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プラ・ラーチャ・チャーヤー・チャウ・ダーラーラッサミー
落穂拾いー(3)
如何に頭がよく、如何に有名な学校を卒業し、如何に財を蓄えたとしても、決して手に入れることができないものがあります。それが血です。血筋と言うものは、どうしようもないもので、自分でどうすることも出来ません。
タイ人社会で姓にナ(na)がつく人たちがいます。これは、日本語的に言えば、場所を表す前置詞にも似たようなものです。
ナ・チエンマイ、ナ・ラムプーンは、強引に日本語に訳せば「チエンマイの」「ラムプーンの」となり、これを姓にする人たちが北の町々には今もたくさんいますが、この人たちは、チエンマイ王家の祖、チャウ・チェットトンの血筋を引く人たちで、昔の日本的には言えばお殿様、お姫様たちです。しかし、そんな地方王家とは別に、モム・チャウ、モム・ラーチャウォン、モム・ルアンなどが名前の頭にMR,MRS,MISSに代わって付く人たちは、バンコク王朝の国王の血を引く人たちです、血の濃さによって呼び名が変わります。すでにチエンマイ初めかつてのラーンナー王国は既になくても、こうした王家の血は今も厳然と残っています。
そんな中でも異色といえるのが今もその名が残るチャウ・ジン・ダーラーダッサミーではないでしょうか。
チャウ・ジン・ダーラーラッサミー
前回、チエンマイにおけるキリスト教の項で名前が出たチャウ・チーウィット・アーウは、チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンといいますが、彼はチエンマイ王家の第六代目の王です。
彼の父は、チャウ・カーウィラといってチエンマイ王朝の祖です。そして、娘のメー・チャウ・テ−プクライソーンは、チエンマイ王家第七代目王チャウ・インタウィチャヤーノンの妃です。
このチャウ・インタウィチャヤーノンは、チエンマイ王朝の祖、チャウ・カーウィラの弟でチエンマイ王朝第三代目の王、通称カムファンと呼ばれる、チャウ・ルアン・セーティーの子供である、チャウ・ラーチャウォンの子供に当たります。
即ち、メー・チャウ・テープクライソーンとチャウ・インタウィチャヤーノンは同じチャウ・チェットトンの血筋を引くものです。そして、そうしたチエンマイ王家の血筋を父母両方から受け継いで生まれたのがチャウ・ジン・ダーラーラッサミーです。
そして、チャウ・インタウィチャヤーノンの後を襲って八代目のチエンマイ王に就いたチャウ・インタワローロット・スリヤウォン、そしてチエンマイ王朝最後の王となる第九代目チャウ・ケーウナワラットは、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーの異母兄に当たります。
チャウ・ジン・ダーラーラッサミーは、父を同じくする兄姉11人の末っ子でした。末っ子でありながら、その血筋から言えば他の如何なる兄姉よりも王家の血筋を色濃く伝えており、同腹には姉のチャウ・ナーン・カムハーンただ一人がいるだけです。
このチャウ・ジン・ダーラーラッサミーは、西暦1873年8月26日午前3時過ぎチエンマイ王家宮殿にてご生誕されました。このチエンマイ王家の宮殿とは、かつてのチエンマイ県庁であり、今もチエンマイの城壁に囲まれた町の真ん中に位置し、その前の広場にはチエンマイ建都に際して相談したとされるタイ族の三つの王国の三人の国王の像が立っています。
チエンマイを中心とするラーンナー王国は、西暦1558年にビルマに占領されて以来その独立を失い、ビルマ支配下における圧政に苦しみます。ビルマはラーンナー、特にチエンマイを南のアユッター攻略の足場としますが、この地の豊富な食料と兵士が魅力であったのでしょう。
ビルマ支配に対して王国内各地で散発的抵抗が繰り返されながらも組織的にビルマ勢力を追放することがありませんでしたが、西暦1774年に南のトンブリー王朝の援護を受けてチャウ・カーウィラがチエンマイをビルマから解放しました。
このトンブリー王朝は、短命で、現在バンコクの観光名所となっている暁の寺を残しています。ビルマがアユッタヤー攻略の前線基地としてチエンマイを支配したのに対し、トンブリー王朝、及びそれに続くバンコク王朝は、チエンマイをビルマの南下を防ぐ防壁として遇しました。
バンコク王朝に隷属しながらも、ラーンナーは新たなチャウ・チェットトンたちに王朝支配の絶対権限が認められていました。
チエンマイ王朝は、チャウ・カーウィラと言う七人の兄弟の長男が初代の王として君臨しました。チャウ・チェットトンと呼ばれる七人の兄弟は大変に強い結束力を持ち、チエンマイのみならず、ラムパーン、ラムプーンをも統治しました。
現在のナ・チエンマイ、ナ・ラムプーンと言う姓は皆この七兄弟にその祖を遡ります。
そんな血筋を引いてチャウ・ジン・ダーラーラッサミーが生まれました。
この当時、既にインドを支配して久しい英国は、ビルマをも支配し、その森林資源を求めて東に進んできていたようです。そうして東に向って進んで目にしたのは、ラーンナー王国であり、チエンマイ王朝でした。このことから英国は、豊富な森林資源を求めてチエンマイ王家と直接接触しようとしたようです。現在もケート寺院近くにはその昔チーク材の伐採で財を成した人たちの子孫が残っています。
そうした時代に幼年期を迎えたチャウ・ジン?ダーラーラッサミーの様子を vaseline と言うHNの人物は、ウェブ(参照:http://www.vcharkarn.com/vblog/43009)において、次のように記しています。
「幼年期、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーは、ラーンナー、サヤームの文字に英語も学び、習熟していました。のみならず風習、習慣をも習得して、旧来よりの伝統行事を最もよく知る一人でした。・・・」
そんな時思いもかけないことが起こったようです。
同上ウェッブの記述を訳せば、
「・・・影響力を広げてビルマを統治して以来、英国は、懸命にチエンマイ及び、北部地方都市各地にその影響力を及ぼそうとしました。大英帝国ヴィクトリア女王がプラチャウ・インタウィチャヤーノンのお妃であるメー・チャウ・テープクライソーン・マハーテーウィーよりご生誕された王女、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーを女王の養子として貰い受けたいと、勅旨を送ってきました・・・」
そして、姫の地位をPrince Of Siam にしようと考えていた、というのですが、これは恐ろしい計略ですね。この話のどこまでが事実であるのか、チャウ・インタウィチャヤーノンが如何なる返事を出したのか今一切の資料が残っていませんので何とも言えませんが、チエンマイに英国植民地主義の魔の手が及んでいたのでしょうか。
このことは、ノンヤウ・カーンチャナワーリー著「ダーラーラッサミー」においてもその第34項に次のように記されています。
「仏暦2425年(西暦1882年=mana 注)、英国ヴィクトリア女王の御世、ビルマ南部よりチエンマイ王朝第七代目統治者、プラチャウ・インタウィチャイヤーノンのもとに交渉の勅旨が送られてきました。その言うところは、ヴィクトリア女王はメー・チャウ・テープクライソーンよりご生誕された王女を貰い受けて保護したい、と言う気持ちを有している・・・」と言うのでした。
この書においても同じ内容ながら、やはり出典を見出しえないようです。しかし、この話は、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーご本人が幼少の記憶として非公式に述べられたもののようです。
何はともあれ、これは一大事です。もしも最もチエンマイ王朝の色濃い血を引く姫がヴィクトリア女王の養子と言う名前の人質にとられたとするならば、現在のタイ北部はバンコクの意志とは別に英国の支配下に入ることになります。それは、インド、ビルマの運命の後を追うことになります。
そうした嫌な予感がバンコクの王室に漂ったのでしょうか、翌年の西暦1883年になると、バンコク王朝のラーマ五世が、御自らの代理として弟君をチエンマイに遣わし、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーに対してダイヤのイヤリングと指輪を下賜されました。そして、その意味は、婚約の記しであるというのです。チャウ・ジン・ダーラーラッサミーは御年わずか10歳に過ぎませんでした。のみならず、バンコク王朝のしきたりに則り、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーの髷結いの元服式にも似た成人式を挙げる式を執り行うよう指示され、内親王の御位にも匹敵する髷飾りを下賜されましたが、これはバンコク王朝内においても前例のないことであるばかりでなく、チエンマイ王朝においてもないものでした。
そして、3年の後、バンコクにおいて立太子式が執り行われると、チエンマイ王家からもチャウ・インタウィチャイヤーノン初め王族たちの中に混じって御年13歳のチャウ・ジン・ダーラーラッサミーが混じっていました。
その日を境に、チャウ・ジン・ダーラーラッサミーは、バンコク王宮内に館を宛がわれてその館の主としてチエンマイから伴った多数の従者と共に暮らすことになりました。
御年10歳にして、前例のない扱いで幼児から成人となり、御年13歳にしてバンコク王朝にお輿入れとなりました。
西暦1886年2月4日の王室日記には、次のように記されています。
「本日チエンマイ王の娘チャウ・ダーラーラッサミーが王宮にやってきた。チエンマイの王が送ってきたものであり、王室御用船を繰り出して受け取った・・・」
そのバンコク滞在中も姫は、チエンマイ王家の出であることを誇りとし、御自らのみならず、従者の一人一人に対してもチエンマイの言葉、服装を守り、伝統、習慣、風習を決して捨てることのないよう指示されていました。
(了)
参考文献:「ダーラーラッサミー」ノンヤウ・カーンチャナワーリー著
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落穂拾い
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落穂拾いー(2)
今の時代、誰もが集会、思想・信仰の自由を有し、如何なる国といえどもこうした自由を犯すことはできない、と何の疑いも抱きません。しかし、そうした権利が一人歩きすると、現在タイ国の首都バンコクで起きているような路上を封鎖し、都民に限りない迷惑を及ぼし、国家経済に多大の損害をもたらしながらも、国民が有する当然の権利であると豪語する人たちが出て来ます。また、誤った教えを広めながらも宗教・信仰の自由の名の下で個人の精神を呪縛する異様な集団が出てくることもあります。
しかし、だからといってそれらの自由を全て国家が管理しようとすると、隣国で起きているような宗教集団を異常に弾圧する悲惨な噂が流れてくることにもなります。信仰、宗教と言うものは、決して他宗の人たちに害を加えるものであってはならず、他宗を否定したり、誹謗したりすることは宗教として最も恥ずべきことで、その時点で宗教と言う枠をはみ出したものといえるのかも知れません。
改宗を許さじ
タイ国は、仏教国と自他共に認め、特に上座部仏教の中心国であるかのように広く世界に伝わっています。しかし、仏教国でありながらも、寺院に参拝する人の数は年々歳々減少し、仏教から他宗教に改宗する人が後を絶ちません。
それは、ここチエンマイにおいても同じことです。
そして、仏教からの改宗のみならず、本来上座部仏教にあるはずのない観音菩薩象が各地で建立されるようになったことは、仏教内部においても変化が起きている事を示しているのでしょうか。
ところで、そんな仏教国タイですが、旧い時代から西洋人が渡航し、それに連れてキリスト教が入ってきております。しかし、タイ国最初の神学校がこの山の中の町チエンマイに出来たことは案外知られていないのかも知れません。
西暦1858年、父母を亡くしたダニエル・マッキンヴァーリーが神学校を卒業したばかりの若さで宣教師としてアメリカよりタイに渡ってきました。一言のタイ語も理解出来ず、ただ未知の国への布教と言う使命感だけで神学校を出たばかりの青年が一月半の航海の末にバンコクにやってきました。
そんな彼の通訳ともなったのが、父が同じく宣教師としてバンコクに駐在していたバンコク生まれのソフィア・ブラッドレーでした。そして、二人は後年結婚することになります。
バンコクに滞在している間、二人は、たまたま近くに宿舎を有していたチエンマイの王室の人々と親しくなりました。
これは、当時の宣教師たちが宗教目的以外に西洋医学をもこの地にもたらしましたが、こうしたことからタイの王室に近付き、それがひいてはチエンマイの王室の中にも知己を作ることとなったようです。
かくして、マッキンヴァーリーとソフィア夫婦は、二人の子供を伴って西暦1866年4月3日、三月の旅の末、チャオ・プラヤー、ピン両河を遡ってチエンマイの地にやってきました。
初めてチエンマイの人々が目にする白人です。まず二人は、宗教活動よりも当時チエンマイの人々を苦しめていたマラリアの治療で人々の心を捉えます。それはチエンマイ王室の全面的な支援の下でのことでした。
そうして、翌年には今一組の夫婦が宣教師としてチエンマイに来ます。ジョナサン・ウィルソンと妻、そして子供でした。バンコクの言葉ながらタイ語を話すマッキンヴァーリー夫妻と異なり、ジョナサン夫妻はタイ語が一言も出来ませんでした。
そこで、チエンマイでの活動を容易にする為に、チエンマイのタイ語の学習を始め、その教師として選ばれたのが、ナーン・インタとナーン・チャイでした。
こうして言葉をものにした彼らの布教が本格化した西暦1869年の内に、七人の住民がキリスト教に改宗してしまいました。
今、このチエンマイでキリスト教に改宗しただ一期の七人をサンキート・チャンタナポーティ著「ラーンナーの埋もれた地下を開く」より記すと以下のようになります。
1.ナーン・インタ 2.ノーイ・スリヤ 3.ナーイ・ブンマー 4.セーンヤーウィチャイ 5.ナーン・チャイ 6.プーサーン 7.ノーイ・カンター の七人ですが、このうち、プーサーンは、タイヤイ族の盲目の人で、最後のノーイ・カンターは、その出自が不明です。
彼ら七人は、共に西暦1869年に洗礼を受けています。
これは、時のチエンマイの王、チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンにとって嬉しくありませんでした。仏教こそが国の宗教です。初めに改宗したのが、ウィルソン宣教師の家庭教師、ナーン・インタですが、彼は民間人であってみれば、絶対的な殺生与奪の権を持つ王としても歯軋りするだけでしたが、次に改宗したノーイ・スリヤは、チャウ・カーウィローロットの牛の世話人であり、これは身内も同様です。
ナーン・インタは、現在のインタパン家の祖であり、チエンマイで最初のタイ人キリスト教徒と言うことになります。彼は、プロテスタント普及175年と題するキリスト教徒側の資料では、ある寺院の檀家総代であったと言います。
名前についているナーンと言う言葉が還俗者を表していますが、ウィルソン宣教師にタイ語を教えるうちに影響を受けたのでしょうか。しかし、彼はまだ民間人です。しかし、次のノーイ・スリヤはチエンマイ王、チャウ・カーウィローロットの牛の世話人であり、ナーイ・ブンマーは、王の甥の召使、セーンヤーウィチャイは、ラムプーンの王の従者、ナーン・チャイは、ナーン・スリヤの友人であり、チャウ・カーウィローロットの従者です。
このように、王の周りのものがキリスト教に改宗していく様子をどのように見ていたのでしょうか。
チャウ・カーウィローロットにとって、チエンマイの住人、即ち自分の領民が国教である仏教を捨てて異国の宗教であるキリスト教に改宗することは、国に対する反逆と写ったようです。それでも、じっと耐えていました。
しかし、ここで思わぬ事件が発生しました。この機を捉えて、王の堪忍袋の緒が切れることになりました。
その前に、先のキリスト教徒側の資料に面白いことが書いてありますので、ご紹介します。当時の人々の気持ちが読み取れますし、現在のタイ人の気持ちの奥を知る手がかりともなります。
「・・・支那人は、タイ人よりも信じやすい、と言うのも社会における二流人種であり、宣教師たちからの援助を必要として、支那人はタイ人ほどにはキリスト教徒であることに対して抵抗を受けなかったからである。・・・」
この頃には、まだ中国人と言うのはそれほどに大きな影響力を持ってなく、社会における割合も少なかったのでしょうが、社会の中で二流人種と見られていたという点は、今のタイ人の心の奥を見る参考になるかも知れません。
さて、この時のチエンマイの王チャウ・カーウィローロット・スリヤウォンは、別名、チャウ・チーウィット・アーウとも呼ばれますが、罪人審議の最中に王の口から一言「アーウ」と言う言葉が出ると、一切の審議はその時点で終わり、被疑者は処刑されることになります。このアーウと言うのは感嘆詞で、「ええ・・・」とか「何と・・・」とか言う言葉に相当するのでしょうか。故に、人々はチャウ・チ−ウィット・アーウと呼んで怖れていたのですが、実際にはその審議は理に適っていたようです。
この同じ年、西暦1869年チエンマイでは、農業用灌漑施設の修復の為の掘削工事が行われました。これは、古来続いてきた農業振興策であり、領民の誰も徴用を忌避することは許されません。この時、ナーン・スリヤとナーン・チャイの二人もこの工事に狩り出されましたが、キリスト教の教えに従って安息日である日曜日は仕事をしませんでした。
そこで、チャウ・カーウィローロットの前に引き出されましたが、両人共に日曜日の就業を拒否する気持ちを公然と宣言しました。
その時の審問においてチャウ・チーウィット・アーウは、
「日曜日に、お前たちは飯を食うか、日曜日には水は流れを止めて水田に入るとことを止めるか」と問いただしました。
これに対して二人の答えは、
「日曜日にもご飯を食べ、日曜日にも灌漑水路の水は流れます」と応えました、すると、直ちに王が判定を下しました。
「ならば、日曜日にも仕事を休むことは相成らん、日曜日にも仕事をしなければならん、何となれば誰もが同じように働いているからである」
しかし、敬虔なキリスト教となった二人は頑として安息日である日曜日に仕事をすることを拒み通しました。
そこで、二人に対して処刑の命が下りました。
その罪状は「国王の命令に対する違背行為」でした。
これがチエンマイに置ける最初のキリスト教徒受難者で、今もキリスト教徒たちの間で伝説のように伝わっています。
(了)
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画像参照:http://www.oknation.net/blog/home/blog_data/779/20779/blog_entry1/blog/2008-03-11/comment/228112_images/21.jpg
落穂拾いー(1)
世の中には、何かの弾みで世に出たまではいいのですが、それが間違いであるにも拘らず間違いであると気付かないまま世間の人の口の端に上ります。世間の人、一般庶民と言うのはひ弱な様でありながら大変に強かな面も持っていて、一度信じたことを覆すのは大変に難しいようです。
俗説がいつの間にか真説を凌駕することもあります。全くの作り話があたかも本当であるかのように一人歩きすることもあります。そして、中には、ちょっとした勘違い、聞き違いが人格を否定し、抹消することもあります。
かつてある人の葬儀に出ました。村人は誰もが彼のことをアイ・チャーイ(AI CHAAY)と呼んでいました。ところが葬儀の席で見た彼の本名は、アイ・サーイ(AI SAAY)でした。これについて彼の妻は「役所でこう書かれてしまった」と言うのですね。役所の係官が勝手に聞き間違えて名前を作ってしまったのです。笑い話のようですが、本当の話で、しかも決して珍しいことではないようで、こうしたことがしばしばあるようです。
パヤー・マンラーイ生誕秘話
北方のバラとも呼ばれるタイ北部の政治・文化・経済の中心都市チエンマイは、ウィアンピンと呼ばれたりもしますが、古文書に見える正式名はムアン・ノッパブリー・シーナコーンピン・チエンマイと言います。
資料等によって明らかにされているところでは、仏暦1839年(西暦1296年)に建設されました。
ピン河沿いに南に30キロほど下った所にあったムアン・ハリプンチャイを倒したパヤー・マンラーイは、同じピン河沿いに新しい城郭都市を建設して、後年のラーンナー王国の基礎を建設しました。
このチエンマイ建設の王パヤー・マンラーイは、現代タイ語ではプラヤー・マンラーイとも呼ばれたり、また、地元の人々はポー・クン・マンラーイと尊敬の気持ちを込めて呼びますが、同じことです。それよりもチエンマイにおいても、公的機関においてすらもパヤー・メンラーイと誤って記されている場合があります。そうした誤った名前を見ると何故か悲しくなりますが、すでに橋の名前になっていたり、郡役場の前の銅像名に使用されていたりしますと、今更訂正も出来そうになく、誤った命名がもたらす誤った認識が人々に植え付けられると思うと恐ろしいことですね。
パヤー・マンラーイは、このピン河流域で生まれたわけでも育ったわけでもありません。もともとはるか北の現在のタイ国最北の町チエンラーイの北部にあった昔の王国の第25代目の王子として生まれました。
その王国の名前は、ヒランナコーン・ンガーンヤーンと言いますが、ヒランもナコーンも共にタイ語ではなくバーリー語のようですから、どうやらこの名前も後世の伝説創作者が名付けたのではないでしょうか。
このヒランナコーン・ガーンヤーンと言う国は、降臨伝説を持つラワチャンカラートを始祖としますが、王朝の始祖にラワと言う言葉が付き、続く王たちにもラーワ、もしくわ、ラーウと言う言葉が付きますので、時として、この王朝及び、これに続く王統は現代ラオスの始祖と同じラーウ族と思われるかも知れませんし、現代タイにおいてもこの北部地方のタイ人をラーウ人と呼ぶ人もいますが、同じタイ族でもユアンと呼ばれる部族で、通常タイ・ユアンと呼ばれたりします。
その第24代目の王の名前をラーワメーンと言います。
ラーワメーンの后は、現在の中国雲南省西双版納にあった旧い国、ムアン・チエンルンの国王ターウ・ルン・ケーンチャーイの王女プラナーン・ウアミンチョームムアンと言う名前でしたが、婚姻に際してプラナーン・テープカムカーイと改名したとされます。伝承によっては、プラナーン・テープカムカヤーイとしているものもあります。
この王女は、その美貌が近隣諸国にまで響いていたと言い、その美は聖女の如く清らかで一転の曇りもなく、一点の汚れもない清らかなものであったと言います。
メコーン河を挟んで北に位置する、チエンルンはタイ・ルー族の国で、メコーン河の南に位置するヒランナコーンはタイ・ユアン族の国ですが、こうして姻戚関係を結ぶことで互いに連携し、安定を図っていたようです。こうした政策からでしょうか,中国はこの地域のタイ族の王国を八百媳婦国と呼んでいます。
ラーワメーンとプラナーン・テープカムカーイが結婚して間もなくのことでした。妃は世にも不思議な夢を見たといいます。その時の様子をタイ文部省中等教育用副読本である「北の町の物語」の中の『重要人物の歴史編』は次のように記しています。
「・・・我が君、夜も更けた頃、妾は、世にも珍しく不思議な今までに見たこともない様な夢を見ました」
夫君がお尋ねになるには、「お前はどんな夢を見たというのか?わしに全てを話して聞かせなさい・・・」
こうして、プラナーンテープカムカーイは、自らの夢の内容を話して聞かせました。その夢の内容は、次のようなものでした。
その夜、はるか南の中天高くに耀く星が、熟睡中のプラナーンの体めがけてフワフワとゆっくりと落下してきました。その星は、美しく明るく輝き、その光は例え様もありませんでした。その夢の中で、プラナーンは腕を差し出し、その落ちて来る輝く星をしっかりと受け止めると、驚いて目が覚めました。
こうした夢の話をした妃は、夫のラーワメーンにこの夢を占って頂きたい、と願い出ました。すると夫のラーワメンは、直ちに王室バラモンを呼び集めて先ほど耳にした妃の夢を占うよう命じました。
タイ族は、今も昔も大変に占いを大切にします。今もタイ王室にはバラモン僧がいて様々な行事を取り仕切り、占星術師もまたいます。そして、現代における政治家の中にすら占い師の意見をもとに行動する人がいますし、一般市民が占いを信じることも日本人以上かも知れません。
その占いには、曜日、時間、方向が重要な要素となるようです。ラーワメーンの王室バラモンが慎重にあらゆる点から占って言いました。
「今回の御妃の夢は、この上もない吉祥夢であると思われます。おめでとうございます。見事に王子を語懐妊になられました。海洋に至る迄の南方の諸国を平定し、ラーンナー王国の隅から隅迄ご威光は遍く及ぶであろう勇敢な王子の強大・広大な栄誉は、この地上のいかなる国にも比するべき物もないでありましょう」
吉祥を告げる占いに、王室は歓喜に沸き立ち、妃は、吉報をもたらした占星術師にたくさんの品々を下賜しました。
王室の誰もが英雄クン・チュアンの血を受け継ぐ偉大なる王統を受け継ぎ、チエンルンの英雄ターウ・ルン・ケーンチャーイの孫に当たる王子の誕生を待ちわびました。
一方、プラナーン・テープカムカーイもまた、心身ともに健全な王子の出産を願って御身を大切にされ、不浄・不潔なものを遠ざけ10月10日が満ちました。
ここで説が二つに分かれます。一説は亥の年の仏暦1782年(西暦1239年)1月下弦の9日の日曜日の生まれであると言い、又別の説では、前年の戌の年の仏暦1781年(西暦1238年)3月上弦の9日日曜の生まれであると言います。
日曜日の黎明時、プラナーン・テープカムカーイ妃は、占いの通り、見事な王子をご出産されました。周りの人々は産まれた王子に武人の相を見、王室のみならず、親族の誰からも歓喜と祝福の声が送られました。
眉目秀麗な王子が誕生して一月の後、慣習に従ってローン・ドゥアンの魔除けの儀式を執り行い、招魂の儀式を執り行わねばなりません。同時に、後継王子の誕生の報せは、プラナーン・テープカムカヤーイの実家である、チエンルンにも直ちに送られました。
ヒランナコーンから送られた使者を受けたターウ・ルン・ケーンチャーイは、知らせを受けると喜び、王族を集めると孫に送る下賜の品々を取り揃えた上、軍隊を率いて慶祝行事に参加の為出立しました。
ターウ・ルン・ケーンチャーイを迎えて王子誕生祝に湧くムアン・ヒランナコーン・ガーンヤーンでしたが、生まれた王子の名前を付けるのに又占い師を集めることになりました。
文部省の副読本によっても、俗説を踏襲しているのか、父王『チャウ・ラーワメーン』と母『プラナーン・テープカムカーイ』、そして外祖父の『ターウ・ルン・ケーンチャーイ』の名前をあわせて『メーンラーイ』としたとされています。
しかし、この三人の名前によるものであることに違いはありませんが、歴史学、考古学からすると、この命名は間違いだと言わざるを得ません。
様々な旧い伝承本に残る名前はいずれもマンラーイであり、少なくとも文献上ではメンラーイという名前を見ません。又、ラムプーンのプラユーン寺院に安置されている仏暦1912年(西暦1369年)に刻まれた石碑にもはっきりとマンラーイと言う名前が残っています。この年は、王の死後わずか50年の後のことに過ぎませんので、信用度は高いと思われます。
その他、チエンマイ建設に際して、三人のタイ族の王が協議したことは石碑としてチエンマイ市内のチエンマン寺院に残っていますが、そこにも同じくマンラーイとなっています。
それを正当化するかのように、チエンマイ市内の旧県庁跡地広場に建立された三大王の銅像には、はっきりとマンラーイと言う名前で記されています。
王子生誕の奉祝行事が連日連夜繰り広げられ、王子の命名式が正式に終わると、遠くチエンルンからやってきた外祖父のターウ・ルンは、供の軍隊を率いて帰って行きました。
後年ヒランナコーン・ンガーンヤーン王朝では、時の王ラーワムアンが崩御されると、王子のチャウ・ラーワメーンが玉座を後継しました。
そして、メーンラーイ王子が21歳に成長なされた時、父王チャウ・ラーワメーンが病に倒れて崩御しました。王子のメーンラーイが父王の後を継いで、ムアン・ヒランナコン・チエンラーウを統治することとなりました。
(了)
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