チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

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伝え続けたい

 
 
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舞鶴引揚紀念館
 
歴史を繙く時、時に心が引き裂かれるような悲しみに襲われ
時にそれは怒りにすら変わります。
終戦後65年が経過しても、我々日本人は父祖のなしたとされる謂れなき暴虐の数々を飽く事ないまでに宣伝され、声高に非難され、それに反論することさえ許されないばかりか、同じ日本人が自らの父祖を貶めて恥じません。
では、我々日本人の婦女子、民間人は誰もが天寿を全うしたのでしょうか。
本土にあっては、米軍の国際法を無視した広島長崎への非人間的原爆投下すら、日本軍の蛮行を懲らしめる神の鉄槌であるかの様に喧伝され、焼夷弾を投下して日本各地を焦土とした米軍の無差別絨毯爆撃に非を鳴らすことは勿論、終戦直後の米軍の暴挙すら今だ闇の中です
 
「真相箱」は「真相」を隠して日本を闇社会にし
戦後65年が経過した今も日本人の目を塞いでいます
 
たとえ苦痛を伴い、涙を流しても
歴史の事実をしっかりと受け止め
語り伝えなければなりません。
 
冒頭の「母子地蔵」は、東京の浅草寺の境内にあり、
別名「まんしゅう地蔵」とも呼ばれます。
通常、お地蔵さんといえば子供の姿をして一人路傍に佇んでいるものですが、この変わった名前のお地蔵さんは、子供を背負い、今一人の子供を抱きかかえた母親と思える女性の姿をしています。そして、なぜか子供に力はなく、母親の顔は悲しみに満ちているように思います。
昭和16年12月8日に始まった長い長い戦いは、昭和20年8月15日に先帝陛下の御聖断によって収束しました。しかし、日ソ中立条約の有効期間中にも拘らず、終戦を懼れるかのように、火事場泥棒のごとく満州に、樺太に、千島に土足で踏み込んできたソ連軍は、瞬く間に満州国を蹂躙し、武装解除した日本軍の武器共々中国共産党に譲り渡し、日本領土を強奪して支配下に置いて今に至っています。その間の彼らの暴虐の魔の手から日本婦女子を守ろうとした女傑「お町さん」のお話は以前に紹介させて頂きました。ソ連の満州占領はまもなく終わり、変わって中共軍が支配者となって満州国全土を蹂躙し、今も満州を理不尽に占領しています。
彼ら中共軍もまた、ソ連軍同様、日本の婦女子を陵辱し、物品を略奪し、男女を問わずに徴用して使役し、日本人の子供はその優秀さ、勤勉さ故にでしょうか、略奪、売買の対象にさえされたといいます。そんな中共軍にとって「お町さん」のような女傑は目障りだったのでしょう。終に処刑されてしました。
 
 
 
 
 
しかし、惨劇は、これだけでは終わりませんでした。
 
終戦時、海外にいた660万人を超えるとされる日本人たちの内、半数が一般人であったといいます。軍人が武装解除と捕虜・収容所生活を余儀なくされる中、一般人は、営々と築き上げた財産を持ち帰ることも許されず、日本が投下した膨大な資産は全て没収され、まさに石持て追われる如く家屋も、商店も、工場も田畑も全てを奪われた上に、自力での帰国を余儀なくされました。苦難の道、満州からの帰還者の一部は、舞鶴に帰り、多数の日本兵、日本人がシベリアの極寒の地に連れ去られた史実があの「岸壁の母」を生みました。しかし、満州だけではありません。朝鮮半島にも、中国大陸にも南の国々、島々にも数多の日本人がいました。満州を不法に進撃してきたソ連軍は、満州のみならず現在の北朝鮮にまで進んできます。その地でも暴行が日本人に加えられました。そして、南朝鮮においても日本国内においてさえもその惨状は変わることはありませんでした。
 
 
 
外地に取り残された同胞を速やかに本国に帰還させることは当時の政府の急務でした。海外の日本人は、失意と恐怖に体を震わせながら廃墟の祖国に帰ってきました。中には大陸で、もしくは半島で生まれ育った人もいたでしょう。初めて祖国の土を踏んだ人もいたでしょう。しかし、彼らの誰もが着の身着のままでした。財産を強奪され、生命の危険に晒されながらの帰国。そんな帰還者を受け入れたのは舞鶴だけではなく、博多港にも、佐世保港にも連日鈴なりの海外在留邦人を乗せた船が到着しました。
 
二日市保養所
 
浅草寺にある「まんしゅう地蔵」と同じように、九州の地には「水子地蔵」が立っています。母親と思しき地蔵さんの胸には、この世の生を享受することなく闇から闇に葬られた水子が抱かれています。
命からがら祖国の土地を踏んだ同胞婦女子の中には異様な姿をしている人がいたといいます。疲労と栄養不良で痩せ衰えながらもお腹だけは異様に膨らんでいる女性。女性の命ともいえる黒髪をばっさりと切り落として少年のように「坊主頭」の人もいたようです。
多くの同胞日本婦女子は、ただ日本人であるという、ただそれだけの理由で辱めを受けました。辱めを受けただけではなく、命を奪われた人も決して少なくはないでしょう。中には、数え切れないほどの陵辱に耐えかねて自ら命を絶った婦女子もいたでしょう。そして、昨日まで友人と信じていた朝鮮人が突如として襲い掛かり、時として暴虐の徒、ソ連兵を案内してきたというのです。裏切られた彼女たちの失望はいかばかりでしょうか。そんな中の少なからざる人たちは、屈辱を胸に秘めて祖国に戻ることに一縷の望みを抱いて帰還船に乗りました。その帰還船の中でも外地で受けた陵辱に耐え切れない人の中には祖国を前に海に身を投じた人もいたといいます。
 
「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」
 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
 
本国を目指す帰還の人たちを満載した船中でこのようなビラが配られたといいます。ビラを手にじっと見詰める女性たちはどのような思いでこの文章を読んだでしょうか。
「不法な暴力」「体の異常」「健全な体」こうしたキーワードを彼女たちはどのような思いで読んだでしょうか。これが、強姦にあったのみならず、憎い犯罪者の子供を心ならずも宿してしまった女性にとってそれは一縷の希望の光であったかもしれません。
優生保護法が施行されたのは、昭和23年のことで、この当時はまだ断種法とも呼ばれた国民優生法が有効であり、単なる中絶は違法行為(堕胎罪)以外の何者でもありませんでした。しかし、このビラは、京城帝大医学部の医師たちのグループが「妊娠中絶の手術をします」、ということを女性たちに伝えているのです。その外にも性病に罹患した女性もおり、その治療も施されました。
 
 
「厚生省博多引揚援護局保養所」・・・その診療所には、こう記された看板がかけられていたと言います。福岡県筑紫野市にある二日市温泉にあった愛国婦人会の保養所跡がその診療所でした。かつての教え子の惨劇を知った京城帝大医学部の医師たちは、朝鮮人を始め、ソ連兵、中国人などに陵辱された日本人婦女子の窮状を救う決意をし、その願いがやがて公的な診療所として開設されることになりました。終戦の翌年昭和21年3月超法規的措置で、非合法な中絶手術を実施する施設ができました。それが通常「二日市保養所」と呼ばれるところです。
 
浴室を改造した手術室、麻酔もない時代、女性たちは激痛に耐えました。
 
こうした女性たちの悲実を埋もれさせてはいけません
 
当時の大陸で、朝鮮で我が同胞婦女子が受けた陵辱は、口にするのも恐ろしい悪夢にも似ています。当時の日本軍、日本政府、日本国を非難する前に日本人婦女子、抑留され、酷使された同胞の受けた惨劇の実態を知って下さい。昨日までの隣人の豹変と、禽獣にも等しい暴挙に遭った彼女たちのことを想い、闇から闇に葬られた水子たちの霊を弔う為に立てられたのが「水子地蔵」であり、「仁」の一文字を刻んだ石碑です。
世に蔓延る従軍慰安婦なる被害者面した売春婦に諂うことなく、陵辱に死を選ばざるを得なかった日本女性、生き永らえながらも我が子を堕胎しなければならなかった日本人婦女子の存在を忘れないで下さい。日本人婦女子が半島で、大陸で受けた言語に絶する惨劇は、声なき彼女たちに代わって、歴史にはっきりと記し、永久に語り継がれなければならないのではないでしょうか。
 
ある日本人女性は、自らの目で見た朝鮮で我が同胞婦女子が受けた陵辱の様子をほぼ実話のままに小説化しました。その書籍がその教育的価値の高さからアメリカの学校で副教材に指定されるや、何一つとして事実を知らない在米の韓国人少女は狂ったように叫び、在米韓国人団体は不当な圧力をかけてその書籍を学校から葬り去り、あまつさえ、著者の父を誹謗中傷さえしています。
 
 
 
 
今も精神的陵辱を受け続けていることを肝に銘じるべきです
 
こうした事実を知っても尚陵辱に耐えろといいますか
辱めを受けた同胞の為にも沈黙は出来ません
 
 
昭和12年の通州事件
 
通州の丘 結城道子(超希少盤?)
 
我々こそ最大の被害者であることを忘れないで下さい
 
 
参照サイト:
二日市保養所
舞鶴引揚紀念館
竹の森遠く
知らずに死ねるか!
朝鮮人による我が国の被害(石根せいいちろう)
飯山達雄「敗戦・引揚げの慟哭」より

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泣き笑い

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タイ風巻きすしーカーウ・バーイ・プラーツー(KHAAW BAAY PLAA THUU
 
閑 話 休 題−100−
小さい頃、「ながら族」という言葉がありました。テレビを見ながら食事をし、ラジオを聴きながら深夜の受験勉強。そうした言葉があったのは、当時の日本では食事をしながら話をすることを避けていた余韻が残っていたが為に、若者のそうした風潮に大人たちが違和感を感じたのかもしれません。
特に食事中の会話は礼を失するとしてきつく戒められたのも今は昔のことでしょうか。しかし、これも一度宴席ともなれば賑やかなもので、食事中に席を立ち、別の人の席の前に腰を下ろして話し出す人もいれば、タバコをくゆらす人もいました。そうしたTPOを弁えながら生活に規律と変化を持たせていたのかもしれません。
とはいえ、人は誰も一つの身体しか有しません。一つの身体を有するにも拘らず、同時に二つのことをさせようとすると、それを如何にこなすか興味深々ですが、同時に出来ない状況を笑いの種にすることもまた可能かもしれません。
もしも、そんな無理難題を吹きかけて罪科のない村人を笑いものにしようとする領主がいたらどうなるでしょうか。
 
泣き笑い
庶民というのは、案外にたくましいもので、苦しみの中にも喜びを見出し、悲しみの中にも笑いを作り、自らの力の及ばないものには巧みに調和させます。一方、権力を傘に着るものは幸せの中にいてもなお、更に自らの権力を誇り、認めさせようとするものです。
アイ・スックとアイ・シー兄弟の住む町にもそんな王様がいました。
自分が一番偉い、自分以上に賢明な人間はいない、それが彼の自慢でした。しかし、そんな自慢の鼻をへし折ったのが、村で有名なアイ・シー、アイ・スック兄弟です。「わしを騙して見事この玉座より立たせてみよ」王様が喧嘩を吹きかけましたが、見事に敗れてしまいました。
王様としては、役人たちの面前で誇りを傷付けられた悔しさは時間が過ぎても癒えることはありません。
《いかにして奴の鼻っ柱をへし折ってやろうか》
こればかりを考えていました。
そこで思い付いたのが、不可能な筈の相反する二つのことを同時にさせることでした。
「アイ・シーよ。お前は人を笑わせることが出来るか」
ある日、館にアイ・シーを呼びつけて言いました。その顔には自らの計略の成功を信じて疑わない笑顔が浮かんでいました。
「はい、出来ます」
「そうであろう・・・」
アイ・シーの返事を聞いた王様はますます喜んで言いました。
「聡明と評判のお前が、人を騙して笑わせることが出来ない筈があるまい。しかも、同時に泣かせることさえ出来るであろう。違うか」
アイ・シーは、奥歯に物の挟まったような王様の言葉使いに警戒しながらも答えました。
「はい、できます」
「出来る・・・そういうか。お前は。でもそれは庶民相手だからじゃな。わしのように頭脳明晰で、物事の是非、善悪を瞬時に判断できる聡明な人物を泣かせ、かつ同時に笑わせることは出来まい」
「恐れながら申し上げます。王様が如何に位高いとはいえ、同じ人間であります。泣くこともあれば、笑うこともありましょう。ならば、なぜその二つを同時になさないことがありましょうか」
王様は、アイ・シーが罠にかかったことを喜び、早速たも網を用意して掬い上げようとしました。
「よくぞ申した。それでこそ、賢いと評判のアイ・シーじゃ。ならば、三日以内にこのわしを泣かせ、かつ笑わせてみよ。もしも出来ないならばお前はわしの厩舎の掃除をしなければならん、わかったな」
王様の命を受けたアイ・シーは、顔色一つ帰ることなく家に帰って来ると、アイ・スックと手分けして森から枯れ枝を拾ってきて、縁台に腰を下ろし、黙々と削りだしました。その日、二人は拾ってきた枝の先を豚の足の形に彫刻しました。
翌朝、まだ暗いうちに起き出した二人は、昨晩彫り上げた豚の足型に彫り上げた木の枝を両手に持ち、裏山に駆け上がると、そこから王様の果樹園に向かって豚の足跡をつけていきました。無数の豚の足跡が果樹園の中を十分に駆け回ると、ついで、果樹園から裏山に向かって帰って行きました。
木の枝を森の中に捨てたアイ・シーは、朝食を済ませると直ちに王様の館に駆け込み、大きな声で叫びました。
「大変でございます。王様の果樹園が・・・」
アイ・シーの真剣で大きな声に館中がざわめくと、王様が威厳を示すように出てきました。
「何事じゃ。アイ・シー」
「大変でございます。王様の果樹園が、猪に荒らされてございます。たまたま私とアイ・スックが見つけて何とか追い払いましたが、マンゴウの木が散々です。アイ・シーの言葉を聴くと、もともと狩猟をこよなく愛する王様は、「猪」という声に果樹園の被害以上に狩猟欲を呼び覚まさせ、直ちに役人たちに猪狩りの準備を命じました。
王様の一言で館の中には慌しい人の流れが置き、従者が庭先に走り出ました。
「猪は裏山に逃げたのじゃな」
「はい、今アイ・スツクが追ってございます」
王様は、準備が整うと直ちに館を出て行きました。果樹園には、確かに無数の獣の足跡があり、それが豚のものであることがすぐ知らされました。そこに残された果樹園を出る足跡を追って、駆けていくと、深い森の中に分け入りました。それを見たアイ・シーは、一瞬笑みを浮かべると、次の瞬間には、今にも泣き出さんばかりに悲しみの表情を浮かべて、館に駆け戻りました。
館では、屈強の男たちは一人としていません。一人残らず王様のお供をして猪狩りに出ています。
「どうした、アイ・シー」
一人の老僕が血相を変えて駆け込んできたアイ・シーを呼び止めました。
「お后様を・・・王様が大変なことになりました・・・」
息を荒げるアイ・シーの叫びに館の奥から美貌のお后が二人の王女、多数の侍女を伴って現れました。
「何事じゃ、騒々しい」
「アイ・シー奴が・・・」
老僕が指差す先で、アイ・シーが平伏していました。
「お前は、アイ・シーではないか。先ほど王様を裏山にご案内したのではないか」
お后様は、先ほど館の男たちが騒々しく猪狩りに出て行く様子を見ていました。それというのも、このアイ・シーが王様に進言した言葉によるものです。しかし、今そのアイ・シーが一人帰って来て後ろに王様はおろか従者一人も付き従っていないことに不審な思いを抱きました。
「で・・・狩りのほうはどうした」
胸騒ぎを覚えながらお后様が真剣な表情で聞きました。
「それが・・・それが・・・大変なことになりました」
最後にはアイ・シーの声が泣き声に変わりました。
「どうしたというのじゃ、はっきりと申せ」
いよいよお后様は不安になりました。まさか・・・一瞬不吉な出来事が脳裏を掠めましたが、これまで狩に出て手ぶらで帰ってきたことのない我が王様です。アイ・シーの態度が解せません。
「それが・・・深い森の中で猪を追っているうちに、手傷を負った巨大な猪が逆襲して来て王様に飛び掛りました」
お后も二人の王女も侍女たちもその場の誰もが息をのみ、アイ・シーの次の言葉を待ちました。それは聞きたくないことでしたが、その場を離れることも耳を塞ぐことでも出来ませんでした。
「・・・すぐに兵が猪を取り押さえようとしましたが、到底叶わず、王様は、猪に首を噛み付かれて・・・・ワアア・・・」
終に泣き出すと、それを合図にお后様はじめ、王女、侍女、そして館の誰もが一人残らず泣き出しました。
「お后様・・・」
お后にすがるように王女侍女たちの泣き声が館に響き渡りました。館に広がる泣き声を聞くと、アイ・シーは、全力で森に帰りました。
「大変でございます・・・」
王様の前に進み出たアイ・シーは、館ではお后様が誤って階上から落下して亡くなられた、という偽の知らせをもたらしました。
「何、后が・・・」
一瞬絶句した王様ですが、話がアイ・シーからでは、眉唾物です。《騙されてなるものか》王様は心の中で冷笑すると、確認の為に傍に仕える役人を様子見に館に引き返させました。
役人は、館の中に入るまでもなく、館の女性たちの泣き声は外にまで響いていました。
『お后様』
お后の周りに集まって泣き叫ぶ女官たちの声をはっきりと耳にした役人は、お后の死が事実だと思わざるを得ませんでした。
「申し上げます」
森の中に帰ってきた役人は、館の中の騒ぎ、「お后様」と泣き叫ぶ女官たちの声を聞いてきたまま報告しました。報告を受けると、王様は一言も告げず、馬に飛び乗り、一目散に描け戻りました。役人がその後に続き、兵たちが素足で駆けて続きます。
館の外に来ると、女官たちの鳴き声が聞こえます。最愛の后の死亡を疑わず、王様は馬上で泣き崩れました。落馬しそうになる王様を駆けつけた役人が辛うじて抱えて下ろし、そのまま両脇を抱えるようにして館に入りました。
その瞬間、館に満ちた泣き声が消え、沈黙が支配しました。じっと見詰め合う王様とお后は、目の前にいる人物が現実なのか、夢なのか呆然と互いに沈黙の中で見詰め合っていました。
「誰?・・・王様が亡くなられた、といったのは」
「無事であったか・・・」
二人同時に安堵の表情で言いました。互いに無事を確認すると、安心したのか、大きな声で笑い出しました。しばし館に笑いが満ちると、王様がハッと、騙されたことに気付きました。
アイ・シーを取り押さえよ・・・そんな命令が発せられると、一早く人々を掻き分けるようにアイ・シーが進み出ました。
「不埒にもわしを騙すだけでは足りずに、后まで騙すとは許せん」
血相を変えて叫ぶ王様に、アイ・シーは平然と言いました。
「王様はもうお忘れですか。私に何をお命じになられたのか。今、わたしは王様を笑わせ、且つ泣かせました。ですから馬小屋の掃除の罰は受けかねます。ここに居並ぶ従者の方々にお命じになられれば如何でしょうか」
アイ・シーは、そう告げると、王様の言葉も待たず、頭を深々と下げて暇を告げ、そのまま館を後にしました。
 
またしてもアイ・シーの知恵に敗れた王様は、心に恨みを抱きながらも、いかんとも成す術もなく、誇らしげに出て行くアイ・シーの後姿を見ていました。
 
(了)
スチャート・プーミポリラック著「雲南省のタイ・ルーの伝承」に収蔵されている「アイスック・アイシー」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、タイ風巻き寿司とも言える「カーウ・バーイ・プラー・ツー(KHAAW BAAY PLAA THUU)」という食べ物で、使われている魚は、ツーといい、通常プラー・ツーと呼ばれ、タイでは大変の一般的で年中食卓に出ます。鯵のような気もしますが、辞書に寄れば鯖の一種で、沖縄ではグルクマーと呼ばれる魚のようです。このプラーツーという魚を焼いて、その身を解してもち米に入れて巻く、まさに日本の巻き寿司を見ているようです。これからも日本人とタイ族は案外近いのかもしれません。
その作り方は、こちらです。

戦友よ安らかに眠れ

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クンユアムの日本兵記念碑
 
ビデオの中で男性は、カンチャナブリーに行ったことのある人は、そこで日本軍の残虐な行為の跡を見たかもしれませんが、ここに来ると様相は一変し、可哀想な姿を見るでしょう・・・」という言葉から案内していますが、旅行業者でしょうか。日本軍の車両も壊れたまま残っているようです。慰霊碑が日本兵の魂を見守っているのでしょうか。
 
これは、チエンマイの北西、ミャンマーとの国境の県メーホーンソーン県クンユアム郡のお話です。
かつて日本軍は中国支援の援蒋ルート遮断の為のインパール作戦を実施しました。この戦線からビルマの竪琴の話も生まれました。この作戦の戦傷者たちの多くが、川を渡り国境を越えてタイ国に来ましたが、その一つがここメーホーンソーン県です。このビルマからの日本兵がタイに来た道こそ、日本軍がビルマへの行軍用に建設した道で、まさかそこが白骨街道になるとは、夢にも思わなかったでしょう。疲れ果て、傷付き、マラリア蚊に襲われながらの退却路はまさに死屍累々の惨状だったのかもしれません。そうした日本兵を優しく受け入れた小さな村があり、そこには今記念館が出来ています。
 
クンユアム郡、メーホンソン県
 
タイでは、ビルマ戦線に向かってカンチャナブリーで建設した泰麺鉄道が有名です。タイはこれを「死の鉄道」と呼び、クウェー川を渡る鉄道は、今、そこはカンチャナブリーの重要な観光名所となり、日本軍の残虐行為を世界に示そうとしています。
 
イメージ 5今目をはるか北に向けると、日本軍はインパール作戦用にチエンマイからビルマへの進撃路を建設しました。チエンマイに住み着いた最初の日本人といわれる写真家の撮影した数々の写真は、大変役立ったでしょうし、もしかすれば、彼自身がそうした使命を帯びていたのかもしれません。密林に潜むトラをも恐れず、道なき道を分け入り、ビルマへの行軍路を切り開いたのです。
イメージ 6チエンマイから北に行くとメーテーン(MAETAENG)という町があります。その町の古老の中にも日本軍の話を知る人がいまだ多々いるはずです。ビルマへの進軍には、そのメーテーンから左折して山に入っていかねばなりません。そしてパーイ(PAAY)という町に到着します。ここからが道なき道です。今、このパーイからメーホーンソーンへの道は舗 装され、車でいけますが、戦中は、この険しい山岳路すらなイメージ 7かったでしょう。メーホーンソーンは文字通り秘境だったのです。
日本軍は、いくつものビルマ進行ルートの中の一つにこのチエンマイからのルートを計画しました。そして、パーイの町からクンユアム(KHUNYUAM)という町を経由してビルマ国内のトーンウー(TOONGUU)に向かう道を建設しました。その秘境に道を切り開く為、日本軍は、北部タイの住人を借り集めたといいます。しかし、現地に駐在した日本軍兵士と地元住民とは大変に友好的であったことは、タイの全国紙の次の文においても分かります(2009年4月14日付マティチョン紙)。
その紙面には、次のように記されているといいます。

「・・・第2次大戦が始まってより、日本軍とクンユアム郡住民の結びつきと友好が始まりました。戦争期間中に使用する道路および住居建設が始まると、当時、一部の日本兵は寺院に泊まる中で、クンユアム郡の住人は、日用品、消費財、お米などを日本兵に販売しました。住人が病にかかると、日本軍が治療に当たり、苦しみをともに分かち合い、日本兵とクンユアム郡住人の間の関係は兄弟のごとくでした。・・・」
イメージ 8ビルマへの道は、昭和18年に工事が始まったといわれますが、その調査を考えると、開戦直後タイに入ってきた日本軍はこの北の地にも入っていたと思われます。そして、2年の歳月を要して完成した昭和20年、ビルマのトーンウーに向かう道は、ビルマからの帰り道に変わったのです。すなわち、白骨街道です。
建設なった道をビルマからの日本兵が疲れ果てた身体を引きずるように帰っイメージ 9てきます。こうしたことから、メーホーンソーンには、旧日本兵の足跡が多数残っているようです。それら夥しい数の先人たちの遺品の収拾、分散防止に人力したのが、クンユアム郡警察署に赴任してきた警察中佐のチャートチャイ氏でした。氏は、住民との出会いの中で、先の大戦の遺品に気づき、その分散防止に尽くしました。時に西暦1995年のことでした。
翌1996年、クンユアムの郡長が建イメージ 10設なった記念館に陳列する物についてチャーチャイ警察中佐と相談した時、中佐は自ら収集し、興味ある大戦に関わる日本兵とクンユアムの関係を記念館に展示したいという意向を示し、実際に更なる収集に向けて村人に協力を呼びかけ、収集を始めました。さまざまな困難の末、旧日本兵の方々の協力を得て様々な品物の寄付を受けました。中でも最も重要なものは、昭和天皇の御親筆になるとされる大戦を決意イメージ 11せざるを得なかった経緯を記した縦2メートル、幅50センチの布で、軍に下賜されたわずか5幅のうちの一幅だそうです(残念ながら、この点について真偽を言う資料を持ちませんので、間違いがあればお許し頂き、ご教示下さい)。そして、その前には日本刀を展示し、綺麗な花が飾られています。ここは写真撮影禁止ですので、写真は全てWEBで見つけたものを掲載します。
その後、チエンマイ大学医学部の医師イメージ 3ナロン氏が、クンユアム郡の観光開発に関して目をつけたのが、この記念館でした。そこで、敷地をも含めて整備しようとしましたが、誤った情報を流そうとする人たちがいて整備・拡張がままならず、止むを得ず別途土地購入して建設することになりました。同時に、クンユアム地区責任者は、種々住民に記念館の整備・拡充を説明し、住人を賛同を得ました。
これが数年前のことで、場所はムアイイメージ 4トー寺院(WAT MUAYTO)の正面に位置するようです。この記念館も実のところ地元の文化財を展示した博物館ですが、地元の人々は「戦争記念館」と呼び、看板には、「日―タイ友好記念館」と刻まれています。外には、慰霊碑があり、「戦友よ安らかに眠れ」との日本語の碑文と花が供えられ、その外多数の車両があります。そして中には1000点を超える日本軍の遺品が所狭しと展示されています。

 
日タイ友好記念館
 
上の動画は、その記念館の中で流れている動画を録画して動画サイトに載せたものと思われます。これは、フクダ氏に今なお変わらぬ愛情を寄せる地元老婦人の愛の記録です。そこには、60余年を過ぎた今も深い心の繋がりがあり、日本兵に寄せるタイ女性の心の温かさが滲み出ているようです。
30年近く前、一人バスに乗り、チエンマイから10時間をかけて砂誇り舞う未舗装の道を山をいくつも越えてメーホーンソーンに行った頃を思い起こします。夜7時を過ぎて到着した路地裏のような空き地を利用した小さなバス停。街灯もなく、真っ暗な道を一人バッグを引きずりながら宿舎を探していた頃が懐かしく思い起こされますが、それよりも更に30年以上も昔、メーホーンソーンという県庁所在地からはるか南に位置する田舎の町に我が先人たちは束の間の宿りをしていたのです。
これは、テレビドラマでも、小説でもない、現実の話です。
動画のナレーションを誤訳を恐れず日本語訳して文字に起こしてみました。
「・・・まもなくフクダの症状は順調に改善し、終に完治しました。彼の性格が大変勤勉であったことから、私の父を含めて村人たちの好意を集め、父は、わたしたちを結婚させることにしました。その頃は、時間の流れも早く、私は言われるままに全てをしなければならず、それはフクダも同じことでした。私とフクダの生活は順調に過ぎて行きました。彼はどんな仕事でもこなし、大変家庭を大切にし、わたしたちは二人の男の子をもうけました。その後、役人がフクダを逮捕して警察に連れて行き、わたしは、その後の彼の消息を聞きません。私の過去の記憶は、一度として消し去られることなく、時間がどれほど過ぎようと、胸の奥に焼きついた映像は、いつも瞼に浮かんできます。自分の姿を見る都度、心の奥底に秘められた空しさ、淋しさを見るばかりです。たくさんの質問が寄せられますが、未だに彼らにも自分自身にも答える言葉が見つかりません。過ぎ去った日々を忘れたことがなく、戦争が再び起こるのかどうか知りませんが、戦争がすべての人々に喪失をもたらす中で、わたしは希望に出会いました。二つの民族、二つの文化の間の友好を分かち合う夢は、二人の間の愛情よりも深かったのです。私は、現実の世界に目覚めても、夫がいつ我が家に帰って来るのか、もしくは、再び会うことができるのか、それを知ることのない妻という名前の人間の悪夢だけが残りました。それは、掴むことが不可能な空の星をわたし達が力をあわせて手にしようとするようなものでした。時間という物差しでしか計ることができないあまりにも長い距離にも似ていました。わたしは、何が起こったのかを理解しなければいけませんし、言い聞かせなければなりません。そして、わたしは、もしもこの世において共に暮らすことができないのならば、せめて来世において一緒に暮らせればそれだけで十分、と常々そのように祈っています・・・」

 
ケーウおばさん
 
上記動画の中で言及されているフクダさんの奥様です。奥ゆかしいですね。
日本人らしい男性が「フクダ」と呼びかけていますが、にっこり笑って「フクダはもういませんよ」と言っています。動画作者の意図が分かりませんが、フクダ夫人のお顔が出ましたので、ご紹介しました。
 
 
 
こうしてみると、地元の人たちの大変に親日的な姿は、先人たちが死と隣り合わせの生活の中でも現地の人たちに親切に接してきたことのお陰であるといわざるを得ません。同時に、こうした感情に水差す間違った情報が入らないことを切に希望し、いつの日にかかならずこの地を訪れたいと思います。
 
同時に、同じ日本軍が同じ時期に同じ国でかくも異なる態度を示したとは思えません。そこにカンチャナブリーの出来事に対する欧米の意図を見るようです。「泰麺鉄道」を日本軍の残虐行為とは見たくありません。
 
 
最後に、じっくりとこの童謡に耳を傾けて下さい。夫の、父の帰国を待つ母と子供の切ない思いが伝わってきます。
 
参考サイト:
チエンマイ県クンユアムの日タイ記念館
クンユアム記念館
クンユアムの戦争博物館又の名を日タイ友好記念館

愚かなウサギ

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閑 話 休 題−99−
 
日本人は昔から漫画の才があるのでしょうか。京都の高台寺には「鳥獣人物戯画」という絵巻があって、そこには動物を擬人化して描いているようですが、寺院に収められているところから宗教説話でしょうか。その中にウサギが楽しそうに遊んでいるそうです。その外にもウサギはさまざまな話に出てきますが、何と言っても有名なのはウサギと亀でしょうか。しかし、日本には因幡の白兎がいます。
そして、タイの昔話の中にもウサギがいます。
動物と人間の関係は生活の中に深く入り込んでいるのでしょうが、そんな動物に昔話の作者は何を託しているのでしょうか。タイの話は、日本とはかなり趣が違っているようです。
 
愚かなウサギ
昔の動物は、種を越えて互いに話しあうことができる共通の言語を持っていたようです。
ある時、一匹のウサギが広い野をピョンピョンと飛び跳ねながら、蝶々と戯れていましたが、気が付けば、蝶々は川を越えて向こう岸に飛んでいってしまいました。ちょうど喉の渇きを覚えていたウサギは、ついでにと川の水を飲んで喉を潤しました。
「羽があったらなあ・・・」
楽しみを中断されたウサギは、そんな思いで蝶々が飛んでいった川向こうを見ていました。
「こんにちは」
その時、小さな声がどこからか聞こえて来ました。キョロキョロと辺りを見回しても鳥一羽いません。
「ここだよ、ウサギさん・・・」
声は足元から響いてきました。岸辺の岩陰から顔を出しているのは、一つの小さな貝でした。
「お前かよ」
「よっこらしょ」
水から這い上がった貝が大きく溜め息をついて空を見上げました。
「貝さんよ。水から上がってどこへ行こうというんだい」
ウサギはいい遊び友達ができたと思ったのか馬鹿にしたように聞きました。しかし、貝は真面目な顔できっぱりといいました。
「あの空の果てまで行くのさ」
貝の胸には希望が一杯膨らんでいるのか、その声には明るい響きがありました。それを聞いたウサギは、自分がどれほど飛び跳ねても行き着きそうにない空の彼方に、掌にも満たない小さな貝が行こうというのですから、内心可笑しさを噛み殺すのに苦しいほどでした。
「ほう・・・」
一声、感嘆すると「あの空の彼方にねえ・・・」ウサギは、じっと遥かかなたを見詰めて呟きました。
「それで、いつごろ到達する予定だい」
「すぐだよ・・・向こうでお昼を頂くつもりなんだ」
ウサギの嘲笑気味の言葉にも貝は真剣に答えました。
「ということは、俺より早く走る・・・そういうことか・・・ふうん・・・なら、俺と駆け比べしてみるかい」
「いいとも、やってやろうじゃないか」
ウサギの挑戦を貝は受けて立ちました。その声には絶対に負けない、そんな自信が漲っていました。
「でも今じゃないよ。明日のこの時間、ここで会おうじゃないか」
貝の自信溢れる明るい声にも、ウサギは馬鹿にして思いました。
《俺の掌にすら満たない小さな体の貝がこの俺に勝てると本気で考えているのか、この馬鹿貝は》
ナメクジのようにあくびが出るほどのそのそと水の中に戻る貝の後姿を見ながら、ウサギは、早くも勝利の美酒の味を夢想していました。
ウサギが、のんびりと家に帰り、食事を済ませ、体を横に休んでいる頃、貝は、懸命に水中を泳ぎ、仲間の貝を見つけては事の次第を話して聞かせていました。ウサギとの駆け比べの話が貝の仲間の間をに々と伝達され、誰もがウサギの傲慢に腹を立てていました。しかし、誰一人としてウサギに勝てるなどとは思ってもいませんでした。
「で、どうするんだい・・・駆けっこしてウサギに勝てる筈がないじゃないか、第一俺たちは生まれてこの方走ったことがないじゃないか」
ある貝が心配そうに告げました。
「心配要らないさ。俺に秘策があるんだ。ただし、みんなの協力が欲しい」
「いいよ、ウサギの鼻を明かしてやるんだ、何なりと言ってくれ」
貝の秘策とは、「ほれ、行け」という言葉の「キャーツ」という金切り声が聞こえたらウサギの前に出て走る、というものでした。貝はリレーでつなぎ、一つの会に見せようというのです。この秘策を現実のものとするために川の中の貝という貝が全て駆り出されました。
翌日になり、全ての手配を終えた貝は、約束の時間に約束の場所へやってきました。
「さあ、ここから始めよう」
約束の川岸で、貝が言いました。
それを合図にウサギが一歩踏み出すと、貝は、大きく口を開けて空気を一杯吸い込むとフ〜と噴出してピョンと跳ねましたが、ウサギの足跡を超えることができません。ウサギは、口笛を吹きながら、蝶々と戯れながら、小鳥と語りながら、ゆっくりと歩いていきます。しばらく歩いて不思議なことに気付きました。
どこまで歩いていっても、いつの間にやってきたのか目の前にあの貝がピョン・・・ピョンと動いているではありませんか。「キャーツ」貝の掛け声が勇ましく沈黙の路上に響きます。しかも、貝の姿は次第にはるか彼方に遠ざかっていきます。
ウサギは懸命に駆け出しましたが、やはりその前に貝がいます。いつも遊んでいる野ははるか後ろになりました。川はうねりながら森の中に入って行きます。
兎は息も絶え絶えになり、ついに川岸の大きな木の根方に倒れこむように座りました。
どこまで駆けてもあの貝が目の前にいるのです。
「どうにも追いつけないわ」
失意のウサギは、川のせせらぎに喉の渇きを覚えました。
もう歩く力もありません。あいかわらず貝の声がどこからともなく聞こえてくると、悔しさが沸いてきます。
ちくしょう・・・川の水を両手ですくい、口に含むと冷たい水で辛うじて生気が蘇りました。
んやりと川岸に座り込んで休んでいると、今度はゲロゲロとカエルの声が聞こえてきました。失意のうちに沈んでいると、今度はアマガエルのゲロゲロ・・・ゲロゲロという声がうるさく耳について仕方ありません。
「アマガエルめ、お前はそんなに交尾の相手が欲しいのか」
ウサギはアマカエルのゲロゲロいう鳴き声が交尾の相手を探している声に聞こえてきたのです。
冷たい水で生気を取り戻したウサギは、貝に負けた悔しさに、心も引き裂かれるほど傷付いていました。そんな時に交尾の相手を求めるアマガエルの鳴き声を聞くと、自分が馬鹿にされているようで尚更に腹立たしくなります。それ以上に、そんな交尾の相手を求めるアマガエルの鳴き声に自らの股間が反応していたのです。貝、アマガエルに腹を立てながら、ウサギは、そんな心の怒りも知らず、アマガエルの誘いを受け入れる自分の体の変化に怒りの矛先を向けました。
「お前というやつは、この俺が死ぬかと思うほどに疲れ果てているというのに、アマガエルごときの呼びかけに応じて交尾したいというのか」
ウサギは自らの下半身の変化に憤りを覚え、罵声を浴びせかけると、何を思ったのかいきなり手近にある石を掴みました。
「ご主人様の苦しみも知らずに硬くなりやがって」
一言言うが早いか、右手を振り下ろすと自らの股間を力の限りを尽くして打ち据えました。
ギャ〜〜〜瞬間ウサギの叫びが川面を揺らしました。
全身を襲う激痛にウサギは文字通り飛び上がって苦しみ、川に落ち込むと、沈みました。川を流れるウサギを貝もアマガエルも不思議な面持ちで眺めていたといいます。
 
作者は、この物語の意味を「腹上死の方が水死よりよっぽどましだよตายคาอก   ดีกว่าจมน้ำตายだといいます。
 
(了)
アッチャラー・ワンナエーク著「ラーンナーの民間伝承物語」に収蔵されている「ウサギと貝」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、下記URLの「ラーンナーの地元料理」よりお借りしました。
このお菓子は、「ンガー・タム・オーイ(NGAA TAM OOY)」というタイ・ヨーン族の冬のお菓子で、炒ったゴマを冷ました後で搗き潰し、そこにサトウキビを入れて搗き混ぜて作ります。こちらに来た頃には市場で見られたものですが、今では姿を消してしまいました。
ゴマとサトウキビから作られたもので、その作り方は、こちらです。
 
これにもち米をいれて搗けば前回の「カーウ・ヌック・ンガー」になります。
 

夫婦喧嘩のその果て

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閑 話 休 題−98−
 
全く異なる家庭環境の中で育った二人が、ある日出会い、愛し合い、そして家庭を作ります。夫婦とはそもそも他人の結びつきから始まる新しい社会です。親と子、兄と弟、姉と妹、こうした血縁で結ばれている仲というのは、どうにも切りようがありません。そのどうにも切り様のない仲を無理に引き裂いてしまうと、いわゆる近親憎悪という修復しがたい関係を作ってしまいます。
しかし、夫婦というものは、時に非常に脆いもので、もともとの基盤が全く異なる二人が、夫婦という土台を築いてその上に乗っているのです。その基盤を強固にするのは愛情であり、信頼であり、思いやりです。誰にも欠点もあれば、結婚後初めて知ったこともあるでしょう。それらの中でどこまで許すことができるか。人生という長丁場を、家庭という船にいっしょに乗り、子供という宝を守りながら目的の果てない彼方にある岸辺に向かわせることは大変な努力が必要でしょうね。
 
夫婦喧嘩のその果てに
夫婦喧嘩は犬も食わぬとか言いますが、夫婦は時に激しく喧嘩するようで、タイでは、夫婦の間の関係を「舌と歯の様な関係」だといいます。常にいっしょですが、時に歯が舌を噛むことがあります。夫婦のうちどちらが舌で、どちらが歯であるかは知りません。
プレームとカムアーイも時に人も羨むほど仲良く、甘い新婚気分が続いているように見える微笑ましい夫婦です。しかし、何か気に入らないことがあると、まるで仇に出遭ったかのように激しい口論が始まります。そこに暴力が伴わないことが二人の間での暗黙の了解のようでした。夫婦の間で口論が始まると、決まった様に「分かれましょ」「出て行け」という言葉になります。それを合図にカムアーイは荷物をまとめて家を出ます。といって、大した荷物があるわけではありません。日本の腰巻にも似た筒状のスカート何枚か、今で言うベビーパウダー、それに、数枚のシャツを胸に抱えて出て行きます。
カムアーイの目指す先は、もちろん実家です。とはいっても、昔は女性の家に男性が転がり込むことが圧倒的だったでしょうから、カムアーイたちの住居も彼女の実家から遠くないところだったのでしょう。何しろ、喧嘩の都度荷物をまとめて実家に帰りますから、遠ければ大変です。
「父ちゃん、母ちゃん、今度と言う今度はもう帰らないからね」
「また帰って来たのかい・・・」
両親ももう家出の理由など聞きはしません。カムアーイは、自分が育った家です、遠慮することなく、荷物を置き、食事をし、何事もなかったかのように家族の一員として振舞っています。
一方、カムアーイが家を出て行くと、しばらくは、怒りのあまり相手のいない空間に向かって罵倒の言葉を勇ましく吐き、時には腹に巻いた布を解いて床になげうち、鬱憤晴らしをします。しかし、1時間、2時間と経つにつれ、次第に何か物足りなさを覚えます。
空腹を覚えると、いつもの癖で「お・・・い飯はまだか」といった途端、一人である事に気付きます。そうすると、世の男というものは案外弱いものでしょうか。出て行った女房が恋しくなります。なんとか、その夜はもち米を用意し、棚から味噌を取り出して、空腹を癒します。
翌日、夜が明けると、余計に寂しさ以上に一人でいることが悲しくなると、無性に女房を思い出します。
「飯の用意もしないで・・・」
口では怒りの言葉を発しながら、それはそのまま「空腹だから帰ってきておくれ・・・」という哀願にも聞こえました。
食べるよりも、無造作に昨夜と同じ衣装で、女房の家に向かいました。
いつもの慣れた道です。
「あっちの部屋で待ってるよ・・・」
プレームの顔を見たカムアーイの両親は、優しく微笑みさえ浮かべて、カムアーイの所在を教えて暮れます。
「カムアーイ・・・」
「誰よ・・・」
プレームの優しい甘えるような声にも、カムアーイの声は棘を含みいまだ怒りが収まりません。
「カムアーイ・・・帰ってきておくれ・・・」
「うるさいわね・・・あの女の所に行けばいいじゃないの。あんたは場所を間違えてるよ」
プレームは、村外れにある娼婦の家に入る所をカムアーイに見つけられたのです。といって別に後ろめたいことはありませんが、その娼婦の家のマンゴウの枝を剪定したことが、カムアーイの逆鱗に触れたのです。
プレームは平身低頭誤りました。何しろ、家事一切カムアーイが仕切り、どこに何があるかも分からず、田仕事も畑仕事も全てカムアーイなしにはできません。といってこれを機に自分で炊事洗濯から田仕事畑仕事をしようなどとは夢にも思いません。カムアーイが帰ってきてくれるなら、とどれほど悪態を吐かれても平身低頭お願いを続けました。
どれほど激しく罵ろうとも、一度は夫婦の契りを結んだ仲です。こうして目の前で大きな体を二つ折りにし、今にも泣き出しそうな声で哀願されればさすがにカムアーイも凍りついた心が次第に溶けて行きます。
昼前にやってきたプレームは、女房の実家でお昼を食べ、食後にもまたまた女房の前で哀願を続けました。カムアーイの両親は、そんな二人の痴戯にも似た様子を無視するように、いつもと変わらぬ時間を過ごしていました。
「これが最後だからね・・・」
「勿論だとも・・・帰ってきてくれるか・・・ありがとう」
嬉しさに思わず、カムアーイの手を握ろうとすると、プレームの手は邪険に払われました。
「何をめそめそしてるのよ。うるさいわね」
カムアーイは立ち上がると、いきなり、プレームに水浴びを命じました。これは、これから食事をするよ、そんな合図でした。
「早く水を浴びておいで・・・どうせ、今朝は水を浴びてないんだろ・・・」
無言で怒りを含んだ表情ながら、プレームを部屋から追い出すように水浴びに向かわせると、自らは食事の準備を始めました。干し魚を七輪の火にかけて焼き上げます。未熟のパパイヤを千切りにしてソムタムというサラダを作ります。そんなカムアーイを助けるように母親が竹の子のスープを作ります。
以前なら、この間、水浴びを終えた男二人は、酒を飲むのでしょうが、今日はそんな雰囲気ではありません。プレームは、早々に座り込むと、食事を待ち、一刻も早くカムアーイを連れて家に帰りたくて仕方ありません。無言の食事中もプレームは、ニコニコしながらカムアーイの方にチラチラと視線を送っては意味ありげな表情をします。そんなプレームを無視して、無言の食事を済ませたカムアーイは、帰る準備を始めました。しかも、既に荷物はまとめられていたのです。いつものことで、亭主のプレームが詫びを入れることを承知で、こうして決まりきった芝居をしているに過ぎなかったのです。
それでも、プレームは心底嬉しくなりました。
そうして、食事を終え、自分たちの家に帰ってきたころには既に日が暮れています。
カムアーイは、真っ直ぐ寝室に入ると、蚊帳を広げてその中に入りました。
「カムアーイよ・・・お前一人を愛してるよ」
「あんたなんて愛してないわよ・・・」
プレームの甘い鯉のささやきをカムアーイは棘を含んだ声で返します。プレームは一つしかない蚊帳の裾をパッと引き上げると身を滑り込ませます。
「命に代えてもいいほど心から愛しているよ」
男性というのは、民族を問わず、こうした歯の浮くような甘い言葉を平然として吐くのでしょうか。女性は、そうした男性の言葉が甘えであると知りながらも、決して悪い気がしません。硬く閉ざされていたカムアーイの心も甘い言葉を吐き続けるプレームの熱意に少しずつ緩んできました。
背を向け、体を丸めて返事をしない女房に、終にプレームは泣き落としにかかると、ウェーン・・・ウェーンと泣き出しました。
「煩いわね・・・眠れやしない・・・」
しかし、プレームはなおも泣き続けます。しかしチラチラと薄目を開けて女房の反応を確かめることを忘れませんでした。何しろ、これまでどのくらいこうした芝居をしてきたことか・・・
プレームも、カムアーイの気持ちが解れてきていることを察していました。
「いつまで・・・」
寝返りを打つように向き直り、プレームに強く言おうとしたその瞬間、プレームは、カムアーイの両の肩を強い力で押さえ付け、体の下に組み敷くと、上乗りになりました。
「何をするのよ・・・あんた・・・放せ・・・」
その目には怒りよりも恐怖の色が浮かび、足をばたばたさせますが、所詮は女性、男性が本気で押さえると逃げることができません。
「うるさい・・・」
先ほどまでの弱弱しいプレームの姿はそこにはありませんでした。
「いやよ・・・」
といいながら二人の声は次第に小さくなりました。
「これでよし・・・」
カムアーイの抵抗がすっかりなくなると、プレームは勝ち誇ったように一言告げました。もうカムアーイに返す言葉はありません。
「ちょっとはましになった」
プレームの声が部屋に小さく響くと、やがて夜の闇が二人を包みました。
 
作者はいいます。「夫婦喧嘩というものは・・・・他人が関わるものではない」まさにその通りです。
 
(了)
アッチャラー・ワンナエーク著「ラーンナーの民間伝承物語」に収蔵されている「逃げた女房」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、「カーウ・ヌック・ンガー(KHAAW NUK NGAA」とよばれるもので、日本的に言えば、お餅ですが、搗いたままで形を整えていないところが日本のお餅と異なります。
これは新米が出回る冬の食べ物で、もち米を蒸し、ゴマを炒った後冷まして塩といっしょに搗きます。そして、最後に蒸しあげた熱いもち米をいれて搗きます。どことなく日本のお正月のお餅と似ていますね。本来のタイ族は、案外日本人と近いのかもしれません。
下記「ラーンナーの食事(AAHAAR LAANNAA」よりの引用です。
 
お餅制作動画は下記URLにあります。
http://library.cmu.ac.th/ntic/lannafood/method_clip.php?id=193
 
 

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