チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

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厄介な事大の国

厄介な事大の国-
 
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)

冒頭の漫画は、明治15年(西暦1882年)に来日したフランス人画家ジョルジュ・ピゴーが明治20年2月15日に創刊した、居留地在住のフランス人向け風刺漫画雑誌「ドバエ」に掲載された「魚釣り遊び」という題の風刺漫画です。朝鮮という魚を釣り上げようとする日本と清国ということを風刺しているのでしょう。これだけであれば、朝鮮をめぐっての我が国と清朝との関係、思惑を風刺しているのだろうと思われますが、注意すべきは、日本と清国の他に、正面の橋の上から両国の釣りを眺めながらしっかりと釣竿を持っているロシアが描かれていることです。そして、ロシアがいる橋の下に流れる川は満朝の国境となる鴨緑江でしょうか。ピゴーの目には日清戦争より7年も前に、既に満蒙を南下して今正に朝鮮に至ろうと、虎視眈々と朝鮮半島に野望を抱くロシアが目に映っていたのです。当然、ロシアの視線は、半島を通った海の向こうにある日本を捕らえていたことは、文久元年(西暦1861年)に発生した対馬事件を持ち出すまでもなく、明らかです。こうした見方は、一人、ピゴーのみならず、ロシアの南下政策を熟知する当時の西洋諸国に共通した認識だったでしょうし、諸外国の動きに敏感な維新政府要人たちにとっても共有されていたことは容易に想像できます。植民地政策を推し進める西洋諸国の膨脹を前にした維新政府の目には、強国ロシアの満州併呑、朝鮮半島支配と続くであろう南進・膨脹政策が、成立したばかりの大日本帝国の存立さえ脅かす可能性ある要素と映っていたとしても不思議ではありません。
 
思えば、このロシアの野望にも増して、確たる理念、国家観、外交政策もないままに日・清・露にその時々に媚を売る半島の王朝の蒙昧さが地域に混乱を齎し、自己中心の無責任な小賢しさは、今も折に触れて我が国の神経を逆撫でします。そんな王朝に対して、自国の安全を図る為とはいえ、援助の手を差し伸べてきた我が国は、結果的に多大な犠牲を強いられただけで、我が国の善意が報われることは終になく、今も彼の国の歪な精神風土が攻撃本能を剥き出し、我が国社会に悪影響を齎しているのではないでしょうか。理由のない被害者意識しか持てない彼らは、劣等感を振り払うかのように、日本の独立・再武装を怖れてか講和条約前に武力で竹島を不法に占拠し、我が罪なき漁民を殺害し、拘束しました。寄る辺をなくした戦後の朝鮮は、自ら作り出した虚構に縛られて身動きもできないまま自己満足だけの反日世論に酔い痴れ、反論のない安全地帯の中での対日罵詈雑言を弄ぶことによる満足感という慰めを得てきたのでしょうか。そんな虚構の中での自己満足は、更なる欲求不満を生み出し、未来永劫満たされることのない欲求不満の海の中で、歪んだ精神を育てるだけではないでしょうか。良識が求められる司法においてすら反日無罪という非常識が通用する社会では、全体が共通の虚構=妄想の世界の中で外部の誰にも理解されない独りよがりの正当性を主張しながら慰め合う、夢想共同体を形成しているに過ぎないのかもしれません。アメリカ人文化人類学者クリフォード・ギアツは、インドネシアのバリ島を調査し、そこに見られる宗教的社会、伝統社会を研究してヒンズー教世界を現実世界に模した「劇場国家」論を展開しましたが、朝鮮に関して言えば、その社会は、自らの心を律する宗教観・価値観を持たず、強いて言えば、日本のみならず自国以外のすべての国々に対する限りない劣等感に基づく嫉妬、妬みから発するやりきれない無意識下の自己嫌悪の怒りが支配した妄想激情国家なのかもしれません。それ故、時にはOINKと称される外部世界には理解できない不思議な言動が当然のことのように通用し、被害者意識を強調する教育は、対極にある選民意識の強調を持って現実と夢想との乖離を埋めようとしますが、さらなる乖離を齎し、精神的不安定を増幅させるだけなのではないでしょうか。現実的であるべき政治の世界までもが虚構の中に溺れていくと、国を挙げて我が国の不幸に歓喜し、我が国の繁栄・安全を呪うかのように誹謗・中傷し、陰に陽に我が国を貶めています。こうした彼らの心の底には、我が国に対する理由のない羨望、克服し難い劣等感妬み、恨みとなって渦巻き、我が国の経済、技術、文化のみならず、風物までもが嫉妬の対象になると、本来は自分のものであったに違いない、という妄想、強迫観念が芽生え、精神的不安定が極度に高まる中で韓国起源説が生まれてきたのかもしれません。我々にとっては何とも理解し難い厄介な彼らが我が国の喉元に突き刺さった棘であろうとするならば、我が国はその棘を無害にする為にも彼らの事を知らなければならないのではないでしょうか。
 
この半島の国との関わりは、我が国にとって有益であるのか、有害であるのか。
 
明治18年3月16日に掲載された「時事新報」の無署名の社説「脱亜論」は、支那、朝鮮の前近代性、特に朝鮮の近代化が極めて悲惨な形で阻止されたことに対する失望感・怒りの上に記されたのかもしれませんが、日本の地理的条件として「不幸ナルハ近隣ニ国アリ」として支那・朝鮮を上げ「此二ノ者共ハ一身に就キ又一に関シテ改進ノ道ヲ知ラズ」と断じ、近代化を拒絶する隣国に対する我が国の今後の施策として「左レバ今日ノ謀ヲスニ我ハ隣ノ開明ヲ待テ共ニ亞細亞ヲ興スノ猶豫アル可ラズ」西洋植民地諸国の野望を前に、両国の自覚を待つ時間的余裕がないことを宣言し、続いて「寧ロ其伍ヲシテ西洋ノ文明ト進退ヲ共ニシ其支那朝鮮ニ接スルノ法モ隣ナルガ故ニトテ特別ノ會釋ニ及バズ」と、同じアジアの国としての親和感を持つよりも西洋諸国に和して近代化の道を進み、その上で隣国への対処法として「正ニ西洋人ガ之ニ接スルノ風ニ従テ所分ス可キノミ」と支那、朝鮮に対する心情的親和感を排除し、続いて友ヲ親シム者ハ共ニ名ヲ免カル可ラズ」が故に「我レハ心ニ於テ亞細亞東方ノ友ヲ謝絶スルモノナリ」と結論付けて社説を結んでいます。情緒的親和感を廃し、悪友である隣国とは冷徹な国際政治の論理を持って接しよ、というのであれば、100年余が経過した現代においても大いに肯けるものではないでしょうか。
 
思えば、我が国は、古来朝鮮半島からの侵入者に悩まされ続けて来ました。8世紀以降続発する新羅の入寇は、当時半島で猛威を振るっていた飢饉や疫病を逃れる為であるかもしれませんが、時に流民となり、時に盗賊となって我が国に押し寄せて来ました。彼らのそうした性癖は千年以上経過しても変わらず、今も日常的に見られる我が国への密航者、不法滞在者、不法就労者の動きと符合します。また、時に新羅の捕虜たちは「帰国を願う者も、帰化を願う者も叶えられた」とされていますが、これも日本政府の全額負担による終戦直後の朝鮮人帰還事業を思い起こさせます。毎年のように「商人や、漂流者、帰化、難民に成りすまし」てやってくる新羅人は、対馬領内に居を構え、徒党を組んで反乱を起こし、領民を殺害し、しばしば領内に侵攻して暴虐の限りを尽し、対馬簒奪すらをも企てる始末だったようです。それはまるで現下の情勢を見るようではないですか。「高麗史」によれば、かつての文永11年(西暦1274年)の文永の役もまた、高麗の忠烈王の強い進言によるものであるとされており、彼らにとって我が国は簒奪の場としか映っていないのでしょうか。彼らが我が国を簒奪の場として見ているとすれば、昨今の参政権要求生活保護費受給請求、様々な権利要求など、彼らの我が国に対する図々しい物乞いがよく理解できます。弘安4年(西暦1281年)の弘安の役では、襲撃の蒙古兵が減少して高麗人が増え、高麗人の残虐性は「見かくる者を打ちころしろうせきす。国民ささえかねて妻子を引具し深山に逃げかくれにけり。さるに赤子の泣きこえを聞きつけて捜りもとめて捕けり」と古文書に記し残されているようです。まるで終戦直後の「竹林はるか遠く」の朝鮮半島での悲劇、我が国社会で暴虐の限りを尽くした自称「朝鮮進駐軍」の世界を見るようです。こうした彼らの蛮行が倭寇を生んだのかもしれません。
 
それでも、室町時代になると平和的な朝鮮通信使なる使節団が日本にやってきますが、それすら、朝鮮の学校教育では無視され、徳川時代の「朝鮮通信使」が教えられているようです。それも、文禄・慶長の役で疲弊した日本経済を立て直すため、後継政権である徳川幕府が交易を求めてきた、とされ、朝鮮では、かつての倭の蛮行を許し、優れた朝鮮の文化・文明が野蛮な倭に文明の光を齎した、とここでも虚構の歴史を作り出しています。文禄・慶長の役に際しての李氏朝鮮支援で疲弊した明が衰退すると、後ろ盾を失った朝鮮では日本を怖れ、友好関係を求めていたのではないでしょうか。そして、彼らが無視する室町中期、応永27年(西暦1420年)の使節は、我が国に平仮名、片仮名という固有文字が存在することに驚嘆しています。余談ながら、朝鮮の独自文字ハングルは李氏朝鮮第四代世宗の晩年西暦1443年にその原型が作られたとされていますが、日本統治が始まった明治43年(西暦1910年)当時の朝鮮での識字率はわずか10%とも15%前後ともいわれています。中世に於いてすら武士、公家のみならず、商人ですら「読み書き算盤」と一通りの学習をしていた日本とは雲泥の差です。せっかく自国文字ハングルを有しながら、日本統治時代に総督府方針によって教育の場で用いられるまで両班たちに卑しめられ、社会から消され、彼らの儒教が商業を卑しめると商人の教育意欲も薄れ、庶民から文字を奪ってきたのかもしれません。その他、通信使は、日本では乞食ですら貨幣を要求する貨幣経済の発展に驚いていますが、これは、彼の国では都市部でわずかに貨幣の流通らしいものがみられる程度で、多くは、布、米などを介した物々交換の時代であったことを示しているのでしょう。また、正長2年(西暦1429年)にやってきた通信使の中の一人は、水車に関心を示し、朱色の紅白粉の原料共々その製法の他、紙漉きすら学ばせていることから、遥かな昔より彼我の文化・技術の差の大きさが容易に理解できます。しかも、水車に関しては持ち帰ったようですが、彼らは実物を目の前にしてもそれを模倣することすらできなかったようです。明治時代にも彼らは名前を変えた「通信使」を送ってきます。明治14年(西暦1881年)、李氏朝鮮では最後の王であり、続く大韓帝国初代皇帝である高宗の18年、紳士遊覧団が日本に送られますが、この一団の視察コースに「水車製造所」が含まれていますが、400年余が経過した明治になっても彼らはまだ水車を作る技術すら会得できなかったのです。「朝鮮通信使」という名前では実質的に最後となる、宝暦13年(西暦1763年)9月にソウルを出発した第11次朝鮮通信使は、明和元年(1764年)8月にソウルに帰着しますが、その中の一人金仁謙は、当時としては珍しくハングル文字で見聞録を記し、それが日東壮遊歌として今に伝わっています。道中至る所で見聞した我が国の豊かさ、美しさ、豪華さ、そして進んだ技術、社会に驚嘆している様を記しています。「天下広しといえ、この様な眺め、また何処の地で見られようか。北京を見たという訳官が一向に加わっているが、彼の中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」と大阪の景観に驚嘆しながら、続く文章では「この世界も海の向こうより渡ってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の兵王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間、世の興亡と関わりなく一つの姓を伝えて来て、人民も次第に増え、この様に富栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべし」と恨み節を綴っています。しかし「一つの姓を伝えて来」た、とは誰を指しているのでしょうか。大阪にその様な家系があるのでしょうか。ともかく、彼の妬み心は京の風景に対しても如何なく発揮されています。「沃野千里をなしているが、惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有する所となり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、皆悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って礼節の国にしたい」と嘯いています。彼我の社会発展の差を認めながらもなおかつこうしたこうした歪んだ精神構造妬み心恨み心に支配された民族が「礼節の国」を形作っている、というのですが、笑止千万です。「犬にも等しい輩」とは誰を指すのでしょうか。彼らの歪んだ精神構造は、250年の時間を超えた今も日常的に見られ、前大統領李明博の我が皇室に対する非礼は如何なる謝罪をもってしても償えることではありません。この第11次朝鮮通信使は、その帰途、明和元年(西暦1764年)には対馬で食したサツマイモの美味に感服して、種イモを持ち帰っていますが、これが後年の飢饉時に人々を救済しています。また、異国の風俗に身を包んだ「通信使」一行の行列は、日本の庶民からすれば、労役を課されることがあったでしょうが、ひと時の物見遊山のいい口実であったかもしれません。しかし、決してそれほど平穏無事でもなかったようです。鶏を盗んで庶民と争いを起こしたり、中には「屋内の壁に鼻水やつばを吐いたり、小便を階段でする、酒を飲み過ぎて門や柱を掘り出し、席や屏風を割る」「夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる」などの非常識な行動があったようですが、これが「礼節の国」の使者の行動です。今の彼の国の人たちの非常識な言動を見ていると、品性の欠片も見えないのは今に始まったことではないようです。彼らが信奉する儒教すら虚構夢物語なのでしょうか。日本の歴史、文化、社会、風物に対する彼らの僻みは、抑え難い劣等感の裏返しとしての恨み節・罵詈雑言の果ての朝鮮起源説小中華という夢想の中で自国を礼節の国と称する自己満足によってしか癒されないのでしょうか。
 
我が国と半島の国とのあらゆる面での発達の差は、遥かな後年に至っても全く埋められていなかったようです。最後の朝鮮通信使ともいえる第11次より100年余りが経過した、明治27年(西暦1894年)から4度に亘って朝鮮を旅した英国人女性旅行家・旅行作家のイザベラ・バードは、その紀行文朝鮮紀行において道は「住民は主に迷路のような道の『地べた』で暮ら」しているとされていますが、これは、当時、半階式という極めて低い建物が建てられていたことを言うのでしょうか。路地の多くは「荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間なら辛うじてすれ違える」ほどに狭く、しかも「家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴で狭められ」ており「家から出た汚物によって悪臭が酷く」という首都ソウルの状況は、平成24年10月、ソウル大医科大学のシン教授が発表したソウル四大門付近の朝鮮時代の地層調査結果に符合しています。即ち「ソウル中心地は、朝鮮時代、匂いに悩まされ、通りでは汚物を踏んでしまう汚れた町であり、衛生状態も深刻だった」しかし、自己弁護も忘れず、「ほぼ同じ時期のヨーロッパの大都市の状況に似ている」と納得し、しかも「朝鮮が咸陽に都を移した14世紀以後、当該地区の人口は爆発的に増加した。多くの人が輩出した糞尿を処理する衛生施設が不備であったため、都市がこの様に汚染されたものとみられる」と分析していますが、李氏朝鮮末期においてすら咸陽の人口は25万程度と推定され、衛生観念の欠如をこそ言うべきではないでしょうか、しかも、既に18世紀初頭には100万を超え、ロンドン、パリを遥かに凌ぎ、北京と同じ規模もしくはそれ以上ともいわれる世界的大都市江戸について何の言及もされていないのは、社会発展の差を証明することを恐れたのでしょうか。またイザベラは、ソウルの町には「劇場」「芸術品」「公園」もなく「清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない」と朝鮮の首都ソウルの様子が記されています。その反面、イザベラのみた釜山は、「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」「外国人居住区を囲む竹林」共々秀吉の朝鮮出兵により作られたものであると記しています。知識人とされる両班に関しては「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている」「公認の吸血鬼」と断じ、ソウルには「『盗む側』と『盗まれる側』しか存在しない」異常な社会と記され、しかも、官僚に至っては「私利私欲」の為に近代化に背を向け「堕落した官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と朝鮮統治に苦悩する日本に同情的に述べているようです。
1890年代の荒廃した南大門を中心とするソウルの目抜き通
 
そんな彼の国が行動の指針とする「事大主義」とは、寄らば大樹の陰とばかりに自らの運命を他者に委ねる保身の策であり、生き残るための知恵現実主義者の策と弁護するかもしれませんが、そこに人間として大切な「仁」「義」の概念はなく、「正」「邪」を判断基準とする余地はありません。民族の尊厳、自尊心に代わって虚栄心に満ち溢れ、保身の為にはいつでも背きうるという面従腹背の性癖が潜んでいるようにも感じられ、強者に諂い、弱者を叩く卑劣な思考の様にも感じられます。韓国警察庁の統計で西暦2013年7月時点で25分に1件の割合で発生している、と報道される南朝鮮国内の性犯罪は、無抵抗な弱者に残虐行為を行うことで満足心を満たす歪んだ自己顕示欲の表出なのでしょうか。南ベトナム防衛戦支援出兵であるにも拘らず、守るべき南ベトナム国民に対して行われた韓国軍兵士の残虐・凌辱・非人道的行為は、我々日本人の常識を遥かに超えたもので、彼の民族の血に流れる残虐性・病的異常性、弱者に対する異常なまでの加虐性を余すところなく示しています。こうした狂気は、虚構の世界を守ることによってしか自己の存在を維持できない劣等感、屈辱感が民族病ともいえる火病 (Hwa-Byung)の発生となって表面化した結果なのでしょうか。彼らの病的なまでに異常な狂気の行動は、終戦後の朝鮮進駐軍の暴挙、ベトナム戦争時のみならず、朝鮮戦争時には、同じ民族を30万人以上も殺したとされる保導連盟事件として現れますが、常軌を逸しているとしか言いようがありません。彼らの異様とも言える民族的性癖は、今も昔も変わることなく、事大主義の思考形態の中で、寄る辺=宗主国を失った戦後朝鮮社会において被害者意識に染められ、莫大な日本の財政投入の下で経済・社会開発の恩恵を享受し、且つ日本人を装うことでその果実を享受した彼らは、終戦直後には凶器を持って日本人を襲い、それまでの日本の好意すら悪と断罪し、自主的日本化強制された屈辱自主的従軍売春婦強制された性奴隷に置き換えて吹聴して恥ません。
 
明治維新後の最初の国家の存亡を賭けての戦争となった日清戦争もまた、この半島の王朝に巣食う事大主義、閉鎖社会内での国を思わない権力者の保身・権勢欲・蒙昧・無能の故だった、と言えるかもしれません。
 
日清戦争の結果、朝鮮は、支那の属国という立場を清算して独立国として生まれ変わり、日本統治の時代になると、身分上の差別はなくなり、誰もが姓を持ち、社会基盤は整備され、公衆衛生、教育、司法、行政社会開発のあらゆる面で急速に近代化しました。そうした社会基盤、産業基盤整備の上で迎えた戦後、朝鮮戦争による疲弊も昭和39年より始まったベトナム戦争支援による戦闘手当と様々な米国より受けた便宜供与に加えて、昭和40年の日韓基本条約締結に伴い、3億ドルの無償援助、2億ドルの有償援助の外、3億ドルの民間借款まで得て、結果的に漢江の奇跡を成し遂げました。反共の最前線を口癖のように唱えながら、その時々に十二分に援助を乞い受けて危機を脱しながら、21世紀の現在、彼らは再び共産支那の懐の中に飛び込み、小中華・被害者の意識を振り回して我が国を誹謗・中傷するのでしょうか。
支那共産党政権に媚びながら、その蜜月を外交カードにして用いる危険な国際政治の局面を羨望、嫉妬、劣等感の裏返しとしての反日という虚栄心を満たす為だけに作り出す現朴政権は、米国を反日の構図の中に引き込み、支那共々政治的に日本を攻撃しようとするのでしょうか。我が国に対する非礼・不法に何らの罪悪感も抱かない不誠実な彼らと共通の価値観を持てる筈もなく、司法の場に於いてすら国際法を無視する国が法治国家である筈もなく、情実を持っての親和感は我が国に危険を呼び込むだけかもしれません。祖国へ帰らず、自らの意思で我が国に住する、もしくは密入国してきた在日同胞を朝鮮日報は「日本に住みたくて住んでいるわけではない」と報道しているそうですが、ではなぜ、戦後の帰還事業で帰国しなかったのでしょうか。今からでも遅くはありません。朝鮮日報は、在日同胞の全てを祖国に連れ帰って下さい。我が国は諸手を挙げて送り出すでしょう。
延々と日本に恨み言を繰り返す変質狂的執拗さが、鬱屈した劣等感の裏返しとしての反日無罪という狂気に変わり、異常な攻撃本能を我が国に向けている朝鮮に対して、同じ法治国家、同じ価値観、民主主義の国と言う幻想、情緒的親和感を捨て、垣根を超えた親しい関係を「謝絶」する賢明さが必要なのかもしれません。
 
亞細亞東方ノ悪友ヲ謝絶スル
 
脱亜論;ウィキソース
「戦争は卑劣だ。が、最も卑劣な行為ではない。それよりも、戦争は無意味だと考える腐敗し、堕落したモラル、愛国心にしがみついていることのほうがもっと卑劣だ。戦うべき対象もなく、自分の身の安全の方が大切だと考える人間ほど惨めな生き物はない。そういう人間は自分よりも優れた人間の助けによってしか、自分自身、自由の身になれない、情けない生き物だ」
ジョン・スチュアート・ミル
 
異国にいて想う日本(3)
−いつ蘇る日本の誇り−
 
歴史を知ることは、決して心躍る楽しいことばかりではありません。綺麗事ばかりでもありません。心ならずも命を賭けた戦いに出なければならないこともあれば、隠忍自重で機を待つ辛い日々も見えてきます。時に心を引き裂き、古傷に塩を塗るかもしれません。しかし、それが事実であれば直視しなければなりません。そうした悠久の歴史の中を延々と受け継がれてきた祖先の血が私たちの体の中に流れているのです。歴史を知ることは、自分を知ることでもあるのです。今の自分は悠久の歴史の中に位置づけられるものであり、これから続く子供たちへの通過点なのです。わたしたちは、日本人として生まれ、いつの日か日本人としてこの世を去ります。国籍を変えても血を変えることはできないのです。
外国では、その国に生まれたことに誇りを持ち、特に外国人に対しては「誇り」ます。そして、「歴史」は、必ず、「自国」を中心とした歴史であり、故に自国は常に平和を愛し、降りかかる火の粉を先人たちは血を持って振り払い、独立を守ってきた、と自国の行動は、正しいものであると教えられます。タイでは、ビルマ、ラオス、カンボジアとの争いは数えきれないほどありますが、必ずタイが中心で、タイに正当性があります。故にタイの国民はタイ人であることに誇りを持つのではないでしょうか。タイ族以外のタイ人であっても、凡そ、タイ人と名乗る限り、タイ人であることを誇り、タイ人であることに喜びを感じることは当然のこととされています。どの家庭にも国王の御真影が飾られ、更には、国王即位60年に際しては、全国の各家庭に御真影が政府により配布されました。目線よりも高い場所に御真影を飾り、毎日朝夕にはテレビで国歌が流れ、公式行事では国王賛歌が流れると、自然に国民も王室に対する尊敬の念が根付きます。対して、君が代を歌うことを拒否し、日の丸掲揚に起立することを拒否する教師を日本人は自らの汗から生まれた税金で養っています。「国柄」を否定する教師に対して国民が非難の声を上げない国が正常でしょうか。日の丸を平然と踏み躙る人を咎めることもせず、唯々諾々と入国を許しています。それでいいのでしょうか。
戦後、我が国はそれまでの「覇気」を失い、故ない十字架を背負わされ、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」、「後ろめたさ」を感じながら只管下を向いて脇目も振らず額に汗して働き、働いてきました。廃墟の中からでも文句一つ言うわけでもなく、律儀にも「賠償金」を各国に払い続けてきました。「謝罪」を求める国があると、「平身低頭」するように「謝罪」を繰り返してきました。それは、いまだに続いています。我々は永遠に謝罪し続けなければならないのでしょうか。それほどまでに罪深いことをしてきたのでしょうか。アジア諸国は、日本人の血と引き換えに独立を勝ち得たのではなかったのでしょうか。戦争=悪と言うのは日本に対してのみあてはまるのでしょうか。世界のどの国も戦争は権利として保持されているのではなかったでしょうか。それ故にでしょうか。アジア・アフリカに植民地を持った欧米西洋列国の中で旧植民地に謝罪した国があったでしょうか?香港返還に際して英国は謝罪したでしょうか?マカオ返還に際してポルトガルは謝罪したでしょうか?韓国は、ベトナム戦争時の自国軍の住民に対する残虐行為に現地では謝罪しましたが、後日自国内でそれを撤回しました。
「八紘一宇」のもと、シンガポールを解放した日本軍兵士は、それまでの敵兵であるインド人たちと共に食事をし、オランダ軍を駆逐したインドネシアでは、若者たちに武器を与えて軍事訓練までしました。そうした「日本の心」がビルマの、インドの、インドネシアの独立戦争となりました。しかも、オランダより膨大な戦費を要求されたインドネシアの窮状を救ったのは、再
起不能なまでに打ちのめされた戦後の日本でした。鉛筆すら自国で作ることが出来ず、米国製を「買わされた」フィリピン人が、かつての日本統治の「台湾」「朝鮮半島」の経済発展に羨望の目を向けることに、現代の日本人は気付かないのでしょうか。日本が台湾、朝鮮半島に齎した「近代化」に対して、西洋列強はマジア・アフリカの植民地に対して自国言語と伝統的統治権力構造の破壊以外の何を残したのでしょうか。彼らが標榜する「自由」「平等」を現地社会に適用したでしょうか。ロシアを撃破した日本の快挙にアジアの先人は自国の独立の夢に希望を見出し、アジア地域での西洋列強を駆逐した日本陸海軍の壮挙、日本軍の進撃を現地の人々が歓喜して迎えたのは何故でしょうか。大東亜戦争が西洋列強のアジア植民地支配を打破し、植民地を解放した事実をいつ理解するのでしょうか。タイの王族でもある元首相ククリット・プラモートは,「日本というお母さんは、母体を壊してまでもアジア諸国という子供を産んでくれました、・・・われわれは12月8日を忘れてはならない」と言っています。日本人は、このククリット元首相の意図とは全く逆の意味で12月8日を捉えます。何故でしょうか。何故、国の存亡を賭けた対米開戦を決断せざるを得なかったのか、と言う先人の苦悩を考えないのでしょうか。
我々は、河原の石から生まれたわけでも、木の股から生まれたわけでもなく、連綿と続く歴史の中で生を受け、その血の中に祖先を抱いて、ともに生きています。歴史・文化とは遺伝子として先祖代々連綿と受け継がれ、体に流れるそうした血の連続であり、民族の根本をなすものです。従って誤った歴史・文化は、そうした血の連続を断つものです。外国に出た日本人が、いつとはなしに「日本」について考え、学校教育で受けた画一的な日本の歴史に疑問を抱き始めるのは、正にこうした「先祖の血」の叫びなのかもしれません。「嘘も百篇言えば本当になる」とばかりに、「捏造物語」を吹聴してひたすら「日本=悪」を喧伝する国が傍にあります。外国に出てまで「日本」を誹謗・中傷する日本人もいますが、そんな彼らの外国での生活を守っているのは「菊の御紋の日本国旅券」であることの矛盾に気付かないのでしょうか。皇室を、日本を非難しながらなぜ彼らは日本国籍を保持し続けるのでしょうか。
日本国内だけであれば「嵐が過ぎるのを待つ」かもしれませんが、外国では「反論」がなければ事実と見做され、徹底的に攻撃され、時に裁判にもなれば、かつての「その場凌ぎの謝罪」が証拠として採用されます。それは、生活基盤の喪失になり、立ち上がる余裕を与えられません。外国にいれば倒れる前に戦わなければならず、戦う為の武器は、銃ではなく、正しい「歴史・文化」であり「日本国に対する愛情」であり「日本人としての誇り」であり、死してもなお「日本人の誇り」を持って戦い続けることではないでしょうか。
「日本の心」を持って世界に対しながら、「自国」と「外国」は「異なり」、「自国」に勝る国はない、というのが世界の常識であることをしっかりと受け止める必要があります。その「違い」を認めた上で「対等」に付き合うことが肝要です。他国よりのいわれなき「誹謗・中傷」を無批判に受け入れた時、世界の笑いものとなり、「サンド・バッグ」のように叩かれ続けるでしょう。
もしも、「日本=悪」という誤った歴史・文化を幾代にも亘って教え込まれてしまうと、終には民族としての「誇り」は失せ、「この世に存在する資格」すら自ら捨てることになるでしょう。現下の日本人に必要なことは、文化の基である日本語教育であり、日本語による思考基盤の上に築かれる「日本視点」での「日本の歴史」を習得し、その日本の歴史に関わるものとして、それぞれの時代のアジア史、世界史を見て行くべきではないでしょうか。アジアの歴史も、世界の歴史も全て「日本視点」で見なければ、世界の中の日本の歴史を正しく把握することはできません。「自らの歴史=自らの根っ子」を知って初めて外国人に対して「日本を語る」ことが出来ます。
「日本人の心」は世界の全ての民族に共通するものではないとはいえ、日本が世界に誇る「美」であり「文化」です。「文化」であれば、他国との相違を理由に放棄することはできない筈です。「文化」の破壊、放棄は自らの存立基盤の破壊・放棄に過ぎないのではないでしょうか。他者に対する「思い遣り」「労わり」が「無私」であるが故に、それは尊いのです。すべての民族が「人類」という共通項で括られるが故に、「八紘一宇」の考えが自然と生まれてきます。「八紘一宇」の考えは、いつの日にか「日本の心」として感応する人が出てくるものと思います。アジアの多くの国に今もある「親日」の風潮は、まさに「八紘一宇」の波及効果ではないでしょうか。日本人が本来持っている「日本の心」に気付き、戦後の日本社会を覆う被虐の闇を払い、誤った歴史観を廃し、先祖代々営々として作り上げてきた「本来の日本」に立ち返ることを願ってやみません。
(了)
 
 
 
いざ子らよ 戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ 夢な忘れ
東郷茂徳
 
我ゆくも またこの土に 帰りこむ 国に報ゆる 事の足らねば
東条英機陸軍大将・首相
「…戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。…」
軍令部総長・永野修身海軍大将
 
異国にいて想う日本(2)
−誇りを失った日本−
 
外国に出れば否が応でも「自分が日本人である」ということを思い知らされます。外国に出て我々が外国の風物を知り、興味を持つように、外国人は目の前に現れた日本人を通じて日本を知ります。外国人が日本人に聞いてくる「日本」の内容は、様々で、その人の知識の深さ、興味の範囲次第です。かつて、まだ旅行者であった私にチエンマイ郊外のある小学校の校長先生が、日本の発展の原因について教諭に話してほしいと言ってきたことがあります。最近では、民主党が政権をとった時、これにより日本はどう変化するのか、と聞いてきた某大手銀行幹部がいました。「米国との関係は疎くなり、より中国に近付くでしょう」と言う個人的予想に、その華人銀行家は微笑みを浮かべて頷きました。また、米国映画に親しみ、英語に堪能なある若い医師は、日本人は「恥」を恐れて「切腹」するのか、と外国映画、小説を通じて思い込み、聞いてくる人がいます。「切腹」の文化について話しても、理解できる土壌がない相手では単に、「それだけじゃない」「切腹とはそんな簡単なものではない」と言うしかありませんでした。時には、「皇室」について聞いてくる人もいれば、日本の仏教、神道、自然、季節の移ろい、食習慣について聞いてくる人もいます。先の大東亜戦争に関しての話、特に相手が華僑であれば「南京事件」が出るかもしれません。
大切なことは、過去、現在の日本及び日本人について、様々な角度から聞いてくる外国人に対して、自信を持って、自分の言葉でどれほど正しい情報発信が出来るかです。
日本で生まれ、日本で育ち、日本の教育を受け、日本での生活に馴染んでいる「普通」の日本人、即ち生の現実の日本社会の中で暮らす一般日本人の中で、あらためて「日本とは」「日本文化について」などと考える人、外国人との問答を想定して予備知識を蓄積しようとする人がどれほどいるでしょうか。「大東亜戦争」すら「太平洋戦争」と米国式に呼び換えられていることにも気付かず、ありとあらゆる機会を捉えて「侵略戦争」と教え込まれ、日本の近現代史は侵略の歴史、軍国主義の歴史と教えられてきた「普通の日本人」が外国人に先の大戦について話す時、どうしても「卑屈」になり「自国を貶める」ことにならざるを得ないが故に沈黙を守らざるを得ない悔しさを感じるのではないでしょうか。時に進んで自らの父祖の行動を辱め、そうした過去を否定した現在を強調したとして、その人を責めることが出来るでしょうか。学校教育の中で「素直」な生徒であれば尚更に「日本帝国主義」「軍国主義」「台湾、朝鮮に対する植民地的侵略」「支那人民に対する非人道的野蛮行為」「満州国傀儡国家」を信じているとしても不思議ではありません。そうは理解していても、自らの国を貶めることに対する「後ろめたさ」故にでしょうか、良識ある日本人は、そうした話題を避けるのではないでしょうか。
ここに教育の恐ろしさがあります。戦後の日本はGHQの政策により一つの単純な図式で社会が変えられ、縛られ、占領軍など既になく、主権回復後60年が経過した今も尚、そのGHQの呪縛は日本を縛っています。GHQが植えつけた新たな価値観には一切の例外は認められなかったのです。その価値観とは「日本=悪」「米国=正義」で、悪は日本軍国主義・日本帝国主義、正義は民主主義とも呼ばれたりしました。これにより、日本は、2600有余年営々と築き上げて来た民族の「歴史」「文化」は、終戦と同時に否定され、「誇り」と言う言葉すら失ったのです。そして、それに代わって新しい歴史として「日本帝国主義の悪行の近現代史」が作られ、「日本的価値観」こそが国民の「自由」と「権利」を奪い、国を滅ぼし、国民を死に追いやった、という物語が作られ、戦後教育の場に於いて繰り返し繰り返し幼い子供に教えられてきました。まさにそれこそが日本を永久に再起させない、という米国政府、GHQの堅い意志でした。
我々はそこに秘められた彼らの「恐怖」を知るべきなのですが、サンフランシスコ講和条約後、主権を回復した我が国は、現憲法の破棄のみならず、GHQの占領政策の洗い直しをすべきにも拘らず、経済至上主義、公職追放令後の左翼の社会進出がそれを阻んできました。彼ら戦勝国、左翼を「恐れさせた」ものとは何だったのでしょうか。それこそ我が民族の「道徳・倫理感」「死生観」であり、日本人の本源的に持つ「奉公」の概念ではなかったでしょうか。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」る我が民族が植民地支配の打破、人種差別撤廃の崇高な目標を掲げた先の大戦は、まさにわが民族の「誇り」ではないでしょうか。
我が国同胞が大陸、半島で受けた苦難の歴史は墨で塗り隠され、度重なる東京無差別大空襲による夥しい数の無垢の民の死は消され、無差別絨毯爆撃による全国各地に降り注いだ「焼夷弾」の被害を言うことは憚られ、広島、長崎に対する原爆投下すら、日本軍の所為であると、実しやかに囁かれても、どれもが明らかな戦争犯罪であるにも拘わらず、全てを心の奥深くに仕舞い込み、腫れ物に触るように、固く封印しています。尼港事件、済南事件、通州事件、通化事件、終戦直後の大陸、半島で受けた悲劇、満州のお町さん、二日市保養所を知る人も固く口を閉じ、存在しない「南京虐殺」の汚名を被せられ、事実に反する「慰安婦」の実態にすら口を閉ざしています。否、事実如何を考慮する以上に自らの思想的フィルターに判断能力を劣化させた人々は、そうした「妄言」をすら利用して自国を責めます。そんな一部の人たちの言動に対して、多くの国民は、全てを悠久の時間の中で解決しようとするかのように沈黙を守ります。理由の如何を問わず、日本国民が日本国を非難・中傷するのであれば、外国の人びとは、それらの虚妄すら「事実」であると判断します。その非を知っていたとしても、それを正すのは日本の「責務」であり、正さないのであれば、自ら「罪」を認めたと判断されても止むを得ないでしょう。いわゆる「河野談話」「村山談話」の呪縛です。「水に流す」日本の文化が「謝罪は損害賠償の根拠」という考えの外国の文化と融合し得るでしょうか。「その場凌ぎ」の謝罪を外国は鬼の首を取ったように永遠に攻撃材料とします。
リンチにも等しい「極東軍事裁判」で一方的に日本を断罪した戦勝国が押し付けた「民主主義」が世に蔓延ると、誰もが平等である、と言う悪平等が生まれ、「民主主義」という名の下で「不敬罪」が廃され、「自由」「平等」「権利」を無批判的に絶対視する風潮の下で「公」が捨て去られ、「私」だけが独り歩きします。社会の基礎である「家族」が「個人」に分解されると、「親子」は上下関係として否定され、「尊属殺人罪」が廃されました。「権利」が強調されて「義務」が悪魔のように唾棄されると、「納税の義務」以上に「福祉を受ける権利」が声高に叫ばれ、「国に尽くす」ことが前近代的として退けられ、「国が国民に尽くす」ことこそ民主主義だと喧伝され「国に対する要求」のみが世に蔓延りました。「個人」を「国家」の対極に置くようになると、「個人の国家に対する責務」は捨てられ、「国家の個人への責務」だけが声高に叫ばれます。それは、汗水流して懸命に働く多くの日本人を嘲笑うかの様に「労せず」して「文化的な暮らし」を求め、手に入れさせます。
満開の桜の花を愛でる民族は多数いるでしょうが、風に舞い散り落ちる桜の花に「哀れ」を感じ、そこに「美」を感じる民族が日本人以外にどこにいるでしょうか。日本語の正しい使い方、漢字の書き方、読み方、意味を教えるより、英語教育に時間を割くことは、民族の根本である「言語」封殺に繋がります。「特攻」についての正しい知識無くして「日本人の死生観」は理解できず、「特攻」を単に「外道」と切り捨て「無駄死に」と唾棄すれば、靖国神社は否定され、日本国の為に散った無数の尊い命は全て無駄死にとなります。そこに流れる大和民族の「倫理観」「死生観」を今こそ思い起こすべきです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ここに語られている日本人の死生観は、「死を逃れる為に自らの責務を放棄する」ことを戒め、「死をも平然と受け入れてでも尚なすべき責務」があることを教えています。それこそ「自らの命より尊い」ものを守る為には「死をも受け入れる」と言う「日本人の倫理観」であり、「死生観」ではないでしょうか。そして、そうした日本人の「美学」「倫理感」「価値観」「死生観」が、日本の近代化を成功させ、廃墟の中から不死鳥の如く国を蘇らせ、巨大な経済力を持つまでに復興させました。しかし、経済力を誇り、先進技術を誇っても、代わりに自らの足場を失ったことを思い知らされているのが日本の現状ではないでしょうか。戦後の飢えを克服し、アメリカの豊かな生活に憧れ、廃墟の町に生活の息吹を取り戻すことに懸命に働いてきた戦後の60有余年。それらを成し遂げた今、我々は自らの歴史を忘れ、文化を忘れ、国を忘れていたことに気付かないのでしょうか。忘れていた、と言うことは、正しくないかもしれません。それは、「国を思い」「誇りを守る」ことを悪と教えられてきたのですから。
とはいえ、どれほど戦後の自虐教育に汚され「日本=悪」と刷り込まれても、わずか70年に満たない時間の中で、2670有余年の歴史を有する民族の精神構造そのものを根本から覆すことはできません。民族の根っ子である「文化」はそれほど弱いものではありません。しかし、決して残る時間が十分にある分けでもありません。海外で暮らす人たちの中で、日本にいた頃には意識しなかった「日本」を意識し、無関心であった政治に関心を持つようになるのは、こうした現地の人たちとの交流の中で、自らの中に生まれる疑念を解こうとする自然発生的な努力故ではないでしょうか。体の中に流れる先祖代々受け継がれてきた日本人としての「血」は、先祖の名誉を汚すことを喜びません。「教育」で得た「知識」と「血の叫び」の葛藤の中で自らの出自を尋ねることになります。
 
自分たちの祖父母・両親は、許すことのできない悪逆非道の極悪人でしょうか?
 
沖縄渡嘉敷村守備の赤松隊長は、自らが集団自決を促す軍命令を発した、とすることで渡嘉敷村の村民たちが遺族補償を受けることが出来るなら、と軍命令などなく、むしろ村民の後方への避難を督励したにも拘らず、自ら汚名を被り、渡嘉敷島民の為に「集団自決の軍命令の存在を認める」文章に署名しました。また、太田少将は、民間無線が不通であることを知り、代わって軍規違反の軍用通信施設を使用して業務報告し、その最後に「沖縄県民かく戦えり」と県民の協力に心より感謝し、「県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」と文書を結んでいます。そして、その通り、今も沖縄には「特別の高配」が続いています。我々は、先人たちの残したこうした「日本の心」を知らされないまま「首を垂れて」日々平々凡々と過ごしています。「外からの非難」には、事の有無、是非は別にして「謝罪」し、自らが受けた「屈辱」は「水に流し」「蓋をして隠し」「歴史から抹消して」きた戦後の日本人です。日清戦争の勝利の喜びも束の間、三国干渉という「屈辱」を「臥薪嘗胆」で耐えた明治の先人は、遂にロシアを倒すことが出来たのです。卑屈になった現代の日本国民は、失った「誇り」をいつ「誇り」を取り戻すのでしょうか。
 
現身は とはの平和の 人柱 七たび生まれ 国に報いむ
木村兵太郎陸軍大将
 
とこしへに わが国護る 神々の 御あとしたひて われは逝くなり
板垣征四郎陸軍大将・陸軍大臣
本年の初め、某ボランティア・グループより「外国から見た日本」と言う題での寄稿文を依頼されました。悩んだ末、期限前の数日間に一気に書き上げましたが、次第に心の叫び、怒りが噴出し、ボランティア・グループとは全く関係のないものとなりました。当然怒りの返送とともに掲載不可の連絡を予想していましたが、予想に反して受け入れられ、全文を機関誌に掲載され、配布先からも大変好評である、と言うお褒めの言葉まで頂き赤面しています。
以下の文章は、その投稿文に加筆した文章です。
ブログ世界から離れて久しいにも拘らず、今もご訪問頂いている皆様に、無事をお伝えする為にもと、甘い認識、生半可・浅薄な知識とのご批判を覚悟でここに掲載します。
 
異国にいて想う日本(1)
−日本人の心−
 
外国に住んでいると、嫌でも「自分」が周りと異なっていることに気付かされます。その違いこそが「文化の違い」であり、「自分が日本人である」ことの証なのですが、同時に「日本」について余りにも知らな過ぎる自分に気付き、愕然としたものです。父母に育てられ、兄弟姉妹・親類縁者に支えられた自分がいて、家族・親戚ができ、その家族・親戚は助け合いの地域社会の中で共通の文化・伝統・祭礼を受け継ぎ、育みながら悠久の歴史を形成してきました。こうして形成された、日本語という共通言語を有する無数の地域社会が自然発生的に各地に現れました。そうした自然発生的社会の集合体としての「国」となる為の「求心力」「価値観」「権威」の源として皇室がある社会。只管臣民の安寧を皇祖皇宗に祈り続けられる天皇陛下と、支える皇族、補佐する行政府・官吏、そして、日々の平安に何の疑いも抱かず自然を怖れ、且つ敬い、八百万の神々を祀りながら、自らに与えられた勤めに全身全霊を持って懸命に取り組み、黙々と責務に励み、家族の幸せの為に汗を流しながらも「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」る責任感ある民、これが日本国であり、日本人である。今、私はそう思っています。
 
日本人を父母として日本で生まれ、育ち、誰もがそうするようにごく自然に幼稚園、小学校、中学校、高校と、何の疑念をも抱くこともなく、日本の教育機関で学んできた日本人は、方言という違いはあっても、どこの地方に行こうとも同じ日本語で話し、同じ食文化、同じ生活様式に出会います。「同質」「同一民族」ということすら意識することなく、わずかな「表面上の違い」を「文化の違い」と感じ、旅行を楽しみます。しかし、その「違い」とは、風景であり、方言であり、地元の特産品を使った食材、味付けと言う料理の細部の微妙な違いに過ぎないのかもしれません。同じ日本人でありながらも顔形が違い、性格も異なり、趣味も味の好みも一致しない場合が多々あるのと同じ様に、それは全て「日本」という大きな器の中の小さな「差異」であって、「文化の違い=価値観の違い」ではない筈です。「大同小異」であり、その違いの中に地方の独自性を見出すとしても、「『みんな同じ』の中での微かな違い」であるが故に、地域を超えても「阿吽の呼吸」が生まれ、「腹芸」が発達し、互いに無言の内に相手の気持ちを慮る「配慮」が生まれ、時にその「配慮」は他者に対する心からの「思い遣り」「労わり」「気遣い」として現れます。同質社会故の相手に対する警戒心の欠落は、その社会に於いてのみ無害であることにすら気付きません。同質社会、同一言語・文化故の「以心伝心」から来る安心感、「相身互い」の共助意識、こうした「日本人の心」は、単に日本人に対してのみ発揮されるものでもないようです。今は使われなくなった言葉で表せば『八紘一宇』となるのでしょうか。日露戦争を避けられない状況が生まれた時、明治大帝は
 
四方の海 みな同朋と思う世に など波風の立ち騒ぐらん
 
とその御心の苦しみを御製に託されました。同じく先帝陛下も又、対米開戦の是非を決する御前会議において、明治大帝のこの御製を詠んで御心をお示しになられたといわれます。日本人と他国人を区別しない「世界の人々はみな同朋」である、と言う考えから出てくる日本人の「思い遣り」に外国人は時には奇異と映りながらも「日本人の心からの親切」に「安らぎ」を感じるのでしょう。初めて日本を訪れた外国人の多くが日本の虜になるのは、この「日本人の心」故ではないでしょうか。一昨年の東北大震災時、生死の境を彷徨う被災者が、わずかな支援の物資を受け取る為に「整然」と「列」をなして受け取り、棚から落下したスーパーの商品を盗む人より、そんな中でもレジで支払いをする日本人を目に、どれほど多くの外国人が「日本人の心」に驚愕しながらも心打たれたでしょうか。そして、迫りくる自らの死を自覚しながらもなお、自らの「職務」を果たそうと、マイクを握りしめ、人々に避難勧告を繰り返した若い女性の姿は、日本人の心をすら揺さ振りました。外国人は、自分たちの社会では考えられないそうした「日本人の心」に驚嘆します。しかしながら、日本人にとっては、そうした外国人の「驚愕」こそが「奇異」に感じられました。自らの命よりも大切なものの為に敢然と死に立ち向かう「勇気」は彼女一人ではなく、多くの人が同じような「日本の心」で尊い命を捧げました。10数年前にも、空自の熟練パイロットは、降下し続ける操縦不能になった練習機の操縦桿を握りしめ、自らの生存を諦め、民家への墜落を避けることだけを考え、緊急脱出したのは、生存不可能な100mにもたない高度においてでした。その結果、民間人の死傷者はなく、犠牲者は二名のパイロットだけでした。「人の命は地球よりも重い」が故に、「公」の為に自らの命を惜しまない「義勇」は、特攻烈士のみならず、戦後のあさま山荘人質事件における機動隊員の雄姿にも見られます。義勇は、困っている人を助け、自分の物でない物をわが物としない日本人の「道徳心」共々、社会全体に染み渡る「文化」として日本人の「血肉」となって民族を形成してきました。
あの終戦直後の混乱期においても日本人は決して暴動を起こしてまで自己の欲求を満たすことがありませんでした。こうした日本人の「道徳心」は、時には「武士道」とも呼ばれることがあります。日清戦争より前、親善使節として来日したトルコ海軍艦艇がその帰途和歌山県沖で大時化にあって沈没しました。多数の死者、行方不明者を出しましたが、遭難事故を知った地元串本の漁民は、総力を挙げて救出作業に励み、豊かではない自らの食料を分け、濡れた衣服に代わって着替えの衣服を提供し、田中虎次郎は遭難者遺族の為の義捐金を集めてトルコに寄付しました。明治大帝は、海軍艦艇の出動を命じ、遭難救助者70名近くが無事トルコに帰りました。何らの見返りも求めない「親身」の救出・救援と明治大帝の「大御心」に対し、トルコは、はるか後年イラン・イラク戦争でイランに取り残された日本人救出を断ったJALに代わり、救援機を飛ばし、自国民を陸路帰国させてまで、日本人200名余を空路救出しました。当時の駐日大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけ」として決して恩を売ることはありませんでした。百年前の「日本の心」が遥かな後年日本国にも見捨てられた海外同胞を救ったのです。第一次世界大戦時には、ドイツ人捕虜収容所となった徳島の坂東収容所における住民の捕虜に対する温かい対応と交流が今も語り伝えられています。そして、そこでドイツ軍兵士より送られた「第九」合唱は、今ではクリスマスを表す代名詞のように日本全国に広がっています。第一次大戦後の戦後世界秩序構築の為の国際連盟創設準備会議において「人種平等」を世界に先駆けて人類史上初めて訴えたのは日本代表牧野伸顕であり、それを潰したのは米国であり、英国でした。大東亜戦争においては、ジャワ沖で撃沈された英国軍艦乗組員を戦闘中にも拘らず全力で救出作業に当たり、乗組員の倍もの敵兵を収容した駆逐艦「いかずち」艦長工藤俊作少佐は、その「義挙」を誰に誇ることもなく世を去りました。また、ナチス・ドイツの魔手からユダヤ民族殲滅の危機を打破する為、任地を離れる車上でも査証を発給し続け、6、000余名の命を救い、ユダヤ人社会から「恩人」として今も語り継がれる当時のリトアニア駐在領事杉原知畝は、今では日本人でも知る人が多いでしょう。そうした彼の行動を支える方針作成に尽力し、「ユダヤ民族施策要綱」「ユダヤ人対策要綱」作成に奔走し、ユダヤ人を保護し、ユダヤ民族に安住の地を与えるべきだと奔走した大日本帝国軍人がいます。陸軍少将樋口季一郎、陸軍大佐安江仙弘は、満州国外交部に対して極寒のソ連から満州に流れてくるユダヤ人に対して門戸を開放させ、ユダヤ人の満州流入に対するドイツの強硬な抗議を跳ね返したのは、時の関東軍参謀長東条英機中将と言われています。「五族協和」の理想郷を目指して建国された満州国は、それまでの匪賊の横暴もなく、治安が維持された平安な日々の中で多数の支那人、朝鮮人が流入して来ました。また、米軍との死闘を前にパラオ島民の安全を守る為、心を鬼にして島民代表を「罵倒」して島から追い出したのは日本軍司令官中川州男大佐でした。為に住民に犠牲者が出ることがなく、戦後、島に帰ってきた島民は、大佐の「思い遣り」を知りました。パラオ共和国は、こうした日本軍人の「武士道」「思い遣り」「労わり」に対する感謝の気持ちを込めて、国旗作成に際して日の丸に似せてデザインしました。それよりはるか前、風土病蔓延り、文明から遠く離れていた台湾の衛生状態を改善した日本は、更に不可能と思われていた農業開発を可能ならしめる為に巨大ダムを建設しました。そのダム建設に心血を注いだ日本人技師八田與一は今も台湾で語り継がれ、像が残っています。また、反日と言われる朝鮮半島にあっても、教育制度を整えた日本は、民族教育としてハングルでの教育を初め、社会インフラを整備し、巨大ダムは電力を供給して近代産業の勃興を可能にしました。張り巡らされた鉄道網は物資の移動を盛んにし、戦後は、そうした膨大な資産の全てを朝鮮に残してきました。戦後ソ連軍によって抑留された日本軍兵士のうち、ウズベキスタンに連れて行かれた永田行夫陸軍大尉率いる450人が建設した「ナヴォイ劇場」は、煉瓦造りのビザンチン様式ですが、地震にも耐え、今もそれは同国一美しいとされています。また、西岡京治はその生涯をブータン王国の農業開発に捧げました。今も残る台湾、朝鮮半島、満州における日本統治を示す近代的建物・・・
我々日本人は、自らの「日本の心」「思い遣り」「労わり」を決して「吹聴」することなく、「当然」のこととして粛々と「務め」を果たしてきました。先人が残した「日本の心」「日本の誇り」は、戦後日本社会の中で忘れ去られ、教育現場から消し去られ、「命」は紙ほどの重さもなくなり、全身に流れる血の中の「日本人としての誇り」は、誰にも顧みられず、近代のアジア解放の歴史はなかったかのように時間の中に埋もれ、近代日本の歴史を否定する風潮の中で見捨てられたままでいいのでしょうか。    
 
 
天かけり 昇り行くらん 魂は 君が代千代に 護るなるべし
土居原賢二陸軍大将
 
天地も 人もうらみず ひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く
松井石根陸軍大将
 
 

突然ですが

何故かしら、最近この歌をよくBGMにしている自分がいます
 
微温湯の人生の中で自分の位置を見失っているのでしょうか
 
言葉にならない本能的な不安感が緊張を求めるのでしょうか
 
言いようのない焦燥感だけが連日襲い掛かってきます
 
 
日本人としての誇り
 
日本の誇り
 
日本人の大切な心はどこに行ってしまったのでしょうか
 

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