チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

シーウィチャイ伝

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安らかな眠り

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クルーバー・シーウィチャイ伝(21)

この師弟は、何かに憑かれたようにラーンナー各地の施設建設、修復に生涯を捧げて止むことがありませんでした。その生涯は、多数の信者に守られ、賞賛の声を浴びながらも、一方では羨望の眼差しもまた鋭く突き刺さっていました。
そんな中で、クルーバー・シーウィチャイは病に倒れ、付随状態になりました。それは、羨望の毒牙にかかったのか,長年の労苦の蓄積によるものか、永らく痔病を患っていたという話もありますが、侭ならない身体を粗末な床に伏せたまま、クルーバー・シーウィチャイは、終に帰らぬ人となりました。
時に仏暦2481年(西暦1938年)のことでした。
ラーンナーの歴史に名を残す偉大な僧の入滅でした。
偉大な師の死を悲しみの気持ちで迎えながら、クルーバー・カーウピーはそれでも尚しっかりと心を保ち、弟子として、師匠に出来るだけの孝を尽くし、数年後の荼毘に備えて一棟の荼毘の為の塔、一棟の葬儀の塔、そして、棺を拵えました。
通常、タイでは日本のように数日の葬儀ではなく、一般人でも1週間ほどの葬儀は決して珍しいことではありません。まして名僧、高僧であれば、入滅から荼毘まで年に及ぶことも稀ではありません。
このブログでもその由来を記したことがあるチエンマイの城壁に囲まれた旧市街の真ん中に位置して名刹チェディールアン寺院がありますが、その寺院の住職、貧しい人たちに惜しみない援助の手を差し伸べた社会開発家としても名高いプラプッタポッチャナワラーポーン(PHRA PHUTHTHA PHOCANA WARAAPHOORN)師は、一般的には、ルアンプー・チャン(LUANG PUU CANTHR)と呼ばれていますが、師は、昨年西暦2008年7月11日入滅したまま、遺体はまだ荼毘に付されることなく保存されています。現在の予定では年明けに王室より荼毘の火が下賜されて荼毘に付されることになっています。実に入滅後1年半後に荼毘となる予定です。
クルーバー・シーウィチャイの場合には、仏暦2481年の入滅後、仏暦2489年(西暦1946年)に荼毘に付されるまで8年に亘って、信者たちの参詣を受けていました。
各地に建設の足跡を残すクルーバー・カーウピーですが、師のクルーバー・シーウィチャイが入滅すると、その後継者として名声は益々高まり、信者よりの招請を受けると、場所を選ぶこともなく出かけては建設に着手していました。クルーバー・シーウィチャイ亡き後、各地の寺院修復、復興は一人クルーバー・カーウピーに託されたかの感があり、一日として休まることがありませんでした。
この頃には、黄衣と白衣を繰り返す日々を終え、終生白衣で通すことを決意していました。白衣のクルーバー・カーウピーです。そして、白衣の修行者として各地で様々な施設建設に没頭してきました。そして、師と別れて一人となった今もまた師のもとにはクルーバー・シーウィチャイの分をも含めてのように各地から普請援助の依頼が耐えることがなかったといいます。
心の支えを失いながらも建設にいそしむ師にも老いの定めが迫ってきました。しかし、生来の虚弱体質と広汎な活動が師の老いに拍車をかけたのでしょうか。
この頃の事です。リー郡の住民がノーイフォン・トゥンウォンを中心として師を招請しました。住民たちは、心の拠り所、信仰の場としてドーイ・パーナーム(DOOY PHAANAAM)の麓に寺院の建立を求めてきたのです。
彼らは自分たちの寺院を持っていなかったようです。というのも、本来の彼らの居住地はチエンマイ県のホート郡でしたが、水害に終われるようにして、このドーイ・パーナーンに避難して住み着いたもののようです。
この頃、クルーバー・カーウピーは最後の建設として、自らの修行道場の建設地に思いを寄せていた時期に相当します。そうした思惑があったところに、パーナーム村の人たちの申し出でが重なり、クルーバー・カーウピーは、自らの安住の地をここに見出したのです。
こうして出来上がったのが、冒頭に掲げた寺院です。
クルーバー・カーウピーと従者の修業道場であり、パーナーム村の人たちの心の拠り所として建立なったプラプッタバートパーナーム寺院(PHRA PHUTHTHA BAATH PHAANAAM)が完成しました。
とはいえ、師がこの寺院建立に全てを捧げて各地からの招請を断っていたわけではなく、建立を続けながらも、招請があれば、そちらに向かい、完成すれば帰ってきて建立を継続する。そうした日々だったようです。
そうして仏暦2514年(西暦1971年)に至りました。
ラムパーン県にあるサントゥンハーム寺院(WAD SANTHUNGHAAM)より建立主催者となって欲しいという招請が舞い込んで来ました。既に老齢に達していたクルーバー・カーウピーですが、小生を断ることをしなかったのは、師のクルーバー・シーウィチャイと同じです。必要とする人がいる限り決して愚痴を零すことなくどこまでも出かけて援助するのが師の生涯であったようです。
更には、その6年後遥か南のスコータイのタードンドンチャイ寺院(WAD THAA DONTHONGCHAY)よりも、同じく御堂建立主催者になって欲しいとの招請がありました。
こうした場合に、主催者として名前を連ねることで、信者からの寄進が得やすいということがあり、各地の寺院では師の名声を大いに利用したと言えるかも知れません。
この時が、仏暦2520年3月2日であるといいます。
そして、その翌日3月3日、クルーバー・カーウピーは眠るように静かにこの世を去りました。
ここでもこうした一人の僧の伝承を追いながらもタイの歴史の不確かさが出てきて、わずか数十年前のことにも拘らず、師の没年が、サンキート師の著では仏暦2514年3月3日となっていて、6年の差があります。また、一説では、享年83歳という説もあり、とすると、生年は仏暦2437年(西暦1894年)となり、ここでも6年の差がでます。ですが、このブログでは、生年を仏暦2443年(西暦1900年)4月17日、没年仏暦2520年(西暦1977年)3月3日として置きます。
入滅の知らせが四方に駆け巡ると、それを信じられずに虚報であると叫ぶ僧まで出るほどの衝撃を与えました。
師の葬儀はどうなったのでしょうか。現在プラバートバーナーム寺院の写真に見る限り、師の遺体は今も同寺に保存され、金箔を張られてミイラ化されているようです。
そうした数々の写真、白衣を着替えている写真もありますが、掲載は控えさせて頂きます。


(了)

冒頭の写真は、上から順に下記URLよりお借りしています。
http://www.leeradio.com/show.aspx?ctl=ctlArticle&type=read&articleid=A200912001&articletype=2
http://haripoonchai.com/hpcboard/index.php?topic=56.0

長丁場お付き合い頂きまして、ありがとうございます。
辛うじてクルーバー・シーウィチャイとクルーバー・カーウピー師弟の生涯を大まかながら追っていくことが出来ました。
たくさんのコメント有難うございました。
この項の最後を飾るものとして、大好きなチエンマイの歌をお送りします。拙い訳ですが、つけてみました。
年明けには、又別の話をご紹介したいと思います。

                         チエンマイの乙女
                 http://www.youtube.com/watch?v=ysZjogL2rZs
                 私はチエンマイの乙女   もうすぐ大人になるのよ
                 ある日ラムプーンの男の人が来て   私を口説いたの
                 誰を選ぼうかしら   後から来たチエンラーイの人
                 ケーウという名前よ   プレーのチエンスンのコーンさん
                 カムさんにムーンさん   ソムさんにミーさん
                ※誰もが言ったの   結婚の申し込みに来るって
                 私は待ったわ1年も   両親も祖父母もよ
                 あん畜生は姿を消した   もう信じたりしないわ
                 メオ族の男と結婚して   山奥で暮らすの
                 布を売り、ダイヤを売り、宝石を売り
                 指輪を、ネックレスを売りして山で暮らすわ
                ※繰り返し

三度白衣に身を包む

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クルーバー・シーウィチャイ伝(20)

人はどこまで逆境に耐え得るか。どこまで迫害に耐え得るか、そんな実験をされているかのようなクルーバーたちの人生です。これがキリスト教であれば、「聖者」の仲間入りして世界の信徒に崇められているかもしれませんが、仏教ではそうした事を望むことも考えることもいけないことのようです。
只知る人のみ知る。宗教を超えて偉大な人は淡々と苦難に立ち向かい、乗り越え、人々の賞賛を受けながら尚奢ることがないのでしょうか。
善意でお寺の本堂建立に全力を尽くし、不足する資財を信徒たちと相談の上で村人たちから寄進を募った。これすら法律を盾に罰せられ、僧の印である黄衣を脱がねばならなかったのです。しかし、黄衣を剥がされる事は初めてではありませんでした。この時には、師は黄衣は僧という身分を表すものであっても本質ではないと思ったのかもしれません。
平然として、本堂を建立し終え、多数の信者と共に故郷を迎えたのは暴徒集団と看做す警察の手入れでした。そこで事実無根であることが証明されると、サンカムペーンにいる師のクルーバー・シーウィチャイを尋ねての旅が始まりました。
一行がノーンローン村(BAAN NOONGLOONG)に到着した時、チエンマイ県知事が出てきて直接師と話すことになりました。
haripoonchai.com に見る一問一答は次のようなものでした。
「師の生地はどちらでしょうか」
大変に丁寧な言葉使いで、かつての城主、王にも匹敵する権限を持つ人物ながら、目の前の白衣の修行者に対して敬意を払った言い方をしています。
「拙僧は、もともとラムプーンのリー郡メーターイ区の人間です」
ここで師は、「拙僧」という僧侶の言葉を使っています。白衣に身を包んでいる在家の立場では、これも厳格に言うならば決して正しいとは思えないのですが、心は出家していますので、態度にも言葉使いにも僧侶としてのものになりきっているのでしょう。
「ああ・・・ならば我々と同じコン・ムアン(KHON MUANG)ではないですか。で、いずれへ行かれていたのでしょうか」
県知事はここで、コン・ムアンという言葉を使っていますが、これは訳しにくい言葉です。決して昔からあったものではないようです。少なくとも旧い伝承本の中にこの言葉を捜すことは出来ないようですが、そのままこの文字を約せば「町の人」となります。が、それではそこに含まれている意味が理解できません。即ち、この言葉はラーンナー王国という独立した王国に住む人という誇りがそこには含まれています。ですからこの知事の言葉は、あなたも私も同郷人ではないですか、という親近感を表していますが、という事は県知事もラーンナーの人だったのでしょうか。バンコクの人は決して自分がコン・ムアンであるとはいいませんから。ちなみに彼らの言葉がカム・ムアン(KHAM MUANG)と呼ばれるものです。
「ビルマに行っておりました」
「向こうではどのくらいでしょう」
「5年です」
「ええ・・・っ。なら、言われるような事は何もないではないですか。でも一つだけお願いします。初等教育費8バーツを規定に従って郡役場の方にお支払い頂ければ、後には何もありません」
この会話から、師はビルマに行っていたと言う意識ですね。タークからメーラマートは当時の人にとっては異国の感覚なのかもしれません。しかも、そうした異国に行って帰ってくることは何の不思議もなく極普通に行われているところに大陸国家の特徴があります。
こうして、クルーバー・カーウピーと県知事の会談が何の支障もなく友好裏に終えましたが、師に課された8バーツの初等教育費用ですが、何を意味するのか正直不明です。今更ながら授業料でしょうか。こうした事はサンキート師の書には言及されていません。
師の傍にいて知事との会談の一部始終を見聞きしていた信者の中には、自治会長もいました。そうした信者たちの間に8バーツの件が広まると、その場で集まった寄進の額は15バーツに及びました。当時であれば、一日の生活費に1バーツも必要なかったかもしれません。そんな時代の8バーツですから決して少ないわけではないでしょうが、直ちに15バーツも集まったということはそれだけたくさんの信者が追従していたということでしょうか。
そこで、師は県知事に随行して来た警察官に規定の8バーツを預けました。ところが運の悪いことに、この警察官は預かった8バーツをその場で紛失したといいます。さあ、大変です。再度師に求めるわけにも行かず、かといって役所にて立て替えるわけにも行かず、結局は警察官の個人的負担となったといいます。
無事県知事との会談を終えた師は、ターリー(リーの船着場)で一晩休んだ後、クルーバー・シーウィチャイのいるプラノーンプーカー寺院に到着しました。暫くクルーバー・シーウィチャイのもとで過ごしたクルーバー・カーウピーは、やがて師に別れを告げると、故郷のリー郡に向いました。
しかし、このリー郡には、あの意地悪郡長がいます。郡長は、自治会長に命じて、師たちを追い払い、一歩たりとも郡内に足を踏み入れさせませんでした。何の咎もない師ですが、こうした仕打ちにほとほと途方に暮れるばかりでした。
その時、師は父方の親戚にチエンマイ県内のドーイタウ地区(TAMBOL DOOYTAU)の自治会長をしている人物がいることを思い出しました。ここであればラムプーン県ではなく、ましてリー郡長の強制力が及ばない筈です。
師は人を使ってその自治会長と連絡を取りました。
「私は、プラバートタモ(PHRA BAATH TAMO)に行きたいと思うがどうでしょうか。何か支障があるでしょうか」
ここでいうプラバートタモとは不思議な伝承に飾られた旧い寺院のようですが、生まれ故郷に帰れないのであればこの旧い寺院に行きたいというのです。この寺院には、釈尊とその前の三人の仏陀の足跡と横になった時の岩があるという伝説に飾られた寺院です。
そこで自治会長は、郡長に相談すると、ここの郡長は何の支障もなく、むしろ喜んで受け入れました。
こうした話に出てくる役所の組織図をいいますと、県の最高位が県知事で、県の下には郡(AMPHAA)があり、そこの最高位が郡長です。群の中には幾つもの区(TAMBOL)があります、その区の最高位がカムナン(KAMNAN)と称される自治会長がいます。そして、その下には、村長(PHUU YAI BAAN=むらおさ)がいます。
県知事及び郡長は内務官僚で中央より派遣されてきますが、その下の二つは民選です。住民は自分の所属する村の代表者村長を選び、村長が互選で自治会長を選びます。民選とはいえ、わずかながら給与が支給され、役人としての制服着用が認められ、役所と村人の間の連絡調整役です。あたしが来た頃は、まだ外から来た人は居住に先立って村長に連絡することが風習となっていましたが、今はどうでしょうか。
それは兎も角、その当時、このプラバートタモ寺院は廃寺になっていたようで、郡長は、早く来て欲しいとまで好意的でした。そうした厚意は、郡長と郡森林局が1キロ四方の土地を用意したことでも伺えます。
こうして、何とか行き先を見出したクルーバー・カーウピーは、このプラバートタモにおいて一棟の御堂を建立しました。その御堂が冒頭の写真に見える9棟の仏塔を戴いた美しい建物です。チエンマイ市内には、チェットヨート寺院があり、その名の通り7棟の仏塔を戴いた御堂が特徴ですが、このプラバートタモは九つの仏塔を戴いています。そして、そこは心を静めるに相応しい静寂の地にありました。
しかし、時に師のクルーバー・シーウィチャイがドーイステープ寺院に至る山道を建設するという噂を耳にすると、じっと修行することも出来ず、信者であり、従者でもある500人のカレン族の人々を伴って駆けつけました。こうした点が他の高僧、名僧といわれる僧侶と異なる点でしょうか。
無事ドーイステープ寺院の山道を建設し、両師はプラッシン寺院に帰って来ました。このプラッシン寺院において、クルーバー・カーウピーは、三度得度出家することになりましたが、クルーバー・シーウィチャイは様々な迫害のもとで再度バンコクに下ることになりました。
残されたクルーバー・カーウピーは一人プラッシン寺院を守り、師の帰りを待ちました。
この時のことです。ケートカーラーム寺院のマハースッチャイ(MAHAA SUDCAI)とパンオン寺院(WAD PHANON)の住職がやってきました。この二人の僧侶の訪問がクルーバー・カーウピーに黄衣を纏うことを諦めさせたのです。
この時二人の僧は、クルーバー・カーウピーが還俗しなければ、師のクルーバー・シーウィチャイが牢に繋がれることになるであろうというのです。伝説では、その理由を記していませんが、サンキート師の書ではドーイステープ寺院への参詣の山道建設に際して不法に森林を伐採したことが罪に触れ、両クルーバーのどちらかが還俗しなければならない、というのです。
これはクルーバー・シーウィチャイ不在を狙った嫌がらせ以外の何ものも感じませんが、歴史はどう判断するのでしょうか。
この時、クルーバー・カーウピーは、師を守るため三度黄衣を脱ぎ、白衣になると、もう黄衣を身に纏う事はありませんでした。
白衣となったクルーバー・カーウピーは、悲しみのうちにプラッシン寺院を出るとバーンパーン寺院に帰って一棟の庫裏を建設し、次いでプラバートタモに帰って行きました。

(続)
下記のURLは、タイ・ルー族に伝わる民族舞踊で、タイルー族の子供たちの踊りです。
                               タイルーの舞踊
                     http://www.youtube.com/watch?v=770n7IFxWNQ
下記URLよりプラバートタモ寺院の御堂の写真をお借りしました。冒頭の写真でもわかる通り、プラバートタモ寺院は森の中にあるようです。
             http://board.palungjit.com/f177/ประวัติพระพุทธบาทตะเมาะ-215341.html

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クルーバー・シーウィチャイ伝(19)

タークにおいて様々な施設復旧に精を尽くし、メーラマートにやって来たクルーバー・カーウピーは、そこで本堂建立に着手しました。この本堂建立時に大事件が発生するのですが、残念ながら手元の資料には、寺院の名前が記されていません。
この建立に際し、さすがのクルーバー・カーウピーも困り果てました。どうしたわけか、建立に要する資財が不足したのです。貼り付ける金箔代400バーツ、そして職人の手間賃300バーツの計700バーツが不足しました。
やはりチエンマイと違って大富豪の後ろ盾がありません。信者からの寄進はあったでしょうが、メーラマートは、タークの町からも遠く離れており、しかもタークそのものがチエンマイのような大都会ではありません。
そこで、クルーバー・カーウピーは、関係者と協議し、奉加帳を廻すことにしました。本堂建立の意義、趣旨を説明し、同時に村人から寄進を集めるのです。
こうした事は決して珍しいものではなく、現代においてもしばしば見られます。チエンマイ大学は地方国立大学として最古を誇る総合大学ですが、その医学部付属病院に、スチンノー(SUCINNOO)という名前の三角形の病棟があります。これはルアンプー・ウェーンというクルーバー・シーウィチャイに若干送れて名声を響かせたラーンナーの名僧ですが、師が病に倒れた時、師の為の病棟建設が進められ、それに多数の一般市民が競うようにして寄進を惜しみませんでした。そして、完成の暁に命名された名前が師の名前である、スチンノー棟でした。
このクルーバー・カーウピーは、本堂建立の奉加帳を廻し、住民の自発的協力を得て無事必要なだけ調達することが出来、無事本堂建立を完成させることが出来ました。
しかし、この奉加帳を廻したことが大きな問題でした。
僧侶の身でありながら、奉加帳を廻した。
役所の耳に入るのにさほどの時間は要しなかったでしょう。村人の中には役場に勤める人もいたかもしれません。そうした人が寄進に応じていたことすら考えられます。
郡役所では、これを見逃すことは出来ませんでした。郡長は、自治会長を呼び出すと、まず事の真相を尋ねました。
「聞くところによると沙門アピチャイは、奉加帳を廻して村人より寄進を募ったそうであるが、本当か」
「間違いありません」
自治会長は正直に答えました。そして更に続けて言いました。
「しかし、全て村人が自発的に寄進したものであることもまたその間違いありません。さもなければ、本堂の建立がならなかったでしょうから」
しかし、郡長にとっては村人の意思がどのようであるのかは何の関係もないことでした。
お上において法に厳格であれば、僧にあっては戒に厳格である。
サンキート氏は、この時の状況をこのように言及しています。即ち、住民の意思、僧の目的が問題であるのではなく、役人として法律を守ることが大切であったのです。そして、法を厳格に考えるならば、出家者である身の僧侶が村人から寄進を「求める」事は、如何に村人が自発的に「応じた」としても許される事ではありません。
若しもこの時、クルーバー・カーウピーが白衣であれば何の咎めも受けなかったでしょう。行為も気持ちにも何の違いもありませんが、黄衣であるか白衣であるか、その違いが天と地ほどにも異なって師の上に襲い掛かって来たのです。
しかも、この時郡長が用いた法律とは、クルーバー・シーウィチャイを罪に陥れようと様々に用いられたあの僧団法だったのです。このバンコク政府が発布した全国の僧侶が守るべき決まりを記した僧団法の規定に触れるとして告発されましたが、黄衣を着ている限り、世俗の郡長といえども何もすることが出来ません。
そこで、郡長は、県僧団長に事の次第を訴えて諮問し、クルーバー・カーウピーは還俗を余儀なくされました。
「おらが和尚さんは、善を成してどうしてこんな目に遭わなきゃならんのか。世に正義はないのか」
村人から寄付を集めたとはいえ、その金で作った本堂はお寺のものであり、お寺は村人のものです。ですから村人は自分たちのお金で本道を建て、クルーバー・カーウピーは一銭の利益も得ていないことは村人たちが一番よく知っています。
しかし、そうした素朴な常識は法律を字句通り守ろうとする役人には通用しないのでしょうか。それとも「黄衣を纏うと災いが降りかかる」という後年師について言われたことがこうしたところから来ているのでしょうか。
村人たちの嘆きも何の助けにもなりませんでした。
涙に濡れる村人たち多数に見守られながらクルーバー・カーウピーは、枯れて年余になる花梨の木の下で再び身に纏う黄衣を脱がなければなりませんでした。そしてこの時、余にも不思議な出来事が発生した、と伝承は伝えています。
この神秘な出来事は、伝説とサンキート氏の著ではまったく反対になっています。即ち、伝説では、師が黄衣を脱ぎ捨てて白衣になると、散り残った疎らな葉を付けた枯れて年余になる花梨の木が芽吹いて花を咲かせたというのです。一方、サンキート氏は、黄衣を白衣に着替えた途端、花梨の木の葉が舞い落ちるように散って疎らになったというのです。
どちらが本当でしょうか。確かなことはわかりません。
釈尊が入滅した時、沙羅双樹の花が時ならぬのに花を咲かせ、釈尊の体の上に降り注いだという仏説がありますが、それを思い出させてくれる話で、それに結びつけるならば、枯れていた花梨の木の疎らに散り残った葉に命が蘇り、青々とした枝葉を伸ばし、クルーバー・カーウピーの還俗を嘆くかのようにその身体に降り注いだ、というのでしょうか。
その場にいた村人の誰もが余りの不思議に言葉もなく、師の周りに膝ま付き、中には頭を大地につけて拝するものまで出ました。
かくして、再度白衣の修行者のような姿形になったクルーバー・カーウピーですが、本堂を完成させると、10日10晩を要して生まれ故郷のラムプーン県リー郡に帰って来ました。そんな師を慕って多数の信者が後に続いていました。
多数の人々が一団となって野宿を重ねながらやってきました。そして、パーホック村(BAAN PAAHOK)の原野で旅の疲れを取るのか師に付き従う人々は、そこに小屋を建設し始めました。そして、彼らは留まる事4晩に及びました。
まだ地域的に閉鎖的要素が強かった70年近くも前のことです。突然表れた異郷の人々の一団の出現は、人々の噂となって広がり、終には、不穏な一団であるという判断が下されました。
「白衣の修行者カーウピーがメーソートより違法な銃1,000丁と共に徒党を組んでやってきた」
こんなニュースが流れると、リー郡役場に緊張が走りました。
郡役場では、警察署と連絡を取り、証人とする為に僧団にも協力を要請し、大挙して事実確認に向いました。
警察の事情聴取に対し、師は静かに答えました。
「まさか、そんなことはない。自分たちは、二つの県を通ってやってきたが、誰もそんな嫌疑を掛けてきたものはいなかった。若しも疑うならば、どうぞ好きなだけ調べてください」
もとより身には何一つ持たない師です。少しも間違った事はしていないという自負からどんな官憲をも怖れません。
警察官2名と証人の僧侶2名による小屋の捜索の結果、発見された「武器」は、先込め銃一丁だけで、それも追従の村人のもので、しかもその銃にはきちんと登録証がありました。今でもタイ人は登録することで通常銃器を所持することが出来ますので、当時にあっては他県へ出かける事はどんな不測の事態が起こるかも知れず、同行者の中に用心の為に先込め銃を持って来た者がいたのでしょう。
恥をかいた格好の郡役場では、それでも尚諦めず、捜査の矛先を広げてメートゥーン寺院(WAD MEETUUN)にまで入り込むと捜索を初め、そこで修行している小僧たちをも愕かせたといいます。
しかし、不審な物は何一つとして出て来ませんでした。
この時、村人たちは手を叩いて役人の不首尾を嘲笑ったといいます。役人が庶民に笑われたのです。当時としては耐えるに忍びなかったかもしれませんし、庶民からすれば怖い役人を嘲笑うことなど生涯ないかもしれない貴重な経験であったでしょう。
警察としては、村人の前で赤恥をかいただけではなく、手ぶらで引き上げることになり、不満の捌け口もないままに、郡役場に対して、時間の無駄をさせられた、と愚痴を零していたといいます。当時としては警察とはいえ、自動車などある筈もなく、誰もが徒歩での往復となりますので、収穫がなければその疲れも何倍にも感じられたのではないでしょうか。
そんな愚痴が聞こえてきますと、今後の協力関係にも影響しますので、止む得ずといいますか、心ならずもといいますか、郡役場は旅費と食費を警察側に支給することにしました。
こうした騒動が一段落すると、クルーバー・カーピーと追従者の一団は、メートゥーンを出発し、チエンマイの町を横目にサンカムペーン郡(AMPHAA SANKAMPHEENG)に向かいました。
サンカムペーンのプラノーンプーカー寺院(WAD PHRA NOON PUUKHAA)には、師のクルーバー・シーウィチャイが逗留していました。
途中、バーンホーン(BAAN HOONG)に入ると住民が警察官を伴ってやってきましたが、余りの人の多さになす術もなく引き返したと言います。次いで、一行は、ドンルーシー寺院(WAD DONGRUUSII)に逗留しますが、ここでも役人(KHAA LUANG)が待ち受けていましたが、やはり余りの人の多さになす術もなく引き返したといいます。こうした役人の動きは住民の訴えによるというのですが、伝承は、役所が引用した罪状について記していません。
執拗なまでの役人の動きですが、ターリー寺院(WAD THAALII)に到着すると、今度はチエンマイ県知事が出てきて直々に師を取り調べることになりました。

(続)
下の動画は、比較的日本には馴染みのないラオスの武術をショー化したものです。音楽はラーンナーの音楽に大変に近いものがあります。
                           ラオス武術の演舞
                    http://www.youtube.com/watch?v=CKmcO9pRISI

冒頭の写真は、クルーバー・カーウピーの像を打ち出したお守りです。タイ人は、こうして名僧と呼ばれる人の像をお守りとして身に付けています。周りに刻まれている文字がラーンナーの文字です。(参照:http://haripoonchai.com/hpcboard/index.php?topic=56.15

二度目の得度出家

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クルーバー・シーウィチャイ伝(17)

服役期間の半年を終え、出獄する師を出迎える多数の信者たちからの寄進を服役者たちに行き渡らせるよう手配し、相変わらず手ぶらで白衣に身を包んだクルーバー・カーウピーは、140メートル離れたハリプンチャイ寺院に逗留しました。途中で受けた寄進の品々もまた獄内の服役者に廻されたことは言うまでもありません。
一方、建設途中のラムプーン病院建設は出獄後も休まず続けられ、完成を見届け、奉祝行事に参加した師は、師匠のクルーバー・シーウィチャイを求めてチエンマイに向いました。それはどのような旅であったのでしょうか。ハリプンチャイ寺院よりチエンマイに向う道は、今もその当時も何ら変わってはいません。
正門を出るとそこはムアン・ラムプーンのお濠です。お堀に沿って左に回って行きます。丁度それは寺院の西出口の前に南北に伸びる幹線道に出ます。その右手に城門が見えますからそこから外に出ます。
外に出て左には警察署がありますが、クルーバーたちを苦しめた警察官たちもそこに駐在していたのでしょうか。その道を真っ直ぐ北に進みます。今では左右大変広い道に見えますが、路傍には当時から植樹されていたなかったのでしょうか。今では一本の木も見えません。
一本道を進むと途中から鬱蒼とした森に入って行きますが、その瞬間、師はチエンマイ県に入ったのです。そこはチエンマイ県サーラピー郡です。この郡名は、仏暦2470年(西暦1927年)に変えられたもので、それまではヤーンナーン郡(AMPHAA YAANGNAANG)であったことが、タネート・チャラーンムアン(THANEESWR CRAANMUANG)の著「ラーンナーより(MAA CAAK LAANNAA)」に記されています。
その変更理由はバンコクから来た役人にとって地元の言葉は耳障りがよくない、たったそれだけのことで全く関係のない郡名に変えられてしまいました。そこまでラーンナーの独自文化が嫌いなのか、と疑いたくなりますが、やはりバンコクからの役人は、ラーンナーを併合したという支配者意識があったのでしょう。
そうした支配者意識がクルーバー・シーウィチャイのみならずクルーバー・カーウピーが地元に伝わる旧習を頑ななまでに守り、しかも地元住人の強い信仰心を集め,役人以上に強い影響力を持っていることに激しい嫉妬心・競争心・敵愾心を抱かせたのかも知れません。
余談はさて置き、こうして双葉柿科の高木ヤーン樹の並木をひたすら北に向って歩いて行きます。といっても真っ直ぐな道ではありません。蛇のように曲がりくねっていますが、自動車が物珍しかった時代、途中にあるいくつもの寺院で時には休息し、時には一夜の宿を借りながらの旅であったと思います。そして、生活の糧などない師ですから、多数の信者がその後ろに続き、食事を寄進していたものと思いますが、途中の村々では師の北上を噂に聞いて、朝には布施の準備をして待っていたかもしれません。
何しろ、一本道ですから、村人は朝路上に出ていれば師に寄進することはできたでしょう。こうして30キロ余りの道を歩いていきます。チエンマイに入ると、途中でサーラピー郡の市場があり、次いでの市場はムアン・チエンマイに入った所のノーンホーイの市場でしょうか。
目指すプラッシン寺院へ行くには、ピン河を渡らなければなりません。
渡る場所は三箇所です。
ノーンホーイの市場の手前を左に折れて現在のチエンマイ空港に向って川を渡る橋がありますが、当時既にあったでしょうか。それともノーンホーイの市場の前にあるメンラーイ橋を渡るでしょうか。いや、多分、真っ直ぐヤーン樹の並木を過ぎてナワラット橋にまで行ったのではないでしょうか。
この時、ピン河を渡ってムアン・チエンマイに向う橋としては最初に架設されたといわれるナワラット橋は冒頭の写真に見る通り、鉄骨製の橋に建て替えられたばかりでした。年代的にはっきりとはしませんが、それまでにチークで作ったピン河を渡る橋(冒頭写真)がありましたが、この頃には朽ち果てて立て替えられたとも崩壊して立て替えられたとも言いますが、はっきりとした資料を持ち合わせていません。
この新設なった鉄骨製アーチ型の橋を通ってピン河を渡り、現在のターペー通りに入ると真っ直ぐ西に向かいます。そのまま城門から城内を進んでいくと正面に目指すプラッシン寺院があります。
当時、クルーバー・シーウィチャイは、プラッシン寺院に逗留して寺院の修復をしていた事は既に述べた通りです。
徴兵忌避の罪で服役し、半年の月日が過ぎて戻ってきた愛弟子をクルーバー・シーウィチャイは、静かに、慈悲深い視線を持って迎えたと言います。
この時、クルーバー・カーウピーは二度目の出家を願い出ますが、戒律師としてクルーバー・シーウィチャイは自分が勤める事はありませんでした。haripoonchai.com に記されているところによれば、この時の戒律氏は、クルーバー・シーウィチャイが逗留している寺院の住職であるというのですが、ならばプラッシン寺院の住職ということになります。しかし、サンキート氏の書に寄れば、この時の戒律師は市内ナンターラーム寺院(WAD NANTHAARAAM)の住職であるというのです。プラッシン寺院は今も昔もチエンマイを代表する名刹に違いありませんが、ナンターラーム寺院もまた決して無名の寺院ではありません。
かつてラーンナーの第9代目の王プラチャウ・ティローカラートの全盛期、ラーンナーに恐れ戦くアユッタヤー王国は、ビルマ人僧を雇い入れて呪術を持ってチエンマイの威力を殺ごうとしました。この時のビルマ層が逗留していたのがこのナンターラーム寺院で、プラッシン寺院を出てチエンマイ門を抜けて城外に出、現在私立の病院がある場所の前の三叉路を右折して進んでいくと寺院に出ます。
かくして二度目の出家をしたクルーバー・シーウィチャイは半年余に亘って身に纏った白衣を脱ぎ捨て、改めて黄衣を身に纏いました。そして、クルーバー・シーウィチャイの元で1年に亘って過ごし、師の手伝いをしました。
安吾を終えると、師は一度ラムプーンに帰って行ったようですが、長居することなくムアン・ターク(MUANG TAAK)に向いました。
このタークという町は、南のアユッタヤー、バンコク、スコータイから北上してくる昔の水路にとって避けて通れなかった重要な町のようで、この時よりも1000年以上も昔のチャーマテーウィーもラムプーンに向う途中この町を通っています。そして、この川岸で濡れた衣類を乾かしたのでこの名前(TAAK=干す)が付いたとされています。
また寄り道ついでに言えば、昔、今より200年まり前、アユッタヤーはビルマに襲われて敗れ、廃墟になって今に至っていますが、この時のビルマ軍を襲撃して追い払ったのが、プラチャウ・タークシン(PHRACAU TAAKSIN)といわれ、今もバンコクには彼の像があります。
このタークシンは、プラヤーという地位にあり、その任地が今ここに言うタークでした。従って、当時はプラヤー・ターク(PHRAYAA TAAK)と呼ばれていました。そして、潮州系華人である彼の名がシン(SIN)である為にタークシンと通称され、彼がトンブリー王朝を開いた為にプラヤーという一官僚の地位からプラチャウと王位を名乗ったのでしょう。
こうしてクルーバー・カーウピーはタークに向いましたが、これは当然タークより招請があったのでしょうが、具体的にどこからの招請であったのか残ながら手元の資料には見当たりません。
生まれ故郷のラムプーンを離れてのタークへの旅は二つの方法が考えられます。チエンマイからタークへの川下りは、幾つもの瀬があり、命がけの危険な旅であったでしょうが、この少し前まで盛んに旅人を襲っていた山賊は既に退治されていたのでしょうか。それとも既に開通していた鉄路で下ったのでしょうか。ならばタークより迎えに来る人はそれなりの地位の人であったのでしょう。
タークに向かったクルーバー・カーウピーは、その後42歳までの6年間をターク県内で過ごすことになりますが、この間師の身体は黄衣に包まれていました。
ターク県において様々な施設を修復復旧させたようです。その中には、寺院もあれば、学校もありました。本来こうした施設の中でも学校、病院などは公的機関の業務である筈ですが、どうしたわけか、今に至るも常に「予算不足」という言葉だけが虚しく聞こえてくるようです。
クルーバー・カーウピーは、ターク郡のナールアン村での仏塔建立を終えると、同じくターク県内のメーソート(MEE SOOD)という町に向いました。この町は、ビルマとの国境の町で、両国を遮る川幅は狭く、小さな船で簡単に行き来でき、今も両国の住人が盛んに行き来しています。ビルマ国内での内戦の影響をいち早く受ける町でもあります。
タークの町より山を越え、谷を渡り森を突抜けての正に命がけの冒険と呼ぶに相応しいものであったと思います。マラリア蚊の繁殖している森を抜けての旅です。インパール作戦でビルマに向った兵が終戦後タイ領内に引き上げてくる時襲いかかってきたのも敵の銃弾ではなく蚊の群れでした。
森を抜け、山を下ってビルマとの国境の町メーソート郡に到着した師ですが、ここから更に北上してメーラマート郡(MEE RAMAAD)に向っていきました。その間、4日4晩を費やしたといいます。
何の利益もないそんな危険な旅に耐えられたのは、その先にしっかりとした目的があったからではなかったでしょうか。
そして、そのメーラマートにおいて、師は再び黄衣を剥ぎ取られることになったのです。

(続)

冒頭の端の写真は、ThaiEntrepreniur 氏の下記URLよりお借りしています。
http://www.bloggang.com/mainblog.php?id=entrepreneur&month=19-12-2009&group=14&gblog=1
冒頭写真の二枚目の写真に写っている古ぼけた木造家屋は、当時の県知事の宿舎であると思われます。左端に見える白いものが橋の場所を示しています。この県知事宿舎は、後年日本軍指令官の宿舎になったものと思われます。

                              「陣太鼓」
                    http://www.youtube.com/watch?v=KHS2iGDBaNA
ラーンナーに伝わる「陣太鼓」の演舞です。これは演者によって様々なスタイルがありますが、ここではマーノップ・ヤーラナ師のものをお伝えします。ここでの演技は仏典の84,000偈を表しているようです。

悲惨な獄中生活

イメージ 1

クルーバー・シーウィチャイ伝(17)

僧侶は、一箇所に立ち止まって行き交う人々に寄進を求める事は禁じられていますが、今でも大勢の人で賑わう市場では時として黄衣の人が立っています。それは犯罪と呼べないかもしれませんが、僧侶として相応しくない行為です。中には黄衣を纏い、頭を綺麗に剃った俗人の場合もありますが、中には正式の出家得度僧もいます。そんな僧衣を纏った紛らわしい行動をとる人たちを取り締まる為に、僧団にも戒律違反僧を取り締まる捜査部門が出来ています。僧侶という姿が生活手段として成立する社会ならではの弊害かもしれません。
しかし、昔には、そうした偽僧侶なるものは少なかったでしょう。少なくとも人々の間に僧に対する信仰心があり、間違えても僧の姿形を真似て利益を得ようとする人はいなかったでしょう。
いま僧団長によって強権を持って体から黄衣を剥ぎ取られたクルーバー・カーウピーは、還俗を余儀なくされましたが、還俗を命じられると、もう僧ではありませんから、警察は一人の罪人としてクルーバー・カーウピーに接します。
そして、白衣を纏う分には僧侶を偽装しているとはいえませんから罪に問うことも出来ません。
クルーバー・カーウピーの身柄を拘束した警察官は、その場から留置場に移送しました。かくしてラーンナーの今一人の聖者クルーバー・カーウピーは、徴兵忌避の罪を着せられて罪人となり、留置場で夜を明かすことになりました。
罪人となった師は、手枷、足枷と言いますか、両の足首には太い鉄の輪が嵌められ、その鉄の環は太い鎖で繋がれますが、昔の奴隷売買の場面を想像すると良いでしょうか。今もタイでは罪人は、両足首に同じように鉄の輪が嵌められ繋がれた太い鎖の端を自ら手に持って裁判所の中を歩く姿がテレビで映し出されます。両手には勿論手錠が嵌められています。およそ21世紀とは思えない光景が現実にあります。
そして、師もまたこうした残酷な仕打ちで鎖に繋がれたのです。
警察署で一夜を明かした師は、翌日の午後4時には、警察署内の留置場からラムプーン県刑務所に移されました。しかし、師は黄衣は着ていなくても心は僧侶です。朝の一食、菜食以外受け付けませんので、その朝の食事は如何だったのでしょうか。伝承には出ていませんが、信仰心篤い信者の寄進があったことでしょう。
刑務所生活が、生来の虚弱体質の師に決して良い影響を及ぼすことがなかった事は容易に想像が付きます。
「そこは、板敷きの床で、汚れは耐え難いほどに酷く、就寝時間には、足首には相変わらず鉄の環が嵌められままで、それは他の囚人と繋がっている。ゆっくり休めるか?そんな事は聞かなくてもいいよ。身体を横にするだけで血に飢えた虫たちが何百と寄ってきて血を吸い取って丸々と太るよ。大小は、板の隙間から落とすのじゃが、悪臭なんて心配するに及ばんよ。刑務所中に匂いが立ち込めているのじゃから」
後年、クルーバー・カーウピーは、刑務所時代の話をこのように周りの信者に語ったそうです。
しかも、その食事たるや惨憺たるものだったようです。
「・・・この食事というものは、お腹一杯食べれるとも美味しいとも思うと間違いで、ご飯を入れた小さな容器とスープを入れた丼が一つ、これを四人で食べる。量に文句言っている時間もなければ、味わって食べるなんて事をしようものなら他の人が食べ尽くしてしまうだろう。おかずは選ぶことも出来ず、野菜だけである。とても口に出来るものではなく、ぶちまけたとして、さて豚が食うだろうか。もち米もまた旧く固く石の様で・・・」
散々な牢屋生活だったようです。
元来ひ弱な体のクルーバー・カーウピーがこうした生活に堪えられる筈もありません。間もなく忍耐の限界を超えました。不潔、狭い空間に満ちた汚れた空気の他、便通にも支障を来たすようになり、ついに病に倒れました。
か弱い身体に襲い掛かる病魔。クルーバー・カーウピーは、牢獄よりラムプーン病院に移送されました。病院とはいえ、ラムプーンの70年近く前の建物は決して病気を治すに適しているとはいえなかったようです。
病を得て入院したクルーバーの目にも病院は今にも倒れてしまいそうなほどに朽ち果てて見え、見るに忍びませんでした。病を治す病院がこれではあまりにも惨めに過ぎる、何とかできないものか。そんな考えが脳裏を過ぎりました。
「病院修復の手伝いをしても良い、勿論病院にて一切の費用を心配する事はない。ただし、刑務所にて自分が日々現場監督に来ることを認めてもらいたい」
師は病院に申し出ました。
勿論病院に否やはありません。
この事は直ちに病院から刑務所長にもたらされ、次いで県知事にもたらされました。その時の、病院側の理由は、まだ病が癒えず、十分な看護が必要であり、病院にて一切の責任を負うというものでした。
刑務所側としては、もともと師に対する信仰心を抱いていたこともあり、病院側の申し出でに依存はありませんでした。しかし、問題は知事にありました。クルーバー・カーウピーの刑期は6ヶ月であり、既にその半ばに達しており、許可されませんでした。しかし、結局は、建設に責任を取ること、公的予算を一切用いないことを保障する形で何とか許可が出ました。
かくして、囚人クルーバー・カーウピーは、刑務官に率いられて病院に出かけると、治療と共に病院の建設作業を陣頭指揮し、病院の旧棟に臨時の宿舎が割り当てられ、師に仕えるために別の囚人二人が特別に同行しました。この間の費用の一切は信者からの寄進によるものである事は、師のクルーバー・シーウィチャイの場合と変わりません。
しかし、サンキート師の書に寄れば、師は朝刑務所を出て夕方に作業を終えると刑務官と共に獄舎に帰ったとされています。そして、獄舎の前はまるで縁日のようにたくさんの屋台がでていたとも記しています。
それほどまでに獄舎の師のもとにやってくる信者の数が多かったのでしょうか。たくさんの寄進は、当然のように同じ境遇の受刑者たちに分け与えられ、夢のような食事の日々が続いたといわれています。
それ故でしょうか、刑期を追えて刑務所を後にする師を受刑者たちは涙を流して惜しんだそうです。それは、布施の品々の分け前に預からなくなることを悲しんだのでしょうか。
病院建設は、信者たちからの寄進が続々と集まってくると、滞ることもなく予定通りに全てが進行していきました。そして、当初予想されていた1,600バーツの建設予算をはるかに超える2,000バーツもの寄進がありました。
6月下弦の2日、病院建設完成を待たず、6ヶ月の懲役刑の刑期を終え、クルーバー・カーウピーは自由の身となりました。出獄に先立ち、師は有り余るほどの食事、果物、お菓子の類多数を受刑者たちに布施しました。
これまでの師の獄中での生活の期間、連日多数の訪問客が夥しい布施の数々をもたらし、その恩恵は受刑者のみならず、刑務官に至るまで全ての人に等しく行き渡っていました。牢獄前に並ぶたくさんの屋台は、そんな訪問客目当ての物売りでした。
獄舎を後にするクルーバー・カーウピーを見送る刑務所関係者の顔は誰もが涙に濡れていたと言われます。のみならず、刑務所を出て140メートル離れた先にあるハリプンチャイ寺院に至るまでの沿道には、信者たちが並び、布施の行列を作っていました。
このことからも解るように、ラムプーンの獄舎はチエンマイのそれと同様に町の真ん中にあったようですね。
この間わずか140メートの間で師にもたらされた寄進の金額は300バーツにも上ったといわれており、それを全て獄中の受刑者への布施の品購入に当てました。ここでも師の無欲の姿が偲ばれます。
師がハリプンチャイ寺院に到着すると、そこには約10名の僧が出迎えに出ていました。
何年か前のこの同じハリプンチャイ寺院では、幽閉されたクルーバー・シーウィチャイが冷たいもてなしの中、わずか4名の弟子を伴っただけでチエンマイのセーンファーン寺院に送られました。しかし、今時は変わり、多数の信者に見守られる中、白衣になったクルーバー・カーウピーを同じ寺院の僧たちが出迎えたのです。
黄衣の僧が白衣の還俗の一市民を丁重に迎えるというタイ社会では異様なことが起こりました。クルーバー・カーウピーを迎えたハリプンチャイ寺院では、厄落としと祝福の読経を挙げて師に敬意を表しました。
こうして、半年振りに自由に身となった師は、未完のラムプーン病院の建設を最後まで手伝い、その祝賀行事に参列すると、大きな任務を終えました。
かくして、チエンマイにいてプラッシン寺院の修復工事という大事業を進めている師のクルーバー・シーウィチャイを尋ねていくことになりました。
これは、刑期を終えたことを知らせる為であると同時に、再び得度出家して黄衣を身に纏う為でもありました。
二度目の出家です。


(続)
タイ武術の原型ですが、これがショーになると、いわゆるタイ・ボクシングとなります。じっくりとご鑑賞下さい
                          タイ武術(素手&剣術)
                 http://www.youtube.com/watch?v=uV_w78qWuzc

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