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青葉の笛
人は年老いると幼い頃に戻るともいいます。とすると、わたしももう老境に入ったのでしょうか。遠く祖国を離れ、耳にする日本語も少なくなると、時に自動車を運転しながらも口をついて出るのは何十年も前に歌っていた歌だったりします。そんな時、窓を閉めて大きな声で歌うと、なぜかすっとします。
学生時代に歌っていた歌もあれば、社会人になってカラオケで歌った歌もあります。そして、時に童謡・唱歌の類の時もあります。まさに幼稚化しているのでしょうか。そんな中で、時として何の前触れもなく口に出る歌の一つが、この歌であり、そして『桜井の別れ』です。小さい頃は、その意味を考えるよりも歌いながら何と無くしんみりしていていましたが、優しい歌声に惹かれていたのだと思います。
そして、今、様々なサイトを巡りながら、この歌と共にはるか昔の日本人の心を想っています。
青葉の笛
明治39年(1906年)作
作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵
1 一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ 暁寒き須磨(すま)の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛 2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし言(こと)の葉あわれ 今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に 残れるは「花や今宵」の歌 『祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。驕れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ・・・』平家物語は仏教の無常をテーマに平家一門の盛衰を悲しくも格調高く記しています。
日本60余州のうちの過半を支配し、平家にあらざれば人にあらず、とまでその権勢を誇っていた平家一門も、天の命には如何ともし難いのか、木曽義仲の軍勢に京を追われ、再起を期して上京の機を窺うも、流人であり宿敵源氏の総領源頼朝の弟九郎判官義経の天才的武略の前に『風の前の塵』の如く瀬戸内海を流浪の果て壇ノ浦にて一族滅亡に追い込まれます。
源氏と平家、武家の双璧の争いの中で、さまざまな物語が生まれました。義経と武蔵坊弁慶の話も有名です。義経と頼朝の肉親の憎悪もまた哀れです。四国讃岐の屋島壇ノ浦での那須与一の騎射の話もまた有名です。そして、何と言ってもまだ御年8歳であらせられる安徳天皇が幼い御手を合わせて念仏を唱えられると、二位尼の「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と帝を抱いて入水された場面は涙を禁じえません。
そんな中で武将の戦いの中の涙もまた語り伝えられています。一ノ谷の合戦での平敦盛と熊谷次郎直実の一騎打ち、そして、平忠度と岡部忠澄の話でしょうか。
この『青葉の笛』は、1番がその平敦盛と熊谷次郎直実の物語。2番が平忠度と岡部忠澄の物語です。
都を落ちた平家一門は、再起を期して一ノ谷で源氏を迎え撃ちます。時に寿永3年(西暦1184年)2月7日でした。戦時においても、平家の中にはまだ雅を嗜む武将がいました。祖父平忠盛が鳥羽院より賜ったといわれる『青葉』とも『小枝』とも呼ばれる横笛をよくするのは、御年17歳の無官太夫と呼ばれた若者で、その出自を訪ねれば平清盛の弟経盛の末子で笛の名手平敦盛でした。背後に迫る源氏の中では、この笛の音の素晴らしさは評判になっていたのでしょう。
一方源氏の大将が彼の有名な九郎判官義経でした。背後から襲い来るとは夢にも思わない平家は、鵯越を逆落としに攻める義経の奇襲に算を乱して海に逃げました。この時、一ノ谷一番乗りで名を上げた熊谷次郎直実は、馬上海に逃げる凛々しい若者を見て戦いを挑みます。『そこにいるは平家の御大将か、敵に後ろを見せるとは卑怯なり』
海上の船に向かう若侍に大音声で呼びかける直実。
馬上の若侍も、都人として雅を嗜むとはいえ『平氏』も武家です。敵に後ろを見せることはできません。馬を寄せ合い馬上取っ組み合いながらも勝敗を決することが出来ないまま、そのまま地上に倒れ落ちます。17歳の初陣の若武者と百戦錬磨の43歳の荒武者の勝負は容易く付きます。
組み敷いて見ればまだ年端も行かぬ我が子と同じ年頃。尋ねても名前を名乗らぬ貴公子に直実も我が子を思い出しましたが、周りを取り囲む味方の手前その場を見逃すこともならず、『首を刎ねよ』という若者の言のままに涙を流しながら刎ねました。その兜の裏から出てきたのが『青葉』でした。
直実は、このとき自らが仕留めた敵将が笛の名手平敦盛であることを知ったのです。
この故事から生まれたのが幸若舞の『敦盛』の一説で、有名な『人間五十年下天のうちに比ぶれば夢まぼろしの如くなり』です。仏教の『倶舎諭』の中にも『人間五十年下天一昼夜』という文句があるそうで、出展はここかもしれません。この『敦盛』は、永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)25,000の兵を擁して侵攻してきた今川義元をその一割の兵で迎え撃ち、史上最も華々しい勝利として今に伝わる「桶狭間の戦い」を前に若き武将織田信長が歌い舞ったとして有名です。
直実は、その後、敦盛の笛を屋島にいる父経盛の元に送ったといわれています。戦いに勝利した直実でしたが、我が子にも等しい若武者の首を刎ねたことに無常を感じ、後年家督を嫡子直家に譲ると法然の元で出家して蓮生を名乗り、法然の勧めのままに一日6万遍の念仏を実行したとも言われます。
次いで、2番の歌詞は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の六男として生まれた平忠度のお話です。正四位下の位を持ち薩摩守でありましたが、同時に歌人としての才にも恵まれていました。忠度は、敦盛のような初陣ではなく、既に富士川の戦いにも出陣し、倶利伽羅峠の戦いにも出ていました。そして、この須磨一ノ谷の戦いの時には、齢41歳になっていました。
この一ノ谷に向かう途中、都に引き返し、師の藤原俊成の元を訪ねます。一族の命運をかけた源氏との戦いの最中わざわざ京に引き返してきたのは、自らが読んだ歌百余首を師に託す為であったといわれています。藤原俊成は、後白河院の院宣を受けて『千載和歌集』を編纂し、文治4年(西暦1188年)に奉覧したとされていますが、全1288首の中の一首『さゝ波や志賀の都はあれにしを昔なからの山さくらかな』が『故郷の花』という題で詠み人知らずの作とされていますが、この歌こそ、平忠度がこの都落ちの中で師に託した歌の中の一首でした。しかしながら詠み人知らずとされたのは、朝敵であるということで憚ったのでしょうか。この俊成の次男が『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を編んだ藤原定家で、貞永元年(西暦1232年)後堀河天皇の下命を受けて定家が選んだ『新勅撰和歌集』以降は薩摩守忠度として掲載されているといいますから、復権したのでしょうか。
対する岡部忠澄は深谷市を拠点としていたのでしょうか。源義朝の家人として活躍し、義朝死後、故郷に帰っていましたが、義朝の遺子頼朝の挙兵に馳せ参じて木曽義仲を討ち、義経の下で一ノ谷の戦いに参加しています。一ノ谷での忠度との戦いでは郎党の助けを得て辛うじて討ち取ることが出来ました。
忠澄は自らが討ち取った武将が有名な歌人であり平家一門に連なる平忠度とは知る由もありませんでした。しかし、討ち取った後その矢を納めた箙に歌が一首結び付けられていたことから平忠度だと知ったのです。その歌が「行き暮れて 木の下陰を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」でした。この『青葉の笛』第2番に歌われている『残れるは「花や今宵」の歌』の出所がここにあります。その平忠度の墓は明石市にもあるといわれますが、岡部忠澄が忠度の死を悼み領地岡部の地に慰霊の五輪の塔を建立したとされています。
唱歌を聞きながら日本の歴史を学び
武人の心を感じるのもまた有意義かと思います。
参考サイト:
追記:
WEB竹島問題研究所 かえれ島と海
平成23年2月22日(火)に「竹島の日」記念行事、竹島・北方領土返還要求運動県民大会を開催します。
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タイ族伝統の祠
サンカムペーンへの道
落穂拾いー(10)
日本全国どこの町にも神社仏閣があり、夫々にさまざまな伝説を持ち、さまざまな伝統行事を伝えてきました。昔の小正月には、各地でどんど焼きなどが行われてきましたが、お正月飾りを集めて燃やし、その火で焼いたお餅を食べると、その年一年無病息災であるとか色々なことを昔の人は言いました。また、お飾りでお迎えした歳神様をお送りするためにお飾りを燃やしたのかもしれません。又、火は不浄を焼き払い、新しい命を生み出すと考えられていたのかもしれません。
どのような意味がそこに備わっているのか時代と共に少しずつ変化するのかも知れませんが、最近では、そこにゴミを捨てる人などもいると聞きます。するともう本来の意味は忘れられてしまったのでしょうか。たとえ本来の意味を知らないとはいえ、風習を知らないとは残念ですね。
昔からの風習、慣わしの意味を知らないとはいえ、それを無視して欲しくはないですね。同じように、神社仏閣に伝わる言い伝え、行事の中で信じられないものがあるとしても、それを否定することはよくないですね。小さい頃父がよく言っていたのは、「信じなくても、習慣を守ることで支障がなければその通りにしていろ」というのでしたが、風習・習慣を決して軽んじない、そんな姿勢が自分のご先祖に対する敬意の表明となるのだと思います。
水神供養
チエンマイに来た外国人観光客が必ず行くといわれている観光地がいくつかあります。宗教関係では、ドーイステープ寺院に参詣して山上から市内を見下ろして緑の中に眠る町を眺めたり、少し郊外に出て象の水彩画実演、作業場を見て、時間があれば像の背に揺られてトレッキング気分に浸る。買い物は夕方に市内のナイト・バザールで屋台を覗き、値段交渉を楽しむ。そして、日中の買い物であれば、チエンマイから東に行ったところにあるサンカンペーンという町に行くのでしょうか。
その町には、銀製品、絹製品、木工品、セラミック、傘工場、手漉き紙工場など外国人が喜びそうないわゆる家内作業、手工芸品の実演販売で、多くの場所で製作過程を見せ、チエンマイを代表する観光地の一つとなっています。そんな外国人が連日押しかける観光の町にも、古くからの伝統行事があります。それは、誰も侮ることが出来ない恐ろしい神を祀る行事です。
旧都チエンマイ城の東門に相当するターペー門を出て真っ直ぐ東に向かい市内を裂いて南北に流れるピン川を渡り、タイ国最北端の鉄道駅を右に見て、なお真っ直ぐ進みます。途中バンコクにまで繋がる大きな道路を渡ってさらに東に進みますと、左右に並木を従えた一本の道が走っています。その通りに面した場所には、ところどころ観光客相手の商店がありますが、その奥を見ると、一面の田野が広がっています。
その田畑を潤す小川が流れており、その川には神が宿ると信じられています。その神は、クン・オーンといいますが、地元方言では「オーン川の源」という意味になるようです。このオーン川の水で田畑を潤し、生活の糧を得ているサンカムペーン郡の流域諸村では、毎年交代で水神を慰める供養の祭りを催します。
川を遡ると、クン・オーンの森と呼ばれるところがあり、オーン川からわずか20メートルほどしか離れていませんが、大きな菩提樹が枝を広げて聳えています。そこには、古びた祠がその菩提樹の木陰に目の高さほどに高く作られ、菩提樹から舞い落ちた枯れ葉が積り重なっています。その祠は高床式人家にも似ています。
このクン・オーンの森の祠は、冒頭の写真よりかなり大きく、古く、大雑把で日々の手入れの様子もなく、祠の床には竹を編んだ筵が敷かれています。中には水差しと花を載せた盆が置かれていますが、一年の間に水は涸れ、花は朽ち消えています。そして、祠の前には広い空間が出来ており、そこには周りと違って木が生えていません。その空き地には、牛、豚の骨、鶏の羽がまだ残っています。この場所こそがクン・オーン神の宿る場所です。
チエンマイ暦9月14日といいますから、現在の暦では6月14日になりますが、その年のオーン川の水神供養の主催村の担当になった村では、人々がこの広場に集まります。村人は、この供養の為に夫々所有する土地の広さに応じた分担金が割り当てられますが、これは決して強制されるものではないそうですが、多くは応じるのでしょう。
供養の主催村では、村人からの寄付を元に、雄の牛一頭、雄の豚一頭、雄の鶏一羽、酒二瓶,もち米,調理器具,調味料、縦笛、胡弓、鉦、太鼓、そして、踊り子を揃えて向かいます。そして不可欠なのは、神の降臨を願う霊媒師です。
村人たちは、祠の前にやって来ると、広場を掃き清め、テントを張り、食事の支度をし、楽器を奏で、歌を歌い、終夜眠ることなく夫々が決められた役目を忠実に果たして夜明けを待ちます。
早朝、女性たちはもち米を蒸し、男たちは生贄に捧げられる動物を水で清め、ウコンの粉を塗って黄色くします。そして、牛の角には女性たちが花を結び、豚と鶏の首に花輪をかけます。生贄の動物たちの化粧が終わると、まず牛が引き出され五本の杭に繋がれます。頭を包む布を含めて全身赤い衣装に身を包んだ屈強の男性が一本のナイフで牛を葬ります。かくして三種の動物が命を神に捧げますが、流れ出る血はそのまま器に受けて祠に納められ、神に捧げられます。祠の中には酒の他にも水を入れた水差しも準備されます。
ついで、招魂の言葉を捧げる間、踊りが奉納されますが、昔からの伝統で、この踊り手は50歳を超え、しかも処女でなければならないといわれます。踊り手は白い長袖の上着、伝統のタイ・スカートを履き、左の肩からサバイと呼ばれる布で胸を包んで右脇下に通して左肩に持ってくる伝統的な形です。年老いた処女の踊り手は神に踊りを捧げ、楽器が奏でられます。この時の神への奉納物は、生贄の動物の生血、酒、水だけですが、供養の儀式はまだ続きます。
神に捧げる昼食は、牛肉のスープ、豚肉の叩き、鳥の丸焼きでなければならず、一品たりとも変えることは許されません。何故ならこれが神が望む料理だからです。この料理が神の意志であることの証として地元に残る話では、次のような恐ろしい話が残っているそうです。
― 今から100年ほど前のこと、西暦1920年前後のことですが、供養を担当した村の責任者、パヤー・アーサーラート・バムルンは村人の反対を押して、料理と肉を取り替え、豚のスープ、牛肉の叩き、鳥の丸焼きを準備するよう命じました。
神の祟りを恐れながらも、村人は目の前の権力者を恐れて命令のままに料理を作り奉納しました。その瞬間、晴れ渡っていた空は真っ黒い雲に覆われ、森の木々をへし折るかと思う強い風が森を揺らし、雷鳴轟き、稲妻が人々の気持ちを切り裂きます。激しく降り注ぐ雨は天の底が抜けたの様で目を開けていることも出来ず、人々の叫び声も掻き消され、テントは吹き飛ばされ、用意の調理器具も散乱して手の施しようがありません。
供養の行事の責任者であるパヤー・アーサーラート・バムルンは,突然の自然の荒れを恐懼するよりも罵詈雑言を吐いて天を罵倒し、村人に帰村を命じました。村に帰る為には、わずか先のオーン川を渡らなければなりませんが、降り止まない激しい雨で見る見るうちに水嵩が増して行きます。村人たちは、クン・オーンの水神様の祟りと信じ、ひたすら恭順の意を示そうと、渡しの横でしばし休息し、神の怒りの静まるのを待とうとしました。
しかし、パヤー・アーサーラート・バムルンは、村人の考えなど気にも止めず、供養の行事を台無しにした自然を呪いながら、馬に跨ったまま川に入りました。その瞬間、濁流がかつて一度も見たことがない大きな波となって彼と彼の乗った馬に襲い掛かりました。それは一瞬の出来事で、村人たちは目の前の出来事を如何ともすることが出来ず、又敢えて助けようとはしませんでした。何故ならば、この雨も風も鳴り止まない雷も全てはクン・オーンの水神様の怒りだと知っていたからです。一瞬の間に馬諸共濁流に飲まれて水中に姿を消したパヤー・アーサーラート・バムルンは、翌日はるか下流の灌漑用ダムに引っかかっていました。
スープ
豚肉のたたき
こうした話を受け継いできた村人は、決められた通りに牛を、豚を、そして鶏を調理しました。村人は、牛肉のスープ、豚肉の叩き、鶏の丸焼きを一つずつ、そして花を乗せたお盆、今一本の酒の入った瓶を祠の中に入れて神に供えます。ついで、今朝方動物を処理した男性が、神を招請します。
神が供養の食事を召し上がっている間、朝と同じように踊りが奉納され、村人は楽団と共に練り歩きます。こうした賑やかな踊り楽器演奏が5分あまり続くと、神のお食事も終わります。神のお食事が終わると、村人たちは神からのお下がりの食事をみんなで頂きます。
村人の食事が終わると、水神供養の儀式もいよいよ最後です。
同行の霊媒師が恭しく広場に出てきます。祠の前の広場に布が敷かれると霊媒師が恭しく祝詞を捧げ、神の憑依を願います。静寂の中で霊媒師の言葉だけが静かに流れます。やがてそれも消え、一瞬の沈黙が広場を埋めます。次いで霊媒師が先ほどまでとはまったく別の人格を持って凛とした姿でそこに腰を下ろしています。神の降臨です。神が霊媒師の体に宿ると、村人は神のご加護を願い、神は重々しく威厳に満ちた口調で村人の誰もが幸せであるように、平安な日々であるように、五穀豊穣であるように祝福の言葉を告げます。
一通り祝福の言葉を告げ終わると、神は霊媒師の体から離れて昇天して行きます。それを持って供養に一連の行事が終わり、人々は調理器具をまとめ、テントを畳み、茣蓙を巻いて村に引き上げて行きます。
伝統行事の中で語られる様々な不可思議な出来事を信じるか否かは兎も角、伝統行事の中に秘められているご先祖の知恵を無にしたくはないですね。
(了)ラーンナーの地に古くから伝わるさまざまな行事、話を掘り起こして書き記しているサンキート・チャンタナポーティ氏著「ラーンナ−の扉を開く」の中の「水神供養」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、市中で一般に見られる土地の神様を祭った祠で、今一枚はサンカムペーンの中心に向かう道です。又文中の画像は、スープと豚肉のたたきで酒の肴だけではなく、食事の副食としても日常的に食されますが、辛さゆえに子供は食べられません。
下の動画は、チエンマイの城壁内にあるシープームという聖地での「チエンマイの御霊供養」の様子です。
「チエンマイの御霊供養」
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以前は普通に歌われていたと思うのですが・・・
東京だよおっ母さん
(おっ母さん ねえおっ母さん
久しぶりにこうして手を繋いで
おっ母さんと一緒に東京見物できるなんて
ほんとに嬉しいわ、
ほら、おっ母さん見て御覧なさい
ここが宮城、二重橋よ)
久しぶりに手を引いて
親子で歩ける嬉しさに
小さい頃が 浮かんできますよ
おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を撮りましょうね
(ねえ、おっ母さん 戦争で亡くなったお兄さん
ここに眠ってるのよ)
優しかった兄さんが
田舎の話を聞きたいと
さくらの下で さぞかし待つだろう
おっ母さん
あれが あれが 九段坂
会ったら泣くでしょう、兄さんも
(ねえ、お兄ちゃん
お兄ちゃんが 上って遊んだ 庭の柿の樹も
そのままよ 見せて上げたいわ)
さあさ着いた 着きました
達者で長生きするように
お参りしましょう 観音様です
おっ母さん
ここがここが浅草よ
お祭りみたいに賑やかね
亡き母が島倉千代子ファンでした
この歌もよく聞いていました
学生時代母を東京に呼ばなかったことを悔いています
目を閉じて聞いていると、亡き母の顔が浮かんできます
なぜかしら涙が滲んできます
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「チエンマイの納豆」
画像参照:ラーンナーの郷土料理
閑 話 休 題−101−
人生山あり谷あり、喜びもあれば悲しみもあります。
人は誰も一人で生きることは出来ず、否応なしに社会の中で生きていきます。生きているうち乳幼児期には両親の腕の中、長じると自分で考えるようになり、両親の意見を参考にします。そして成人の暁には、自ら判断して物事を決します。我々は、生涯のうち幾度判断を求められるでしょうか。数限りない判断の中でも、時には人生を決するほどの重大な選択を求められる時もあります。
人生はやり直しが効くとも効かないとも言われますが、いずれにしても時間を後戻りすることは出来ません。やり直しは、現在を捨てて別の道を選ぶわけですが、そうした転換による無駄を省く為にはこれまでのことを分析して同じ過ちを繰り返さないことが大切でしょうか。
しかし、時には、判断するに際し、決心がつかず、清水の舞台から飛び降りる覚悟で選択する場合もありましょうし、あえて危険を承知で茨の道を進む人もいるでしょう。危険を覚悟の決断も無謀となってはいけないでしょう。
蟇蛙と虎
タイ続も大変動物が好きなようです。これまでの物語の中にハト、ウサギ、豚、水牛、犬も出てきました。そして、タイ族は水と深い関係があるのか、竜のお話もかつてありましたし、先日は貝まで言葉を話しました。そんな動物を題材としながら、ライオンを取り上げたものはいまだ目にしませんが、虎を登場させる話がいくつか残っています。ライオンがいないこの地では、虎が百獣の王となるのでしょう。無限に広がる森の中で、無数の生き物が先祖代々代わらぬ生活を営んでいます。
そこにはまだ人間などが入り込む余地はないようです。まさに動物の世界です。森閑とした森の中で時にキーッキーッと甲高い声で静寂を破るのはサルの叫びでしょうか。時には、遠くで象の吼える声が響きます。木々の間を駆けるのは鹿でしょうか。沼地に出ると、そこには犀もいたでしょう。
そんな深い森から一頭の巨大な虎がノシノシと出てきました。
《今日も暑いのお》
かんかんと照り付ける太陽の光が緑の草原を照らしています。ウサギはピョンピョン飛び跳ねて虎から離れて行きます。巨大なニシキヘビさえ、虎を察して身を潜めます。昨日鹿を御馳走にした虎は、まだ空腹感を覚えません。その鹿の群れが、やや離れて虎と同じ方向に向かっていきます。
彼らの向かう先には赤茶けた色ながら、満々と水を湛えた川が流れています。
一日の疲れを癒すのか、喉の渇きを癒すのか。誰もが川に向かっているようです。はるか彼方に巨大な象の背が見えます。象も川に水浴びに来ているようです。ここでは無用の殺生はありません。誰もが生きるために先祖代々の食べ物を食し、先祖代々の変わらぬ生活を守っています。この虎もまた、母と同じ一日を過ごしています。その母と離れ、ひとり立ちしてもう数年が経過します。
《象も、何を好んで水の中になんぞに入るのかいのお》
トラにとっては、大きな体の象が川に入り、ごろりと寝そべっているのは、あまりにも怠惰に見えたのでしょう。
そんなトラの足元をピョコンピョコンと何か小さなものが動いたような気がしました。
一瞬ギョッとした虎ですが、蛇さえ避けて通る道です。
「誰じゃ」
呼びかけましたが、足元は静まったままです。
また一歩足を踏み出すと、やはり何かが動いています。虎がじっと草の動きを追っていると、小さな蟇蛙でした。
片足で軽くと踏み付けるだけでペシャンコになってしまう、虎にとっては面白くも何ともない生き物で、勿論こんな小さなものを食べることなど考えたこともありません。
「誰かと思ったら蟇蛙じゃないか」
影の中で蠢くような蟇蛙に嘲るように虎が声をかけました。
「暑いですね。虎さん」
蟇蛙も、虎の機嫌を損ねて踏み付けられては堪りませんから、挨拶を返しました。
中天に差し掛かった太陽に照り付けられ、暑い中、虎も暇つぶしに話しました。
「この暑い時に、お前は良いな、草の陰に隠れて暑さも感じないじゃろ」
「何の、これでけっこう暑いものですよ。何しろ、こうして飛び跳ねるとやはり背中を焼かれますからね」
「そうか。でも俺などは一日中焼かれても何ともないぞ」
蟇蛙にそう言われると虎は自分を大きく見せるために疲れを隠して言いました。
「まあ、虎さんはこの森一番ですから、何があっても大丈夫でしょう」
「勿論じゃ。ところで蟇蛙よ。お前ピョコンピョコンとどこへ行くつもりじゃ」
「ええ、ちょっとそこまで・・・」
蟇蛙が指差す方向は草に隠れて見えませんが、どこまでも続く草原の向こうの川まではまだ蟇蛙では苦しい旅です。虎は、そんな蟇蛙をさらにからかう様に、言いました。
「偉いなあ。でも同じところでピョコンピョコン刎ねてばかりで一歩も前に進まないじゃないか。それで行き着けるのか。まあ、俺が向こうの川で水を飲んでゆっくり帰ってきてもお前はまだこの場所でピョコンピョコン無駄な跳躍をしているのだろうな」
さすがの蟇蛙にも自尊心があります。ここまで愚弄されては蛙一族に合わせる顔がありません。悔しさを怒りに変え、それをさらに闘争心に変えて虎に挑戦しました。
「虎さん。それほどまでにおっしゃるならば、わたしと駆けっこして見ますか。こう見えても蛙の運動会では一番になりましたから、その名誉に賭けて虎さんには負けません」
「馬鹿か、お前は。同じ四足でもお前は俺の足跡にすっぽり入る位の大きさしかあるまい。そんな俺に勝てるというのか。まして、俺は森の王者だぞ」
「それはやってみなければわかりません」
「良かろう、そこまで恥をかきたいなら受けてやるぞ、いつだ、どこでだ。好きな時間と場所を言え」
「明日、この時間に、この場所で、目標は、川岸に立つ一本の榕樹です。いいですか」
「よかろう」
虎は薄ら笑いを浮かべて言うと、ノッシノッシと川に向かい、その後姿を見ながら蟇蛙がピョコンピョコンと飛び跳ねています。
その日蟇蛙は、どう考えてもいい案が浮かばないまま夜を迎え、朝が来て約束の時間が来ました。
「逃げなかったとは関心じゃ」
近くの木陰で寝そべっていた虎は、草むらの動きの中に蟇蛙を見つけると、物憂そうに起き上がり呟きました。
「逃げる理由がありませんから」
虎と蟇蛙が所定の位置につくと、どこで虎と蟇蛙の駆けっこの話を聞きつけたのか、山鳩がどこからか降りてきて数メートル先に止まりました。
「良いね、お二人さん。わたしが飛び立ったらスタートですよ」
一呼吸おいて山鳩が静寂を破ってばたばたと大きな羽音を立てて真っ直ぐ上に飛び立ちました。瞬間、虎が勢いよく駆け出しました。虎の尻尾が勢いよく上下に触れます。それはまるで蟇蛙に『ほれ、ここに摑まれ』とでも言っているかのようでした。
渾身の力を振り絞って飛び跳ね、目一杯前に伸ばした蟇蛙の両手が虎の尻尾をしっかりと掴みました。それは、まさに死の恐怖でした。激しく揺れる身体、すでに大地はなく、虎の動きにあわせて蟇蛙の身体が宙に舞います。
蟇蛙は、振り落とされてなるものかと必死で虎の尻尾を掴んで放さず、しっかりと川岸の目標地点を見据えました。それは恐ろしい勢いで近寄ってきます。
目の前にそれが迫った時、ぶつかる瞬間、蟇蛙は全身の筋肉を使って虎の尻尾から飛び出すと、虎の頭を跳び越えて一瞬早く木に飛び移りました。
「勝った・・・虎さんに勝ったぞ・・・」
蟇蛙の勝利の叫びが響くと、川に水を飲みに来ていた動物たちが一斉に振り返りました。
それは百獣の王を自認する虎には耐えがたい屈辱でした。動物たちの視線を避けるように川に背を向けて森に走りこんだ虎は、その後、蟇蛙の声を聞く度に屈辱の瞬間を思い出し姿を隠したといいます。
だから森の中に入る時、もしも虎を恐れるならば、蟇蛙を供にすると良い、そうすれば虎が近寄らないだろう。昔の人が言ったとか????
作者は、「真偽は兎も角……危険を冒さない方が良い(เท็จจริงอย่างไร...อย่าเสี่ยงดีกว่า)」ということを教えているそうです。
(了)
アッチャラー・ワンナエーク著「ラーンナーの民間伝承物語」に収蔵されている「蟇蛙と虎」より題材をお借りしました。
冒頭の画像、これがチエンマイの『納豆』です。大豆を煮詰めた後3日ほど衝けるそうです。わずかに醗酵してくると搗き潰します。その後葉で包み弱火にかけてもよし、蒸してもいいそうです。このまま副食ともなります。動画は、その製作過程です。
ฟ้อนวิถีคนเมือง.wmvチエンマイ人の生き方
動画は、市内プリンス・ローヤル・カレッジの17歳の少女の舞踊で、チエンマイの昔の人々の生活を踊りに表したもので、大変優雅な身のこなしですね。しばしご堪能下さい。
訂正:
本文冒頭の下記文章に対して近野様より誤りのご指摘を受けましたので、訂正させていただきます。
>タイ続も大変動物が好きなようです。
の「タイ続」は「タイ族」の誤りです、ここにお詫びして訂正します。
ご指摘を頂きました、近野様、ありがとうございました。
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落穂拾いー(9)
ポー・チャウ・チーウィット・アーウ
世の中には、とても優しい話し方、物腰の柔らかな人が心荒々しい凶悪犯人であることもあれば、逆に厳しい顔にドスの効いた声、どうにも近寄りがたい雰囲気を漂わせながら実は心優しい人もいます。とても怖く、わずかな間違いにも目くじら立てて大きな声で叱責しながら、実は、暖かく部下の成長を見守り、部下の間違いを決して上司に告げ口せず、部下の間違いを自らの間違いとする人もいれば、部下に優しく自由に任せ、間違いにも微笑みながら訂正する優しい上司が、実は自己保身に走り自らの間違いすら部下の間違いだと上司に報告している、かも知れません。
人は往々にして、思い込み、先入観を持って人を判断しがちです。
絶対権限を持つ昔の王が処刑を命じたり、住人を罰したりする場面を見ると、暴虐の王、悪逆非道の王と無垢の可哀想な被支配者。そんな単純な図を描きそうですが、必ずしもそうではないようですね。
ポー・チャウ・チーウィット・アーウ
以前、この項でチャウ・ダーラーラッサミーのお話を紹介しました。妃の母君、メー・チャウ・テープクライソーンは、チエンマイ王朝第六代目の王チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンの王女であり、同王は、チエンマイ王朝初代王である、チャウ・カーウィラの次男です。
同王は、通常民間の間では「チャウ・チーウィット・アーウ」と呼ばれ、その意味を考えると、裁きの場でアーウと感嘆詞を発すると、その一言が被告人の弁明に不同意を表し、審議は打ち切られ、処刑されたからかと思います。
しかし、かつて紹介しましたチエンマイでのキリスト教徒処刑に際しての同王の態度からしても決して理不尽で非道な恐怖政治によって統治していたとは思えませんし、理由もなく強権を発動することもないようです。
それは兎も角、当時の王というのは、領民の殺生与奪の権を持ち、如何なる命令をも発することが出来る絶対権力者であり、裁判官であり、軍司令官でした。そして、王も実際に父王の命で軍を率いて戦場に出ています。のみならず、チエンマイの王は、ラーンナー王国内の他の王たちの上に位置していましたので、その一族の威令は王国内の全域に行き渡っていたようです。
この王との直接対決で国外退去か布教停止かという第三の選択の道を閉ざされたアメリカ人宣教師マッキンヴァーリーは、死を覚悟でチエンマイに留まり布教する決意を固めますが、それでも彼は王とのこの最後の会話は友好裏に行われ、大変友好的なものであった、として、王に対する恨みの言葉、非難の言葉を残していません。断固たる信念の下でチエンマイの伝統・文化・宗教・習慣を守ろうとした王の心は案外に温かかったのではないでしょうか。
ただ、「・・・シャム王室の中においても、王の権限内に踏み込むことに恐れを抱いていました・・・」という同宣教師の言葉がありますので、王の断固とした姿勢は、バンコクにまで伝わっていたのでしょう。しかしながら、バンコクの王朝といえども、越権行為を許さない断固とした姿勢は、国の指導者として当然かとも思います。
ここに一つのお話があります。
かつてご紹介した、タイ国中等教育副読本に推薦されている「北の町のお話ー重要人物編」の中に「ポー・チャウ・チーウィット(アーウ)の心理学」という表題の短い文章で、王の裁判の様子が女子学生たちの会話形式で語られます。今、それを基に、チエンマイの人々に恐れられ、今なおその名を留める「ポー・チャウ・チーウィット・アーウ」が如何にして犯人を探し出すかと見てみましょう。タイ・ルー族の民間英雄物語の中のアイ・スック、アイ・シー兄弟とは違った姿がそこに見えます。しかし、アイ・スック兄弟とは違って実在の人物であり、現実の裁き、犯人探しだったようですが、いかにもチャウ・チーウィット・アーウらしいです。
「そのお方は、チエンマイの国王のお一人で、伝えられるところでは、その猛々しく勇猛なる声は、この上もなく恐ろしいものなの。何かお気に召さないことがあると、ただ一言『アーウ』と雄々しいお声を発せられるだけで、それを聞いた人の魂が砕け散るほどに威圧するに十分な力をお持ちだったのよ」
庶民が恐れて呼んだチヤウ・チーウィット・アーウという言葉は、こうした王の断固とした不退転の決意の下で発せられる「アーウ」という感嘆詞によるものです。もしもこれを日本語にするならば「まさか」とでも訳しましょうか。
「・・・ポー・チャウ・チーウィット・アーウは、誠実・正直を愛し、裏切り・様々な不正を悪み嫌ったのよ。云う所によれば、御自ら事件を裁定され、法律の条文を御自ら制定して用いられたのよ。ポー・チャウ・チーウィット・アーウの法律は、非常に不思議なの。つまり、わずかな窃盗や、少しばかりの盗みをした者、又は、唐辛子、トマト、野菜、草等、栽培している物をしばしば盗む者は、殺人を犯した者より重く罰せられるの…」
王の不退転の断固とした決意は、王が若い時から軍の総司令官として戦場に出ていたからかもしれません。また、同時に、王位についてからは、ビルマを支配下に置いた英国が、チークを追ってか、森林資源を追ってか王の支配地に接近して来ます。今もチエンマイの市中を流れるピン河の東岸ケート寺院近くには、かつてのチーク材取引で財を成したといわれる人たちの館が残っています。
当時、森林資源は王室の占有物で、国家財政にとって重要な要素であったようです。森林には、チーク材という木材資源の他にも鹿、トラなどの野生の獣が多数生息し、その皮は貴重な商品であり、また咽脂虫(えんじむし)がいて、その糞から作られた巣から、ラッカー、ニス、エボナイト、靴墨などが作られるそうですが、この北部タイ・ラーンナーはインドに次ぐ生産量だそうです(富田竹二郎著「タイ日辞典」より)。そうしたことを考案すると、頑固なまでに毅然とした態度と断固とした決断がなければチエンマイの独立は守られなかったでしょう。
そんな王が、殺人より唐辛子泥棒を憎んだというのですから驚きです。
当時は今以上に農業が主力ですから、その生産物を横取りする泥棒は、単に怠惰であるばかりか、自ら生産しないことで国に損害を与えているとも考えられます。唐辛子やトマトを盗んだだけで手足を切断されてはその後の一生はどうなるのでしょうか。王にとっては無用なばかりか住民にとって迷惑この上ない無用の長物に見えたので手足を切断されて苦しむ人に同情は持たなかったのかもしれません。こうした処罰は、過酷かもしれませんが、確実に社会からこそ泥が減ったそうです。
この王様にとっての裁きは社会の公平を基礎としていたといえるかもしれません。では、野菜を盗んで手足の切断であれば、もしも殺人を犯せば磔火炙りでしょうか・・・実際には殺人を犯したからといって「目には目を、歯には歯を」という単純な裁きはなかったようです。
「・・・しかし、殺人を犯した者は、その事例に応じて処理したの。名誉を守る為、正当防衛かそれに類するものの為の殺人は、罰も軽く、時には、全く罰しないに等しかったの。軽い罰としたのは、名誉を守ったり、正当防衛しなければならなかった人に同情したからなのよ」
殺人を犯したとしても、大切なことは殺さざるを得ない十分な理由があったかどうかのようです。人殺しの為の人殺し、強盗を働く為の人殺しには容赦なかったようです。しかし、殺人を重ねても必ずしも処刑されず、死刑囚が処刑執行人になる場合もあったようで、この実話もまた残されています。
それは兎も角として、こうした王の裁判に臨む態度を聞いた女学生が言いました。
「実際のところ、社会状況によっては、考えてみる価値があるわね。自ら道徳を乱す者は、最も忌むべき者だわ。重く罰すべきよ。もしポー・チャウ・チーウィット・アーウが現代に生まれてくれば、きっと多くの不正を働き、不法を働く人間の命を恐ろしい位に奪うわね」
この王にとってもっとも大切なことは、自らの王国の秩序を守り、真面目に働く人々を守ることだったようです。その為には不退転の決意で望み、たとえバンコク王朝からの役人であろうとも自らの権限を侵すことは許さなかったと思います。これは、王の父である、チエンマイ王朝初代のチャウ・カーウィラがバンコクから来た役人が住民を虐待し、塗炭の苦しみに遭わせると、たとえバンコク王朝の権威を後ろ盾にやってきた役人たちと言えども領民を害することを許すことなく、切り捨てた、その血を受け継いでいるのでしょう。
では、残されている現実の王の犯人探しはどんな様子だったのでしょうか。
ある時、村で水牛が盗まれました。村人にとって水牛は家族の一員でもありますが、田仕事には欠かせません。稲作の不良は国力の疲弊に結びつき、為政者にとっても死活問題です。訴えを聞いた王は、直ちにその村に出向き、村長に命じて村人全員に集まるよう布令を出させました。
「アーウ」の一言で首が飛ぶのですから、村人は何はさて置き我先に広場に集まりました。集まった村人は、だれもが土下座し、全身を強張らせて王の言葉を待ちました。誰もが王の荒々しい、恐怖を呼び起こす重々しい命令を予期していましたが、王の口から出たのはそんな村人の予想に反する優しい語り口で、かすかに笑みさえ浮かべた表情のどこにも恐怖の影、威圧感は微塵もなかったといいます。
「・・・皆の者は、互いに物を盗んだり、危害を加えたり、悪事を働いたりすることのない様、力をあわせ、村に波風立てることなく、協力しなさい・・」
拍子抜けするほどに優しい余りにも当然の言葉に村人の誰もが凍るような緊張感から開放されると、心の中に一切の警戒心がなくなりました。
一通り優しい言葉で人々に協調と信頼関係、額に汗して懸命に働き、善行をなすように、と教え諭した後に、「皆の者、帰ってもよいぞ」と最後に王の言葉が発せられると、広場に安堵のざわめきがおこり、村人が立ち上がって歩き出しました。
その瞬間です。
「待て!!昨夜の水牛泥棒、動くな!!」天を切り裂く雷の如く鋭い王の怒声が響き渡りました。それは空気さえ動きを止めるかと思うほどに恐ろしいものでした。その場の誰もが凍りついたように身動き一つなりませんでしたが、立ちあがった中の一人の若者だけはワナワナと全身を震わせ、顔はまるで死者のよう色を失っていました。
役人の取調べを受けた若者は、素直に犯行を自供したといいます。
恐怖の王ではなく、有能で、厳格な為政者の姿がそこにあります。
(了)
タイ文部省推薦の副読本の中に、北部タイの様々な物語を綴った本が三冊あります。夫々、人物編、場所編、行事編とでも言うように主題ごとに分かれていますが、その中の一冊『北の町の物語りー重要人物の歴史編』の中の「ポー・チャウ・チーウィット(アーウ)の心理学」より題をお借りしました。
動画は、代表的なラーンナーの踊りの一つで「爪の踊り」です。昨年11月13日に、チエンマイのスアンドーク寺院で奉納されたラームカムヘーン大学主催の雨期明け後の寺院参拝に伴う奉納舞踊のようです。同寺院にはチャウ・チーウィット・アーウも眠ります。踊りの子供は、同寺院の日曜学校に通う子供たちで、全員純粋タイ族の少女で、中学生くらいです。決して上手ではありませんが、純朴な子供たちの踊りをご鑑賞下さい。
爪の踊り
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