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落穂拾いー(17)
世の中の動きとは全く別に時間は常に動き、その歩みを止めません。淡々と一切の感情を無視して動き続ける時間の中で、人間は社会を作り、日々の営みを続けています。平々凡々たる社会の中で、時として凡夫ならざる才に恵まれた人物が出現しますが、その時代が変化を求める時であれば、非凡の才の持ち主が社会を動かすことがあります。そうした凡人とは異なる資質の人物が与えられた使命に気付いた時、時代が大きく変わるのかもしれません。人々は彼らを英雄と呼ぶのでしょう。
また、そうした偉大な英雄は、ある日突然に世に出るものではなく、英雄をこの世に呼び起こす為の呼び水とでも呼べるような役割を果たす小英雄とも言える人物が出現することがあります。そうした小英雄は真の英雄を導く先覚者かもしれません。時に名前さえ歴史に残らない先覚者ですが、彼らの存在なくして社会の変化はなかったでしょう。
南部タイのいつまで続くか知れない騒動も、ラーンナ−の人たちの心の奥底にあり、血の中、肉の中に溶け込んでいる傷付けられた自尊心、併呑されたとはいえ一大王国ラーンナーの末裔であるという自負心は、そうした無名の人たちの魂の叫びかもしれません。
反骨の戦士
チエンマイは、西暦1296年にマンラーイ王によって建設された都ですが、そのマンラーイ王朝は、西暦1558年、隣国ビルマのタウングー王朝のブレーンノーン王によってわずか262年で終焉を迎えます。このブレーンノーン王は、タイでの呼び名で、ビルマではバインナウンと呼ばれ、従兄弟であり、先代王でもあるタビンシュエーティーさえなし得なかったアユッタヤー攻略を成功させたビルマにとっての英雄です。
そして、そんなビルマの英雄の占領下に置かれたラーンナーにもたくさんの小英雄が出て社会に刺激を与え続けて来ました。その一人がかつてこの項で述べたテーパシンであり、ティッパチャーンです。そのティッパチャーンの血筋から後にチエンマイ王朝を開いたチャウ・カーウィラが出ますが、そのティッパチャーンには、4男2女がいて、次男のチャーイケーウとナーン・チャンターラーチャテーウィーとの間に生まれた長男チャウ・カーウィラがチエンマイ王朝の租となります。そして、そのチャウ・カーウィラを世に出すきっかけとなった人物が、彼の母ナーン・チャンターラーチャテーウィーの弟でした。その名前はブンマーでしたが、プラヤー・チャーバーンの方が通りがいいようです。
このプラヤー・チャーバーンですが、世の常でしょうか、歴史上の大成功者とならなかったが故でしょうか、その生年が不明です。これはあのテーパシンも同じことです。手元にある幾冊かのチエンマイの歴史書を見ても、文部省の副読本を見ても、突然のようにプラヤーという位階を持った人物として歴史に登場します。
当時のチエンマイはビルマの支配下に入っていましたので、軍人としても官僚としても世に出る為には、否応なくビルマの体制内に入らなければなりませんでした。しかも、ポー・フアカーウと渾名されたビルマ人新任統治者は、その性残忍の故にかプラヤー・チャーバーンとの間で諍いを起こします。
時代の終焉を告げるのか、西暦1771年の4月のある日の昼頃、真夏の燃える様な炎熱に晒される大地が揺れたといいます。地震の発生です。その年の11月、チエンマイ市内はローイ・クラトンのお祭りで灯篭を流し終え、人々はいつもの生活に戻った頃、プラヤー・チャーバーンは兵300名を率いて市中でポー・フアカーウに反旗を翻しました。しかし、この時はまだ私怨によるものでチエンマイからビルマ軍を駆逐することまでは考えていなかったでしょう。
この争いは不思議なことに両者共に逃走する様相を呈し、ポー・フアカーウは、宮殿に逃げ込み、プラヤー・チャーバーンは、仲間共々当時ラーンチャーンにいたビルマのポー・スパラーを頼っていきました。各種伝承では、この時プラヤー・チャーバーンは、ムアン・ラムパーンに立ち寄り、後のチャウ・カーウィラとなる、ナーイ・カーウィラに謀反の相談をしたとされます。その時、カーウィラは、兎に角タイ軍の協力が不可欠であると告げたようです。カーウィラとしては、父のチャーイ・ケーウがビルマ軍の手元にある以上迂闊な動きは出来なかったのでしょう。そこで、プラヤー・チャーバーンは、強力なビルマ軍司令官の追撃から逃れるには、更に強力な司令官の庇護下に入ることが最善と思ったのでしょう。
当時、ポー・スパラーははるか南のアユッタヤー攻撃から引き返し、ラーンチャーンに帰っていましたが、そのポー・スパラーを追いかけるようにしてプラチャウ・タークシン軍が北上してきました。この軍の司令官として働いたのが、現在のチャックリー王朝の租となる、プラヤー・チャックリーと、その弟プラヤー・スラシーでした。
タイ軍の北上を聞いたポー・スパラーは、プラヤー・チャーバーンを伴ってチエンマイにやってくると、ポー・フアカーウともどもタイ軍迎撃の準備を始めました。
この時、プラヤー・チャーバーンの対ビルマ戦が本格化しました。
北上するタイ軍迎撃に向かうビルマ軍は、チエンマイのターペー門のブッパー寺院に陣を構えて迎撃軍を編成したとされますが、ブッパー寺院は大軍を収容できるほど大きな寺院ではありませんので、たぶんその周辺、ターペー門の内側ということでしょう(従ってここで言うターペー門は、現在のそれではなく、ビルマ様式の仏塔を持つセーンファーン寺院前の十字路にあったものでしょう。今もそこにはチエンマイの外堀をなしたとされるカー河が流れており、土を搗き固めて作った城壁の残滓が見られます)。その時プラヤー・チャーバーンは、ビルマ軍司令官に対して言うには、タイ軍迎撃に川を下るには途中に幾つもの難所があります。自分が先遣隊となって障害物を取り除きましょう。実際チエンマイからの河下りは、幾つもの瀬が行く手を遮っています。
その時、ビルマ軍はプラヤー・チャーバーンの妻子を人質にとることで、進言を受け入れました。タイ・ヤイ族の兵70人とタイ族の兵50人がプラヤー・チャーバーンに預けられました。タイ・ヤイ族というのもまたタイ族の一派ではありますが、現在のビルマ東北部一帯に住むビルマ最大規模の少数民族ですが、彼らは殆どの場合においてチエンマイの敵対勢力として歴史に登場します。プラヤー・チャーバーンは、120人の兵を率いて南に下って行きました。途中腹心の者に命じて、ビルマに人質として囚われ、今にも彼らの都ムアン・アングァに送られようとしている妻子を救出させて後顧の憂いを断つと、ムアン・ホートに到着した時、深夜に70人のタイ・ヤイの兵を急襲して壊滅的打撃を与える、夜を日に継いで更に南に走り、プラチャウ・タークシン軍に向かいます。
ビルマ軍に激しい敵意を抱くプラヤー・タークシン軍では、プラヤー・チャーバーンの救援依頼を北上の好機と捉え、北上軍司令官にプラヤー・チャックリーとその弟プラヤー・スラシーを命じました。プラヤー・チャーバーンは、先遣隊として先に兵を率いて北上すると、チエンマイの南にあるピン河のワンタンの波止場に軍を構えました。しかし、迎撃に出たポー・フアカーウに抗することが出来ず南に敗走していきました。
その頃、プラヤー・チャックリーとプラヤー・スラシー兄弟がムアン・ラムパーンにやってきてプラヤー・チャーバーンの失態を知りました。当時の習慣でしょうか、敗軍の将は名誉回復の為に先陣を切って戦うことを願い出ましたが、今度は彼の後ろに強力なタイ軍がいます。大砲をはじめ、当時の重火器の威力に恐れをなしたのか、ポー・フアカーウのビルマ軍は総崩れとなり、チエンマイの正門ウィアンモンより北に向かって逃走しました。
ここに、プラヤー・チャーバーンは、念願のビルマ駆逐を果たしたのです。
時に、西暦1774年のことで、其の年、プラヤー・チャーバーンは、プラチャウ・タークシンより正式にチエンマイの王に任じられ、甥のノーイコーンケーウが副王に任じられました。これでプラヤー・チャーバーンはチエンマイの王として幸せな人生を過ごしたのでしょうか。残念ながら、ポー・フアカーウは、敗走を受け入れることが出来ず、80,000の兵を擁してチエンマイ奪還を目指して攻め上ってきました。この時、チエンマイを守るプラヤー・チャーバーンの兵力は、わずか1,900名に過ぎませんでした。しかも、水と食料を欠きながらの壮絶なチエンマイ城攻防戦が始まりました。1、900名の兵は80,000の敵兵を相手に奮戦し、30,000の兵力を擁するタイ軍が救援に駆けつけるまでの8ヶ月を持ち堪えました。この間、象、馬、牛、水牛、鶏、アヒル、犬、豚は元より、食用にはならない筈のサトイモ科の食物の根、バナナの根、トカゲ、バッタ、コオロギに至るまで食べつくし、城壁を攀じ登って城内に転落したビルマ兵を捕らえると、その肉まで食した、と伝承本は伝えています。
ビルマ軍が配送すると、城内の人々は食料のないチエンマイを捨てて散って行き、プラヤー・チャーバーンと甥は一時的にムアン・ランパーンに居を構えました。その後もビルマとの戦いは断続的に続き、一時ラムパーンも落とされると、更に南に下って体勢を立て直しました。そして、南のムアン・サワンカローク(日本では宋胡録焼きと呼ばれる陶器で有名な町)にしばし留まりましたが、やがて北上し、甥の副王を先陣とし、食料等を調達の上、ラムパーン南方のワンプラーウの町で待つよう指示しました。この時、プラヤー・チャーバーンは、命を落とす事件を引き起こします。
甥の副王、ノーイコーンケーウは、後より来たプラヤー・チャーバーンに対して集積していた食料の分配を拒みました。伝承は、その理由を述べていませんが、ただ副王は種々考えるところがあったとだけ記しています。彼は、この国家存亡の時に何を考えていたのでしょうか。残念ながら、資料からは、それらしいことを読み取ることが出来ません。自らの命に背くノーイコーンケーウに怒りを抑え切れないプラヤー・チャーバーンは、甥とはいえ、副王を殺してしまいました。
西暦1775年に戦火を共に潜って来た甥を怒りに任せて処刑したプラヤー・チャーバーンでしたが、その後もビルマとの戦いは続き、遥か北チエンセーンにまで戦いの場を求めることもありました。ラーンナーの地からビルマ勢を一掃しようとしたのでしょうか。
しかし、西暦1779年になると、突然のようにプラチャウ・タークシンは、甥殺害の罪を問い、プラヤー・チャーバーンをバンコクに呼び寄せると、鞭打ち100叩きの刑の後で牢に繋ぎました。プラヤー・チャーバーンは、ビルマをチエンマイから追い払う為に社会に渦を巻き起こし、成功したかに見えた瞬間、思わぬ罪を着て牢に繋がれ、そのまま異郷の地の牢の中で病を得てこの世を去りました。
そして、プラヤー・チャーバーンが種をまいたチエンマイ開放の実を拾い結実させ、大きく花開かせたのが姉の子供、チャウ・カーウィラでした。
(了)
中等教育副読本「北野町の物語りー偉大なる人物編」に収録されている「パヤー・チャーバーン(ブンマー)勇猛なる戦士」、「ラーンナータイ伝承集」に収録されている「王朝物語伝」、「十五代王朝伝」、「ヨーノック王朝年代記」「プーンムアン・チエンマイ伝」より題材を借用しました。
この動画はタイヤイ族の踊りで、NGIAW(เงี้ยว)とは、タイ・ヤイを指します。これは元来タイ・ヤイ族の踊りですが、チャウ・ダーラーラッサミーというチエンマイ王朝の王女がアレンジしたものです。
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