チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

落穂拾い

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出家前の出家

 
落穂拾いー(12
 
日本は、今も基本的に仏教国だと思いますが、さて僧侶の出家となると、一般の人々には見る機会が殆どないのが実情ではないでしょうか。これも多くのお寺さんでは世襲で住職を継いだりしますので、家族以外には殆ど関係ないのでしょうか。
真言宗智山派総本山智積院のサイトを見れば、「『度』というのは『渡る』という意味です。ですから『得度=渡るを得る』とは、仏の教えに出会って彼岸(悟りの世界)に渡るという意味になります。そこで、悟りを求めて仏道の修行に入ることを「得度」といい、その儀式を『得度式』といいます。」とあり、具体的儀式の内容に関しては非公開となっていますが、そこに何かの秘儀があるのでしょうか。
同じ仏教を信じる国とは言いながら、タイにおいては少し異なるようです。まず第一に、日本と違って僧侶になる=出家する、と言うことにそれほど秘密性がありません。それは、仏に触れる、という意味で重要であり、社会人としての認知を受ける、という意味で有意義なことだとされています。それ故でしょうか、出家というにも二種類あります。
日本の様に人生の分かれ道、というほどの決意は必要ないようです。ある期間だけ僧衣をまとい、社会人として認められることを求める場合、結婚を前に僧門をくぐる男性が多くいます。その他、身内の不幸に際して、供養のために一時的に僧門に入る人もいます。
中には、二度僧衣を身に纏う人もいます。二度というのは、正式に出家すると227か条にも上る戒律を守らねばならず、常住坐臥全てこれ修行となり、かなり窮屈な日々が要求されます。これも、必ずしもその通りとはいえないようにも見えますが・・・。それはともかく、そうした正式得度出家の前に、そうした227か条もの戒律を厳しく守ることを求めないもので、わずか10か条の戒律を守ることを要求されるサーマネーンという存在での出家です。そして、その後正式出家が許される年齢に達した後、改めて得度出家する場合があります。この場合には、多くの場合もう出家が一時的なものではなくなっているようです。
どのお寺に行っても必ず目にすることが出来る僧衣を纏った子供たちです。ところが、この子供たちの出家風景も、チエンマイなど北部とバンコクでは様子が違うようです。
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出家前の出家
いわゆるラーンナーと呼ばれる北部タイは、かつて独立王国でしたので、独自の文化を持ち、独自の文字を持ち、言語も同じタイ語ながらかなりの違いがあります。数十年ほど前までは、初めてチエンマイに来たバンコクの人はチエンマイの市場で買い物をするのもかなり苦労したと思います。というのは、今も基本的に町の市場で使われるのは地元の言語だからです。
そんな違いの一つに仏教がありますが、その違いについてはかつてご紹介したことがあり、その中には、当地の僧侶のうちまだ正式に得度していない、すなわち、227か条の戒律を受けていない小僧さんが、夕方実家に帰って家族と食事をしたり、時には実家で寝泊りしたりという、バンコクでは考えられないことがありました。
そうした習慣とは別に、ここに興味深いラーンナーの地の出家行事があります。これは、正式に出家するのではなく、仏教を肌で感じ、欲すれば将来的に正式に得度出家することも出来る、サーマネーンと呼ばれる小僧になるための行事です。ただし、小僧さんはチエンマイのどのお寺にも見ることが出来ますが、その出家風景の独自の形をチエンマイ市中で見ることは至難の業です。しかし、これも田舎に行けば時には見ることも出来ます。とくに、メーホーンソーン県にはまだ色濃く残っているようです。
村の少年が出家しようかという年齢に達します。小学校を卒業したばかりです。中には、卒業前の子もいますし、卒業して既に中学生になっている少年もいます。父親は、子供の成長を喜ぶと同時に、習慣に従って仏の教えを肌に感じさせる為に、自らが信心しているお寺に出向いて住職と出家についての打ち合わせをします。大体学年が終わる3−4月頃でしょうか。ちょうどチエンマイでは夏盛りの暑い日で、学校は夏休みに入ります。子供たちをお寺に預けるには最もいい時期です。その日が決まると、次に親類縁者に少年の出家が触れだされ、いよいよ行事の始まりです。
噂は忽ちにして村中に広まり、出家の日が口から口に伝わって行きます。さまざまなものが用意されます。出家の行事に要する衣装だとか、楽団だとか、料理も考えなければなりません。大人たちが、準備に走り回っている頃、少年はお寺に入って出家後の作法、出家の為のバーリー語及びサンスクリット語での問答の勉強、などなど少年なりの出家の準備をします。
この行事は、ビルマに多く住するタイ・ヤイ族という部族の習慣が本来のもののようで、彼らの間では、この行事はポーイ・サーンローン(POOY SAANG LOONG)と呼ばれ、『小僧になる前の行事』という感じでしょうか。これもチエンマイのタイ語では『ンガーン・ルーク・ケーウ(NGAAN LUUK KEEW)』となります。この出家しようとする少年をルーク・ケーウ(宝玉)と呼びますが、これは少年が両親にとってどんな宝にもまして神々しく見えるからかもしれませんし、まもなく僧衣を纏って本物の宝石になるのですから、こうした命名もあながち的外れではないかもしれません。
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この間の行事は、通常三日間に亘って持たれるようです。最初の日を準備日としますが、この日、少年の家は朝から大変な人だかりです。少年は髪の毛を剃りますから、もう後戻りは出来ません。タイでは、僧は眉毛も剃り落としますが、ビルマでは眉毛までは剃りませんので、この行事においても少年は眉毛を残したままです。そして、大衆演芸劇団の芸人のように美々しく着飾り、サングラスをかけ、もてる限りの宝石で飾り、頭はビルマ風に布で包み、冠すら被ります。ついで、村の長老、家系の長老たちのもとに挨拶に向かい、出家の挨拶と同時に祝福の言葉を受けます。
村人たちも、紙幣を竹に挟んで突き刺し、あたかも一本の樹のようにします。『トン・ンガーン(TON NGAAN)=金樹』と呼ばれるものですが、お金に触れることが出来ない僧に対する寄進の『樹』です。その他、お祝いにやって来る村人を持て成す食事の準備もまた主催者の責任で、これもまた村人の協力なくしては出来ません。
翌日は、少年は同じく美々しく着飾った服装で馬に乗り、村の中を練り歩きますが、この時賑やかなお囃子が先導し、村人たちが踊りながら練り歩きます。馬は興奮しているのか、そのように訓練しているのか、嬉しそうに小さく飛び跳ねるようにして行列を盛り上げます。
そして、最後の三日目には、いよいよ出家です。この時、美々しく着飾った少年ルーク・ケーウは、馬に乗ったままお寺に向かい、白衣に着替えます。それは正式に小僧となるための前段階です。場所は、お寺の御堂です。村人たちが集まり、白衣の姿を見て微笑む人の中で、母親は嬉し涙を流します。女性の出家が認められないタイでは、息子を出家させることがたとえ一日であっても母親にとっての最大の務めを果たすことであり、最大の徳を積むことでもあります。
かくして、白衣に着替えた少年が、僧の前で出家を誓い、指導僧が少年に黄衣を着せます。黄衣を身に纏うと、その瞬間から少年は俗世間から離れます。もう子供であっても子供ではないのです。黄衣を纏っただけで住む世界が変わり、母親といえども、子供に両手を合わせて拝みます。
そうして、やがて出家したばかりの少年僧が、この行事に集まった親類縁者を前に初の説法が行われると、村人の誰もが少年に三拝し、行事が終わります。
 
その間、三日にわたって少年の家では、にぎやかに楽団が演奏され、掛け合いの歌が歌われ、村人が協力して料理を作って参加者に振る舞います。勿論村人から出家する少年に夫々寄進が行われることはいうまでもありません。
何年か前に見た村の行事では、少年を乗せた馬は、そのまま御堂に上がり、馬から下りた少年がしばらく姿を隠した後現れた時には、白衣に変わり、身を飾る一切のものがなくなっていました。その時少年はルーク・ケーウからナーク(NAAKH)に生まれ変わっているのです。そして、いよいよ10戒を受けての出家の儀式が始まります。
僧侶の前に出て戒を受けますが、その間御堂は静寂に包まれ、縁者、村人は誰もが神妙な面持ちで儀式を見守ります。やがて出家が許されると、新米小僧さんは、重々しく始めての説法を村人、縁者にします。その時、家族、特に母親はこの上ない喜びに浸るようです。この行事に入る前の幾日かお寺に通って修行していたことの成果がこの初説法に表れます。
ただ、何故こうした行事がバンコク周辺のタイ族にはなく、ビルマにいるタイ族の間に広まっているのかまだ正直分かりません。ただ、ここチエンマイはその建国の始めよりビルマのタイ族との接触があり、民族としても兄弟関係でもあり、そうした彼らの影響を受けたのでしょうか。それとも、かつてビルマがチエンマイを占領していた時代、多数のタイ・ヤイ族がビルマと一緒にやって来て居を構えましたので、その痕跡でしょうか。今こうした行事が一番色濃く残っているのは、タイ・ヤイ族が多く居住するメーホーンソーン県です。
では、この行事は何を意味しているのでしょうか。
単に、お寺に出家の申し入れをして許された時点で日取りを決め、みんなして出家すればいいと思うのですが、実際、バンコクなどの出家は、こうしたお寺と出家希望者の間の日程調整が全てです。
こうした賑やかな行事は何を意味するのでしょうか。
もしも想像が許されるならば。釈尊の出家を真似ているのかもしれません。釈尊は29歳にしてただ一人の従者チャンナを伴い、愛馬カンタカに跨って城を出て行きます。四門出遊です。当然その身分は前途洋々たる王子でした。夏、雨季、冬用の三つの宮殿と多数の使用人、潤沢な経済力は、飽食をもたらし、美女と楽団が周りを取り囲んだ何不自由ない生活をシッタタ王子は、捨てたのです。出家のその日も、その身には美しい剣を帯び、当時としては豪華な衣装に身を包んでいたでしょう。そして、森に入るに際して馬を下り、剣を持ってフサフサの髪をバッサリと切り落とし、全ての持ち物、装飾の品々を従者チャンナに渡し、馬共々帰城させると、一人森に入りました。着ている物すら通り合わせた乞食に差し出し、代わりに乞食が身に纏っていた汚れた衣に身を包みました。
そうした富の放棄をこのルーク・ケーウの儀式は表現しているのかもしれません。こうした儀式を守ることで、出家の意味を伝え、村人の間では共同体意識が生まれ、行事の準備から共にすることで相互理解が生まれ、協力・分業の共同体組織が出来上がり、しかも民族の宗教を守り、伝統を守るという様々な利点があります。
こうして、出家した小僧さんですが、出家の期間は、そのまま何年でも構いませんし、その後、227か条の戒を受けての正式出家も可能ですが、夏休み中だけ、という場合もあれば一週間という短期間もあります。
先祖より受け継いできた習慣を守ることにこそ意味があるのでしょう。
 
しかし、タイ族社会の中に様々な血が混じり合い、外部からの情報が流れ込み、文化が流れ込んでくると、村組織においても意識の共有が次第に崩れ、共同体の中に外部から入ってくる様々な文化に旧来の文化が押しやられて行きます。様々な行事がもう昔のように旧態依然として守るだけでは保存できない状態です。守る為には、強力な意思・必要性の理解が求められますが、タイの社会にそうした意識が見えてこないような淋しさを覚えます。
 
(了)
中等教育副読本である『タイの地方を知る副読本』の中の『北の町の物語−伝統・習慣変』に掲載されている『北のルーク・ケーウ、ポー・ナーク』を参考にしました。
写真は、ルーク・ケーウの写真です。
 
ルーク・ケーウの行列

処刑執行人

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落穂拾いー(11
 
人は、その文字からして分かる通り、一人では生きて行くようには生まれていないようです。集団で暮らして来ましたから、集団を維持する決まりが必要でした。何らかの決まりがなければ統一した行動、共通の価値観を有する集団として成り立たなかったかもしれません。猛獣が生息する草原でひとりで生活するほど人間は強くなかったようです。
規則が出来れば、規則に反した構成員を罰する決まりも出来るはずです。それは、規則を破った程度に応じて軽重があったでしょう。そんな軽重の中で最も重い刑罰は、死を持って償わせることではなかったでしょうか。死罪を執行するともう元には戻りませんから、執行を命じる方も十分な調査と確信の基で命令したでしょう。
徳川時代には、罪人を斬首する役目があり、代々浅右衛門を名乗り、人斬り浅右衛門と呼ばれたりしました。この山田家は、吉宗の時代に御ためし御用という役を引き受けますが、これは刀剣の試し切りが主で、それに付随して処刑執行人ともなっていたようです。代々浅右衛門を名乗り、明治3年まで山田家の世襲でした。とはいえ、これには非常な技量を要しますので、単なる世襲では勤まらず、時には高弟を養子にするなどで山田家の名前を残していたようです。
いずこの國も死を持ってその犯した罪を償うという考えがあったのでしょう。最近では、死が残酷だということででしょうか、それとも人の命を奪うことは如何なる理由があろうとも許されないというのでしょうか、死刑を廃する考えを有する人もいるようです。たしかに、人が人を裁くというのは大変に難しいことで、人の判断が常に正しいとは言えない、そう言われれば答えに窮します。ただ凶悪犯罪として弾劾される人にも生きる権利がある、のであるならば、殺された人間には生きる権利はなかったのでしょうか。亡くなった人はもう二度と生き返ることがありません。その後の全てを奪われたのです。
ならば、奪った人にその罪の深さを知らしめる為に同じ苦しみを与えることもまた止むを得ない、と考えたとしても非難できないのではないでしょうか。
 
処刑執行人
刑務博物館のサイトにある人形の写真を見ると、その当時、100年以上も前のバンコクの処刑の様子を見ると、処刑に先立ち係官は罪状を読み上げて処刑の許可を得ると、罪人を刑場に引き出し30回もの鞭打ちすえることを3度まで繰り返したといいますが、板を使ったのでしょうか?次いで僧侶が読経を上げ、罪人は、大地に足を真っ直ぐ前に伸ばして座らされ、背中は十字の木で縛られます。そして、耳と口に粘土を詰め首筋に目印として粘土を貼り付けます。続いて予備を含めて3人の処刑執行人のうち2番目の人が踊りを舞い、罪人の気持ちが静まったところを第1の執行人が首を切り落とします。その時罪人は目隠しされているようです。処刑が執行されると、踵を切り落として足に嵌め込まれた鉄の倭を取り外し、遺体は斬って鳥葬に付されます。頭部は突き刺されて見せしめとされたようです。
わがチエンマイのチャウ・チーウィット・アーウの時代の処刑のお話しが残されています。
かつて、このブログでも幾度か名前が出て来ましたが、100年余りも前のことですが、チエンマイ王朝の第六代目の王にチャウ・チーウィット・アーウという王様がいました。今に残る写真で見る彼は、頬が落ち、如何にも神経質そうで、笑顔を想像し難いものですが、その一言決して覆ることはなく、絶対的確信をもって発せられる言葉の一つ一つは常に人々の反論を許さないものでした。しかし、同時に、その言葉には暖かい人間味と父であるチエンマイ王朝の初代王から続く自らの王国の秩序を一糸たりとも乱させない、という断固たる決意に裏付けられていました。
そんな王の治世下には、死を持って罪人を裁くこともありました。しかし、その時の処刑執行人は、山田浅右衛門のような代々の世襲ではなかったようです。
まだ、バンコク王朝の支配下に入ることなく、ラーンナー独自に自治権を持って統治していた時代のお話です。処刑執行人は、誰もが嫌がる人の命を奪うことを公務として行うわけですから正式に役職、階級を授かります。それは、御家人でもない山田浅右衛門が御ためし御用という公務を正式に職としていたことに似ているかもしれません。チエンマイの公式処刑人には、セーン・ファー・ンガムという名前が授けられますが、10万を表すセーンという言葉がついていますから、下級役人ではなく将軍職に近いですね。
このセーン・ファー・ンガムというのは、山田家の様な世襲ではなく、かつて自らも死刑の判決を受けた者の中から選ばれたようです。自らの死を免れる為に同じ死刑囚の首を刎ねる。自らが生き残る為とはいえ、何の縁もゆかりもなく、恨みもない見も知らない人の首を刎ねるのですが、その職を全うする為には十分に職務遂行に耐えうる丹力と技量を有するものでなければならないことは確かなようです。残されている話では、この時のセーン・ファー・ンガムの様相は、次のようでした。
「人々が言うには、彼の顔は酷く恐ろしい様相で、目は鷹の如く、誰かを見る時、見られたその人は、本当に背筋が凍るほどに怖かった」
こうした役目を引き受ける死刑囚は当然それなりに恐ろしい罪を犯して来たに違いありませんから、彼の名前を聞いただけで誰もが身の毛もよだつ恐怖を覚えたことでしょう。
しかも、処刑の前には恐ろしい前兆まで起きたといいます。
「伝えられる所では、彼が人の首を刎ねる為に使う剣は、王から命令を受ける前には、誰も触れないにも拘らず、鞘の中でガチャガチャ動き回」り、その音を耳にすると、セーン・ファー・ンガム自身「剣が人の首を刎ねる事に間違いがないことをはっきりと知」ったと伝えられています。
その当日、係官は、罪人を伴って町を歩きます。罪人は係官に牽かれて歩きながら沿道の人たちに自らの犯した過ちを大きな声で告げて行きます。その足には足枷が首にも又枷が嵌められています。この行列は、処刑執行の場所への移動と同時に、人々に悪事を働くことの報いの恐ろしさを伝えることも当然その目的に含まれています。
その行列の最後尾に一人の異形の人物が続きます。赤い袖なしのシャツと赤いズボンを履いた人物は、剣を手に踊りながら付いていくのです。その人こそかつての死刑囚で今は公式処刑執行人となってセーンの位を得たセーン・ファー・ンガムに他なりません。
山田浅右衛門は、処刑に当たって日を選ぶのでしょうか。ここチエンマイでは、処刑の日、天が泣くのか、隠れるのか、空には雲が流れて日の光を遮り、風の神はどこへ行ったのか、一陣の風さえ町に吹かないといわれます。
この行列は、幽霊門とも訳せるピー門とも呼ばれた門から出たといわれますから、今で言えば城郭都市チエンマイの南にあるスアンプルン門でしょうか。この処刑の時、この門を短首門と呼んだそうですが、確かにこの門を出てしまえば首を切られて首なしになりますからそういう名前になったのかもしれません。そして、その行き着く先は、城市の南にあったという『トゥン・フア・コン(ทุ่งหัวคน=人首ヶ原)』と呼ばれた草原ですが、今チエンマイでその場所を求めても特定することは難しいでしょう。ただ、若干のヒントを探せば、その草原がトゥン・チャ−ン・クラ−ン(ทุ่งช้างคลาน=象が這う草原)に接しているということですが、そのトゥン・チャ−ン・クラ− ン(ทุ่งช้างคลาน=象が這う草原)という不気味な名前の草原も当然ながら今は既にありません。もしも想像が許されるならば、『チャーンクラーン通り』という名前の通りはありますが、それは,城郭都市チエンマイの東に位置し、一大観光地を南北に走っています。ただ、その通りを南に走っていくと、右手方向に今も不気味な静寂の一帯があり、そこに今も墓地がありますが、その辺りだったのでしょうか。かつては、チエンマイの城壁外は、鬱蒼たる緑の森であったであろうことは山の上から見下ろせば今もその名残を留めていますので、容易に想像が出来ます。まして南の方向は、町の裏側に当たりますので、なお更に不気味な感じの地域が今もあります。
それは兎も角、行列が、処刑の場所に来ると、係官は、死刑囚に人生最後の食事を心行くまで食べさせます。次いで仏を拝させると、引導を渡し、催眠術にも似た呪文を唱えて囚人の気持ちを落ち着かせます。この時、バンコクのように粘土を耳や口に詰めたり、首筋に目印をつけたりはしないようです。暫時忘我となった囚人の頭が垂れると、その瞬間です。セーン・ファー・ンガムの剣が稲妻のように空気を切り裂き、一撃で囚人の首筋に振り下ろされます。忽ちにして首は肩を離れて前に掘られた穴の中に転げ落ちます。頭部を失った体からは行き場のない血が溢れて身体を洗います。
目の前で蠢く肉塊をよそに、セーン・ファー・ンガムは剣に付いた血を舐め、啜ります。これもまた処刑執行人に課せられた避けられない務めだったのです。
この話に出てきた処刑執行人は、長生きしたとされていますが、いつまで生きたのかは残っていません。ただ、数え切れないほどの人の首を切り、その血を啜って来たからなのか、死の前には、彼はその血塗られた剣を手にぐるぐると訳もなく舞ったそうです。
 
(了)
タイ文部省推薦の副読本の中に、北部タイの様々な物語を綴った本が三冊あります。夫々、人物編、場所編、行事編とでも言うように主題ごとに分かれていますが、その中の一冊『北の町の物語りー重要な場所編』の中の「人首草原の処刑人および、刑務博物館http://www.correct.go.th/mu/index4.htmlより題をお借りしました。
 
動画は、現在南部タイの伝統芸能でマノーラーともノーラーとも呼ばれていますが、その原本は、北部ラーンナーの僧が著した『五十仏生譚』と呼ばれる仏教説話に記されています。日本の羽衣伝説に似た半鳥半人の物語です。
 

本文中の説明よりは新しいと思われますが、興味のある方は、100年余り前の処刑風景は下記の写真でご覧下さい。バンコク政権下だと思いますが、場所は分かりません。座っている人が死刑囚で執行人が後ろで踊っています。http://www.bloggang.com/data/misterhong/picture/1167391116.jpg

水神供養

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タイ族伝統の祠
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サンカムペーンへの道
落穂拾いー(10)
 
日本全国どこの町にも神社仏閣があり、夫々にさまざまな伝説を持ち、さまざまな伝統行事を伝えてきました。昔の小正月には、各地でどんど焼きなどが行われてきましたが、お正月飾りを集めて燃やし、その火で焼いたお餅を食べると、その年一年無病息災であるとか色々なことを昔の人は言いました。また、お飾りでお迎えした歳神様をお送りするためにお飾りを燃やしたのかもしれません。又、火は不浄を焼き払い、新しい命を生み出すと考えられていたのかもしれません。
どのような意味がそこに備わっているのか時代と共に少しずつ変化するのかも知れませんが、最近では、そこにゴミを捨てる人などもいると聞きます。するともう本来の意味は忘れられてしまったのでしょうか。たとえ本来の意味を知らないとはいえ、風習を知らないとは残念ですね。
昔からの風習、慣わしの意味を知らないとはいえ、それを無視して欲しくはないですね。同じように、神社仏閣に伝わる言い伝え、行事の中で信じられないものがあるとしても、それを否定することはよくないですね。小さい頃父がよく言っていたのは、「信じなくても、習慣を守ることで支障がなければその通りにしていろ」というのでしたが、風習・習慣を決して軽んじない、そんな姿勢が自分のご先祖に対する敬意の表明となるのだと思います。
 
水神供養
チエンマイに来た外国人観光客が必ず行くといわれている観光地がいくつかあります。宗教関係では、ドーイステープ寺院に参詣して山上から市内を見下ろして緑の中に眠る町を眺めたり、少し郊外に出て象の水彩画実演、作業場を見て、時間があれば像の背に揺られてトレッキング気分に浸る。買い物は夕方に市内のナイト・バザールで屋台を覗き、値段交渉を楽しむ。そして、日中の買い物であれば、チエンマイから東に行ったところにあるサンカンペーンという町に行くのでしょうか。
その町には、銀製品、絹製品、木工品、セラミック、傘工場、手漉き紙工場など外国人が喜びそうないわゆる家内作業、手工芸品の実演販売で、多くの場所で製作過程を見せ、チエンマイを代表する観光地の一つとなっています。そんな外国人が連日押しかける観光の町にも、古くからの伝統行事があります。それは、誰も侮ることが出来ない恐ろしい神を祀る行事です。
旧都チエンマイ城の東門に相当するターペー門を出て真っ直ぐ東に向かい市内を裂いて南北に流れるピン川を渡り、タイ国最北端の鉄道駅を右に見て、なお真っ直ぐ進みます。途中バンコクにまで繋がる大きな道路を渡ってさらに東に進みますと、左右に並木を従えた一本の道が走っています。その通りに面した場所には、ところどころ観光客相手の商店がありますが、その奥を見ると、一面の田野が広がっています。
その田畑を潤す小川が流れており、その川には神が宿ると信じられています。その神は、クン・オーンといいますが、地元方言では「オーン川の源」という意味になるようです。このオーン川の水で田畑を潤し、生活の糧を得ているサンカムペーン郡の流域諸村では、毎年交代で水神を慰める供養の祭りを催します。
川を遡ると、クン・オーンの森と呼ばれるところがあり、オーン川からわずか20メートルほどしか離れていませんが、大きな菩提樹が枝を広げて聳えています。そこには、古びた祠がその菩提樹の木陰に目の高さほどに高く作られ、菩提樹から舞い落ちた枯れ葉が積り重なっています。その祠は高床式人家にも似ています。
このクン・オーンの森の祠は、冒頭の写真よりかなり大きく、古く、大雑把で日々の手入れの様子もなく、祠の床には竹を編んだ筵が敷かれています。中には水差しと花を載せた盆が置かれていますが、一年の間に水は涸れ、花は朽ち消えています。そして、祠の前には広い空間が出来ており、そこには周りと違って木が生えていません。その空き地には、牛、豚の骨、鶏の羽がまだ残っています。この場所こそがクン・オーン神の宿る場所です。
チエンマイ暦9月14日といいますから、現在の暦では6月14日になりますが、その年のオーン川の水神供養の主催村の担当になった村では、人々がこの広場に集まります。村人は、この供養の為に夫々所有する土地の広さに応じた分担金が割り当てられますが、これは決して強制されるものではないそうですが、多くは応じるのでしょう。
供養の主催村では、村人からの寄付を元に、雄の牛一頭、雄の豚一頭、雄の鶏一羽、酒二瓶,もち米,調理器具,調味料、縦笛、胡弓、鉦、太鼓、そして、踊り子を揃えて向かいます。そして不可欠なのは、神の降臨を願う霊媒師です。
村人たちは、祠の前にやって来ると、広場を掃き清め、テントを張り、食事の支度をし、楽器を奏で、歌を歌い、終夜眠ることなく夫々が決められた役目を忠実に果たして夜明けを待ちます。
早朝、女性たちはもち米を蒸し、男たちは生贄に捧げられる動物を水で清め、ウコンの粉を塗って黄色くします。そして、牛の角には女性たちが花を結び、豚と鶏の首に花輪をかけます。生贄の動物たちの化粧が終わると、まず牛が引き出され五本の杭に繋がれます。頭を包む布を含めて全身赤い衣装に身を包んだ屈強の男性が一本のナイフで牛を葬ります。かくして三種の動物が命を神に捧げますが、流れ出る血はそのまま器に受けて祠に納められ、神に捧げられます。祠の中には酒の他にも水を入れた水差しも準備されます。
ついで、招魂の言葉を捧げる間、踊りが奉納されますが、昔からの伝統で、この踊り手は50歳を超え、しかも処女でなければならないといわれます。踊り手は白い長袖の上着、伝統のタイ・スカートを履き、左の肩からサバイと呼ばれる布で胸を包んで右脇下に通して左肩に持ってくる伝統的な形です。年老いた処女の踊り手は神に踊りを捧げ、楽器が奏でられます。この時の神への奉納物は、生贄の動物の生血、酒、水だけですが、供養の儀式はまだ続きます。
神に捧げる昼食は、牛肉のスープ、豚肉の叩き、鳥の丸焼きでなければならず、一品たりとも変えることは許されません。何故ならこれが神が望む料理だからです。この料理が神の意志であることの証として地元に残る話では、次のような恐ろしい話が残っているそうです。
― 今から100年ほど前のこと、西暦1920年前後のことですが、供養を担当した村の責任者、パヤー・アーサーラート・バムルンは村人の反対を押して、料理と肉を取り替え、豚のスープ、牛肉の叩き、鳥の丸焼きを準備するよう命じました。
神の祟りを恐れながらも、村人は目の前の権力者を恐れて命令のままに料理を作り奉納しました。その瞬間、晴れ渡っていた空は真っ黒い雲に覆われ、森の木々をへし折るかと思う強い風が森を揺らし、雷鳴轟き、稲妻が人々の気持ちを切り裂きます。激しく降り注ぐ雨は天の底が抜けたの様で目を開けていることも出来ず、人々の叫び声も掻き消され、テントは吹き飛ばされ、用意の調理器具も散乱して手の施しようがありません。
供養の行事の責任者であるパヤー・アーサーラート・バムルンは,突然の自然の荒れを恐懼するよりも罵詈雑言を吐いて天を罵倒し、村人に帰村を命じました。村に帰る為には、わずか先のオーン川を渡らなければなりませんが、降り止まない激しい雨で見る見るうちに水嵩が増して行きます。村人たちは、クン・オーンの水神様の祟りと信じ、ひたすら恭順の意を示そうと、渡しの横でしばし休息し、神の怒りの静まるのを待とうとしました。
しかし、パヤー・アーサーラート・バムルンは、村人の考えなど気にも止めず、供養の行事を台無しにした自然を呪いながら、馬に跨ったまま川に入りました。その瞬間、濁流がかつて一度も見たことがない大きな波となって彼と彼の乗った馬に襲い掛かりました。それは一瞬の出来事で、村人たちは目の前の出来事を如何ともすることが出来ず、又敢えて助けようとはしませんでした。何故ならば、この雨も風も鳴り止まない雷も全てはクン・オーンの水神様の怒りだと知っていたからです。一瞬の間に馬諸共濁流に飲まれて水中に姿を消したパヤー・アーサーラート・バムルンは、翌日はるか下流の灌漑用ダムに引っかかっていました。
 
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スープ
 
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豚肉のたたき
 
こうした話を受け継いできた村人は、決められた通りに牛を、豚を、そして鶏を調理しました。村人は、牛肉のスープ、豚肉の叩き、鶏の丸焼きを一つずつ、そして花を乗せたお盆、今一本の酒の入った瓶を祠の中に入れて神に供えます。ついで、今朝方動物を処理した男性が、神を招請します。
が供養の食事を召し上がっている間、朝と同じように踊りが奉納され、村人は楽団と共に練り歩きます。こうした賑やかな踊り楽器演奏が5分あまり続くと、神のお食事も終わります。神のお食事が終わると、村人たちは神からのお下がりの食事をみんなで頂きます。
村人の食事が終わると、水神供養の儀式もいよいよ最後です。
同行の霊媒師が恭しく広場に出てきます。祠の前の広場に布が敷かれると霊媒師が恭しく祝詞を捧げ、神の憑依を願います。静寂の中で霊媒師の言葉だけが静かに流れます。やがてそれも消え、一瞬の沈黙が広場を埋めます。次いで霊媒師が先ほどまでとはまったく別の人格を持って凛とした姿でそこに腰を下ろしています。神の降臨です。神が霊媒師の体に宿ると、村人は神のご加護を願い、神は重々しく威厳に満ちた口調で村人の誰もが幸せであるように、平安な日々であるように、五穀豊穣であるように祝福の言葉を告げます。
一通り祝福の言葉を告げ終わると、神は霊媒師の体から離れて昇天して行きます。それを持って供養に一連の行事が終わり、人々は調理器具をまとめ、テントを畳み、茣蓙を巻いて村に引き上げて行きます。
 
伝統行事の中で語られる様々な不可思議な出来事を信じるか否かは兎も角、伝統行事の中に秘められているご先祖の知恵を無にしたくはないですね。
 
(了)ラーンナーの地に古くから伝わるさまざまな行事、話を掘り起こして書き記しているサンキート・チャンタナポーティ氏著「ラーンナ−の扉を開く」の中の「水神供養」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、市中で一般に見られる土地の神様を祭った祠で、今一枚はサンカムペーンの中心に向かう道です。又文中の画像は、スープと豚肉のたたきで酒の肴だけではなく、食事の副食としても日常的に食されますが、辛さゆえに子供は食べられません。
下の動画は、チエンマイの城壁内にあるシープームという聖地での「チエンマイの御霊供養」の様子です。
「チエンマイの御霊供養」
落穂拾いー(9
 
イメージ 1
ポー・チャウ・チーウィット・アーウ
 
 
世の中には、とても優しい話し方、物腰の柔らかな人が心荒々しい凶悪犯人であることもあれば、逆に厳しい顔にドスの効いた声、どうにも近寄りがたい雰囲気を漂わせながら実は心優しい人もいます。とても怖く、わずかな間違いにも目くじら立てて大きな声で叱責しながら、実は、暖かく部下の成長を見守り、部下の間違いを決して上司に告げ口せず、部下の間違いを自らの間違いとする人もいれば、部下に優しく自由に任せ、間違いにも微笑みながら訂正する優しい上司が、実は自己保身に走り自らの間違いすら部下の間違いだと上司に報告している、かも知れません。
人は往々にして、思い込み、先入観を持って人を判断しがちです。
絶対権限を持つ昔の王が処刑を命じたり、住人を罰したりする場面を見ると、暴虐の王、悪逆非道の王と無垢の可哀想な被支配者。そんな単純な図を描きそうですが、必ずしもそうではないようですね。
 
ポー・チャウ・チーウィット・アーウ
以前、この項でチャウ・ダーラーラッサミーのお話を紹介しました。妃の母君、メー・チャウ・テープクライソーンは、チエンマイ王朝第六代目の王チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンの王女であり、同王は、チエンマイ王朝初代王である、チャウ・カーウィラの次男です。
王は、通常民間の間では「チャウ・チーウィット・アーウ」と呼ばれ、その意味を考えると、裁きの場でアーウと感嘆詞を発すると、その一言が被告人の弁明に不同意を表し、審議は打ち切られ、処刑されたからかと思います。
しかし、かつて紹介しましたチエンマイでのキリスト教徒処刑に際しての同王の態度からしても決して理不尽で非道な恐怖政治によって統治していたとは思えませんし、理由もなく強権を発動することもないようです。
それは兎も角、当時の王というのは、領民の殺生与奪の権を持ち、如何なる命令をも発することが出来る絶対権力者であり、裁判官であり、軍司令官でした。そして、王も実際に父王の命で軍を率いて戦場に出ています。のみならず、チエンマイの王は、ラーンナー王国内の他の王たちの上に位置していましたので、その一族の威令は王国内の全域に行き渡っていたようです。
この王との直接対決で国外退去か布教停止かという第三の選択の道を閉ざされたアメリカ人宣教師マッキンヴァーリーは、死を覚悟でチエンマイに留まり布教する決意を固めますが、それでも彼は王とのこの最後の会話は友好裏に行われ、大変友好的なものであった、として、王に対する恨みの言葉、非難の言葉を残していません。断固たる信念の下でチエンマイの伝統・文化・宗教・習慣を守ろうとした王の心は案外に温かかったのではないでしょうか。
ただ、「・・・シャム王室の中においても、王の権限内に踏み込むことに恐れを抱いていました・・・」という同宣教師の言葉がありますので、王の断固とした姿勢は、バンコクにまで伝わっていたのでしょう。しかしながら、バンコクの王朝といえども、越権行為を許さない断固とした姿勢は、国の指導者として当然かとも思います。
ここに一つのお話があります。
かつてご紹介した、タイ国中等教育副読本に推薦されている「北の町のお話ー重要人物編」の中に「ポー・チャウ・チーウィット(アーウ)の心理学」という表題の短い文章で、王の裁判の様子が女子学生たちの会話形式で語られます。今、それを基に、チエンマイの人々に恐れられ、今なおその名を留める「ポー・チャウ・チーウィット・アーウ」が如何にして犯人を探し出すかと見てみましょう。タイ・ルー族の民間英雄物語の中のアイ・スック、アイ・シー兄弟とは違った姿がそこに見えます。しかし、アイ・スック兄弟とは違って実在の人物であり、現実の裁き、犯人探しだったようですが、いかにもチャウ・チーウィット・アーウらしいです。
「そのお方は、チエンマイの国王のお一人で、伝えられるところでは、その猛々しく勇猛なる声は、この上もなく恐ろしいものなの。何かお気に召さないことがあると、ただ一言『アーウ』と雄々しいお声を発せられるだけで、それを聞いた人の魂が砕け散るほどに威圧するに十分な力をお持ちだったのよ」
庶民が恐れて呼んだチヤウ・チーウィット・アーウという言葉は、こうした王の断固とした不退転の決意の下で発せられる「アーウ」という感嘆詞によるものです。もしもこれを日本語にするならば「まさか」とでも訳しましょうか。
「・・・ポー・チャウ・チーウィット・アーウは、誠実・正直を愛し、裏切り・様々な不正を悪み嫌ったのよ。云う所によれば、御自ら事件を裁定され、法律の条文を御自ら制定して用いられたのよ。ポー・チャウ・チーウィット・アーウの法律は、非常に不思議なの。つまり、わずかな窃盗や、少しばかりの盗みをした者、又は、唐辛子、トマト、野菜、草等、栽培している物をしばしば盗む者は、殺人を犯した者より重く罰せられるの…」
王の不退転の断固とした決意は、王が若い時から軍の総司令官として戦場に出ていたからかもしれません。また、同時に、王位についてからは、ビルマを支配下に置いた英国が、チークを追ってか、森林資源を追ってか王の支配地に接近して来ます。今もチエンマイの市中を流れるピン河の東岸ケート寺院近くには、かつてのチーク材取引で財を成したといわれる人たちの館が残っています。
当時、森林資源は王室の占有物で、国家財政にとって重要な要素であったようです。森林には、チーク材という木材資源の他にも鹿、トラなどの野生の獣が多数生息し、その皮は貴重な商品であり、また咽脂虫(えんじむし)がいて、その糞から作られた巣から、ラッカー、ニス、エボナイト、靴墨などが作られるそうですが、この北部タイ・ラーンナーはインドに次ぐ生産量だそうです(富田竹二郎著「タイ日辞典」より)。そうしたことを考案すると、頑固なまでに毅然とした態度と断固とした決断がなければチエンマイの独立は守られなかったでしょう。
そんな王が、殺人より唐辛子泥棒を憎んだというのですから驚きです。
当時は今以上に農業が主力ですから、その生産物を横取りする泥棒は、単に怠惰であるばかりか、自ら生産しないことで国に損害を与えているとも考えられます。唐辛子やトマトを盗んだだけで手足を切断されてはその後の一生はどうなるのでしょうか。王にとっては無用なばかりか住民にとって迷惑この上ない無用の長物に見えたので手足を切断されて苦しむ人に同情は持たなかったのかもしれません。こうした処罰は、過酷かもしれませんが、確実に社会からこそ泥が減ったそうです。
この王様にとっての裁きは社会の公平を基礎としていたといえるかもしれません。では、野菜を盗んで手足の切断であれば、もしも殺人を犯せば磔火炙りでしょうか・・・実際には殺人を犯したからといって「目には目を、歯には歯を」という単純な裁きはなかったようです。
「・・・しかし、殺人を犯した者は、その事例に応じて処理したの。名誉を守る為、正当防衛かそれに類するものの為の殺人は、罰も軽く、時には、全く罰しないに等しかったの。軽い罰としたのは、名誉を守ったり、正当防衛しなければならなかった人に同情したからなのよ」
殺人を犯したとしても、大切なことは殺さざるを得ない十分な理由があったかどうかのようです。人殺しの為の人殺し、強盗を働く為の人殺しには容赦なかったようです。しかし、殺人を重ねても必ずしも処刑されず、死刑囚が処刑執行人になる場合もあったようで、この実話もまた残されています。
それは兎も角として、こうした王の裁判に臨む態度を聞いた女学生が言いました。
「実際のところ、社会状況によっては、考えてみる価値があるわね。自ら道徳を乱す者は、最も忌むべき者だわ。重く罰すべきよ。もしポー・チャウ・チーウィット・アーウが現代に生まれてくれば、きっと多くの不正を働き、不法を働く人間の命を恐ろしい位に奪うわね」
この王にとってもっとも大切なことは、自らの王国の秩序を守り、真面目に働く人々を守ることだったようです。その為には不退転の決意で望み、たとえバンコク王朝からの役人であろうとも自らの権限を侵すことは許さなかったと思います。これは、王の父である、チエンマイ王朝初代のチャウ・カーウィラがバンコクから来た役人が住民を虐待し、塗炭の苦しみに遭わせると、たとえバンコク王朝の権威を後ろ盾にやってきた役人たちと言えども領民を害することを許すことなく、切り捨てた、その血を受け継いでいるのでしょう。
では、残されている現実の王の犯人探しはどんな様子だったのでしょうか。
ある時、村で水牛が盗まれました。村人にとって水牛は家族の一員でもありますが、田仕事には欠かせません。稲作の不良は国力の疲弊に結びつき、為政者にとっても死活問題です。訴えを聞いた王は、直ちにその村に出向き、村長に命じて村人全員に集まるよう布令を出させました。
「アーウ」の一言で首が飛ぶのですから、村人は何はさて置き我先に広場に集まりました。集まった村人は、だれもが土下座し、全身を強張らせて王の言葉を待ちました。誰もが王の荒々しい、恐怖を呼び起こす重々しい命令を予期していましたが、王の口から出たのはそんな村人の予想に反する優しい語り口で、かすかに笑みさえ浮かべた表情のどこにも恐怖の影、威圧感は微塵もなかったといいます。
「・・・皆の者は、互いに物を盗んだり、危害を加えたり、悪事を働いたりすることのない様、力をあわせ、村に波風立てることなく、協力しなさい・・」
拍子抜けするほどに優しい余りにも当然の言葉に村人の誰もが凍るような緊張感から開放されると、心の中に一切の警戒心がなくなりました。
一通り優しい言葉で人々に協調と信頼関係、額に汗して懸命に働き、善行をなすように、と教え諭した後に、「皆の者、帰ってもよいぞ」と最後に王の言葉が発せられると、広場に安堵のざわめきがおこり、村人が立ち上がって歩き出しました。
その瞬間です。
「待て!!昨夜の水牛泥棒、動くな!!」天を切り裂く雷の如く鋭い王の怒声が響き渡りました。それは空気さえ動きを止めるかと思うほどに恐ろしいものでした。その場の誰もが凍りついたように身動き一つなりませんでしたが、立ちあがった中の一人の若者だけはワナワナと全身を震わせ、顔はまるで死者のよう色を失っていました。
役人の取調べを受けた若者は、素直に犯行を自供したといいます。
恐怖の王ではなく、有能で、厳格な為政者の姿がそこにあります。
(了)
タイ文部省推薦の副読本の中に、北部タイの様々な物語を綴った本が三冊あります。夫々、人物編、場所編、行事編とでも言うように主題ごとに分かれていますが、その中の一冊『北の町の物語りー重要人物の歴史編』の中のポー・チャウ・チーウィット(アーウ)の心理学より題をお借りしました。
動画は、代表的なラーンナーの踊りの一つで「爪の踊り」です。昨年11月13日に、チエンマイのスアンドーク寺院で奉納されたラームカムヘーン大学主催の雨期明け後の寺院参拝に伴う奉納舞踊のようです。同寺院にはチャウ・チーウィット・アーウも眠ります。踊りの子供は、同寺院の日曜学校に通う子供たちで、全員純粋タイ族の少女で、中学生くらいです。決して上手ではありませんが、純朴な子供たちの踊りをご鑑賞下さい。
爪の踊り
 

戦友よ安らかに眠れ

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クンユアムの日本兵記念碑
 
ビデオの中で男性は、カンチャナブリーに行ったことのある人は、そこで日本軍の残虐な行為の跡を見たかもしれませんが、ここに来ると様相は一変し、可哀想な姿を見るでしょう・・・」という言葉から案内していますが、旅行業者でしょうか。日本軍の車両も壊れたまま残っているようです。慰霊碑が日本兵の魂を見守っているのでしょうか。
 
これは、チエンマイの北西、ミャンマーとの国境の県メーホーンソーン県クンユアム郡のお話です。
かつて日本軍は中国支援の援蒋ルート遮断の為のインパール作戦を実施しました。この戦線からビルマの竪琴の話も生まれました。この作戦の戦傷者たちの多くが、川を渡り国境を越えてタイ国に来ましたが、その一つがここメーホーンソーン県です。このビルマからの日本兵がタイに来た道こそ、日本軍がビルマへの行軍用に建設した道で、まさかそこが白骨街道になるとは、夢にも思わなかったでしょう。疲れ果て、傷付き、マラリア蚊に襲われながらの退却路はまさに死屍累々の惨状だったのかもしれません。そうした日本兵を優しく受け入れた小さな村があり、そこには今記念館が出来ています。
 
クンユアム郡、メーホンソン県
 
タイでは、ビルマ戦線に向かってカンチャナブリーで建設した泰麺鉄道が有名です。タイはこれを「死の鉄道」と呼び、クウェー川を渡る鉄道は、今、そこはカンチャナブリーの重要な観光名所となり、日本軍の残虐行為を世界に示そうとしています。
 
イメージ 5今目をはるか北に向けると、日本軍はインパール作戦用にチエンマイからビルマへの進撃路を建設しました。チエンマイに住み着いた最初の日本人といわれる写真家の撮影した数々の写真は、大変役立ったでしょうし、もしかすれば、彼自身がそうした使命を帯びていたのかもしれません。密林に潜むトラをも恐れず、道なき道を分け入り、ビルマへの行軍路を切り開いたのです。
イメージ 6チエンマイから北に行くとメーテーン(MAETAENG)という町があります。その町の古老の中にも日本軍の話を知る人がいまだ多々いるはずです。ビルマへの進軍には、そのメーテーンから左折して山に入っていかねばなりません。そしてパーイ(PAAY)という町に到着します。ここからが道なき道です。今、このパーイからメーホーンソーンへの道は舗 装され、車でいけますが、戦中は、この険しい山岳路すらなイメージ 7かったでしょう。メーホーンソーンは文字通り秘境だったのです。
日本軍は、いくつものビルマ進行ルートの中の一つにこのチエンマイからのルートを計画しました。そして、パーイの町からクンユアム(KHUNYUAM)という町を経由してビルマ国内のトーンウー(TOONGUU)に向かう道を建設しました。その秘境に道を切り開く為、日本軍は、北部タイの住人を借り集めたといいます。しかし、現地に駐在した日本軍兵士と地元住民とは大変に友好的であったことは、タイの全国紙の次の文においても分かります(2009年4月14日付マティチョン紙)。
その紙面には、次のように記されているといいます。

「・・・第2次大戦が始まってより、日本軍とクンユアム郡住民の結びつきと友好が始まりました。戦争期間中に使用する道路および住居建設が始まると、当時、一部の日本兵は寺院に泊まる中で、クンユアム郡の住人は、日用品、消費財、お米などを日本兵に販売しました。住人が病にかかると、日本軍が治療に当たり、苦しみをともに分かち合い、日本兵とクンユアム郡住人の間の関係は兄弟のごとくでした。・・・」
イメージ 8ビルマへの道は、昭和18年に工事が始まったといわれますが、その調査を考えると、開戦直後タイに入ってきた日本軍はこの北の地にも入っていたと思われます。そして、2年の歳月を要して完成した昭和20年、ビルマのトーンウーに向かう道は、ビルマからの帰り道に変わったのです。すなわち、白骨街道です。
建設なった道をビルマからの日本兵が疲れ果てた身体を引きずるように帰っイメージ 9てきます。こうしたことから、メーホーンソーンには、旧日本兵の足跡が多数残っているようです。それら夥しい数の先人たちの遺品の収拾、分散防止に人力したのが、クンユアム郡警察署に赴任してきた警察中佐のチャートチャイ氏でした。氏は、住民との出会いの中で、先の大戦の遺品に気づき、その分散防止に尽くしました。時に西暦1995年のことでした。
翌1996年、クンユアムの郡長が建イメージ 10設なった記念館に陳列する物についてチャーチャイ警察中佐と相談した時、中佐は自ら収集し、興味ある大戦に関わる日本兵とクンユアムの関係を記念館に展示したいという意向を示し、実際に更なる収集に向けて村人に協力を呼びかけ、収集を始めました。さまざまな困難の末、旧日本兵の方々の協力を得て様々な品物の寄付を受けました。中でも最も重要なものは、昭和天皇の御親筆になるとされる大戦を決意イメージ 11せざるを得なかった経緯を記した縦2メートル、幅50センチの布で、軍に下賜されたわずか5幅のうちの一幅だそうです(残念ながら、この点について真偽を言う資料を持ちませんので、間違いがあればお許し頂き、ご教示下さい)。そして、その前には日本刀を展示し、綺麗な花が飾られています。ここは写真撮影禁止ですので、写真は全てWEBで見つけたものを掲載します。
その後、チエンマイ大学医学部の医師イメージ 3ナロン氏が、クンユアム郡の観光開発に関して目をつけたのが、この記念館でした。そこで、敷地をも含めて整備しようとしましたが、誤った情報を流そうとする人たちがいて整備・拡張がままならず、止むを得ず別途土地購入して建設することになりました。同時に、クンユアム地区責任者は、種々住民に記念館の整備・拡充を説明し、住人を賛同を得ました。
これが数年前のことで、場所はムアイイメージ 4トー寺院(WAT MUAYTO)の正面に位置するようです。この記念館も実のところ地元の文化財を展示した博物館ですが、地元の人々は「戦争記念館」と呼び、看板には、「日―タイ友好記念館」と刻まれています。外には、慰霊碑があり、「戦友よ安らかに眠れ」との日本語の碑文と花が供えられ、その外多数の車両があります。そして中には1000点を超える日本軍の遺品が所狭しと展示されています。

 
日タイ友好記念館
 
上の動画は、その記念館の中で流れている動画を録画して動画サイトに載せたものと思われます。これは、フクダ氏に今なお変わらぬ愛情を寄せる地元老婦人の愛の記録です。そこには、60余年を過ぎた今も深い心の繋がりがあり、日本兵に寄せるタイ女性の心の温かさが滲み出ているようです。
30年近く前、一人バスに乗り、チエンマイから10時間をかけて砂誇り舞う未舗装の道を山をいくつも越えてメーホーンソーンに行った頃を思い起こします。夜7時を過ぎて到着した路地裏のような空き地を利用した小さなバス停。街灯もなく、真っ暗な道を一人バッグを引きずりながら宿舎を探していた頃が懐かしく思い起こされますが、それよりも更に30年以上も昔、メーホーンソーンという県庁所在地からはるか南に位置する田舎の町に我が先人たちは束の間の宿りをしていたのです。
これは、テレビドラマでも、小説でもない、現実の話です。
動画のナレーションを誤訳を恐れず日本語訳して文字に起こしてみました。
「・・・まもなくフクダの症状は順調に改善し、終に完治しました。彼の性格が大変勤勉であったことから、私の父を含めて村人たちの好意を集め、父は、わたしたちを結婚させることにしました。その頃は、時間の流れも早く、私は言われるままに全てをしなければならず、それはフクダも同じことでした。私とフクダの生活は順調に過ぎて行きました。彼はどんな仕事でもこなし、大変家庭を大切にし、わたしたちは二人の男の子をもうけました。その後、役人がフクダを逮捕して警察に連れて行き、わたしは、その後の彼の消息を聞きません。私の過去の記憶は、一度として消し去られることなく、時間がどれほど過ぎようと、胸の奥に焼きついた映像は、いつも瞼に浮かんできます。自分の姿を見る都度、心の奥底に秘められた空しさ、淋しさを見るばかりです。たくさんの質問が寄せられますが、未だに彼らにも自分自身にも答える言葉が見つかりません。過ぎ去った日々を忘れたことがなく、戦争が再び起こるのかどうか知りませんが、戦争がすべての人々に喪失をもたらす中で、わたしは希望に出会いました。二つの民族、二つの文化の間の友好を分かち合う夢は、二人の間の愛情よりも深かったのです。私は、現実の世界に目覚めても、夫がいつ我が家に帰って来るのか、もしくは、再び会うことができるのか、それを知ることのない妻という名前の人間の悪夢だけが残りました。それは、掴むことが不可能な空の星をわたし達が力をあわせて手にしようとするようなものでした。時間という物差しでしか計ることができないあまりにも長い距離にも似ていました。わたしは、何が起こったのかを理解しなければいけませんし、言い聞かせなければなりません。そして、わたしは、もしもこの世において共に暮らすことができないのならば、せめて来世において一緒に暮らせればそれだけで十分、と常々そのように祈っています・・・」

 
ケーウおばさん
 
上記動画の中で言及されているフクダさんの奥様です。奥ゆかしいですね。
日本人らしい男性が「フクダ」と呼びかけていますが、にっこり笑って「フクダはもういませんよ」と言っています。動画作者の意図が分かりませんが、フクダ夫人のお顔が出ましたので、ご紹介しました。
 
 
 
こうしてみると、地元の人たちの大変に親日的な姿は、先人たちが死と隣り合わせの生活の中でも現地の人たちに親切に接してきたことのお陰であるといわざるを得ません。同時に、こうした感情に水差す間違った情報が入らないことを切に希望し、いつの日にかかならずこの地を訪れたいと思います。
 
同時に、同じ日本軍が同じ時期に同じ国でかくも異なる態度を示したとは思えません。そこにカンチャナブリーの出来事に対する欧米の意図を見るようです。「泰麺鉄道」を日本軍の残虐行為とは見たくありません。
 
 
最後に、じっくりとこの童謡に耳を傾けて下さい。夫の、父の帰国を待つ母と子供の切ない思いが伝わってきます。
 
参考サイト:
チエンマイ県クンユアムの日タイ記念館
クンユアム記念館
クンユアムの戦争博物館又の名を日タイ友好記念館

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