チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

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市民連合指導者五人
タイ政変(2010)の総括−1−
繰り返されるクーデター
 
タイ王国では、西暦1932年6月24日にいわゆる人民団が革命を起こします。これによってタイ王国は、長年親しんだ王政に終止符を打ちました。時のラーマ7世は自ら政治混乱を収拾する為にご退位をご決断され、国を離れました。タイ王室始まって以来始めて国王が異国で亡くなられたのです。
その後、人民団の統治が始まりますが、やはりうまくいかず、幼い王子をスイスより招請して王位に就けますが、これがラーマ八世で、戦後間もなく現国王のラーマ九世に御世が変わります。
そして、その後議会制民主主義ということで内閣制度の下で政治が行われ、政治の腐敗が国民の間で怨嗟となると軍がクーデターを起こして政治を止め、憲法を破棄して臨時憲法を発布し、同時に次々と布告を発して統治します。そしてやがて恒久憲法が制定されると新たな内閣が選ばれてクーデターの終焉となります。
そして、しばらくすると再び政治に腐敗が起こり、軍がクーデターで腐敗した政治家を粛清して憲法を破棄して臨時憲法を発布、布告の連発、そして恒久憲法制定による新内閣の発足。
こうしたことの繰り返しが十何回起こったことでしょうか。
スチューデント・パワーといわれて、日本でも60年安保に続く70年安保の騒動の記憶がまだ消えない1973年10月14日、タイで一大騒動が発生しました。このタイの騒動は、学生主体の運動であり、一般市民はさして重要な役割を果たさず、結果的に軍の力に追われるように森に入った学生たちは、そこで共産主義生活を始め「同士」たちの強い絆が結ばれます。
その前1965年にマレー共産党と強い結びつきを持ち一人のタイ族も含まない華人のみによるタイ共産党が武装蜂起を決議して軍と衝突しています。彼らもまた軍との衝突の結果、追われるようにして森に逃げ込んだのです。東北部タイの森で彼らタイ共産党と学生運動家が接触します。とすれば学生運動家の中に共産党員もしくは支持者、もしくは賛同者がいなかったといえるのでしょうか。
そして、彼らは共産党も含めてタイ政府の懐柔策を受け入れて武装闘争を放棄し、いわゆる議会闘争に移ることを明言します。そして、森に逃げてなお妥協を許さず社会主義革命を目指して北京に逃げていった共産党員の中に、先の2006年のクーデター後に首相に就任した枢密院議員スラユット陸軍大将の父がいました。
繰り返されるクーデター、共産党との戦い、学生の反発の中で、軍と国民の信頼厚い現枢密院議長である元老プレーム陸軍大将が、政界を引退して首相に再任しない旨を宣言し、民選議員のみによる議会運営と民選議員による内閣首班指名、国王の認証をえて組閣、という現在の体制が出来ました。
こうした完全民選議員議会制度により最初に首相となったのが、インドシナを戦場から市場にというスローガンの下で政界に登場したチャーチャイ陸軍大将でした。時に1988年8月4日のことでした。
しかし、就任直後から陸軍部内で燻り出した反チャーチャイの動きは、ついにクーデターとなって現れ、1991年2月23日にバンコクの空港において国軍最高司令官スントーン陸軍大将を首班としながら、陸軍司令官であるスチンダー陸軍大将を実質的な指導者とするクーデター部隊に身柄を押さえられクーデターが成功しました。
この後、首相に就任するつもりはないと言明していたスチンダー陸軍大将の二枚舌が前バンコク市長であるチャムロン陸軍少将たちの市民感情を刺激して、翌年の血の5月事件となるのですが、この反スチンダー運動は、これまでの反軍政運動とは異なっていました。1992年の血の5月事件の中心は、すでに政治意識の薄い学生ではなく、かつての学生たちである社会人、経済的自立を果たした中間層であり、彼らは流行の携帯電話で連絡を取りあい、FAX通信が全国の会社、事務所に送られました。バンコクの情報は軍の統制下にもかかわらず瞬時に流れていきました。
この血の5月事件の後、軍のタイ社会、政界に対する無言の監視が大きく変わりました。クーデター後の暫定内閣の下で恒例に恒久憲法制定が急がれましたが、この時民間主導の憲法制定をうたい、憲法制定委員会を設置すると、委員は各出身県で幾度も集会を開いて住民に憲法に載せる内容を求める話し合いを持ちました。
こうして全国民の総意の下で作られたとされるものが40年憲法と呼ばれる1997年の憲法です。ここでは無償の義務教育12年がうたわれ、環境保護がうたわれましたが、一般のタイ人はそれに与っていないのです。なぜなら彼らに政治を語るほどの知識はなかったからで、実際あたしが住む村では憲法の話など一度として出たことがありません。無償義務教育12年も街中の人たちの話で、田舎では働き手の子供を学校にとられると生活に響きます。
ともかく、こうして鳴り物入りで国民が作った憲法が一人歩きします。そして、無闇な議会解散と、内閣不信任などの政治混乱を避けるために、内閣不信任案提出の条件、首相不信任案の提出条件に足枷が嵌められます。そして、選挙区制度が変わり、定数が増え、小政党に不利になっていきます。
こうした中で、新憲法制定の翌年、タクシンがこれまでチャムロン陸軍少将創設の既存政党の党首の地位から自らの政党を立ち上げ、多数の政党を吸収合併して見る見るうちに巨大政党に膨れていきます。この抱え込んだ政治家たちの多くは、その基盤を東北部に持っていますが、ここにはタイ最大の議員数が割り当てられているのです。こうした従来の政治家を取り込むことは政治家についている票をそのまま取り込むことになります。
東北部の人々と政治家との根深い結びつきは、いわゆる「扶助(UPATHAMPH)」という東北部の人々がもっとも大切にする感情を利用したものです。政治家は、地元民の相談に親身になりますが、選挙では無条件でその候補者に投票します。もちろん投票に際しては1票幾らということが当然の礼儀ともなります。これは、選挙日が近づくと値段がエレベーターのように上昇します。20バーツほどから始まったものは終には500バーツにまで上ることもあるようです。これこそが「扶助」です。農民は選挙によって何がしかの収入を得るのです。もちろん冠婚葬祭には議員からお見舞金、ご祝儀が出ることでしょう。こうした風習に何十年も染まると、支払いは後払いでも何の支障もありませんから、買収という容疑の選挙違反で引っかかることはありません。
タクシンの新政党は、人気取り政策を実施し、こうした『扶助』を利用した票の買収工作を通じて選挙で圧勝して組閣しますが、組閣直後に起こったのが、公表資産に虚偽の疑いがあるという不正防止委員会の告発です。憲法裁判所の15人の裁判官を巡って流される黒い噂の中、8対7でタクシン首相告発は却下されます。その裁判の最後においてタクシンは自ら弁護士に代わって法廷にに立ち次のように述べています「・・・自分はあなた方と同じように、国王陛下の前で正直に任務を務め不正を行わないと誓ったのであるから、自分が不正を行うことはあり得ない・・・」と。それは、彼の「自分は金持ちだから不正をしたり賄賂をとる必要がない」という言葉に符合します。
とにかく、絶対多数の元で、国会無視の政治が続きました。農民の借金返済を3年間免除する施策、30バーツであらゆる病気の治療が受けられるという政策は多くの貧しい国民の支持を集めた有力公約でしたが、実際にやってみると、受診できる病院は事前登録制で、居住地の医療機関であり、例外の病気がいろいろ出てきました。それでも貧しい人々にとっては救いでしょう。しかし、病院は患者数に応じて受ける予算が少なく赤字になり、脱落して行く機関が続出します。特に私立が抜けていきました。
かくしてタクシンが華やかに政治の世界に出て首相となるのですが、政権をとると、公務員の機嫌もとります。バブル崩壊後の沈滞した経済状況下、民間企業が倒産が相次ぎ、失業者が増える中で公務員だけは毎年二桁の昇給があり、これまでなかったボーナスまで作られました。
これまで非合法に行われていた公営宝籤の下二桁、三桁を当てる賭博に流れる金を求めて、政府が自らその賭博の胴元となります。一枚20バーツで最高2000万バーツが手に入るのです。利子で生涯食べていけるとなれば国民の中には夢に溺れる者も出てきますが、それ以上にタクシン政府は、それで得た収益をどのように使ったのか、大きな疑惑となって残りました。
また、麻薬撲滅運動として、内通を奨励し、逮捕した警察への報奨金まで用意しますが、この撲滅戦を宣言したわずか数ヶ月の間に2000人を越える人が命を落としましたが、その過半は無実でした。中には宝籤に当選し、それを誰にも言わずに車を買った住人が密告によって麻薬容疑をかけられて殺されました。
また、南部では、官民合同の委員会が南部の人々のさまざまな不満を吸収し、不安な動きを抑えていましたが、政敵民主党の南部を自らの力で押さえつけようとしたのか、その委員会を解散させます。すると案の定連日のように警察官が襲われ、町には爆弾が破裂し、校舎は焼かれる今の南部タイの惨状を引き起こしたのです。
それでも彼は国民に南部タイは平安だという印象を植え付けようと南部に視察に行って宿泊し、バスタオル一枚で入浴に向かう姿を写真に取らせて治安維持が出来ていることを宣伝しましたが、その彼一人を守るために王室警護の誰よりも多くの1000人余の兵が動員されています。
そんな不安定な南部に対して、神聖なモスクに銃撃を加えて多数の信徒を殺し、逮捕した住民をトラックに荷物のように載せて圧死させ、また、家族の目の前で連れ去られた住民は100人を超えます。イスラム教徒の絶対的信用を得ていた弁護士ソムチャーイが行方不明になったのもそうした事件の流れの中でのことで、犯人は警察官ではないかとされています。
また、言論界をも抑えようとしました。特に社会の木鐸であろうとする立場を堅持するネーション・グループは反タクシン的論調から睨まれ、公的情報機関は同社幹部の資産を不正に調査、公表することまでして口を封じました。
一方、これまで数十年遅々として進まなかった新国際空港を強行突破したのも彼の政権ですが、そこは汚職の塊といわれ、工事、機材の全てが汚職で汚れ、手抜きであったとされています。この建設に関わった日本企業が一番よく知るでしょう。
しかし、彼の絶頂も思わぬところで綻びます。すなわち、これまで盟友と信じていたソンティの反抗です。「マネージャー」という新聞のオーナーであるソンティがテレビでタクシンを批判し始めます。それは単なる仲間内での喧嘩に過ぎないようでしたが、彼の番組が閉鎖されるに及んで様相が一変しました。
これまで遠くで彼らの喧嘩を見ていた反タクシンの人々が、スリヤサイという人物の手によって結び付けられ、ソンティとタクシンの個人的な敵対関係が解消された代わりに、より広範な社会運動として再出発しました。そして、ここに市民連合が出来ました。石油公団、電話公社に続く一方的な民営化に反対の電気公団など公益事業組合も加わります。当初チャムロン陸軍少将は参加していませんでしたが、彼の希望(アルコール飲料関係企業の株式上場に反対)にタクシンが乗り気でなかった(タクシンの仲間の一人であったからですが)が故に、反タクシンのこの市民連合に合流しました。こうして彼らは、ソンティが主催する新聞と彼が始めたケーブルテレビASTVを通じてタクシンの汚職摘発を始めます。
(続)
冒頭の写真は、市民連合の中心人物五人。左より、ソンティ(報道機関)、ソムサック(官公労労組)、ソムキアット(教育者、民主党議員)、チャムロン陸軍少将(元バンコク都知事)、ピポップ(社会運動家)です。

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