チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

落穂拾い

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

義侠の人

イメージ 1
梹榔樹
落穂拾いー(8
 
義侠の人
チエンマイの町は、一辺約2キロのほぼ正方形の城壁に囲まれた城壁都市として発展してきました。西北方向にはチエンマイの聖山ドーイ・ステ−プが聳え、東にはドーイ・サケットの山並みが見えます。北から南の伸びる帯状の緑の大地を切り裂いてピン河が流れ、山の中に肥沃な大地を形成しています。
そんなチエンマイの東北方向に、サンサーイという町があります。
そのサンサーイ郡の標語は
『農業に優れ 女性は美しく 豊かな梹榔 カーウテーンのお土産 溢れる道義』
だそうです。ここに言われる梹榔は、冒頭の写真に有るようにヤシ科の植物ですが、梹榔は、樹液を持った果実で、味そのものは渋い味がするそうですが、薬草であるといわれるキンマの葉に赤石灰又は白石灰を塗ったもので包んで噛むようです。こうした嗜好は、タイの各地で普及しており、米に劣らないほどに重要であったようです。
梹榔が米に劣らない一つの大切な商品になると、サンサーイ郡の梹榔栽培農家にとっては、その維持管理、収穫の多寡が大変に重要な関心事となります。農民にとって広く親しまれる農産品があれば、それに税を課すのがまた役所の務めでしょうか。
政府は法律を制定して梹榔樹の「税金」ともいえる果樹税を持って農家より税金を徴収しますが、今とは違って「ナーイ・アーコーン」と呼ばれる租税徴収請負人に住民からの税の徴収を請け負わせていました。役人は役所にいて、租税徴収人より受け取るだけで、農家から税金を徴する請負人の質が農家の生活に響くことになります。
タイの元首相で、国外逃亡中のタクシンの曽祖父は、タクシンの父の葬儀に際して配布された、いわゆる『葬式本』といわれるものに記されている家系に従えば、チャンタブリー県において租税徴収請負を生業としていたようですが、それはどうやら賭博税の徴収に関わっていたようです。そして西暦1910年にチエンマイ県のサンカムペーン郡に移り住んだようです。
それはともかく、果樹税と呼ばれる梹榔樹の「税金」を徴収しようと租税請負人がこのサンサーイ郡の梹榔樹農園にやってきました。
当時、サンサーイには、パヤー・パープと呼ばれる著名人が他の村人と同じように梹榔樹をたくさん栽培していました。パヤー・パープという名前からしてそれなりの地位にあったのではないかと思いますが、具体的な官職は残されていません。
如何に地位あろうとも租税徴収人の職務に干渉することはなく、自らの梹榔樹の農園を調査しながら租税額を算出していく請負人の動きを注意して見守っていました。つまり当時にあっては、租税請負人が作の出来不出来を見ながら税を決めていきますが、その時、彼は竹紐を使って作柄を見ていきます。
彼らは、農園に入ると、梹榔樹に竹紐を結んでいき、その竹紐の数によって税金を決めようとするのです。もしも一本の木に竹紐一本であれば何の問題も起こらなかったでしょう。
この時の租税徴収請負人の名前が残っていませんが、この時彼の不正をパヤー・パーブはしっかりと見ていました。即ち、一本の木に一本の竹紐ではなく、余分に結び付けていたのです。これでは農家は必要以上の税金を納めなければならず、死活問題になります。
パヤー・パープは、租税徴収請負人に対して、算出された税額に不服である旨申し入れましたが、聞き入れられることはありませんでした。
そこで、止むを得ずチエンマイの国王である、チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンに訴え出ました。この王は、一般にはチャウ・チーウィット・アーウと呼ばれ、その一言は絶対で人々に恐れられていましたが、当時は、既にバンコク中央の役人が多数チエンマイに入って行政に参画しており、この租税に関してもチエンマイの国王に権限はありませんでした。従って、パヤー・パープの申し出でを聞いても、チャウ・チーウィット・アーウは如何に理解を示したとしても、パヤー・パープを手助けすることが出来ないもどかしさを感じていたようです。
あれほど恐れられる王といえども、法律を如何ともすることが出来ないもどかしさを感じていましたが、パヤー・パープは、そうしたもどかしさ以上に租税徴収人の不正が許せませんでした。彼が身に受けた不公正な租税算出は、当然のことながら他の農家にも及んでいました。人々の生活に不安を感じるパヤー・パープは、諦めることなく、心を許しあった無二の親友とも言える今一人の梹榔樹農園の所有者である、パヤー・クーハーに相談しました。
「わしは、奴が我々を不正に圧迫することをじっと放って置くことなど出来ない。我々は力を合わせて戦うべきであると考えるが、どうか」
パヤー・パープの必死の形相での固い決意を聞くと、パヤー・クーハーもまた親友の言葉に賛成しました。
「俺もそう同じことを思う」
パヤー・クーハーは、親友の言葉に継ぎ足すように、はっきりと告げました。
「我々は、抵抗の意思を示し、不正な租税徴収を受け入れるべきではない。そうだ、我々は、広く市民に告げて、今回の請負人の行動に対して力を併せて抗議しなければならない」
感情の高まりに任せて抵抗を宣言して見たものの、租税請負人という官憲を後ろ盾とする人に対して抗議する手段が思いつきませんでした。
「しかし、我々はいかなる方法で持って抗議するのだい?パヤー・パープよ」
パヤー・クーハーは、暫くじっとしていた後で尋ねました。
この友の言葉にパヤー・パープもはっきりとした返事を考えていませんでした。しかし、友の言葉を聞きながら、彼は深く心に決めました。
「俺は、こうしたらどうかと思う。ポーチャウ・チーウィットも何にも手助け出来ない状況下である以上、我々は力を合わせて、自らの手でムアン郡とこのサンサーイ郡との間の道路を封鎖して、市内の連中がこのサンサーイ郡の域内に侵入して来ることを拒もう」
断固たる勇気を称賛するかのようにパヤー・クーハーは、パヤー・パープを見詰めました。
「やろう。パヤー・パープ。俺が布令を出して、住人たちを境界封鎖に行かせよう。同時に、今一度人を派遣して政府と交渉しよう。しかし、どこの場所を封鎖しようか?」
パヤー・クーハーにしても、男子として生まれてきた以上、正義の為には死をも恐れることはありませんでした。
死をも覚悟のパヤー・クーハーの表情を見て、パヤー・パープも心強く思い、具体的封鎖場所を提案しました。
「俺は、カーウ川の所にしようと考えている」
「よかろう。我々は、カーウ川を持って境界にしよう。誰もそこを越えて侵入させない」
かくして、地元名士のパヤー・クーハーの言葉が郡内に行き渡ると、郡内全ての壮丁が出てきてムアン郡とサンサーイ群の境界を蟻も漏らさぬようにしっかりと封鎖しました。そして、彼らの手には、夫々の家庭にある有り合わせのナイフ、鉈、長刀が握られていました。もしも、再度の交渉が不発に終われば、力によって抵抗せざるを得ない、との覚悟の上の用意でした。
この集団の指導者にはパヤー・パープが就き、次席にパヤー・クーハーが就きました。
パヤー立ち、住民の願いも空しく、パヤー・クーハーが送った交渉団は何の収穫もないまま空しく帰って来ました。のみならず、「パヤー・パープは、反乱者である」と官憲に訴えられました。
サンサーイ郡の人々の失望など意に介することなく、官は、「反乱鎮圧」を名目に兵を送ってきました。
パヤー・パープの側でも、もはやこれまでと、人々を集めて抵抗の意思を固めましたが、如何せん農民の持つものは武器とは言い難いものでした。兵力の差、武器の差、錬度の差、軍略の差、それにも増して、パヤー・パープたちには『反乱』という言葉に対する恐れがありました。
反乱と受け取られても仕方のない行動ですが、彼らの頭にあるのは不正に対し、公正な租税算出を求めての抗議の意思表示以外の何者でもなく、反乱とはおよそ無縁の行動でした。しかし、官憲が被せた『反乱者』の汚名がパヤー・パープの心に重くのしかかってきました。
パヤー・パープは、戦いの中で利あらず、徐々に後退しながら不本意な戦闘について考えていました。
自分は、租税徴収人の不正を世に問いたいだけであり、反乱の意思など微塵もない、しかし、こうして仲間の農民を戦いの中で命を落とさせることはまた、国家にとっての大いなる損失であろう、と考えるようになりました。
官は、自分の真意を理解しようとはせず、『反乱者』という汚名を着せて葬ろうとした。住民の命を誰よりも愛するパヤー・パープは、この時、全ての罪を自分ひとりが被り、残りの人たちへの被害を防ごうと考えました。
公正を求めて国家と戦った、勇気あるパヤー・パープは、自らの保身、延命など省みることなく、住民の命を守る為に一人頭を垂れ、死に赴くことを決意し、刑場の露と消えたのです。
パヤー・パープの真心が官にも通じたのでしょうか、その後、政府は梹榔樹税の徴収を全面的に廃止する旨の布令を出しました。
義侠の人、パヤー・パープは自らの死と引き換えに住民の平安を守ったことになり、きっと彼は自らの死を悔いることなく安らかに眠っているでしょう。
 
(了)
タイ文部省推薦の副読本の中に、北部タイの様々な物語を綴った本が三冊あります。夫々、人物編、場所編、行事編とでも言うように主題ごとに分かれています。その中の一冊『北の町の物語りー重要人物の歴史編』の中の「『パヤー・パープ』正義を求めた闘争者」より題をお借りしました。
冒頭の写真が『マーク・スーン』と呼ばれる梹榔樹です。
 

風雲児

落穂拾いー(7
 
風雲児
チエンマイの旧城壁の東にピン川が南北に流れています。旧城壁東門ターペー門からの道をナワラット橋を東岸に渡って左を向えば、狭い曲がりくねった道路の両側に古い民家が立ち並んでいます。
この当たり一帯は通常ケート寺院街とも呼ばれますが、その名の通りそこにはケート寺院があります。そんな通りからピン川を跨いで小さな橋が架かっていますが、勿論自動車もバイクも通ることは出来ません。ケート寺院街の人々が川向こうの市場に行く為に作られたのでしょうか。
案外古い住宅街ですが、その発端は非常に興味あることですが、西暦1796年以降に民家が立ち始めたようで、これはチエンマイがバンコク王朝の支配下に入った後のことで、この地の新たな住人は、地元チエンマイの人よりもむしろ、華人、西洋人たちであったようです。
それよりはるか以前、集落らしいものもなく、勿論ピン川を跨ぐ端もない頃のことです。その寺院も含めて、このあたり一帯は異郷の人々、ならず者の巣窟になっていたようです。そんな昔、チエンマイの遥か南、正に僻地といえるかもしれない田舎に一人の風雲児が出現したました。その名はテーパシンといいます。
 
西暦1296年、パヤー・マンラーイによって建設されたチエンマイは、様々な危難の中をラーンナー王国の都として栄えてきました。しかし、権力欲に目がくらんだ官僚たちが、国王の権威を蔑ろにし政治を欲しいままにすると、西から忍び寄る敵の足音が聞こえませんでした。
終に、西暦1558年、タイではブレーンノーンと呼ばれますが、ビルマのタウングー王朝第二代王バインナウンは、ラーンナーの地を平定することに成功し、この年以降チエンマイは王国の都としての地位を失い、ビルマの権力に屈しました。
ビルマにとってラーンナー王国、なかんずくチエンマイは南の強国アユッタヤー攻撃にとって不可欠な前線基地だったのです。チエンマイの豊富な物資は兵站基地となり、優秀な戦士は、ビルマ軍の戦力の中に組み入れられ、北からアユッタヤーを攻めることを可能ならしめました。
当然のようにチエンマイは、ビルマ支配下で途端の苦しみを味わったようで、寺院は荒れ果てていた模様です。そして、ビルマ支配の足跡を残すように今もチエンマイの料理の中にその名残をとどめ、少し前までの風俗の中にも深く染み込んでいました。そして、市内のいくつもの寺院の中にビルマの様子を窺わせるものが多々あります。
様々な文化が流れ込んできましたが、ビルマの支配下にあって、チエンマイの人々、ラーンナーの人々は決して大人しく服従していませんでした。各地で叛乱が繰り返されましたが、それは散発的なもので巨大なうねりとなるにはまだ時間が必要でした。
そんな異民族支配に完全と立ち上がったのがテーパシンですが、彼は今のメーサリアンというチエンマイの南の町の住人です。
西暦1727年、忽然と歴史にテーパシンが姿を現しますが、彼は現在のメーサーリアンというチエンマイの遥か南の町の住人であるという以外、その出自は謎に包まれて、古文書を紐解いてもいかなる血筋を引いた人物であるのか不明です。
しかし、彼の出現はビルマ人統治者、マンレーナラーを驚かせたようです。一方、チエンマイ城内のタイ人は密かに反ビルマ勢力の出現を喜んだともいいます。マンレーナラーは、都防備の兵を招集しても集まらないどころか、城内のタイ人が密かにテーパシンと通じる動きを見せます。
そして、一度はチエンマイの正門チャーンプアック門より攻め込もうとしたテーパシンですが、タイ人からの忠告を受けて南に迂回してハーイヤー門から攻め込みました。このハーイヤー門は、今その姿を止めていませんが、これより昔、プラチャウ・ティローカラートというチエンマイの大王を恐れたアユッタヤーが、呪術を持って王の命を奪おうとした際に市内各地に埋めた毒薬をチエンマイ側が察知して廃棄した場所がこの地で、当時はハイヤーと呼ばれていましたが、いつとはなしにハーイヤーと変わっています。その門を出て真っ直ぐ南に向かうとテーパシンの故郷メーサーリアンに至ります。
「・・・ウィアンのタイ人は、弾を込めていない銃を撃ち、マーンの人々、メーンの人々の従者だけが敵と戦っています。・・・」
ここに出て来るマーンとはビルマ人を指し、メーンとはモーン族をさしているようです。
マンレーナラーは、こうした報告を受けていたことがプーンムアン・チエンマイ伝に記されていますが、城内のビルマ軍中のタイ人に戦意はなかったことを示しています。既にビルマを恐れないまでにタイ人の我慢の限界に来ていたのでしょうか。ハーイヤー門という外濠を頼りに南から攻めてくる敵を防ぐ為の土壁の城壁に出来た門を突破すると、テーパシンはその勢いを持って城内に雪崩れ込みます。このハーイヤー門から内濠に向かうとすれば現在のスアンプルン門かチエンマイ門からの進入となったのでしょうか。
城内に雪崩れ込んだテーパシンは、易々とマンレーナラーを捉えて広場で殺害します。この広場というのは文字通り解すると、現在三大王の記念碑がある場所、即ちかつての王宮前ということになります。
かくして、瞬間的にではありますが、チエンマイは、ビルマの束縛を逃れ、テーパシンが指導者となります。
この時代、今一人の風雲児が歴史に登場します。
どうやら現在のラオス国の前進であるラーンチャーン王国の王家の血を引く一人の王子がチエンマイにやってきたようですが、何故にやってきたのか、その目的などは伝承に記されていません。彼の名前はチャウ・オンノックです。
このチャウ・オンノックにしろ、テーパシンにしろ、まるで歴史という嵐が運んできた正体不明の風雲児のようです。
このチャウ・オンノックは、実は300人の兵を連れていたといいます。そして、その兵力を元にマンレーナラーにテーパシン撃退を売り込んだのですが、ビルマ側はラーウの王族を信用しなかったようで、追い返します。
マンレーナラーが殺され、城内のビルマ人、タイ・ヤイ人たちが殲滅の危機に陥りますが、その災禍を逃れた一団が頼った先こそ、このチャウ・オンノックでした。彼らビルマ人たちは、テーパシンの兵に見つかれば確実に殺されます。その前にチャウ・オンノックの兵力と自分たちの兵力を遭わせて戦おうとしたのです。この申し入れを受けたチャウ・オンノックは、ピン川を渡った東岸のケート寺院で落ち合うことで了承しました。かなりの権勢欲の持ち主だったのでしょうか。
こうしたチャウ・オンノックとビルマ側敗残兵の動きはテーパシンも察していたようです。50人の兵を派してターペー橋の麓に潜ませましたが、チャウ・オンノック側はその裏をかき、迂回して北に回ってシープームの鎮台方面から忍び込み、ターペー橋を守る兵たちの背後を襲いました。
このターペー橋がどこにあるのでしょうか。今のナワラット橋はまだその影もありません。ただ名前から想像すると、かつて今のセーンファーン寺院のところに門があり、その門をターペー門と呼んでいましたので、そこに架かる小さなカー川の橋をターペー橋と呼んでいたのでしょうか。
前線を破られたテーパシン軍は、もろくも総崩れとなり、テーパシンは南に落ち延びて遥かかなたのムアン・ナーンにまで行きました。風雲児テーパシンのチエンマイ支配はわずか一月余りに過ぎなかったと伝承は伝えています。
一方、風雲児テーパシンを駆逐したチャウ・オンノックは、自らチエンマイの王となり、チャウ・オンカムという名前を名乗ります。王位に就いたとはいえ、宿敵テーパシンはまだ健在です。ムアン・ナーンの城主チャウ・タムマパンヤーを誘ってチエンマイ奪回にやって来ました。
チャウ・オンカムは兵を集めて迎撃してこれを撃退すると、チャウ・タムマパンヤーは戦場で亡くなり、テーパシンは何処へともなく敗走して歴史から姿を消してしまいました。
チエンマイ側の騒動、マンレーナラーの殺害がビルマに届くと報復の軍がやってきました。サケーンパヤーがアングァで挙兵してチエンマイにやって来ると、チャウ・オンカムは、ビルマ人、タイ・ヤイ人、タイ人などの混成軍で出迎えましたが、サケーンパヤーは、密かに出迎えのタイ兵20人の殺害を命じます。
この噂がタイ兵を動揺させ、チャウ・オンカム共々逃走してしまいます。
チエンマイにとって不倶戴天の敵ともいえるビルマ軍がやって来ると、タイ人兵士たちは、チャウ・オンカムに決断を迫りました。
「・・・あなたがマーンであるならば、私どもは逃げて行きましょう。マーン に味方するならば,私たちは、みんな死んでしまいます。マーンを迎え撃ちに出たタイ人20人を、彼らは、殺してしまいました。それ故にです。私たちは、戦うことを願います。・・・」
チャウ・オンカムはこうした申し出を受けてビルマとの戦いを決心して、タイ人兵士の協力の下ビルマを駆逐します。
一代の風雲児は、しかしこの後歴史にさしたる影響を及ぼすことがありませんでした。
(了)
冒頭の写真はケート寺院の御堂です。

三大王の秘密

落穂拾いー(6
 
三大王の秘密
チエンマイの城壁に囲まれた旧市街地のほぼ中央、旧チエンマイ県庁前広場にタイ族の三つの王国の同時代の王たちが肩寄せあっている像があります。これは、いわゆる「三大王記念碑」と呼ばれるもので、西暦1983年9月23日に現在の地に安置されました。
この記念碑は、チエンマイの建設に際して、パヤー・マンラーイが二人の友を招請して相談した、という故事に因んで建立されたものです。
パヤー・マンラーイが招請した二人の盟友とは、パヤウ王国のパヤー・ンガムムアンとスコータイ王国のパヤー・ルアンです。そして、チエンマイの各種伝承でスコータイ王国のパヤー・ルアンと呼ばれる王がタイ国の大王の筆頭に上げられるラーマカムヘーン大王に他なりません。
この当時のタイ族の国としては巨大な三国の王が盟友であるというには理由があります。ここでは、余り詳しく歴史に入ることなく、伝承の中に現れる御伽噺のような物語を追いながら三人の関係を見て見ましょう。
当時、まだチエンマイは建設されておらず、パヤー・マンラーイは、はるか北の現在のビルマとの国境ファーンの町から南下してモーン族の王国ハリプンチャイを平定してまだそれほどの年月が経過していませんでした。既にハリプンチャイをアーイ・ファーに任せ、ピン川を上った北に位置する小さいウィアン・クムカームという町を都としていた頃のことです。今このウィアン・クムカームは暴れ川ピン川の氾濫にあって一部を川底に沈めたまま、今も当時の名残の寺院跡を残しています。
そのパヤー・マンラーイと東の王国パヤウのパヤー・ンガムムアンは、共に降臨伝説を持つヒランナコーン・ンガーンヤーンという王国の流れを汲む同族であり、クン・チュアンという北部タイ族の英雄を共通の祖としています。従って彼らが友好関係を結ぶことはそれほど難しいことではないでしょう。
しかし、そこにはるか南のスコータイという、タイ族であるということ意外に共通点を見出しがたい国の王が何故盟友として関わるのでしょうか。
まだアユッタヤーなどがない時代です。
パヤウのパヤー・ンガムムアンは、就学に出たようですが、どうやらその就学先がスコータイであったようです。伝承では、パヤー・ンガムムアンはスッカンタ仙の下で就学したといい、その時スコータイのパヤー・ルアンと同学であったといいます。しかし、このスッカンタ仙とはチエンマイのドーイステープに住むステーワ仙と親友であるとも言われますので、すると、この時スッカンタ仙の年齢は有に500歳を超えていたことになります。
それはともかく、こうしてパヤー・ンガムムアンはパヤー・ルアンと親友の契りを結びましたが、まだそこにパヤー・マンラーイは入っていませんでした。
当時、パヤー・ンガムムアンには美しい后がいました。彼女の名前は、ナーン・ウアチエンセーンといいましたが、ある時、彼女が作って差し出したケーン・オームという料理を評してパヤー・ンガムムアンが「ケーン・オームは美味しいが器が大きすぎ、汁も多すぎる」といった言葉を彼女は自分への皮肉であると受け止め、夫に対して嫌悪感を抱くようになります。
時に、スコータイからパヤー・ルアンが遊びにやってきました。両国の王は親友として互いに往来していたようです。そして、パヤー・ルアンに彼女が溺れたのか、夫への仕返しか、彼女は、夫パヤー・ンガムムアンの元へ行くよりもコーン川に沐浴にやってきて郊外で休息するパヤー・ルアンの宿舎を訪ねるようになりました。
二人は深い仲となります。一度の火遊びが重なると、やがてパヤー・ンガムムアンの知るところとなります。
パヤー・ンガムムアンは、パヤー・ルアンを食事に誘い出し、出てきたところを捕えようとしましたが、パヤー・ルアンもそれを察して誘いを断ってきました。
この時パヤー・ルアンが誘いを断った理由としてプーンムアン・チェインマイ伝は次のように伝えています。
プラヤー・ンガムムアンは、俺より年下であるにも拘らずこうして俺を誘う。行かないよ」
言ったというのですが、これが本当なら、年下の身分で年上を呼びつけるとは失礼である、と非難しているのです。
そこで、パヤー・ルアンの従者を捕えて、事の真相を問い質すと、やはり、二人は夜毎情を交わしていることが判明しました。こうしてパヤー・ルアンの捕捉劇が始まるのですが、その前にパヤー・ンガムムアンは、パヤー・ルアンが大勢の従者を引き連れた王であるにもかかわらず、密かにわが女房と情を交わすことが出来るのはいかなる術を用いているのか、と問い質すと、従者は、正直に答えました。即ち、パヤー・ルアンは人の姿ではなく、時には黄金の鹿に姿を変えたりしてやってきて川で身を清めた後彼女に会いに行くことが分かりました。
そこで、パヤー・ンガムムアンは部下の中でこうした術に長けた者二人を選び出し、捕捉に向かわせました。彼らは、パヤー・ルアンがいかなる者に姿を変えたかを見破る術を見つけていました。
一方、パヤー・ルアンは黄金の鹿に姿を変えてやって来ました。二人は、呪文を唱えて自らを犬に姿を変えて黄金の鹿を追います。しかし、鹿も必死で逃げて二匹の犬の追尾を振り切ると、はるかに見上げる高い木の枝にぶら下がったスズメバチの巣に姿を変えました。
鹿を見失った二匹の犬は、呪文によってスズメバチの巣がパヤー・ルアンであると知ると、自らの身体を冠鷲に変えて襲い掛かりました。すると、今度はスズメバチの巣からモグラに変身して栴檀の木の根方に潜り込んで逃げるパヤー・ルアン。
跡を追ってきた二人がモグラの穴を掘り出すと、パヤー・ルアンは穴から逃げ出し蟻塚に変身しました。しかし、この時、パヤー・ルアンは頭上に結い上げている髪を止める黄金の輪を蟻塚を覆う叢に似せて塚の上に置きました。何とか跡を追ってきた二人もここでパヤー・ルアンを見失いましたが、蟻塚の上の黄金の輪を見て、王が蟻塚に変身していることを知りました。
かくして、二人はやっとの思いでパヤー・ルアンの身柄を取り押さえることに成功しました。叢を壊し、パヤー・ルアンの体を取り押さえると、変身できないようにパヤー・ルアンが有する呪文の能力を無効とする偈を唱えました。
我が妻と情を通じた相手を捕えたパヤー・ンガムムアンですが、いかんせん相手はスコータイの王です。
「・・・俺は、プラヤー・ルアンと俺の女房を殺すこともできるが、南のムアンと俺のムアンは、互いに後々まで恨みをもち続けるであろう。俺は殺すべきではない。しかも、俺の女房もまた悪くあってみれば、俺がプラヤー・ルアンを縛りつ けて勝手に罰金刑を下すこともなすべきではない。・・・」
その時のパヤー・ンガムムアンの心の中をプーンムアン・チエンマイ伝は記しています。
こうした心の中の葛藤の末に、パヤー・ンガムムアンは、血縁の繋がる相手であり盟友でもあるパヤー・マンラーイにこの事件の裁定を委ねることにしました。パヤー・マンラーイは、後に傷を残さない解決方法を考えねばなりませんでした。
そこで、パヤー・ンガムムアンにパヤー・ルアンの身柄を引き出すように命じると、パヤー・ルアンに嫌疑の真偽を尋ねました。
パヤー・ルアンが確かにパヤー・ンガムムアンの女房と情を通じたことを告白すると、パヤー・マンラーイは、パヤー・ルアンに対して、まずパヤー・ンガムムアンに謝罪すること、そして、罰金を支払うこと、そして、互いに友情を損なうことなくこれからも盟友であることを誓わせました。
全てが順調に進んだ後、三人の王は、クンプー河の岸辺で寄り添うように腰を下ろし、部下たちの3日3晩に亘る酒宴を眺めていました。この川はこうした様子から後に「寄り添う川」という意味のイン川となりました。
「・・・パヤー・マンラーイは、誓いを立てて言うには、我ら三人のプラヤーは、皆の命尽きるまで互いに真の言葉、真の心を保持し、誰かが甘言を労し、心は逆に危害を加えるならば、その者は、王座を失い、様々な危害に会うであろう。それから、小刀を持って皆の指を刺し、その血を小椀に入れて互いに分かち飲み、互いの友好としました。・・・」
王朝物語伝は、このようにその時三人の王が盟友関係を結んだことを伝えています。
こうして、タイ族の三つの王国の王は、終生変わらぬ友好と信頼を誓い合いました。こうした下地があったればこそ、新都の建設に際して、パヤー・マンラーイは、二人の異国の王を招請して相談したのでした。
 
(了)
冒頭の写真は、チエンマイの旧城壁内中央にある旧チエンマイ県庁前広場の三大王の碑で、中央がパヤー・マンラーイ、向かって右がパヤー・ルアン、左がパヤー・ンガムムアンです。

白象の碑

落穂拾いー(5
白象の碑
 
チエンマイの本来の姿というのは、中国の古代都市に見られるような城壁に囲まれた町で、正に中国語で言う『城』です。ほぼ正方形で、正しく東西南北に向いた町には、いくつの城門があるのでしょうか。今われわれの目の前に残されている形ある城門は、南の城壁には二箇所の城門があり、その他には夫々に一箇所あり、計5箇所ですが、これはいわゆる内濠に関わる城壁で、このほか外濠ともいえる川に沿って外部城壁があり、そこには更に6箇所の城壁があったようです。
それはともかく、内城壁に囲まれた城郭都市チエンマイの正門は、どうやら北門のようです。
町を囲む城壁のうち北面の城壁には、チャーンプアック門と呼ばれる城門がありますが、ここがチエンマイの正門です。チャーンプアックとは、白い象という意味ですが、タイにおいて白い象は聖獣であり、通常人の所有が憚られて来ました。現代においても白象の出現・発見は直ちに王室に伝えられ、献上されるもののようです。といっても日本の神獣、神の使いともされている白犬、白蛇のように色が白い象ではなく、いくつかの特徴を持った象をチャーンプアックと呼んでいるようです。
チエンマイの西北方向に聳える小山にあるドーイステープ寺院には、仏舎利が安置されていますが、その仏舎利を運んだものもまたチャーンプアックでした。そして、その像を祀って寺院には象が建立されています。
それはさておき、この北門ですが、何故にチャーンプアック門と呼ばれるのでしょうか。少なくとも古い伝承本においては、この北門はプラトゥー・フア・ウィアン(PRATUU HUA WIANG)という呼び名で現れます。
かつて、このブログでもご紹介しましたが、昔のチエンマイの人たちは、この城壁で囲まれた城郭国家を人体に見立てていました。そして、北を頭にし、南をお尻としていました。それ故に北門を「町(ウィアン)の頭(フア)の門(プラトゥー)」と呼んでいたのでしょう。
 
今、その北門を出て北に真っ直ぐ進む道をチャーンプアック通りと呼んでいますが、城門を出て1キロ足らずのところに小さな交差点があり、その右手にバス・ターミナルがあります。そこをチャーンプアック・バス・ターミナルと呼んでいます。
そして、その交差点右側に白い小さな祠に収まった白い象の像があります。
そうです、この象こそがチャーンプアック(白象)なのです。この二頭の白象の像があるが故にこの地域がチャーンプアック区と呼ばれ、道路がチャーンプアック通りと呼ばれ、そして、終には城門の名前までがチャーンプアック門と呼ばれるようになったのです。
 
はるかな昔のことです。まだマンラーイ王朝の時代、ドーイステープ寺院を建立した敬虔な仏教徒である6代目の王パヤー・クーナーが亡くなると、長男のターウ・セーンムアンマーが王位を継ぎました。
パヤー・クーナーの時代、チエンマイを都とするラーンナー王国はその名声を四方に響かせ、長男誕生の知らせを聞いた四方の国々は競って祝賀の使節を送ってきたといいます。そして、その使節を送ってきた国の数がなんと10万国あったというのですが、もちろんこれは実数ではなく、それほどたくさんの国から祝賀の使節が来た、それほどチエンマイの王の力は強かったということを表しているのでしょう。
パヤー・クーナーの死後、14歳にして王位に就いた新王を待っていたのはチエンラーイを領する叔父との戦いでした。この戦いの結果、チエンマイにシヒン仏がやってきたことは既にこのブログでも見て来た通りです。
実の叔父との戦いを勝利で飾ったパヤー・セーンムアンマーは、十分に信用できる立派な軍人を多数抱えていたことをこの間の事情は伝えており、人々の勇気を書き残しています。
こうした時代、南のスコータイでは、既に過去の栄光は陰を潜め、パヤー・ルアンとも伝承で伝えられる、ラームカムヘーン大王の時代の勢威は見る影もありませんでした。既に新興国アユッタヤーが、メナム川流域の肥沃な土地を利用して農業生産で財をなし、強力な国を作っていました。そんな新興国に伝統国のスコータイはその地位を奪われて、このパヤー・セーンムアンマーの時代にはアユッタヤー王国の中のひとつの地方都市に過ぎませんでした。
そんな新興のアユッタヤー王国と、チエンマイを中心とするラーンナー王国は、常に緊張関係にあり、互いにすきあらば他方を併呑しようとしていたようですが、互いにそれほどまでの決定的な力を持ち合わせていなかったようです。
しかし、ハヤー・セーンムアンマーのチエンマイを狙って叔父のターウ・マハープロームが兵を挙げ、失敗すると南に逃げてアユッタヤーに救援を乞い、その機を利用してチエンマイを併呑しようとするアユッタヤーは、これ幸いと軍を送ってきました。しかし、チエンマイを攻略することは出来ず、ターウ・マハープロームの望みも潰えました。
このターウ・マハープロームとパヤー・セーンムアンマーとの争いは、パヤー・クーナーが亡くなった直後のこととされていますので、西暦1386年前後のことでしょうか。
アユッタヤーのチエンマイ併呑の機会が消え去った後、伝承ではその年代も、時の王の名前も記していませんが、各種チエンマイ側伝承は一致して、当時のムアン・スコータイの王が、アユッタヤーの王、プラヤー・バロム・トライチャックと諍いを起こした模様で、アユッタヤー攻撃にチエンマイの王に救援を求めてきました。
時のチエンマイの王は、パヤー・セーンムアンマー王ですが、既に叔父との戦いに勝利して自信をもっていたのでしょうか、好機と見てか、先の復讐戦としてか全軍に出動を命じました。象隊、馬隊を含む全軍がパヤー・セーンムアンマーを総大将にして進軍します。
軍隊を水路で送るほど巨大な船を当時のチエンマイはもっていなかったでしょう。従って、軍は陸路、森を横切り、山を越え、時に川を渡って行ったのでしょう。
長い進軍の末にスコータイの近くに到着したチエンマイ軍は、野営の陣を構えました。ここで説が二つに分かれます。
文部省の副読本では、
「そこに布陣したチャウ・セ−ンムアンマ−軍は、夜中不意に包囲攻撃された」
と物知りに説明させています。
これと同じ論調が、ヨーノック王朝年代記で、そこには『・・・チャウ・セーンムアンマーは、軍隊を挙げてムアン・スコータイの近くに布陣しました。チャウ・ムアン・スコータイは、心変わりし、ムアンを固めて出て来ないで、密かに軍を挙げて深夜にチャウ・セーンムアンマーの軍に襲い掛かりました。・・・』と記して、スコータイの卑劣を非難しています。
一方、『プーンムアン・チエンマイ伝』『十五代王朝伝』『王朝年代記』では、チエンマイ軍は「・・・チャウ・プラヤー・セーンムアンマーは、ただいるだけで、戦いには出向かず、ムアンを占領する姿勢すら見せました。チャウ・ムアン・スッコータイが挨拶に来ると、老女を遣わして折衝させただけでした。・・・」
ということから、チエンマイ側はスコータイ救援よりもスコータイ奪取を目指していたかの観があります。こうしたチエンマイ側のはっきりとしない態度に業を煮やしたスコータイの王は、アユッタヤーと密かに通じたのか、深夜全軍を挙げてチエンマイ軍を包囲しました。
敵地で深夜に包囲されたチエンマイ側では、応戦の体制も整わないまま、壊滅的な打撃を受け、全軍は算を乱して命辛々敵地を脱出しました。
暗闇の中で敵地から落ち延びるパヤー・セーンムアンマーの前に二人の兵が現れます。この二人は、小姓であたっとも言われますが、奴隷か従者であったのかも知れません。彼らは、自らの王を一刻も早く敵地から脱出させなければなりませんが、既に象も馬もどこかに逃げてしまって見えません。しかも暗闇の中でいまさら乗り物を探す時間もありません。
二人の兵は終にパヤー・セーンムアンマーを背中に背負って敵地を徒歩で駆けて脱出したのです。二人は共に駆けながらも疲れると、パヤー・セ−ンムアンマーを今一人の背中に背負わせ、交互に王を背負って無事チエンマイに帰り着きました。
パヤー・セーンムアンマーは、この時のことが脳裏を離れないのか、命辛々の脱出行の後には、南への出兵を考えなくなったようです。
それよりも九死に一生を得て無事チエンマイに帰り着いたパヤー・セーンムアンマーは、自らの命を顧みずに自分を背負って走った二人の兵の功を深く心に刻み、彼らへの恩賞を忘れることはありませんでした。
この二人の名前は、アーイ・オープとアーイ・ジーラで、一説では小姓であったとも言われますが、はっきりとはしていません。名前からして彼らは無官の平民であったかもしれません。王は彼らにクン・チャーンサーイ(左象公)とクン・チャーンクワー(右象公)という位を下賜し、日用品、食料品その他多数を下賜されて、その功に報いました。そして、更には城外北に土地を下賜されて何不自由のない生活を保障しました。
そうした王の思し召しを忘れない為に、また、自らの家屋の位置を示す為に自らの職名にちなんで家屋で入り口近くに象の像を建設しました。
これがチャーン・プアックの始まりです。
その後朽ち果てていましたが、チエンマイをビルマの占領から解放したカーウィラ王が西暦1800年にこのチャーン・プアックの修復再現をなして今に至っています。象は、ほぼ実物大で、写真の通り、祠を建設し、四方を塀で囲いました。
象は、二頭いますが、西を向いた象は『プラープ・チャッカワーン(宇宙制圧)』という名前で、北を向いた象は『プラープ・ムアン・マーン(魔国平定)』と名付けられました。
地元の人々は、二人の忠義を愛でて毎年5月から6月にかけてこの象を供養し、様々な供義の品々を奉納します。
この二頭の白象は、王に忠誠を誓い命を賭けて守った二人の家臣の顕彰の碑なのです。
(了)
冒頭の写真がチャーン・プアックの祠です。

死を賭した愛

落穂拾いー(4)
 
世界には、数えられないほどの民族が分布し、独自の文化を誇り、歴史、伝統を持って生きています。彼らは、長い歴史の中で様々な伝承を残し、物語を残し、そして民族の由来を語り伝えてきました。
そうした民族の文化に優劣をつけることは僭越でしょう。また、異民族の歴史・神話を乗っ取り、盗用し、自らの歴史だと主張することもまた傲慢でしょう。しかしながら、歴史は時として敗者の物を勝者が盗み取り、敗者の物を貶め勝者の物を押し付けます。
そして、各民族は、様々な伝承、物語の他に文学作品を残すことも侭あります。日本にもはるかな昔より、源氏物語を始め様々な文学作品を排出、しかも作者が必ずしも男性に限らないと言う、世界的に見ても大変に進んだと思われる点もあります。
ではタイ族には文学はないのでしょうか。たくさんの文学作品があり、多くは仏教色濃いものですが、中には愕くほどに近代的な文学もあります。残念ながら、その原本を有していない為、その香を直接感じることは出来ませんが、その悲恋の純愛物語は、素晴らしい詩の形で綴られていると言います。
 
死を賭した愛
愛は盲目とは昔の人の言です。
愛あるところ、愛の炎に焼かれる苦しみがあるのでしょうか。
愛は、如何なる障害をも乗り越えることが出来るのでしょうか。
愛は、死をもってしても尚妨げることができないものなのでしょうか。
ここに紹介するタイの悲恋物語はあまりにも悲しい最期となりますが、これを今から数百年前のラーンナーの名もない作家がリリットと言う名前の詩の形で残していたことが驚きです。これはロミオとジュリエットのタイ版か、翻訳かと思えるほど似ているようにも思いますが、全く別のお噺です。
チエンマイのはるか東に、プレーと言う県がありますが、そこのソーン郡にプラローと言う名前の塔があります。これがこの悲劇の純愛物語の名残です。
プラローと言うのは、ナコーン・メースアンと言う町の統治者の名前です。ナコーン・メースアンが現在のどこの町に比定されるのか、と言う生々しい話はさて置いて話を物語としてその概要を追っていきましょう。プラローと言う名前の未だ独身の若い統治者がこの世の誰にも比べようもないほどに美男子であることは近隣諸国に広く伝わっていました。風に乗って広まる若き王の美男の噂がナコーン・ソーンの町にも広まると、その町の二人の王女プラペーンとプラプアン姉妹の耳に入りました。
若い女性が美男子と言う評判の男性を目にしたい、と言うのは,いずこの民族、いずこの社会においてもその身分を越えて共通しているのではないでしょうか。共に花も恥らう年頃でまだ未婚の二人は、余りのプラローの美男の評判に一目この目で確かめたいと言う気持ちが抑えられないまでに強まりました。といって、王女の身としては異国の王子に会いに行くわけにも行きません。
日々募るまだ見ぬプラローへの思いが恋慕の炎となって彼女たちを包み、燃え上がらせます。そんな抑え切れない気持ちに急かされるかのように王女たちは、密かに楽師をプラローのいる町に送って、王女たち二人の美貌を褒め称える歌を歌わせました。美男子のプラローに、美貌の誉れ高い姉妹がナコーン・ソーンにいることを噂ではなく、美しい音色の楽師の歌に乗せてプラローに伝えようとしたのです。のみならず、二人は呪術師を雇ってプラペーン、プラプアン姉妹に恋心を抱かせる媚薬の術を施させると、プラローの心を蕩けさせました。
正に愛は盲目です、愛の成就の為に王女姉妹はここまでの努力を払いますが、その二人の王女の努力が実り、楽師の歌ゆえか、呪術師の術ゆえか、はたまたその両者によるものか、プラローの心の中でまだ見ぬプラペーン、プラプアン姉妹への思いが膨らんできました。逢いたい・・・その一心で、プラローは母に偽りの理由を設けて国を出ると、プラペーン、プラプアン姉妹の顔を見ようと旅に出ました。プラローに付いて行くのは二人の侍従でした。
プラローたちは、山を越え、谷を渡り、時に川で遊びながら楽しい旅を続けました。その旅の最中、プラローは自らの運勢を水によって占ったと言います。ところが、水を使った占いでは、恐ろしいことにその水がまるで血のように真っ赤に染まったといいます。占いの結果は、この先の不祥・不吉を告げていました。この恋は死をもたらすというのです。正に、命を賭けた恋の旅でした。しかし、プラローのプラペーン、プラプアンに対する憧れはそんな不吉な占い以上に強いものがありました。
一方、待つ身の辛さ、一日千秋の思いでプラローの到着を待つプラペーン、プラプアン姉妹は、恋の行き着く果てに待つ不吉にも気付かず、王女たちは、憧れの王子の訪問が余りにも遅いことに苛立ちを感じると、呪術師の術がその威力を失ったのではないかと危惧し,再び呪術師を召すと見事な雄鶏に変身させて、プラローの心を蕩けさせる美しい鳴き声で彼を一日、一刻も早くわが国にお連れするよう命じました。
こうした互いの努力の末、遂にプラローは、ナコーン・ソーンに辿り着き、憧れのプラペーン、プラプアン姉妹に合い、三人は夫々に自らの思いの正しさを確認しました。三人が互いに一目で相手に恋すると同時に、プラローの侍従二人とプラペーン・プラプアンの侍女二人もまた主人同様に恋に落ちました。
かくして、全てが順調に進み、互いに幸せな日々を過ごしたのも束の間、美男の異郷の王と美貌の王女姉妹の仲睦ましい生活を腹立たしく思い、成就させてはならないと思う人がいました。
プラペーン、プラプアン姉妹の祖母、国王母がプラローの家系に対して消すに消せない恨みを抱いていました。残念ながら、その恨みの内容が分かりませんが、それは正に不倶戴天の仇のごとき憎悪となっていました。まるでロミオとジュリエットですが、祖母は、にっくき家系の血を引くプラローが、我が領内にやって来て、あろうことか可愛い孫のプラペーン、プラプアンと愛し合っていると知ると、怒りの炎が燃え上がり、抑えることが出来ませんでした。
そこで、息子である、ナコーン・ソーンの国王を唆して殺そうとしましたが、祖母の恨みを共有するほどに国王はナコーン・スアンに対する恨みの情を抱いていませんでした。むしろ可愛い娘たちの幸せを壊したくない気持ちがあったのでしょうか。
我が子、国王が力を持ってにっくき家系の血を引くプラローを殺さないならば仕方ありません。国王母は国王にも内緒で密かに兵に命じてプラローを強襲させることにしました。しかし、本来国王の兵ですから、こうした不自然な兵の動きは必ずどこかで漏れるようで、回りまわって、この企みは四人の侍従侍女の知るところとなりました。愕いた四人は、直ちに自らの主人にことの次第を報せました。
四人の従者がその主人に事の重大さを伝えたその時、祖母の命を受けた多数の兵が王女姉妹の館に攻め入りました。抜き身の刀、弓矢を手にした兵たちが館の中をプラローの姿を求めて走り回ります。それを防ぐ兵はどこにもいません。
辛うじてプラローの二人の若い従者が命がけで兵と剣を交えます。そして、プラペーン、プラプアン姉妹が立ち上がり、彼女たちの侍女二人もまた主人と運命を共にするべき立ち上がりました。
プラローと侍従の二人、男は三人でした。彼らは当然に刀を持っていたでしょうが、戦闘を予想していませんので弓矢も長刀も槍もありません。強襲の兵たちがプラローを取り囲みますが、若いながらも一国の王です。怒声を持って兵たちを叱責します。恐れおののく兵たちは遠巻きにするだけですが、その兵の後ろにいる弓矢を持つ兵たちが矢を引き絞って放ちました。
矢は見事にプラローの身体に突き刺さりました。全身に走る激痛に耐えて立ち続けるプラローに二の矢三の矢が襲いかかろうとする時、プラペーン・プラプアン姉妹がその身を盾に愛しい夫プラローを守ったのです。
兵たちの放つ矢は容赦なく雨の如く降り注ぐと、プラロー、プラペーン、プラプアンの身体に突き刺さりました。
プラローは立ったままその場で命を落とし、その両手は自らの身体を盾に降り注ぐ矢を受けて崩れ落ちようとするプラペーン、プラプアンの身体を支えようとするからのように王女二人の身体に伸ばされていました。
 
(了)
サンキート・チャンタナポーティ著「埋もれたラーンナーの地下を開く」より題材をお借りしました。
冒頭の写真は、弓に斃れるプラローと彼を守ろうと我が身を投げ出して矢を受けたプラペーン、プラプアン姉妹の像です。
 

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
mana
mana
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(37)
  • red
  • 翠はるかに
  • 建設環境は震災復興
  • デバイス
  • KABU
  • ネコマロ
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事