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落穂拾いー(17)
世の中の動きとは全く別に時間は常に動き、その歩みを止めません。淡々と一切の感情を無視して動き続ける時間の中で、人間は社会を作り、日々の営みを続けています。平々凡々たる社会の中で、時として凡夫ならざる才に恵まれた人物が出現しますが、その時代が変化を求める時であれば、非凡の才の持ち主が社会を動かすことがあります。そうした凡人とは異なる資質の人物が与えられた使命に気付いた時、時代が大きく変わるのかもしれません。人々は彼らを英雄と呼ぶのでしょう。
また、そうした偉大な英雄は、ある日突然に世に出るものではなく、英雄をこの世に呼び起こす為の呼び水とでも呼べるような役割を果たす小英雄とも言える人物が出現することがあります。そうした小英雄は真の英雄を導く先覚者かもしれません。時に名前さえ歴史に残らない先覚者ですが、彼らの存在なくして社会の変化はなかったでしょう。
南部タイのいつまで続くか知れない騒動も、ラーンナ−の人たちの心の奥底にあり、血の中、肉の中に溶け込んでいる傷付けられた自尊心、併呑されたとはいえ一大王国ラーンナーの末裔であるという自負心は、そうした無名の人たちの魂の叫びかもしれません。
反骨の戦士
チエンマイは、西暦1296年にマンラーイ王によって建設された都ですが、そのマンラーイ王朝は、西暦1558年、隣国ビルマのタウングー王朝のブレーンノーン王によってわずか262年で終焉を迎えます。このブレーンノーン王は、タイでの呼び名で、ビルマではバインナウンと呼ばれ、従兄弟であり、先代王でもあるタビンシュエーティーさえなし得なかったアユッタヤー攻略を成功させたビルマにとっての英雄です。
そして、そんなビルマの英雄の占領下に置かれたラーンナーにもたくさんの小英雄が出て社会に刺激を与え続けて来ました。その一人がかつてこの項で述べたテーパシンであり、ティッパチャーンです。そのティッパチャーンの血筋から後にチエンマイ王朝を開いたチャウ・カーウィラが出ますが、そのティッパチャーンには、4男2女がいて、次男のチャーイケーウとナーン・チャンターラーチャテーウィーとの間に生まれた長男チャウ・カーウィラがチエンマイ王朝の租となります。そして、そのチャウ・カーウィラを世に出すきっかけとなった人物が、彼の母ナーン・チャンターラーチャテーウィーの弟でした。その名前はブンマーでしたが、プラヤー・チャーバーンの方が通りがいいようです。
このプラヤー・チャーバーンですが、世の常でしょうか、歴史上の大成功者とならなかったが故でしょうか、その生年が不明です。これはあのテーパシンも同じことです。手元にある幾冊かのチエンマイの歴史書を見ても、文部省の副読本を見ても、突然のようにプラヤーという位階を持った人物として歴史に登場します。
当時のチエンマイはビルマの支配下に入っていましたので、軍人としても官僚としても世に出る為には、否応なくビルマの体制内に入らなければなりませんでした。しかも、ポー・フアカーウと渾名されたビルマ人新任統治者は、その性残忍の故にかプラヤー・チャーバーンとの間で諍いを起こします。
時代の終焉を告げるのか、西暦1771年の4月のある日の昼頃、真夏の燃える様な炎熱に晒される大地が揺れたといいます。地震の発生です。その年の11月、チエンマイ市内はローイ・クラトンのお祭りで灯篭を流し終え、人々はいつもの生活に戻った頃、プラヤー・チャーバーンは兵300名を率いて市中でポー・フアカーウに反旗を翻しました。しかし、この時はまだ私怨によるものでチエンマイからビルマ軍を駆逐することまでは考えていなかったでしょう。
この争いは不思議なことに両者共に逃走する様相を呈し、ポー・フアカーウは、宮殿に逃げ込み、プラヤー・チャーバーンは、仲間共々当時ラーンチャーンにいたビルマのポー・スパラーを頼っていきました。各種伝承では、この時プラヤー・チャーバーンは、ムアン・ラムパーンに立ち寄り、後のチャウ・カーウィラとなる、ナーイ・カーウィラに謀反の相談をしたとされます。その時、カーウィラは、兎に角タイ軍の協力が不可欠であると告げたようです。カーウィラとしては、父のチャーイ・ケーウがビルマ軍の手元にある以上迂闊な動きは出来なかったのでしょう。そこで、プラヤー・チャーバーンは、強力なビルマ軍司令官の追撃から逃れるには、更に強力な司令官の庇護下に入ることが最善と思ったのでしょう。
当時、ポー・スパラーははるか南のアユッタヤー攻撃から引き返し、ラーンチャーンに帰っていましたが、そのポー・スパラーを追いかけるようにしてプラチャウ・タークシン軍が北上してきました。この軍の司令官として働いたのが、現在のチャックリー王朝の租となる、プラヤー・チャックリーと、その弟プラヤー・スラシーでした。
タイ軍の北上を聞いたポー・スパラーは、プラヤー・チャーバーンを伴ってチエンマイにやってくると、ポー・フアカーウともどもタイ軍迎撃の準備を始めました。
この時、プラヤー・チャーバーンの対ビルマ戦が本格化しました。
北上するタイ軍迎撃に向かうビルマ軍は、チエンマイのターペー門のブッパー寺院に陣を構えて迎撃軍を編成したとされますが、ブッパー寺院は大軍を収容できるほど大きな寺院ではありませんので、たぶんその周辺、ターペー門の内側ということでしょう(従ってここで言うターペー門は、現在のそれではなく、ビルマ様式の仏塔を持つセーンファーン寺院前の十字路にあったものでしょう。今もそこにはチエンマイの外堀をなしたとされるカー河が流れており、土を搗き固めて作った城壁の残滓が見られます)。その時プラヤー・チャーバーンは、ビルマ軍司令官に対して言うには、タイ軍迎撃に川を下るには途中に幾つもの難所があります。自分が先遣隊となって障害物を取り除きましょう。実際チエンマイからの河下りは、幾つもの瀬が行く手を遮っています。
その時、ビルマ軍はプラヤー・チャーバーンの妻子を人質にとることで、進言を受け入れました。タイ・ヤイ族の兵70人とタイ族の兵50人がプラヤー・チャーバーンに預けられました。タイ・ヤイ族というのもまたタイ族の一派ではありますが、現在のビルマ東北部一帯に住むビルマ最大規模の少数民族ですが、彼らは殆どの場合においてチエンマイの敵対勢力として歴史に登場します。プラヤー・チャーバーンは、120人の兵を率いて南に下って行きました。途中腹心の者に命じて、ビルマに人質として囚われ、今にも彼らの都ムアン・アングァに送られようとしている妻子を救出させて後顧の憂いを断つと、ムアン・ホートに到着した時、深夜に70人のタイ・ヤイの兵を急襲して壊滅的打撃を与える、夜を日に継いで更に南に走り、プラチャウ・タークシン軍に向かいます。
ビルマ軍に激しい敵意を抱くプラヤー・タークシン軍では、プラヤー・チャーバーンの救援依頼を北上の好機と捉え、北上軍司令官にプラヤー・チャックリーとその弟プラヤー・スラシーを命じました。プラヤー・チャーバーンは、先遣隊として先に兵を率いて北上すると、チエンマイの南にあるピン河のワンタンの波止場に軍を構えました。しかし、迎撃に出たポー・フアカーウに抗することが出来ず南に敗走していきました。
その頃、プラヤー・チャックリーとプラヤー・スラシー兄弟がムアン・ラムパーンにやってきてプラヤー・チャーバーンの失態を知りました。当時の習慣でしょうか、敗軍の将は名誉回復の為に先陣を切って戦うことを願い出ましたが、今度は彼の後ろに強力なタイ軍がいます。大砲をはじめ、当時の重火器の威力に恐れをなしたのか、ポー・フアカーウのビルマ軍は総崩れとなり、チエンマイの正門ウィアンモンより北に向かって逃走しました。
ここに、プラヤー・チャーバーンは、念願のビルマ駆逐を果たしたのです。
時に、西暦1774年のことで、其の年、プラヤー・チャーバーンは、プラチャウ・タークシンより正式にチエンマイの王に任じられ、甥のノーイコーンケーウが副王に任じられました。これでプラヤー・チャーバーンはチエンマイの王として幸せな人生を過ごしたのでしょうか。残念ながら、ポー・フアカーウは、敗走を受け入れることが出来ず、80,000の兵を擁してチエンマイ奪還を目指して攻め上ってきました。この時、チエンマイを守るプラヤー・チャーバーンの兵力は、わずか1,900名に過ぎませんでした。しかも、水と食料を欠きながらの壮絶なチエンマイ城攻防戦が始まりました。1、900名の兵は80,000の敵兵を相手に奮戦し、30,000の兵力を擁するタイ軍が救援に駆けつけるまでの8ヶ月を持ち堪えました。この間、象、馬、牛、水牛、鶏、アヒル、犬、豚は元より、食用にはならない筈のサトイモ科の食物の根、バナナの根、トカゲ、バッタ、コオロギに至るまで食べつくし、城壁を攀じ登って城内に転落したビルマ兵を捕らえると、その肉まで食した、と伝承本は伝えています。
ビルマ軍が配送すると、城内の人々は食料のないチエンマイを捨てて散って行き、プラヤー・チャーバーンと甥は一時的にムアン・ランパーンに居を構えました。その後もビルマとの戦いは断続的に続き、一時ラムパーンも落とされると、更に南に下って体勢を立て直しました。そして、南のムアン・サワンカローク(日本では宋胡録焼きと呼ばれる陶器で有名な町)にしばし留まりましたが、やがて北上し、甥の副王を先陣とし、食料等を調達の上、ラムパーン南方のワンプラーウの町で待つよう指示しました。この時、プラヤー・チャーバーンは、命を落とす事件を引き起こします。
甥の副王、ノーイコーンケーウは、後より来たプラヤー・チャーバーンに対して集積していた食料の分配を拒みました。伝承は、その理由を述べていませんが、ただ副王は種々考えるところがあったとだけ記しています。彼は、この国家存亡の時に何を考えていたのでしょうか。残念ながら、資料からは、それらしいことを読み取ることが出来ません。自らの命に背くノーイコーンケーウに怒りを抑え切れないプラヤー・チャーバーンは、甥とはいえ、副王を殺してしまいました。
西暦1775年に戦火を共に潜って来た甥を怒りに任せて処刑したプラヤー・チャーバーンでしたが、その後もビルマとの戦いは続き、遥か北チエンセーンにまで戦いの場を求めることもありました。ラーンナーの地からビルマ勢を一掃しようとしたのでしょうか。
しかし、西暦1779年になると、突然のようにプラチャウ・タークシンは、甥殺害の罪を問い、プラヤー・チャーバーンをバンコクに呼び寄せると、鞭打ち100叩きの刑の後で牢に繋ぎました。プラヤー・チャーバーンは、ビルマをチエンマイから追い払う為に社会に渦を巻き起こし、成功したかに見えた瞬間、思わぬ罪を着て牢に繋がれ、そのまま異郷の地の牢の中で病を得てこの世を去りました。
そして、プラヤー・チャーバーンが種をまいたチエンマイ開放の実を拾い結実させ、大きく花開かせたのが姉の子供、チャウ・カーウィラでした。
(了)
中等教育副読本「北野町の物語りー偉大なる人物編」に収録されている「パヤー・チャーバーン(ブンマー)勇猛なる戦士」、「ラーンナータイ伝承集」に収録されている「王朝物語伝」、「十五代王朝伝」、「ヨーノック王朝年代記」「プーンムアン・チエンマイ伝」より題材を借用しました。
この動画はタイヤイ族の踊りで、NGIAW(เงี้ยว)とは、タイ・ヤイを指します。これは元来タイ・ヤイ族の踊りですが、チャウ・ダーラーラッサミーというチエンマイ王朝の王女がアレンジしたものです。
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閑話休題−108−
仏教においては欲望は毒であると教えています。物欲であろうと色欲であろうと名誉欲であろうと、欲望は等しく毒であることに変わりはありません。そうした欲望はついには終わることがなく、果てしない欲望、叶うことのない果てない欲望に身を焦がし、欲望を満足させることが出来ない苦しみに悶え、苦しみの内にこの世を終えることになります。ですから釈尊は欲望を毒だと喝破し、欲望を捨てろ、と教えるのです。一方で慈悲の心を持つよう説いています。小我を排し大我を奨めているのでしょうか。しかし、浅はかな凡夫は、欲望を捨てることが出来ません。むしろ欲望を膨らましさえします。欲望を捨てることの難しさを知るが故に、欲望に身を焦がす凡夫の愚かさが物語の種になります。こうした話では、何故か裕福な人間に欲が多く、貧しい人間に欲が少ないかのような表現が使われます。それは、貧しい人たちにせめてもの慰めを与えようとするのでしょうか。
タイ族の中のタイ・ルー族というのは、現在中国雲南省を中心に広範囲に住んでいますが、彼らは広大な大地に広がる森を友として来ましたので、物語にも森がたくさん登場し、そこに棲む動物たちとの関係が伝えられます。
因果応報
いつのことでしょうか、物語の常でいつの時代のどの場所とも分かりませんが、三人の仲良し商人が商用に出ていました。タイ族の間では商人が幾人か連れ立って旅を続ける事は普通であったのでしょうか。チエンマイの古い歴史書の中にも旅の商人一行が登場し、夢の中に亡き国王の霊が出てきて供養の塔建立に繋がったことは、このブログの別の項で述べた通りです。仲良しとは言え、このうちの一人は商売の駆け引きが上手ではないのか、余りにも優し過ぎるのか、利益を得ることが下手なのか、商売をしながらも決して財を蓄えるまでには至りません。対して二人は駆け引き上手の上に口がたち、言葉巧みに安価な商品を高価に売りつけて利益を上げていました。
そんな三人が、揃って旅を続けていると、途中で一つの壷を見つけました。どこかの商売人の荷駄から転げ落ちたのでしょうか、それとも、野獣に襲われ、逃げるに必死の主人に忘れられたのでしょうか。壷は一人では持ちきれないほどに重く、中にはたくさんの硬貨が入っていました。三人は幸運を喜び、壷を担いでの旅を続けました。その夜、貧しい商人は旅の疲れからか木陰に体を横たえるとぐっすりと眠り込んでしまいました。淡い月の光が降り注ぐ深夜、遠くで獣のほえる声が微かに聞こえます。申し合わせたかのように二人の商人がノソリと起き出すと、銭壷を挟んで考え込みました。
《これだけあると良馬が買えるな・・・》
二人は裕福とはいえ、まだ馬を使って大きな商いをするほどではありませんでしたから、良馬を使っての荷駄隊を形成して商売の旅を続けることを考えると、どうしてもこの壷の中のお金が欲しくてたまりません。しかし、三人で分けると馬を買う資金には足りても大量の商品を仕入れたり当座の運転資金にまでは回せそうもありませんでした。
「あいつにも同じように分けてやるなんて、悔しいな・・・」
どちらからともなくつい口をついて出た言葉に二人の本音が伺えます。ハッと自らの言葉を後悔して視線を上げると今一人の商人と目が合いました。その目は互いに心の内が同じであることを伝えています。一度心の内を晒してしまうと、同じ思いの二人の間で何の躊躇いもなく瞬くうちに話が決まりました。
翌朝、食事を終えると、一人が言いました。
「おい、この壷の中のお金だが、ここで分けるのは危険だと思わないかい。後を付けて来る者はいないようだが、この先の深い森の中で誰に見られる心配もない場所を見つけて分けようじゃないか」
「それもそうだな」
一緒に旅を続ける仲間を疑う気持ちなど微塵もない貧しい商人は、素直に同意すると、二人の勧めのまま、二人に銭壷担ぎを任せ、先に立って森の中に入って行きました。どの位歩いたのでしょうか、深い森の中を歩く三人は、渓谷に掛る一本の木を目にして立ち止まりました。
「この木を渡った先で分けようと思うが、木の橋が丈夫かどうか、身軽なお前が先に渡ってみてくれないか」
「いいよ」
貧しい商人は、疑うことを知らず、《二人は重い壷を担いでいるので、身軽な自分が安全を確かめるのは当然であろう》と思いました。貧しい商人が、用心深く木の上に足を置き、一歩一歩と慎重に歩を進めていきます。下を見ると靄が掛っているのか底が見えません。足を踏み外さないようにだけ心がける彼は、後ろの二人が壷を吊り下げた竹を肩から下ろしたことに気付きませんでした。二人の商人は、木の橋に両手を掛けると、力の限り回すように動かしました。空中に横たわる一本の木の上に立つ商人に掴まるべき何物もありませんでしたので、足元の木の微かな揺れに体のバランスを失うと、次の瞬間には真っ逆さまに千尋の谷底目掛けて落ちて行きました。それを目にした二人は、仲間の安否を確かめることなく、その場で壷の中の硬貨を二分しました。村に帰ってきた二人は、谷底に落ちた商人の家族に森の中の不幸な出来事を告げると、雀の涙ほどの見舞金を渡し、良馬を買いました。
一方、千尋の谷底に落ちて死んだ筈の商人は、途中の大きな木の枝に体が引っかかり、九死に一生を得ていました。一時のショックから意識を失いましたが、微かな鳥の声に意識を取り戻すと、慎重に枝から降りると、辛うじて大地に足をつけることが出来ました。
しかし、運の悪いとはこういうのでしょうか。そんな彼の前に一匹の大きな虎が蹲っていました。しかも背中に突き刺さった矢が痛々しそうです。手負いの獣の恐ろしさを知らない旅人はいません。《一度は拾った命だがこれまでか》見知らぬ森で一っ飛びで掴み掛かられるほど獣に近接した商人は、心の中で念仏を唱えました。が、そんな彼に、虎が声を掛けました。
「旅のお方とお見受けします」
苦しそうに、それでも掠れる声で虎が話しかけました。
「私には、まだ幼い子供がいて、私の帰りを待っています。どうかお助けください」
商人は、怖くもありましたが、涙を流して哀願する虎を見るに忍びませんでした。
「背中の矢を抜いてあげるが、ちょっと痛いかもしれないよ。我慢しておくれよ」
近寄ると注意深く背中の矢を抜き取ってやり、腰に巻いた布を解くと中から袋に入った傷薬を取り出し、鏃を抜き取った後の傷口に塗ってやりました。一瞬傷口から広がった冷たい感触が一瞬にして体を燃やすかと思うほどに熱を帯びると、ムムム・・・ッと商人をじっと見据えたまま歯を食いしばって耐えました。次の瞬間、それまでの激痛が嘘のように引いていきました。
激痛が和らぐと、目の前の人間がまるで天上世界から舞い降りた神の使者ででもあるかのように思われ、自分に矢を射た悪しき猟師と同じ人間とは思えませんでした。空腹の我が子の為に獲物を探してこれまで数日、何の獲物もないまま過ごしてきましたが、今朝どこか油断があったのか、猟師の存在に気付かず、背中に矢を射られ、ほうほうの体でこの谷間に逃げて隠れていました。子供への餌を探さなければなりませんが、それにも増して受けた恩を如何に返そうかを考えた虎は、言いました。
「心優しき人よ。あなたは私たち母子の命の恩人です。子供たちが待つ洞窟には私と主人が食べた人間から奪った財宝があります。恩返しとまでは行きませんが、せめてものお礼の印にしたいと思いますので、どうかお受け取り下さい」
商人は、元気を取り戻した虎を目の前にすると今更ながら恐怖心が沸き起こりました。しかし、ここで逆らうほどの勇気もなく、震える足取りで虎の後を付いていきました。洞窟に入ると、たくさんの宝石が金銀の指輪、腕輪、ネックレスと共に無造作に投げ込まれた木箱がありました。
木箱を背中にくくりつけ、虎の先導で安全な道に出た商人は、二人の商人に一日遅れて無事村に帰り着きました。谷底に落ちた商人が傷一つなく帰ってきたばかりか、背負ってきた木箱の中には眩いばかりの金銀財宝が満ちていた、という噂はたちまち近隣の村にまで広がりました。心悪しき裕福な二人の商人は、そんな噂を耳にすると、打ち合わせて、商人を谷底に突き落とした場所に掛け戻りました。
目の前にはあの時と寸分違わない光景が広がっていました。上体を屈めて下を覗くと靄に霞んで底が見えず、一本の木だけが向こう側に渡る道です。恐怖よりも欲望に燃える二人は、大きく深呼吸をすると、木の橋を渡り始め、中ほどに来ると、目を閉じて身を翻しました。噂通り、二人の体は大きな木の枝に引っかかり不思議なことに体には傷一つありませんでした。ゆっくりと枝から地上に降り立った二人は、暫く動くことが出来ませんでした。どの方向に歩くのか見当がつかなかったのです。
その時、前方の茂みが揺れると二頭の虎が姿を現しました。二人の商人は、噂通りの事の成り行きに恐怖よりもどこか嬉しさすら覚えていました。
「あなた、私に矢を射たのも二人の人間よ」
背中に傷跡を残す雌虎が隣の一回り大きな雄虎に言いました。
「この二人か」
「たぶんそうだと思うわ。だって腰に大きな袋をぶら下げているじゃないですか。私たちを殺して肉と皮を詰める為に用意しているのよ。きっと」
二頭の虎の話を聞きながら、二人の証人は、虎から貰うつもりの宝石類を入れる袋を腰にぶら下げていることを後悔しましたが、もうどうにも間に合いません。ガタガタと震える足、口は言葉を発することも忘れ、ただなすすべもなく金縛りにあったようにその場に立ち竦んでいました。
一瞬虎の咆哮が森に響き渡ると、言葉にならない異様な叫び声が続き、二人の商人の体は無残に噛み裂かれました。その日、虎の洞窟には。金の指輪と腕輪が増え、虎の子供たちも十分に人間の肉を口にすることが出来たのでした。
二人が姿を消した村では、誰も二人の噂をする者はいませんでした。ただ、生還した正直者の商人が虎の庇護を受けて安全な旅を続け、ますます裕福になっていく噂だけが広まりました・・・とさ。
(了)
このお話は、その題材をスチャート・プーミボリラック訳「雲南省内タイ・ルー族の伝承」の中に収蔵されている「貧しい商人と裕福な商人」より拝借しました。
冒頭の写真は「サイ・ウア」と呼ばれ、日本語で「チエンマイ・ソーセージ」とも呼ばれますが、チエンマイを初めとする北部タイ地方の郷土料理の一つです。街中で七輪を使い、網の上に輪のように丸めて焼かれ、売られます。食する時には適当に切って食べますが、ピリッとした辛味が特徴で、美味しいもので、今では家庭で作れるようにセットにしてスーパ−等で売っています。
動画は、チエンマイの代表的な踊りである爪踊り「フォーン・レップ」ですが、これはラームチャーン寺院奉納用に踊られているもので、この踊り手は村人のようです。
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命の重さ
この世に生を受けた一切の命には等しく死が訪れます。
富も名声も権力も如何なる力といえども死に打ち勝つことは出来ません。死が不可避であるならば、死から逃れようとすることは無意味かもしれません。
であるならば、避けられない死に向かって走る人生を如何に過ごすか、即ち如何に生きるかが大切かもしれません。
如何に生きるか=如何に死ぬか
如何に死ぬか=如何に生きるか
かも知れません。
昭和52年9月28日に発生した日本赤軍による日本航空機ハイジャック事件に際し、時の首相福田赳夫は、次のように言ったとされています。
「人の命は地球よりも重い」
当時の風潮とはいえ、日本人の誰もが彼のこの言葉がいかにも正論のように感じ、「人命尊重」という正面切って反対できない、どこか甘い幻想の世界に飛び込み、超法規的処置の名の下で日本赤軍の要求を受け入れ、服役中の犯罪者釈放、巨額の身代金を人質釈放と引き換えにしました。しかし、その同じ年の10月13日には、同じく共産主義革命思想に染まったドイツ赤軍によるルフトハンザ航空ハイジャック事件が起こりました。しかもその一月前の9月5日には誘拐事件を起こしましたが、西ドイツ政府はその要求を拒否していました。こうした中でのハイジャック事件であれば、明らかに、日本赤軍とそれに対する日本政府の対応が参考になったものだと思いますが、結果は、当時の西ドイツ政府が、かつてのミュンヘンオリムピック時の汚名を晴らそうと新設していた特殊部隊GSG-9によって鎮圧されました。その後先の誘拐犯は、人質を射殺しました。
戦後日本社会に蔓延るこうした「安直な人命尊重」の風潮と対極に位置するのが、あの特攻隊かも知れません。
再び生きて帰る望みを絶ち、死出の旅に出、ひたすら敵艦を求めて大空に、深い海の中に向う兵たちに生きて帰る意思は微塵もありませんでした。20歳前後の将来ある若者、明日の日本を背負う筈であった彼らは、すすんで「死」に向かって走って行ったのです。
将来の日本の格となるべき大学生たちが、未来ある若者たちが、まだ年端も行かない少年とも言える若者たちが、目の前の「死」を自覚しながらなお出撃の寸前まで笑顔でいられたのは、何故でしょうか。「地球よりも重い」筈の命を自ら捨て、生還の望みのない死出の旅の直前まで笑っていられたのは何故でしょうか。これから訪れるであろう楽しい生活、希望溢れる結婚生活、子供を作り、孫に囲まれる楽しい人生。そうした普通の生活の為に「生きる」道を選ぶことがなかったのは、何故でしょうか。
しかし。「生」と「死」を区別して考える事は無意味なのかもしれません。
「如何に生きるか」ということと「如何に死ぬか」ということが同じであるならば、「『生』と『死』は表裏一体」なのかもしれません。
彼らは、自らの命を捨てて敵に体当たりする「必死」の外道の作戦を遂行することにより、民族の「血」の中に「永遠の命」の火を点し、たとえ一度は敗れたとしても、必ず再起する時が来る、そう心から信じていたのではないでしょうか。
「地球よりも重い」一個の命を持って、より多くの「地球よりも重い」命を救うことが出来るとすれば、その時「命」は、真に「永遠の力」を持ち、不滅の価値を見出すのではないでしょうか。
こうした考えから特攻隊兵士の行動を見るならば、その微笑の意味が少しは理解できるかもしれません。生還の望みなき死出の旅を拒み、戦わずして生き延びることが出来るたかもしれません。今我々は開戦当時の軍令部総長永野修身の言葉を思い出しても良いのではないでしょうか。
「・・・戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。・・・」(永野修身)
戦う意思をなくし、惰性の中で生きる牙を抜かれた亡国の民が如何なる誇りを持ってその生を全うすることが出来るのでしょうか。
「誇りなど無用。ただ生きることこそ大切」
「人の命は地球よりも重い」ということを建前的に最重要に掲げる人たちは、そう言うかもしれません。
では、誇りを持たない人たちが生きる目的は何なのでしょうか。
誇りとは、犠牲を払ってでも守りたいものではないでしょうか。犠牲を払わなければならないものなら守りたくない、というのであれば、その人には誇りは一切存在しないのでしょうか。その人には守りたい如何なるものも存在しないのでしょうか。罵詈雑言を吐かれようと、誹謗中傷されようと、妻子親族友人知人を殺されようと、父母兄弟を侮辱されようと、恫喝されようと、脅迫されようと、困った人を見ても何の感情も抱くことなく、侮辱されても施しを受け、今日の生を全うする為に如何なる恥辱・汚名をも受け入れ、醜態・媚態を晒して恥じないのでしょうか。ただ生きる為に。生きること以外の何物をも持たないならば、何故に生きる必要があるのでしょうか。畢竟「死にたくない」「死ぬのが怖い」だけなのかもしれません。しかし、どれほど死を恐れ、死から逃れようとしても、生まれ来た以上、死が必ず訪れます。
絶対に譲れない誇り、絶対に譲れない愛しい人、恩ある人、自らが属する集団を守る為に戦うことが誇りある人の道ではないでしょうか。「地球よりも重い」命とは、我が身を絶対安全圏に置き、求められる金品の全てを差し出して守られるものでしょうか。そうではない筈です。「我が命を賭して」でも守ろうとする時にこそ意味ある言葉ではないでしょうか。
その生の終わるその時まで、守り抜こう、戦い抜こうとする決意を持続させる時、「地球よりも重い」命は「永遠の命」となるのかもしれません。「永遠の命」とは、別の人格に受け継がれる「意思」なのかもしれません。
多くの特攻隊員たちが遺書を残しています。父母に、兄弟姉妹に、妻に、まだ見ぬ我が子に。愛しい人たち、愛しい人たちの住む国を守る為、若者は笑顔になれたのではないでしょうか。その瞬間。「地球よりも重い命」は「永遠の命」になったのだと思います。その「永遠の命」は、彼らが守ろうとした人たちの中に生き続けているのです。かくして「永遠の命」は、有史以来連綿と民族の血の中に生き続けてきたのかもしれません。ならば、我々もまたその体に宿る「永遠の命」の火を絶やすことなく、受け継ぎ、次代に受け渡していく義務があるのではないでしょうか。
「永遠の命」を繋ぐものこそ「歴史」であり、「文化」であり、「民族」であり、総体として「国体」であり、目にする具体的な存在としての「皇室」であろうと思います。
ここまで考えた時、顧みて現在の日本の「命の軽さ」を思わずにはいられません。「何の為に」生きるのか、「生きる目的」を失った今、安易に自他の命を奪い、誇りを捨てて恥じず、緊張感のない微温湯の世界に安住し、緊張感の欠如は目的のない日常を生み出し、ただただ感情にのみ押し流されて「生」も「死」も無意味なものにしてしまいました。そこにあるのは、「醜いその場限りの我欲」以外の何者でもないようです。惰眠を貪り、ついには「生きる意識」すら放棄し、目の前の利害に一喜一憂するおぞましき亡者の姿を晒して恥じません。そして、今社会の荒廃が言われ、殺伐とした乾いた空気は親子間の愛情までをも凍らせ、異常なまでの「個」の強調は調和と節度を求める「集団」を破壊しようとする異様な社会を作り出してきました。まさに継続を求める「永遠の命」の危機かもしれません。そして「安直な」人命尊重、民主主義、自由、平等、平和、反戦という甘い言葉こそ「永遠の命」を消し去るものであり、「日本の永遠の命」を恐れ、その消滅を願う人たちの甘い罠なのかもしれません。
「永遠の命」をなくした時、民族はその誇りを失い、生存の意義を失い、存在そのものが許されなくなるのかもしれません。
親が子供に愛情を注ぎ、子供が親に孝心を起こす時、夫婦相和し、兄弟姉妹は助け合い、朋友は相信じ、君に対する忠誠心を目覚めさせ、国に対する誇りを生み、社会は平安になるのではないでしょうか。「永遠の命」を受け継ぎ、受け渡して行く時、社会は民族の歴史を紡ぎ、文化を育て、次代に繋がって行くのではないでしょうか。
省みて、自らの「生きる道」とは、捻じ曲げられた歴史の真実を学び、先人の「永遠の命」に感応し、「永遠の命」を受け継ぎ、伝えていくことかもしれません。捏造の歴史というおぞましき自虐意識に歪められた社会の中で行き場を失い彷徨する「永遠の命」をしっかりと受け止め、自らの中で歪められた歴史を正す時、「生きることだけを目的とする命」が「永遠の歴史」の中に伝わる「永遠の命」の一つに変わるのかもしれません。その時、命は輝き、国民の命が輝く時、国の誇りは燦然と輝き、民族の誇り、日本人としての誇りが蘇り、その時真に「地球よりも重い命」を持つのでしょう。
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辛うじて生還???
数日前久しぶりにブログを開け、休眠中にも拘らずご訪問頂いた方々、メッセージを送って頂いたたくさんの方々の存在を知り、胸が詰まりました。一人一人にお礼のメッセージを送るべきところだとは思いますが、失礼を承知でここに御礼申し上げます。
真に有難うございました。
何とか頭痛も収まり、極度の食欲不振は改善したとはいえ、まだ心身ともに極限状態にあることは変わりありません。体重はやや持ち直しとはいえ、5KGあまり減まで回復しました。
ブログを離れてからの日々、生きる力さえ萎えた日々が続きました。そして、今も尚、鬱々とした闇に包まれた気分に心を蝕れながらも、辛うじて心の揺れを押さえています。部屋に安置する皇室御写真集カレンダー、携帯に付けた靖国の鈴と菊に桜のマーク、財布に入れたお守り代わりの奉賛会会員カード、日本人であることが自らを支えているのかもしれません。
連日の激しい頭痛は頭を切り裂くようでした。時に頭部上半分が痺れた様になり、感覚的に浮き上がり、ふらふらと剥離するかのような感さえありました。それに加えて日々減少していく食欲は、お茶碗一杯のご飯が半分になり、四分の一になり、ついにはご飯を受け付けなくなりました。代わって口にしたのは麺類ですが、これも麺なら何でも良かったのではなく、刺激のあるものだけでした。そして、バナナとパパイア。痩せ衰える身体、ふらつく足元。
『このままでは死ぬ・・・・』
そんな思いが頭を過ぎりました。
『死んでも良いか・・・』
そう思ったのもまた事実です。
一人生家を捨てて異郷に飛び出し、20数年前の母に次いで、父も亡くした今、心に出来た空白が自分を追い詰めていたのかもしれません。
それでも何故か『まだ死ねない』そんな思いから病院に向かいました。
『歩いている後姿を見ましたが、あなたの病気はパーキンソン病ですね。まず間違いないでしょう。』
『????』
一般内科診察室。問診もなく、診察室の椅子に腰を下ろした瞬間、診察結果を言い渡され、頭の中は真っ白になりました。
『手を前に出して拳を握って・・・』
『ほら、少し震えだしたでしょう・・・』
滔々とパーキンソン病についての基礎知識をひけらかす医者の話を聞きながら、
『あんたは馬鹿だね・・・』
そう思わずにはいられませんでした。
思えば、その朝病院に着いて、2階の初診者用一般内科診察室に向かう階段を手摺に捕まりながら力なく上がっていた自分の姿をこの医者は後ろから見ていたのでしょう。食欲不振からくる急激な減量により体力は衰え、歩行もままならない状況をパーキンソン病の症状に重ねてしまったのでしょう。タイの医学教育の実態からすればこんな医者がいても不思議ではありません。
回された別の内科医の診断では、血液検査に異常なし、胃カメラを飲まされましたが、『ポリープがひとつある他は至ってきれい』それもそのはず、食べていないのですから胃はきれいでしょう。摘出された胃のポリープも別段の異常はなし。
結論・・・異常なし????
まあ、心から来た症状であれば、診断も付き難いのでしょう。
この医師において頭痛を告げ、薬を処方されましたが、薬の所為か、その後の自主的絶対安静の休息の日々の所為か、頭痛は徐々に軽減していきました。そして、菓子パンとチョコレートが口に入るものに加わり、
『兎に角食べなければ・・・』
そんな思いで日々過ごしました。
体重減少は1年余り前から続いていました。そして、現在では低め安定・・・食欲減少安定・・・睡眠時間減少安定・・・何故か異様な姿が目に見えますが、それなりに安定しているようです。
今ではご飯も少し口に入るまでになりました。食後のマンゴーが栄養ともなるのでしょうか。
ここ数年、異郷の地に身を置きながら何故か葬儀への参列の機会が増えてきているようです。故人の血縁者が小まめに動き回る葬儀に参列しながら、この地に血縁者のいない身としては、自らの葬儀の姿を想像すると寂しい限りです。しかし、それも覚悟の上で来たのですから今更泣き言はいえません。日本人旅行者がすぐ近くに来ながら知られることなく無言で眠る戦没者は更に哀れです。市内著名観光寺院に眠る日本人の遺骨もまた、すぐ横を歩く同胞に知られることなく哀れです。
寺院の片隅に眠る戦没者、日本人同胞の霊に手を合わせながら、ただ、安らかにお眠り下さい、と祈るだけです。
mana拝
この度、拠所なき事情により一時帰国をすることになり、またまたブログを休みますが、帰国日当日の半日、靖国で心を清め、心に平安を求めたいと思います。
ブログの再開は、十分に心が回復してからになろうかと思います。
そして、かなり不定期な更新になろうかと思いますが、お許し下さい。
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休眠のお知らせ
ここ幾日か、頭を引き裂く激痛に襲われています。具体的に何の障害もないので疲れかとも思います。
これまでも断続的に激痛に襲われることはありましたが、その都度一時的な休息で回復しておりました。しかし、最近の激痛は連続しており激しさも増してきていますので、今後しばらくの間激痛を鎮めるために身体を休眠状態に置きたいと思います。
皆様方より頂いたコメントにご返事もできませんし、いつまで休眠状態が続くのかわかりませんが、全快の暁には、再びPCを開けることになると思いますので、その時には宜しくお願い致します。
MANA拝
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