、横2キロ、縦2,2キロの城壁を有し、濠の幅14メートルで、城門は8か所あったと言いますが、これが本当ならばムアン・チエンマイにも劣らない巨大なものですね。
そして、その12代目の王が有名なパヤー・ンガムムアン(PHAYAA NGAMMUANG)なんですね。『パヤウ伝』は、英雄クン・チュアンよりの王統である事を強調する為に作ったのかも知れませんが、残念ながら、あたしはその『プーンムアン・パヤウ伝』をいまだ読んでいませんから、何ともいえません…
このムアン・プーカームヤーウが、即ち、現在の『ムアン・パヤウ(MUANG PHAYAU)』に他なりません。かつてこの町を旅したことがありますが、残念ながら濠の跡も城壁の跡も目にすることはありませんでした…といっても、その頃は、未だそれほどの注意力がなかったのも事実ですが…
どうやら、クン・チョームタムが出会った古いムアンとは廃墟のムアンであったようです。彼は廃墟のムアンを復興したのでしょうね。伝承の中では、その廃墟のムアンの由来については言及されていませんが、このムアンは、東にはナーン(NAAN)、チエンコーン(CHIANGKHOONG)に接し、南は現在のラムプーン、ラムパーンと接していたと言います。
こうした様々な『クン・チュアンの出自』も隣国ラーンチャーンに伝わる伝承ではもっと別の内容が出てくるかもしれませんが、そこまではあたしも追っていけません。
チエンマイ系の『伝承』では『ラーワパールアン』の子供であり、ラワチャカより続く直系の第19代目となる『クン・チュアン』より下ること5代にして今一人の英雄『パヤー・マンラーイ』の御世になるのです。
(続)
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大変基本的な質問で恐縮なのですが、
この「伝説」は日本の「古事記」のような、勝者による「王室の記録」なのですか?
タイでも王の継承のための争いがあって、その勝者によって書かれたものなんでしょうか?
名前や地名など、馴染みがないのでなかなか覚えられないです(笑)
2009/2/16(月) 午後 11:23
ごめんなさい。ご返事が遅れまして。
いいわけですが、PCが不調で、今何とかあけることが出来た次第です。
この地で伝説を残しているのはタイ族なんですね。少なくともタイ族以前の文明を誇るモーン族の伝承本というのを聞いたことがありません。そして、残っている伝承は公式文章ではなくて、寺院などに保管されていた物で多くは僧侶が書き残していたようですね。というのは文字をもっとも必要としたのは読経を挙げる僧侶だからでしょうね。
2009/2/18(水) 午後 6:16 [ mana ]
ふむふむ。寺院はモーン族が支配していた頃から保護されていたんですね。タイは古くからずっと仏教国なのですね。
栄華盛衰は人の世の習いですね。
神話や伝説ってその裏に隠された史実を想像して読むと、
また違った面白みがありますね。
ありがとうございました。
2009/2/18(水) 午後 10:13
タイ族と仏教というのも大変に興味あるテーマなんですね。仏教以前にこの地を支配していたバラモン教共々仏教もある意味では『支配』の道具かもしれませんね。
タイ族は本来精霊信仰の民族で、今も色濃く残していますが、彼らが何処でどの様に仏教と接触したかには興味があります。ただ、彼らがこの地に来て以降は、仏教はモーン族を通じてスリランカからの仏教を受け入れてきたようなの。少なくとも北タイの従来の仏教は今あるものとは違ったものであることに間違いないですね。
モーン以前の民族はルアッと言われる民族だと思うけど、彼らは文字を持たなかったので、伝承を残していないの。彼らの話もあるけど、インドラ神が出てくるので、むしろ、タイ族が彼らの名前を借りて古い伝承を作り上げただかもしれませんね。
歴史に正解はない、というのがあたしの持論なの。だからあたしなりにこの地の『お話』をまとめてみたいなあ、というのが本音ですね。『歴史』を知るだけなら、学者の本を読めばそれで済むんですけどね。
2009/2/19(木) 午前 5:31 [ mana ]