チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

落穂拾い

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反骨の戦士

落穂拾いー(17
 
世の中の動きとは全く別に時間は常に動き、その歩みを止めません。淡々と一切の感情を無視して動き続ける時間の中で、人間は社会を作り、日々の営みを続けています。平々凡々たる社会の中で、時として凡夫ならざる才に恵まれた人物が出現しますが、その時代が変化を求める時であれば、非凡の才の持ち主が社会を動かすことがあります。そうした凡人とは異なる資質の人物が与えられた使命に気付いた時、時代が大きく変わるのかもしれません。人々は彼らを英雄と呼ぶのでしょう。
また、そうした偉大な英雄は、ある日突然に世に出るものではなく、英雄をこの世に呼び起こす為の呼び水とでも呼べるような役割を果たす小英雄とも言える人物が出現することがあります。そうした小英雄は真の英雄を導く先覚者かもしれません。時に名前さえ歴史に残らない先覚者ですが、彼らの存在なくして社会の変化はなかったでしょう。
南部タイのいつまで続くか知れない騒動も、ラーンナ−の人たちの心の奥底にあり、血の中、肉の中に溶け込んでいる傷付けられた自尊心、併呑されたとはいえ一大王国ラーンナーの末裔であるという自負心は、そうした無名の人たちの魂の叫びかもしれません。
 
反骨の戦士
チエンマイは、西暦1296年にマンラーイ王によって建設された都ですが、そのマンラーイ王朝は、西暦1558年、隣国ビルマのタウングー王朝のブレーンノーン王によってわずか262年で終焉を迎えます。このブレーンノーン王は、タイでの呼び名で、ビルマではバインナウンと呼ばれ、従兄弟であり、先代王でもあるタビンシュエーティーさえなし得なかったアユッタヤー攻略を成功させたビルマにとっての英雄です。
そして、そんなビルマの英雄の占領下に置かれたラーンナーにもたくさんの小英雄が出て社会に刺激を与え続けて来ました。その一人がかつてこの項で述べたテーパシンであり、ティッパチャーンです。そのティッパチャーンの血筋から後にチエンマイ王朝を開いたチャウ・カーウィラが出ますが、そのティッパチャーンには、4男2女がいて、次男のチャーイケーウとナーン・チャンターラーチャテーウィーとの間に生まれた長男チャウ・カーウィラがチエンマイ王朝の租となります。そして、そのチャウ・カーウィラを世に出すきっかけとなった人物が、彼の母ナーン・チャンターラーチャテーウィーの弟でした。その名前はブンマーでしたが、プラヤー・チャーバーンの方が通りがいいようです。
このプラヤー・チャーバーンですが、世の常でしょうか、歴史上の大成功者とならなかったが故でしょうか、その生年が不明です。これはあのテーパシンも同じことです。手元にある幾冊かのチエンマイの歴史書を見ても、文部省の副読本を見ても、突然のようにプラヤーという位階を持った人物として歴史に登場します。
当時のチエンマイはビルマの支配下に入っていましたので、軍人としても官僚としても世に出る為には、否応なくビルマの体制内に入らなければなりませんでした。しかも、ポー・フアカーウと渾名されたビルマ人新任統治者は、その性残忍の故にかプラヤー・チャーバーンとの間で諍いを起こします。
時代の終焉を告げるのか、西暦1771年の4月のある日の昼頃、真夏の燃える様な炎熱に晒される大地が揺れたといいます。地震の発生です。その年の11月、チエンマイ市内はローイ・クラトンのお祭りで灯篭を流し終え、人々はいつもの生活に戻った頃、プラヤー・チャーバーンは兵300名を率いて市中でポー・フアカーウに反旗を翻しました。しかし、この時はまだ私怨によるものでチエンマイからビルマ軍を駆逐することまでは考えていなかったでしょう。
この争いは不思議なことに両者共に逃走する様相を呈し、ポー・フアカーウは、宮殿に逃げ込み、プラヤー・チャーバーンは、仲間共々当時ラーンチャーンにいたビルマのポー・スパラーを頼っていきました。各種伝承では、この時プラヤー・チャーバーンは、ムアン・ラムパーンに立ち寄り、後のチャウ・カーウィラとなる、ナーイ・カーウィラに謀反の相談をしたとされます。その時、カーウィラは、兎に角タイ軍の協力が不可欠であると告げたようです。カーウィラとしては、父のチャーイ・ケーウがビルマ軍の手元にある以上迂闊な動きは出来なかったのでしょう。そこで、プラヤー・チャーバーンは、強力なビルマ軍司令官の追撃から逃れるには、更に強力な司令官の庇護下に入ることが最善と思ったのでしょう。
当時、ポー・スパラーははるか南のアユッタヤー攻撃から引き返し、ラーンチャーンに帰っていましたが、そのポー・スパラーを追いかけるようにしてプラチャウ・タークシン軍が北上してきました。この軍の司令官として働いたのが、現在のチャックリー王朝の租となる、プラヤー・チャックリーと、その弟プラヤー・スラシーでした。
タイ軍の北上を聞いたポー・スパラーは、プラヤー・チャーバーンを伴ってチエンマイにやってくると、ポー・フアカーウともどもタイ軍迎撃の準備を始めました。
この時、プラヤー・チャーバーンの対ビルマ戦が本格化しました。
北上するタイ軍迎撃に向かうビルマ軍は、チエンマイのターペー門のブッパー寺院に陣を構えて迎撃軍を編成したとされますが、ブッパー寺院は大軍を収容できるほど大きな寺院ではありませんので、たぶんその周辺、ターペー門の内側ということでしょう(従ってここで言うターペー門は、現在のそれではなく、ビルマ様式の仏塔を持つセーンファーン寺院前の十字路にあったものでしょう。今もそこにはチエンマイの外堀をなしたとされるカー河が流れており、土を搗き固めて作った城壁の残滓が見られます)。その時プラヤー・チャーバーンは、ビルマ軍司令官に対して言うには、タイ軍迎撃に川を下るには途中に幾つもの難所があります。自分が先遣隊となって障害物を取り除きましょう。実際チエンマイからの河下りは、幾つもの瀬が行く手を遮っています。
その時、ビルマ軍はプラヤー・チャーバーンの妻子を人質にとることで、進言を受け入れました。タイ・ヤイ族の兵70人とタイ族の兵50人がプラヤー・チャーバーンに預けられました。タイ・ヤイ族というのもまたタイ族の一派ではありますが、現在のビルマ東北部一帯に住むビルマ最大規模の少数民族ですが、彼らは殆どの場合においてチエンマイの敵対勢力として歴史に登場します。プラヤー・チャーバーンは、120人の兵を率いて南に下って行きました。途中腹心の者に命じて、ビルマに人質として囚われ、今にも彼らの都ムアン・アングァに送られようとしている妻子を救出させて後顧の憂いを断つと、ムアン・ホートに到着した時、深夜に70人のタイ・ヤイの兵を急襲して壊滅的打撃を与える、夜を日に継いで更に南に走り、プラチャウ・タークシン軍に向かいます。
ビルマ軍に激しい敵意を抱くプラヤー・タークシン軍では、プラヤー・チャーバーンの救援依頼を北上の好機と捉え、北上軍司令官にプラヤー・チャックリーとその弟プラヤー・スラシーを命じました。プラヤー・チャーバーンは、先遣隊として先に兵を率いて北上すると、チエンマイの南にあるピン河のワンタンの波止場に軍を構えました。しかし、迎撃に出たポー・フアカーウに抗することが出来ず南に敗走していきました。
その頃、プラヤー・チャックリーとプラヤー・スラシー兄弟がムアン・ラムパーンにやってきてプラヤー・チャーバーンの失態を知りました。当時の習慣でしょうか、敗軍の将は名誉回復の為に先陣を切って戦うことを願い出ましたが、今度は彼の後ろに強力なタイ軍がいます。大砲をはじめ、当時の重火器の威力に恐れをなしたのか、ポー・フアカーウのビルマ軍は総崩れとなり、チエンマイの正門ウィアンモンより北に向かって逃走しました。
ここに、プラヤー・チャーバーンは、念願のビルマ駆逐を果たしたのです。
時に、西暦1774年のことで、其の年、プラヤー・チャーバーンは、プラチャウ・タークシンより正式にチエンマイの王に任じられ、甥のノーイコーンケーウが副王に任じられました。これでプラヤー・チャーバーンはチエンマイの王として幸せな人生を過ごしたのでしょうか。残念ながら、ポー・フアカーウは、敗走を受け入れることが出来ず、80,000の兵を擁してチエンマイ奪還を目指して攻め上ってきました。この時、チエンマイを守るプラヤー・チャーバーンの兵力は、わずか1,900名に過ぎませんでした。しかも、水と食料を欠きながらの壮絶なチエンマイ城攻防戦が始まりました。1、900名の兵は80,000の敵兵を相手に奮戦し、30,000の兵力を擁するタイ軍が救援に駆けつけるまでの8ヶ月を持ち堪えました。この間、象、馬、牛、水牛、鶏、アヒル、犬、豚は元より、食用にはならない筈のサトイモ科の食物の根、バナナの根、トカゲ、バッタ、コオロギに至るまで食べつくし、城壁を攀じ登って城内に転落したビルマ兵を捕らえると、その肉まで食した、と伝承本は伝えています。
ビルマ軍が配送すると、城内の人々は食料のないチエンマイを捨てて散って行き、プラヤー・チャーバーンと甥は一時的にムアン・ランパーンに居を構えました。その後もビルマとの戦いは断続的に続き、一時ラムパーンも落とされると、更に南に下って体勢を立て直しました。そして、南のムアン・サワンカローク(日本では宋胡録焼きと呼ばれる陶器で有名な町)にしばし留まりましたが、やがて北上し、甥の副王を先陣とし、食料等を調達の上、ラムパーン南方のワンプラーウの町で待つよう指示しました。この時、プラヤー・チャーバーンは、命を落とす事件を引き起こします。
甥の副王、ノーイコーンケーウは、後より来たプラヤー・チャーバーンに対して集積していた食料の分配を拒みました。伝承は、その理由を述べていませんが、ただ副王は種々考えるところがあったとだけ記しています。彼は、この国家存亡の時に何を考えていたのでしょうか。残念ながら、資料からは、それらしいことを読み取ることが出来ません。自らの命に背くノーイコーンケーウに怒りを抑え切れないプラヤー・チャーバーンは、甥とはいえ、副王を殺してしまいました。
西暦1775年に戦火を共に潜って来た甥を怒りに任せて処刑したプラヤー・チャーバーンでしたが、その後もビルマとの戦いは続き、遥か北チエンセーンにまで戦いの場を求めることもありました。ラーンナーの地からビルマ勢を一掃しようとしたのでしょうか。
しかし、西暦1779年になると、突然のようにプラチャウ・タークシンは、甥殺害の罪を問い、プラヤー・チャーバーンをバンコクに呼び寄せると、鞭打ち100叩きの刑の後で牢に繋ぎました。プラヤー・チャーバーンは、ビルマをチエンマイから追い払う為に社会に渦を巻き起こし、成功したかに見えた瞬間、思わぬ罪を着て牢に繋がれ、そのまま異郷の地の牢の中で病を得てこの世を去りました。
そして、プラヤー・チャーバーンが種をまいたチエンマイ開放の実を拾い結実させ、大きく花開かせたのが姉の子供、チャウ・カーウィラでした。
(了)
中等教育副読本「北野町の物語りー偉大なる人物編」に収録されている「パヤー・チャーバーン(ブンマー)勇猛なる戦士」「ラーンナータイ伝承集」に収録されている「王朝物語伝」「十五代王朝伝」「ヨーノック王朝年代記」「プーンムアン・チエンマイ伝」より題材を借用しました。
 
この動画はタイヤイ族の踊りで、NGIAW(เงี้ยว)とは、タイ・ヤイを指します。これは元来タイ・ヤイ族の踊りですが、チャウ・ダーラーラッサミーというチエンマイ王朝の王女がアレンジしたものです。

許されざる愛

マミア
落穂拾いー(16
血の結び付きというのは、大変に強いもので、血の中には無限の過去より受け継いて来た歴史・文化が溶け込んでいるものです。同じ民族であっても地域により文化にも味覚にも言葉にも性格にも違いが出てくるものですが、そうした違いを乗り越えて新しい文化・歴史と紡いでいくのが家庭であるのかも知れません。夫婦夫々の文化・歴史の背景を背負いながらそれを調和させ、新しい血の流れを子供たちに繋いで行くのですが、誰もそんなことは意識しないのでしょう。
かつてタイのロミオとジュリエットともいえる悲恋の物語をご紹介しました。それは、女性側の祖母の怨念ともいえる怒りの果て、相愛の三人の男女は、その従者ともども全身に矢を浴びて抱き合うようにして斃れました。国同士の争いの果てに愛し合う若い男女が愛の成就を見なかった悲劇でした。
歴史の中に潜む美しくも儚い悲恋物語を知るタイの人も少ないのですが、
もしも、愛し合う男女が敵対関係にある異なる民族であればどうなるでしょうか…
もしも、互いに相手の民族を不倶戴天の敵と思っているとすればどうなるでしょうか…
もしも、愛し合う男女が天と地ほどに身分の差があればどうなるでしょうか…
チャラン・マノーペットという今は亡きラムプーンのシンガー・ソング・ライターが歌う、民族の壁を越え、貴賎の壁を打ち破った男女二人の激しくも悲しい愛の悲劇を通じて、多くの国民は改めてこの悲劇の話を思い起こしました。
 
許されざる愛
今から100年余り前のチエンマイは、ラーンナー王国の首都とはいえ、独立自治の権限を有するとは言え、バンコクシャム王朝の支配下にありました。しかも、西方の宿敵ビルマはすでに英国の支配下にあり、その英国は森林資源を求めてラーンナー王国にその魔の手を伸ばそうとしている時でした。当時チエンマイの副王であった後のチエンマイ王朝最後の王チャウ・ケーウナワラットは、嫡男のチャウ・ノーイスックカセームを英語収得の為ビルマのモールメインのカトリック系パトリック校に送りました。王子は、当時まだ15歳に過ぎませんでしたが、同校は全寮制であることに加えて、モールメインにはチーク材取引を通じて懇意にしているビルマ人富豪ウー・ポータンの家があり、チャウ・ケーウナワラットとしても安心だったのでしょう。時に西暦1898年のことであったと言います。
一人、異国の全寮制のキリスト教系学校で学ぶ王子も週に一度の外泊時には、この富豪ウー・ポータンの家で寛いでいました。そんな寛ぎの時間の中には、歩いて10分ほどの地にある地元市場見学があったでしょう。王子が19歳になった頃、この市場で運命の出会いがありました。一介の煙草売りながら、一点の穢れもない天から舞い降りた天女にも等しい美しい15歳の少女マミアに出会いました。
スックカセーム王子
 
当時の女性の15歳は、もう十分に成熟した大人であったのでしょう。若い二人は、一目見たその瞬間に心に激しい恋の炎が燃え上がり、二人の全身を包みました。まさに赤い運命の糸に操られての出会いのようでした。その日を境に二人は王子の休日ごとに愛を確かめ合い、終には人々の信仰心篤い仏塔の前で変わらぬ愛の誓いをたてました。
「我が命の尽きるまでこの愛を誓い、もしも誓いを破る者には危難が及びますように・・・」
当時の人々は神仏を心から信じ、誓いを立てることはまさに文字通り命を賭けることで、この誓いの言葉ほど我が身を縛るものはなかったでしょう。
誓いの言葉は愛の証でした。しかし、会者定離は世の常。王子が20歳、マミアが16歳の時、学業を終えた王子はチエンマイに帰らねばならなくなりました。しかし、マミアを連れて帰ることには大きな障壁が立塞がっています。二人が民族を異にすることに加えて、あまりにも大きい身分の差。そして、それにも増して両親の許しを得ずに夫婦の契りを交わす慣習を破った罪の意識。
苦悩の果て、王子はマミアを男装させてビルマ人の男友達としてチエンマイに連れて来ました。しかし、父のチャウ・ケーウナワラットと母君は、チエンマイ王朝の重鎮であるチャウ・スリヤウォンの王女チャウ・ジン・ブアチュムをチャウ・ノーイスックカセームの知らないうちに許嫁としていました。
自らに許嫁がいることに衝撃を受けながらも、マミアとの隠れた愛は続きましたが、マミアを隠し続けることに苦しんだ王子は、両親にマミアが最愛の人であることを告げました。しかし、その愛が叶うことは王子の立場が許しませんでした。当時、チエンマイの第8代王チャウ・インタワローロットスリヤウォンが亡くなった後の後継王が決まってなく、甥に当たるこの王子が第9代目を継ぐのではないか、と推測されていたこともあり、又もしも王子がビルマの女商人を妃とした場合、人々の気持ちは如何だったでしょうか。また、マミアの生地ビルマは英国の支配地にあり、いかなる理由をつけてラーンナー王国の領土に魔手を伸ばして来るかもしれない危険な政治状況の中でマミアをチエンマイの王室に入れることはできませんでした。
チャウ・ジン・ブアチュム・ナ・チエンマイ
 
チャウ・ケーウナワラットはチャウ・ノーイスックカセームを呼び寄せると、マミアとの縁を切るよう申し渡し、マミアに心を奪われた王子から邪念を払う聖水を頭に注ぐ儀式が執り行われました。そして、マミアを送り返す象の隊列準備が命ぜられました。その夜、マミアは、同じビルマ人男女の説得の言葉を受け入れ、自らの存在が誰かを傷つけることに忍びず、身を引くことを受け入れました。
その日の朝、チエンマイの南、ハーイヤー門には、マミアを送る象の隊列ができていました。マミアと王子の恋物語とマミアの美貌を伝え聞いた住人たちが鈴なりになってその美顔を目にしようとやって来ています。連なる人の波に漂う雰囲気は、マミアの美貌をも曇らせる沈鬱なものでした。そんな人々の中で、チャウ・ノーイスックカセームは、ビルマの言葉で幾口もなくマミアに告げると、マミアは悲しみの中で腕に抱かれて泣き濡れました。どれほどの時間が過ぎたのでしょうか、王子がマミアにはっきりと伝えました。
「あの誓いの言葉は今も忘れない。三月以内には必ず迎えに行くであろう。もしも自分が他の女性と結婚するようなことがあれば、わが命にいかなる危難をも与えよ、たとえ命永らえることなくとも…」
その王子の誓いの言葉に応え、マミアは王子の前に膝まつくと束ねた髪を解き、王子の足をその髪で拭きました。そうして人目も憚らず、命を賭けた二人の愛の告白の後、マミアは象の背に乗り、生まれ故郷のモールメインに向かいました。彼女の懐には、チャウ・ケーウナワラットと妃のチャウ・メー・チャーマリーより贈られた金銀がありました。故郷に帰り着いたマミアは、ひたすら王子の迎えを待ち続けましたが、何の便りもないまま時だけが空しく過ぎて行きました。そして、期限を過ぎると、マミアは王子に対する愛の証として、髪を切り、仏門に入りました。
一方、その後まもなくバンコクのチャウ・ダーラーラッサミーに呼び出されたチャウ・ノーイスックカセームは、王女の館で最も美しいとされ、芸能の才に恵まれたチャウ・ジン・ブアチョムとの結婚を取り決められました。チャウ・ノーイスックカセームとチャウ・ジン・ブアチュムの婚姻を風の噂に耳にすると、矢も楯も堪らず、生涯を仏に捧げる決意を固める前に、愛する人の幸せを願い、寿ぐ為、かつこの世で会う最後の機会と王子の館を訪れました。しかし、結婚後もマミアの面影を忘れることが出来ず、マミアに対する憐憫の情を抑えることもできず、楽しかるべき新婚生活においても一時として幸せを感じることもないままに、酒に溺れる日々を送る王子は、マミアの求めに応じることもなく、舘から出て来ようとはしませんでした。代わって近従の者を遣わし金80バーツ(一説では800バーツ、当時の庶民の月の収入が約4バーツ)と我が身に付けているルビーの指輪一個をマミアに差し下しました。
愛する人の顔を拝することも叶わず空しく引き返したマミアは、失意の中で生涯を仏門に捧げ、西暦1962年75歳の長寿を全うしました。
一方、チャウ・ノーイスックカセームは、わずか7年の結婚生活の末、悲しみの内に西暦1913年に30年の短い生涯を終えました。
 
この二人の悲恋の物語を世に広めたのは、ラーンナーの文化を歌で伝え続けたチャラン・マノーペットでした。
"มะเมียะ(マミア)"
มะเมียะเป็นสาวแม่ค้า คนพม่าเมืองมะละแหม่ง
マミアはビルマの人、年若いモールメインの女商人
งามล้ำเหมือนเดือนส่องแสง คนมาแย่งหลงรักสาว
月の光の様に美しく、誰もが愛を求めてやって来る
มะเมียะบ่ยอมรักไผ มอบใจหื้อหนุ่มเชื้อเจ้า เป็นลูกอุปราชท้าวเชียงใหม่
マミアは誰の愛をも受けず、チエンマイの副王の若君に心を捧げた
แต่เมื่อเจ้าชายจบการศึกษา จำต้องลาจากมะเมียะไป
学を終えた若君は心ならずもマミアから離れる時来たり
เหมือนโดนมีดสับดาบฟันหัวใจ ปลอมเป็นพ่อชายหนีตามมา
心を切り裂かれる思いにも似て男に身をやつして付いてきた
เจ้าชายเป็นราชบุตร แต่สุดที่รักเป็นพม่า ผิดประเพณีสืบมา ต้องร้างลาแยกทาง
若君は王子ながら愛する人は慣習に反してビルマの人、別れねばならない
โอโอก็เมื่อวันนั้น วันที่ต้องส่งคืนบ้านนาง
ああ…彼女を実家に送り届けるその日
เจ้าชายก็จัดขบวนช้างให้ไปส่งนางคืนทั้งน้ำตา
王子は、涙を湛えて象の行列を取り揃えた
มะเมียะตรอมใจอาลัยขื่นขม ถวายบังคมทูลลา สยายผมลงเช็ดบาทบาทา
言葉にならない悲しみに身も心もやつれ果て別れを告げて髪を解いて足を拭く
ขอลาไปก่อนแล้วชาตินี้เจ้าชายก็ตรอมใจตาย มะเมียะเลยไปบวชชี
この世の別れ告げ、王子もまたやつれ死に、マミアは仏門に入った
ความรักมักเป็นเช่นนี้ แลเฮย....
愛とはこのようなものでしょうか…
 
(了)
参照サイト:
 
 
ภาพเชียงใหม่ในอดีต 02チエンマイ古の画像

覆水盆に返らず

パンシップ・トート
 
落穂拾いー(15
権力者というのは、一般の人々以上に強力な力を持っています。それは政治力であるかも知れず、経済力であるかも知れず、又知名度によるものであるかもしれません。そんな力は時に殺生与奪の剣となることもありえます。
しかし、そうした力ある人の言動というのは、常に首尾一貫していなければ他の人たちからの信用を得ることが出来ません。『覆水盆の返らず』という諺がありますが、そうした力ある人、影響ある人たちの言葉というものは、零れ落ちた水が再び盆に返ることがないように、一度口から出た言葉は二度と取り消すことが出来ない筈のものです。取り消すことが出来ないが故に、その言葉には重みがあり、権威があり、力があります。もしも、力ある人、権力をもつ人、影響力をもつ人の言葉が朝令暮改、変転極まりないとすれば、人々は彼の言葉のどれを信じていいのか理解できません。
 
覆水盆に返らず
ある日、チエンマイの南に広がる広大な草原にカムピウという名前の一頭の雌象が、飼育係りの者に連れられて草を食みにやってきていました。遊びに来ていた近くの村娘たちは、巨大な体躯の象の姿を見て、気軽に声をかけました。彼女たちはその飼育係りの人とも幾度となくこうして出会っていたのでしょう。ところが、その日、このカムピウはどこか虫の居所が悪かったのか、若い女性の甲高い声を耳にすると、いきなり鼻を持ち上げ、大きく一声唸りを上げると、娘たちを目指すように駆け出しました。
象は、巨体に関わらず案外に足が速いもので、娘たちは顔面蒼白になり、蜘蛛の子を散らすように命の限り走って逃げました。しかし、足がもつれたのか一人の村娘が草に足を取られて倒れると、その背中をカムピウの巨大な足が力の限り踏みつけ、死なせました。それを聞いた村人たちが、逆に象への怒りを露わに追いかけると、カムピウは、近くに村に逃げ込み、米搗き臼、米倉を壊し、村は大騒ぎとなりました。
その頃、チエンマイの南ラムプーンの王子チャウ・ノーイプロームがその村にいました。王子は、王族の血を引くとは言いながら、世情にも長け、人々の信も篤かったのですが、この時、王子はブアトーンという名の美貌の誉れ高い村娘の所に来て恋を語らっていました。そんな甘い恋の語らいの中で、村人たちの騒ぎを知り、王子は、愛用の剣を手に駆け出すと凶暴な象を追い求めました。そして、見事一太刀浴びせると、カムピウは村の境界を越えて逃げていきましたが、傷口は思ったより深かったのか、ばったりと倒れるとそのまま息を引き取りました。
一段落した、と安心したのはチャウ・ノーイプローム一人でした。王子は、自らが斬り付け、死なせた象の持ち主が誰であるのかを知りませんでした。その持ち主こそ、ラーンナー王国でその名を聞けば誰もが恐れるチャウ・チーウィット・アーウの王女、チャウ・テーパヤケーソーンでした。この王女は、シャム王朝ラーマ五世の后であられるチャウ・ダーラーラッサミーの御母君でした。
象の飼育係は、カムピウの死を確認すると、王女の怒りを想像して体が震えたといいます。しかし、御召象殺害の下手人を知って更に驚いたのですが、急ぎ王女に対して正直に事の次第の一部始終を申し上げました。
自らの御召象が殺害されたと聞いた王女は、烈火の如く怒り、怒髪天を衝いて普段の理性はどこへやら消し飛び、夜間にも拘らず隣国ラムプーンの王宮に乗り込みました。ラムプーンの王宮では、チエンマイの王女が何の前触れもなく、しかも夜間の突然の来訪に上を下への大騒ぎとなりましたが、「折り入って二人だけで話したいことがある」という王女の言葉に、ラムプーンの王は、側近たちを室外に出しました。
「姫君に置かれましては、このような深夜のご訪問とは、どのような急の御用向きでありましょうか」
「あなたのお力をお借りしたくてやってきたのよ」
王女の声は、心中で滾る怒りを抑えてどこまでも感情を押し殺し、しかも顔には微笑みすら浮かべていました。
「姫君のご依頼とあれば、夜空の星を掴むことは出来ませんが、如何なることでも万難を排して成し遂げるでありましょう」
ラムプーンの王をこうして追い詰めながら、王女は嗜虐的に優しい声で続けました。
「何でもないことよ。実は、私の可愛がっていた雌の象カムピウを殺した者がこの国にいるの、そいつの首が欲しいのよ。只それだけ」
「何だ、それしきの事、何の難しいことがありましょうか。どこの村の何と言う名前の者でしょうか。仰って下さい」
「でもね、両国の関係に関わるかもしれないのよ。3日間の猶予を差し上げましょう」
「姫の御召象を殺めた奴です、一刻も早くその首を差し上げねば気が済みません。さあ、どうかそいつの名前を言って下さい」
王の確約を得ると、忽ちにして王女の全身から穏やかな様子が消え、その周りの空気が張り詰めると近寄りがたい威厳を漂わせ、毅然とした姿勢で重々しく有無を言わせぬ力を持って犯人の名前を告げました。
「チャウ・ルアン・ラムプーン、あなたのご子息チャウ・ノーイプロームがわたしの可愛いカムピウを殺めたのよ。3日の後の彼の首を待ってるわ」
その一言で王の顔色は生気を失い、全身から力抜けてその場に崩れ落ちそうになりながら、辛うじて堪えると、力なく小さく呟きました。
「そうでしたか。我がチャウ・ノーイプロームでしたか」
チャウ・テーパヤケーソーンが王子チャウ・ノーイプロームの首を求めてやってきた、という噂は忽ちにしてラムプーンの王宮を駆け巡りました。
役人たちは、若君の首をチエンマイの王女に差し出すことなど出来よう筈もなく、死を賭してチエンマイと戦おう、両軍兵士の代表を出して戦おう、兵の中で若君に似ている者を選び出してその首を差し出そう、果ては、牢内の罪人から年恰好の似た者の首を刎ねて差し出そう・・・そんな話をしている時、当の王子が弟君と一緒に入ってきました。
「皆・・・皆の気持ちは嬉しいが、罪人に我が罪を被せることは良くない」
「ならば、兄上に代わってわたしの首を差し出しては如何ですか」
弟君のチャウ・インタッが言いました。
「チャウ・インタッ・・・ありがとう。でも、おまえは父の命でチエンセーンを統治に行くではないか。公務こそ大事ぞ」
どこまでも心優しいチャウ・ノーイプロームにその場の誰もが涙しました。
「わが父上は、三日以内に御召象を殺めた者の首を差し出す、と御約束された。もしも我が首を差し出さねば、父上の言葉を打ち消すことになってしまう。人は生まれて来るも死んで行くも一度だ。自分の為に戦争など考えてくれるな、チエンマイとは兄弟ではないか」
ジャスミンの花輪
 
かくも確固たる信念で、自らの行動に責任を取り、なおかつ父の名誉を汚すことを恐れるチャウ・ノーイプロームは、弟、兵たちの厚意を謝し、自制を促すと、愛するブアトーンを訪ねていきました。といって、王家の血を引くチャウ・ノーイプロームに逃走という考えなど微塵もなく、愛するブアトーンに別れを告げにやってきたのです。
「ブアトーンよ。私たちの縁もこれまでとしよう。次の世では、きっと又お前と巡りあい、その時こそ共に暮らそう。それまで善を積み、巡り会う日を信じていておくれ』
「どうして一緒に逃げよう、と仰って頂けないのですか」
純真無垢のブアトーンは、初めて知った恋の甘美がこのような悲しい別れになって終わるとは信じられず、穢れなき真珠の涙を頬に伝わらせ、涙に霞む目で王子をじっと見詰めたまま子供のように縋り付きました。いくら理を尽くして諭してもブアトーンの悲しみを癒すことは出来ませんでした。
やがて別れの時が来ると、ブアトーンは、自ら糸を通したジャスミンの花輪を王子に手渡して言いました。
「愛しの君よ。これをブアトーンだと思って持って行って下さい」
涙で震える声は擦れながら、せめてもの別れの言葉でした。
約束のその日、チャウ・ノーイプロームは自らチャウ・テーパヤケーソーンの館に出向きました。そして、そこからトゥン・フアコン(人首草原)と呼ばれる処刑場に引き出されると、チャウ・テーパヤケーソーンが一言告げました。
「可愛い甥子よ。ご免ね。でも昔の人の言う言葉に『一度王が口にした言葉が再び返ることはない』というでしょ」
王子は、最後の望みに、と、ブアトーンより貰ったジャスミンの花輪を彼女に返すよう従者に託しました。そして、一言の言い訳をすることもなく素直に刑場の露と消えました。
一方、ジャスミンの花輪を受け取ったブアトーンは、悲しみの余り食事も喉を通らず、只泣き続けていました。
そんなブアトーンが綺麗に着飾り、やや干乾びかけたジャスミンの花輪を手首に通し、庭の木で首を吊って死んでいるのが見つかったのは、翌日のことでした。
 
(了)
タイ文部省推薦の中等教育用副読本の中に、北部タイの様々な物語を綴った本が三冊あります。夫々、人物編、場所編、行事編と主題ごとに分かれています。その中の一冊『北の町の物語りー重要人物の歴史編』の中の高貴なる女性の絶対命令より題をお借りしました。
เฮือนข้าเจ้า สาวสารภี ฟ้อนผางประทีป
我が町サーラピーの乙女たち、パーン・ダンス(灯明踊り)
踊り子の掌に小さな燭台と蝋燭が乗っています。
 
冒頭の写真のお菓子は「パン・シップ・トート」と呼ばれるもので、路上で揚げて売っている姿を良く見かけます。小さなクロワッサンに餡を詰め、餃子のように口を閉じて油で揚げたお菓子です。

チエンマイ王朝への道

落穂拾いー(14
 
タイ将棋
 
いずれの国においても英雄はいますが、英雄は平時には出てこないようです。真の英雄は、平時、平穏無事、太平の世の中にあっては世間の規格外の人物として見られ、決して尊敬の眼差しで見られることはないのかもしれません。しかし、社会が如何様にも成り立たなくなった時、もしくは組織の存亡に関わる時、思わぬ所から出てくるのかもしれません。
平時においては平凡な行政能力を有する役人がいれば、国は何事もなく平常通り動くものでしょう。しかし、非常時において平安時と同じ考えで同じ手法で同じ決まりの中で同じことを繰り返すだけでは、非常の事態を処することは出来ません。非常時においては、行政もまた非常時体制を組まなければならず、通常の行政手続から外れることも覚悟のうえで非常時に対処しなければなりません。
そんな国の非常時には、非常時に相応しい人物が出てくるものでしょうが、案外にしてそれは極普通、もしくは変人にしか見えなかった人物かもしれません。幕末の英雄たちも太平の世にあれば世に出ることなく、むしろ畳の上で誰にも知られず歴史に名を残すこともなく生涯を終えていたでしょう。
 
チエンマイ王朝への道
アユッタヤー攻撃の前線基地、兵站基地としてしかチエンマイを捉えなかったビルマは、この地にしっかりとした支配体制を築くことなく、各地で発生する散発的反乱に対処しなければなりませんでした。チエンマイにおいて疾風の如く現れた英雄テーパシンがビルマを駆逐したまさにその頃、小暦1091年頃のことと伝承は伝えていますが、西暦で言えば1729年の頃のことです。チエンマイの南、ラムパーンに一人の奇僧が現れました。このナーヤーン寺院の住職は、かなり俗世間が気になるのか、目立ちたがりな性格なのか、梵天始め様々な神仏を祭り、胎児を宿したまま命を落とした女性の霊を操ることが出来る霊能者であると吹聴し、実際に様々な不思議な現象を起こしたようで、人々の信仰を集めていました。
 
そんな呪術師にも似た僧に篤い信仰心を抱いたのは何も熱心な信者だけではなかったようです。サームカー寺院とバーンフォーン寺院の僧侶までが帰依し、還俗してまでナーヤーン寺院の僧の付き人となりました。その頃、ラムパーンには王がなく、行政を司る貴族官僚にも住人の心をまとめ、国を治めるほどの力量はありませんでした。そんな統治者不在の時に現れた霊能者とその参謀としての元僧侶たち、異形ながら人々の心がこの僧の一団に集約されると、あたかも国の指導者の感を呈しました。
ビルマによって王国としての連帯感を断ち切られた不安定な情勢下、突如として現れた霊能者とそれを支持する住民。それに不気味なものを感じたのは政治的感覚でしょうか。ナーヤーン寺院の僧の霊能力が優れ、人々の心が一つになり始めたという噂が隣国ラムプーンにまで伝わると、ラムプーンの王マハー・ヨットルアンは、軍を差し向けました。國をまとめる者のないラムパーンにあっては、ラムプーンの正規軍を前にして戦う術もなく、辛うじてナーヤーン寺院の僧侶の呼びかけに応じて馳せ参じた住民が立ち上がっただけでした。しかし、如何せん正規軍を相手に訓練も出来ていない民衆が戦う術がある筈もなく、誰もが我が命大事と散り散になりました。件のナーヤーンの僧たちの一群も敗走してラムパーン・ルアン寺院に入りました。
ラムプーン軍が寺院を包囲すると、夜明けを待たずに僧たちの一団は逃走し、それをラムプーン軍が追跡する、なんとも惨めな闘争を繰り返しました。しかし、普段霊能力を豪語するナーヤーンの僧は、何を思ったのか、もしくは自らの能力を過信したのか、立ち止まると、棒切れ、竹などで防護壁を作り抵抗の姿勢を示しました。一瞬、ラムプーン軍の中に躊躇いが見られましたが、運悪くラムプーン軍の兵士の放った銃弾がナーヤーン寺院の僧の眉間に当たりました。続いてあわてて駆け寄る元バーンフォーン寺院の僧侶は目頭に、元サームカー寺院の僧侶は膝頭にともに銃弾を受け、その場で討ち取られました。
事態を収束したラムプーン軍は、ラムパーンルアン寺院に引き返すと、そこに陣を構え、郊外に避難している住民に各自自分の家に帰るよう布令を出しました。人々が帰ってくるとラムプーン軍による信賞必罰が行われ、人頭税を始め様々な課税が重くのしかかるのみならず、財宝の徴収が行われると人々の中に不満と怒りが膨らみ始めました。そんな中で、役人の中でもセーン・ナンスー、セーン・テープ、ナー・ルアン・チャレーノーイはラムプーン軍に忠誠の姿勢を誓いました。三人は、夫々地位を保証されたのみならず、新たに官位を受け、統治者として出てきました。ところが、ラムプーンの支配者と共に役所において協議している、まさにその場で、三人は、互いに目配せをして合図を送り、共にラムプーン軍の代表者を刺し殺したのです。
役所は、忽ちにして修羅の巷と化しましたが、ラムプーン側が援軍を差し向け、町に火を放つと、住居は火に包まれ、住む家を失った住人は、再び町を離れて森の中深くに身を潜め、町は再び無人の巷になりました。
その時、チョムプー寺院の僧は、ひそかに信者多数を集めた上で、逃走中の役人を呼び寄せて国の奪還を図りました。しかし役人にその気概がなく、憤慨してラムパーンの行政官たちに言いました。
『見よ、わずか一人の命を奪っただけに過ぎず、誰もが戦いを避けて逃げてしまった。わしは、今日この場で還俗して敵と戦おうと思う。もしも敵に勝利することがなければ我が首を切り落として川に流せ・・・』
これを聞いて人々は、慌てて還俗を諦めさせましたが、その交換条件として師が出したのは、
『しからば、國を失わずに済む我が意見を聞くか。我が国を奪還した勇士にラムパーンを子々孫々にまで渡って統治させることを認めるか』
というものでした。役人たちが、師の言を受け入れると、信者たちとこの困難に立ち向かう勇者の選出について話し合いました。そして、知恵あり、正直で、勇敢で、しかも、銃、弓の操作に長けているという、一人の猟師の名を挙げました。即ちナーイ・ティッパチャーンという人物ですが、どの伝承本にも本名について言及されていません。只、野性の象を追いかけ、その尻尾をすら断ち切る力を有しているところから誰言うとはなくナーイ・ティッパチャーンと呼ばれるようになっていました。
師は、この猟師の所に出向き、四分五裂して指導者を欠き、国としての態をなしていない今の現状について説明しました。すると、猟師が言いました。
『ラムプーンの兵といえども地に潜り、空を飛ぶわけでなし、我々と同じように大地を歩き、飯を食う。なんの恐れることがあろうか。』
大胆にも一猟師ながら、この申し出を受け入れました。そこで、ナーイ・ティッパチャーンの申し出を受けて300名の勇士を募り、いよいよラムプーン軍撃退に向かいました。夜陰に紛れてラムパーンルアン寺院を宿営とするラムプーン軍を包囲すると、兵たちに出てくる敵兵を一人残さず切り殺せ、と命じ、自らはムーン・ヨット、ムーン・チット、ノーイ・タの三人を伴って水路から侵入したようです。
しかし、彼らはラムプーンの王マハーヨットがどのような顔形の人物で、どの部屋にいるのか何の知識もありません。そこで、大胆にも夜警の兵でしょうか、ラムパーン軍の兵に堂々と尋ねました。
『ラムプーンからの使者であるが、ターウ・マハーヨットは何処におわす』
目指す敵将は、その時将棋を指していたといいます。王は、ナーイ・ティッパチャーンの声を耳にすると大きな声で自ら返事しました。
『わしはここにおる』
その声を合図に侵入者四人が銃を構えて声の主に発砲すると、王はよろめき躓きながら逃げ、周りの兵は右往左往して収拾がつきません。ナーイ・ティッパチャーンたちは、剣を引き抜くと斬りかかり、突き刺ししながらマハーヨットを追い詰め、殺害に成功しました。一方、ラムプーンの兵たちは夜襲に驚き仲間打ちしながら思い思いに逃走を始めましたが、寺院を包囲する300人の兵が待ち受けで迎撃し、尚逃げ延びた兵を追いかけ、領内より駆逐しました。
凱旋したナーイ・ティッパチャーンを迎えるラムパーンの人々は、揃って彼に灌頂をなしてムアン・ラムパーンの統治者として迎えました。この時に受けた名前がプラヤー・スラワルーチャイソンクラームでした。時に仏暦2275年、西暦1732年のことでした。后のピムマラーと共にラムパーンの統治者となって独立を維持すること27年、仏暦2302年、西暦1759年に亡くなりました。このナーイ・ティッパチャーンこそ、チエンマイをビルマの支配から解放し、チエンマイ王朝を起こしたチャウ・カーウィラの祖父に他なりません。
 
(了)
 
この文は、『十五代王朝伝』『プーンムアン・チエンマイ伝』『ヨーノック王朝年代記』『王朝物語伝』を参考にしました。
冒頭の絵は、タイ将棋とも呼ばれる『マークルック(MAAKRUK)』というもので、街中ではビール瓶の栓などで戯れている光景を良く目にします。基本的には西洋のチェスと同じものですが、インドから伝わったようで、従来のものはチェスのビショップに代わるものでしょうか、コーンと呼ばれる駒があり、これをかつては『象』で表したようですが、動きは斜め左右に前後一枡ずつと直前に一枡動けます。
ラムパーン・ルアン寺院
 

カブトムシ

落穂拾いー(13)
山岳民族モン族の独楽遊び
 
世界には、様々な遊びがあります。似たものもあれば、全く想像もつかない遊びをしている民族もいます。今もチエンマイの田舎に行けば、土日になると小脇に鶏を抱えて小路を走るバイクがあります。闘鶏に行くのですね。彼らにとっては鶏インフルは脅威以外の何物でなく、かつての流行期にはワクチン接種を主張した人はこの闘鶏用の高額な鶏を飼っている人でしたね。
その外にも、禿げ相撲がありますが、これは頭部の禿げた大人が大地に両手を突いて頭を押し付けあって競うもののようですが、今これを見ることは出来ないですね。タイ東北部に行けば競馬ならぬ競水牛があり、水牛の背中ではなく、臀部に乗って走るのですが、けっこう速いようですね。その外、北部ではボートレースが昔からあったようです。
世の中にはドッグ・レースがあったり、中には亀の競争とかもあります。
これも夫々の民族の歴史的背景があるのでしょうが、徐々にそうした村の息抜きも姿を消し、ヨーロッパ的競馬競輪競艇などに偏りつつあるのでしょうか。そんな中で世界で唯一つ日本にだけパチンコがあるのは何故でしょうか・・・・
日本にも古くは、羽子板、独楽回し、凧揚げなど風流で季節を感じたものでした。そして、冒頭の写真にもご紹介したように、タイ北部の山岳部に住む少数民族モン族もまた日本と同じように独楽回しをしています。その独楽の遊び方は日本と同じですね。どこかで接点があったのでしょうか。そういえば、中国五千年の歴史の中で登場する神話時代の女王?女媧・伏犠の絵がありますが、これはモン族の物といわれていますので、今タイにいる彼らももとは中国中原に覇を唱えていたのでしょう。
チエンマイでもかつては打ち上げ式のロケット花火がありましたし、極最近まで目にしていた遊びの一つが、カブトムシを戦わせるものです。
 
カブトムシ
このカブトムシを戦わせる遊びというのは、数年前にはチエンマイ駅近くの空き地で戦わせている人たちを目にしましたが、今はどうなっているのでしょうか。
カブトムシは、生きているわずかの間、ひたすら食べて栄養を補給し、交尾の相手を捜し求めるといいます。 このカブトムシの雄には巨大な角があり、これが凶器ともなり、競技で使用されます。タイにおいてもカブトムシはいくつもの種類がいて必ずしもどれでも競技に使うわけではないようで、全長7センチ近い「クワーン・ソーン」というカブトムシには、かわいいペット同様に名前をつけます。このクワーン・ソーンの雄は、その性凶暴で、嗅覚もしくは視覚で雌の存在を察知すると、全身に緊張感を漲らせます。そんな時に目指す雌への道を他のカブトムシが遮るとさあ、大変なことになります。互いに命を賭けて戦うことになりますが、北の人々はそうしたカブトムシの性質を利用して賭け事にするのです。挙句の果てには、そんなカブトムシの賭けのための専用の賭場まで開設されたといいます。勿論闘鶏同様に許可制だったのでしょうが・・・
趣味が高じると、戦わせるカブトムシの産地にまでこだわったようで、チエンマイ近郊では、南にあるチョムトーン郡の『ドーイ・ローのカブトムシ』が一番であるそうです。その理由は、忍耐強く、何時間戦っても疲れを知らず、たとえ角が折れても尚戦い続けた、といわれ、まさに『不死身』の名をほしいままにしていたのです。
そんな忍耐強さの秘密を昔の人は、卵から孵化して地中に這い出さなければなりませんが、ドーイ・ローの土は硬く、しかも石が混じっているため地上に現れるまでに既に激しい訓練をつんでいるのです。こうした苦労をして地上に出てきたカブトムシは同じ種類のカブトムシより高値で取引されます。今、書物には最低20バーツから高額のものは300バーツにまで及んだと紹介されていますが、この話を見つけた本が印刷されたのが15年余り前のことで、その頃のチエンマイの中心地で最も高価なラーメンが一杯約25バーツ位、ビール大瓶一本が80バーツくらいだったと記憶していますから、決してカブトムシも安くないですね。
賭場から、カブトムシを戦わせる賭場開帳の日時が愛好家の間に知らされ回されます。その日が来ると、カブトムシを砂糖黍に止まらせて人々が賭場に集まります。
賭場には1メートルほどの止まり木が用意され、その中央部に穴を開けて雌を閉じ込めます。そして蓋をした後で二箇所に孔を開けてメスの匂いを出します。そうすると匂いを嗅いだ雄の闘争本能に火がつきます。とはいえ、そのまま戦わせることはなく、まずは、各カブトムシの角を脱脂綿もしくはサトウキビの粕などでしっかりと拭きます。これをしないと、もしもカブトムシの飼い主が角に着付け薬、蜜蝋、タバコの灰などをこすり付けて戦わせた場合、これに触れた対戦相手は、戦闘意欲を失うとされているからです。勝敗は、どちらかのカブトムシが相手に後ろを見せて逃げること3度にして決まります。しかし、カブトムシが木の端に後退した場合には、再び雌を入れた穴を挟んで対峙させます。
 
カブトムシの持ち主は、片手にカブトムシを戦わせる棒の端を掴み、片手に持った丸く25センチほどの長さの象牙の先にマフアンの実をつけた「混ぜ棒」と呼ばれる棒をカブトムシの角の間、止まり木の上で回してカブトムシを興奮させます。こうした刺激を与えると、孔から漂いだす雌の匂いとあいまってカブトムシの動きは急に生き生きとし、目の前の相手に挑みかかります。
ぶつかる角と角、互いに相手を挟んでは押し、救い上げようとします。その時、賭場の観衆もまた興奮し観衆の間で掛け率についての交渉が始まり、自分の賭けるカブトムシへの声援の声が賭場に満ちます。相手の頭を挟もうとするカブトムシを応援する観衆は、『オムバ』と叫び、対する相手は『トゥンワイ』と叫びます。『挟み付けろ』『踏ん張れ』というのでしょうか。当然カブトムシの持ち主は止まり木を捻って自分のカブトムシの体勢を有利にしようとします。
持ち主同様、もしくは以上に賭場に掛け率を交渉する声がうるさいほどに響き渡るのもこの頃です。互いに小さな虫を叱咤激励し、興奮させながら、賭場は最高潮に達します。どちらかのカブトムシが戦意を喪失しそうに見えると、賭場に罵声と嘲笑が起こりますが、持ち主は混ぜ棒を使って更に興奮させます。もしもこれに反応すれば、戦意喪失のカブトムシも狂気を発したように猛然と戦いに出ます。
こうした戦いは、時間無制限で三度戦われることになりますが、中には最初に角を突き合わせて数分で勝敗が決する場合もあれば、足がもぎれ、角が折れても尚戦意を失わないカブトムシもいます。
こうした賭場では、胴元は、掛け金の10%を『所場代』として徴収しますが、観客同士の賭けに関しては一切関与しませんが、もしも諍いが起こった場合には仲裁の労をとります。
 
通常、この種のカブトムシは、9月末に地上に這い出し、約二週間ほどの訓練をした後戦いの場に出てきます。賭場開帳期間は二ヶ月ほどのようですから、胴元としては、さしたる収入とはならないようです。
 
そんな儚い命のカブトムシでも、名を成したものはいるようで、ブーバーリン、アイ・チョーンというのは、大東亜戦争中において一万バーツの掛け金を置いたといわれ、飼い主を少なからず裕福にしましたが、それはまた対戦相手を破産させることでもありました。勇猛にして忍耐強く、その名声は遠く北のファーンの町にまで響き、人々を引き寄せたとまでいわれます。
そんなカブトムシの功績を愛でたのでしょうか、ブーバーリンが亡くなると、飼い主は、全身に漆を塗り、真鍮箔を貼ったといわれています。
 
 
(了)ラーンナーの地に古くから伝わるさまざまな行事、話を掘り起こして書き記しているサンキート・チャンタナポーティ氏著「ラーンナ−の扉を開く」の中の「闘カブトムシ・ワタノキの上の戦い」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、山岳少数民族、モン族の子供たちの独楽遊びの風景です。これは、弾き独楽に似ているように見えます。
 
 
カブトムシ
 
 
 
 
 

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