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命の重さ
この世に生を受けた一切の命には等しく死が訪れます。
富も名声も権力も如何なる力といえども死に打ち勝つことは出来ません。死が不可避であるならば、死から逃れようとすることは無意味かもしれません。
であるならば、避けられない死に向かって走る人生を如何に過ごすか、即ち如何に生きるかが大切かもしれません。
如何に生きるか=如何に死ぬか
如何に死ぬか=如何に生きるか
かも知れません。
昭和52年9月28日に発生した日本赤軍による日本航空機ハイジャック事件に際し、時の首相福田赳夫は、次のように言ったとされています。
「人の命は地球よりも重い」
当時の風潮とはいえ、日本人の誰もが彼のこの言葉がいかにも正論のように感じ、「人命尊重」という正面切って反対できない、どこか甘い幻想の世界に飛び込み、超法規的処置の名の下で日本赤軍の要求を受け入れ、服役中の犯罪者釈放、巨額の身代金を人質釈放と引き換えにしました。しかし、その同じ年の10月13日には、同じく共産主義革命思想に染まったドイツ赤軍によるルフトハンザ航空ハイジャック事件が起こりました。しかもその一月前の9月5日には誘拐事件を起こしましたが、西ドイツ政府はその要求を拒否していました。こうした中でのハイジャック事件であれば、明らかに、日本赤軍とそれに対する日本政府の対応が参考になったものだと思いますが、結果は、当時の西ドイツ政府が、かつてのミュンヘンオリムピック時の汚名を晴らそうと新設していた特殊部隊GSG-9によって鎮圧されました。その後先の誘拐犯は、人質を射殺しました。
戦後日本社会に蔓延るこうした「安直な人命尊重」の風潮と対極に位置するのが、あの特攻隊かも知れません。
再び生きて帰る望みを絶ち、死出の旅に出、ひたすら敵艦を求めて大空に、深い海の中に向う兵たちに生きて帰る意思は微塵もありませんでした。20歳前後の将来ある若者、明日の日本を背負う筈であった彼らは、すすんで「死」に向かって走って行ったのです。
将来の日本の格となるべき大学生たちが、未来ある若者たちが、まだ年端も行かない少年とも言える若者たちが、目の前の「死」を自覚しながらなお出撃の寸前まで笑顔でいられたのは、何故でしょうか。「地球よりも重い」筈の命を自ら捨て、生還の望みのない死出の旅の直前まで笑っていられたのは何故でしょうか。これから訪れるであろう楽しい生活、希望溢れる結婚生活、子供を作り、孫に囲まれる楽しい人生。そうした普通の生活の為に「生きる」道を選ぶことがなかったのは、何故でしょうか。
しかし。「生」と「死」を区別して考える事は無意味なのかもしれません。
「如何に生きるか」ということと「如何に死ぬか」ということが同じであるならば、「『生』と『死』は表裏一体」なのかもしれません。
彼らは、自らの命を捨てて敵に体当たりする「必死」の外道の作戦を遂行することにより、民族の「血」の中に「永遠の命」の火を点し、たとえ一度は敗れたとしても、必ず再起する時が来る、そう心から信じていたのではないでしょうか。
「地球よりも重い」一個の命を持って、より多くの「地球よりも重い」命を救うことが出来るとすれば、その時「命」は、真に「永遠の力」を持ち、不滅の価値を見出すのではないでしょうか。
こうした考えから特攻隊兵士の行動を見るならば、その微笑の意味が少しは理解できるかもしれません。生還の望みなき死出の旅を拒み、戦わずして生き延びることが出来るたかもしれません。今我々は開戦当時の軍令部総長永野修身の言葉を思い出しても良いのではないでしょうか。
「・・・戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。・・・」(永野修身)
戦う意思をなくし、惰性の中で生きる牙を抜かれた亡国の民が如何なる誇りを持ってその生を全うすることが出来るのでしょうか。
「誇りなど無用。ただ生きることこそ大切」
「人の命は地球よりも重い」ということを建前的に最重要に掲げる人たちは、そう言うかもしれません。
では、誇りを持たない人たちが生きる目的は何なのでしょうか。
誇りとは、犠牲を払ってでも守りたいものではないでしょうか。犠牲を払わなければならないものなら守りたくない、というのであれば、その人には誇りは一切存在しないのでしょうか。その人には守りたい如何なるものも存在しないのでしょうか。罵詈雑言を吐かれようと、誹謗中傷されようと、妻子親族友人知人を殺されようと、父母兄弟を侮辱されようと、恫喝されようと、脅迫されようと、困った人を見ても何の感情も抱くことなく、侮辱されても施しを受け、今日の生を全うする為に如何なる恥辱・汚名をも受け入れ、醜態・媚態を晒して恥じないのでしょうか。ただ生きる為に。生きること以外の何物をも持たないならば、何故に生きる必要があるのでしょうか。畢竟「死にたくない」「死ぬのが怖い」だけなのかもしれません。しかし、どれほど死を恐れ、死から逃れようとしても、生まれ来た以上、死が必ず訪れます。
絶対に譲れない誇り、絶対に譲れない愛しい人、恩ある人、自らが属する集団を守る為に戦うことが誇りある人の道ではないでしょうか。「地球よりも重い」命とは、我が身を絶対安全圏に置き、求められる金品の全てを差し出して守られるものでしょうか。そうではない筈です。「我が命を賭して」でも守ろうとする時にこそ意味ある言葉ではないでしょうか。
その生の終わるその時まで、守り抜こう、戦い抜こうとする決意を持続させる時、「地球よりも重い」命は「永遠の命」となるのかもしれません。「永遠の命」とは、別の人格に受け継がれる「意思」なのかもしれません。
多くの特攻隊員たちが遺書を残しています。父母に、兄弟姉妹に、妻に、まだ見ぬ我が子に。愛しい人たち、愛しい人たちの住む国を守る為、若者は笑顔になれたのではないでしょうか。その瞬間。「地球よりも重い命」は「永遠の命」になったのだと思います。その「永遠の命」は、彼らが守ろうとした人たちの中に生き続けているのです。かくして「永遠の命」は、有史以来連綿と民族の血の中に生き続けてきたのかもしれません。ならば、我々もまたその体に宿る「永遠の命」の火を絶やすことなく、受け継ぎ、次代に受け渡していく義務があるのではないでしょうか。
「永遠の命」を繋ぐものこそ「歴史」であり、「文化」であり、「民族」であり、総体として「国体」であり、目にする具体的な存在としての「皇室」であろうと思います。
ここまで考えた時、顧みて現在の日本の「命の軽さ」を思わずにはいられません。「何の為に」生きるのか、「生きる目的」を失った今、安易に自他の命を奪い、誇りを捨てて恥じず、緊張感のない微温湯の世界に安住し、緊張感の欠如は目的のない日常を生み出し、ただただ感情にのみ押し流されて「生」も「死」も無意味なものにしてしまいました。そこにあるのは、「醜いその場限りの我欲」以外の何者でもないようです。惰眠を貪り、ついには「生きる意識」すら放棄し、目の前の利害に一喜一憂するおぞましき亡者の姿を晒して恥じません。そして、今社会の荒廃が言われ、殺伐とした乾いた空気は親子間の愛情までをも凍らせ、異常なまでの「個」の強調は調和と節度を求める「集団」を破壊しようとする異様な社会を作り出してきました。まさに継続を求める「永遠の命」の危機かもしれません。そして「安直な」人命尊重、民主主義、自由、平等、平和、反戦という甘い言葉こそ「永遠の命」を消し去るものであり、「日本の永遠の命」を恐れ、その消滅を願う人たちの甘い罠なのかもしれません。
「永遠の命」をなくした時、民族はその誇りを失い、生存の意義を失い、存在そのものが許されなくなるのかもしれません。
親が子供に愛情を注ぎ、子供が親に孝心を起こす時、夫婦相和し、兄弟姉妹は助け合い、朋友は相信じ、君に対する忠誠心を目覚めさせ、国に対する誇りを生み、社会は平安になるのではないでしょうか。「永遠の命」を受け継ぎ、受け渡して行く時、社会は民族の歴史を紡ぎ、文化を育て、次代に繋がって行くのではないでしょうか。
省みて、自らの「生きる道」とは、捻じ曲げられた歴史の真実を学び、先人の「永遠の命」に感応し、「永遠の命」を受け継ぎ、伝えていくことかもしれません。捏造の歴史というおぞましき自虐意識に歪められた社会の中で行き場を失い彷徨する「永遠の命」をしっかりと受け止め、自らの中で歪められた歴史を正す時、「生きることだけを目的とする命」が「永遠の歴史」の中に伝わる「永遠の命」の一つに変わるのかもしれません。その時、命は輝き、国民の命が輝く時、国の誇りは燦然と輝き、民族の誇り、日本人としての誇りが蘇り、その時真に「地球よりも重い命」を持つのでしょう。
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辛うじて生還???
数日前久しぶりにブログを開け、休眠中にも拘らずご訪問頂いた方々、メッセージを送って頂いたたくさんの方々の存在を知り、胸が詰まりました。一人一人にお礼のメッセージを送るべきところだとは思いますが、失礼を承知でここに御礼申し上げます。
真に有難うございました。
何とか頭痛も収まり、極度の食欲不振は改善したとはいえ、まだ心身ともに極限状態にあることは変わりありません。体重はやや持ち直しとはいえ、5KGあまり減まで回復しました。
ブログを離れてからの日々、生きる力さえ萎えた日々が続きました。そして、今も尚、鬱々とした闇に包まれた気分に心を蝕れながらも、辛うじて心の揺れを押さえています。部屋に安置する皇室御写真集カレンダー、携帯に付けた靖国の鈴と菊に桜のマーク、財布に入れたお守り代わりの奉賛会会員カード、日本人であることが自らを支えているのかもしれません。
連日の激しい頭痛は頭を切り裂くようでした。時に頭部上半分が痺れた様になり、感覚的に浮き上がり、ふらふらと剥離するかのような感さえありました。それに加えて日々減少していく食欲は、お茶碗一杯のご飯が半分になり、四分の一になり、ついにはご飯を受け付けなくなりました。代わって口にしたのは麺類ですが、これも麺なら何でも良かったのではなく、刺激のあるものだけでした。そして、バナナとパパイア。痩せ衰える身体、ふらつく足元。
『このままでは死ぬ・・・・』
そんな思いが頭を過ぎりました。
『死んでも良いか・・・』
そう思ったのもまた事実です。
一人生家を捨てて異郷に飛び出し、20数年前の母に次いで、父も亡くした今、心に出来た空白が自分を追い詰めていたのかもしれません。
それでも何故か『まだ死ねない』そんな思いから病院に向かいました。
『歩いている後姿を見ましたが、あなたの病気はパーキンソン病ですね。まず間違いないでしょう。』
『????』
一般内科診察室。問診もなく、診察室の椅子に腰を下ろした瞬間、診察結果を言い渡され、頭の中は真っ白になりました。
『手を前に出して拳を握って・・・』
『ほら、少し震えだしたでしょう・・・』
滔々とパーキンソン病についての基礎知識をひけらかす医者の話を聞きながら、
『あんたは馬鹿だね・・・』
そう思わずにはいられませんでした。
思えば、その朝病院に着いて、2階の初診者用一般内科診察室に向かう階段を手摺に捕まりながら力なく上がっていた自分の姿をこの医者は後ろから見ていたのでしょう。食欲不振からくる急激な減量により体力は衰え、歩行もままならない状況をパーキンソン病の症状に重ねてしまったのでしょう。タイの医学教育の実態からすればこんな医者がいても不思議ではありません。
回された別の内科医の診断では、血液検査に異常なし、胃カメラを飲まされましたが、『ポリープがひとつある他は至ってきれい』それもそのはず、食べていないのですから胃はきれいでしょう。摘出された胃のポリープも別段の異常はなし。
結論・・・異常なし????
まあ、心から来た症状であれば、診断も付き難いのでしょう。
この医師において頭痛を告げ、薬を処方されましたが、薬の所為か、その後の自主的絶対安静の休息の日々の所為か、頭痛は徐々に軽減していきました。そして、菓子パンとチョコレートが口に入るものに加わり、
『兎に角食べなければ・・・』
そんな思いで日々過ごしました。
体重減少は1年余り前から続いていました。そして、現在では低め安定・・・食欲減少安定・・・睡眠時間減少安定・・・何故か異様な姿が目に見えますが、それなりに安定しているようです。
今ではご飯も少し口に入るまでになりました。食後のマンゴーが栄養ともなるのでしょうか。
ここ数年、異郷の地に身を置きながら何故か葬儀への参列の機会が増えてきているようです。故人の血縁者が小まめに動き回る葬儀に参列しながら、この地に血縁者のいない身としては、自らの葬儀の姿を想像すると寂しい限りです。しかし、それも覚悟の上で来たのですから今更泣き言はいえません。日本人旅行者がすぐ近くに来ながら知られることなく無言で眠る戦没者は更に哀れです。市内著名観光寺院に眠る日本人の遺骨もまた、すぐ横を歩く同胞に知られることなく哀れです。
寺院の片隅に眠る戦没者、日本人同胞の霊に手を合わせながら、ただ、安らかにお眠り下さい、と祈るだけです。
mana拝
この度、拠所なき事情により一時帰国をすることになり、またまたブログを休みますが、帰国日当日の半日、靖国で心を清め、心に平安を求めたいと思います。
ブログの再開は、十分に心が回復してからになろうかと思います。
そして、かなり不定期な更新になろうかと思いますが、お許し下さい。
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休眠のお知らせ
ここ幾日か、頭を引き裂く激痛に襲われています。具体的に何の障害もないので疲れかとも思います。
これまでも断続的に激痛に襲われることはありましたが、その都度一時的な休息で回復しておりました。しかし、最近の激痛は連続しており激しさも増してきていますので、今後しばらくの間激痛を鎮めるために身体を休眠状態に置きたいと思います。
皆様方より頂いたコメントにご返事もできませんし、いつまで休眠状態が続くのかわかりませんが、全快の暁には、再びPCを開けることになると思いますので、その時には宜しくお願い致します。
MANA拝
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何とか修理完了?
先週末、突然PCに変調が起き、そのまま使用を中止しておりましたが、月曜日に販売店に持ち込めば、「預けておけ」とのつれない返事。怒りを抑えて「明日一番に再度持ち込む」と宣言して持ち帰り、火曜日に約束通り持ち込みました。この間なすこともなく、イライラしながらひたすら不貞寝の日々…
火曜日朝にPCを受け取ったセールスエンジニアは、PCを起動させてすぐに「ウィールス感染です。WINDOWのロードし直しです」。そこで気がついたのは、昨年も同じようにウィルス感染と言われてロードしなおした経験があり思い出して言うと、なんと、その時ロードしていたアンチ・ウィルスのソフトが期限切れのままUPDATEされていませんでした。しかも、日付を見ると、ロードして間もなくの事のようです。つまりウィルス対策なしでインターネットに関わっていたことになります。
かくてWINDOWのロードしなおしを終えて受け取ったのが夕方。ウィルスが77個あったそうです。ところが、それまでのソフトをすべて消していますので、日本語フォントまで消えていてさあ大変。「日本人の客など一人もいない」と嘯く彼は、日本語ソフトを探すのに時間を取られ、悪戦苦闘。ほかのエンジニアに聞きながら、不十分ながら使用頻度の高いフォントは見つけ出しましたので、何とか使えそうになって帰ってきました。
そして、今朝から使い始めましたが、ワードが2003から2007に変わっていて何か慣れず、プリンターの接続を始めたりしながら、IT音痴のあたしは悪戦苦闘。一応それも終わり、これからブログに戻りたいと思います。
これからの途中、デジカメ関係のロードもしなければならず、どこでどう事故が起こるかわかりませんが、壊れることも覚悟で悪戦苦闘の日々が続きます。
これまでの数日間、皆様方のブログへのご訪問もできず、頂いた湖面にご返事をすることもできず、申し訳ありませんでした。
これから、少しずつ元に戻るようにしますので、これからもよろしくお願いします。
MANA拝
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思索の旅―黒船来航前夜
太平の眠りを醒ます上喜撰
たつた四杯で夜も寝れず
黒船来航
嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)、マシュー・ペリー率いる米国艦隊四隻が浦賀に入港すると、外輪を持ち、もくもくと黒い煙を吐く異国の船を見て、人々は『黒船』と呼びました。その四隻とは、旗艦であり外輪を有する蒸気船『サスケハナ』『ミシシッピー』と帆走船『サラトガ』『プリマス』でした。黒船から数十発の空砲が放たれると、幕府役人のみならず江戸の人々の心胆寒からしめた事は容易に想像できます。そんな慌てふためく役人たちを市井の民は冒頭の狂歌で表しているのでしょう。
ペリーは、何故日本にやってきてのでしょうか。
マシュー・ペリー
アメリカ独立より200年前、マカオには西暦1557年以来ポルトガルが砲台を構えて活動の拠点とし、フィリピンは、西暦1571年にはスペイン領に組み込まれていました。スペインとポルトガルがこうして新に領土を拡張していた頃、イギリスとフランスは、北米に向かい、北より大陸を回ってインドに至ろうとしました。かくして西洋諸国が競って大航海時代に突入しました。
一方、産業革命による大量生産はより大きな市場を求め、大航海を通じて知ったアジアは従来の香辛料供給源の地位に加えて、工業製品の消費地の役割をも担わされ、同時に、産業革命による工場の深夜の稼動は、工場内の灯火用の油を大量に必要としました。増大する灯火用の鯨油需要に応えるように捕鯨は一大産業となり、鯨を求めての航海もまた始まりました。
そもそも『捕鯨』は、イベリア半島北部に住するバスク人によって広く行われていました。鯨の舌が一部貴族層の嗜好品となり、鯨肉は住民たちの食用とされていたといいます。バスク人の捕鯨は当初の沿岸域を北遊する鯨を捕らえることから西暦13世紀頃には大西洋に出て行くと、獲れた鯨油は広くヨーロッパ各地に灯火用に輸出される重要品となりました。
しかし、小規模なバスク人の捕鯨は増大する灯火用の鯨油需要に追いつかず、代わって現れたのがオランダ、イギリスなどであり、バスク人たちはそうした大国の捕鯨船の船員としてその能力を発揮することになりました。時に、西暦1596年に始まった北極海を通って東アジアに向かう北東航路開拓を目指すオランダの冒険家ウィレム・バレンツの旅は、その目的を達することは出来ませんでしたが、代わってスピッツベルゲン島を発見し、周辺海域が豊富なホッキョククジラの生息地であることを見つけました。これにより北極海が捕鯨の海として一躍脚光を浴びることになりました。
かくしてオランダの捕鯨船団が同島周辺に向かい、そこにイギリスの捕鯨船団も加わりました。大砲を積んだ私掠船であるイギリス船がオランダ船より鯨を強奪するに及び、両国船団の争いは、終には両国軍隊の衝突にまで発展しましたが、西暦1630年代後半には早くも資源の枯渇を引き起こし、捕鯨領域がグリーンランド周辺へと西に大きく移動することになりました。それに連れて捕鯨船も次第に大型化され、西暦1680年頃にはオランダが鯨油市場を支配し、その利益は香辛料取引に勝るほど鯨が乱獲されて行きました。この頃には、毎年250隻以上の捕鯨船が出漁して2000頭近いホッキョククジラを獲っていたとされています。
18世紀グリーンランドにおける捕鯨
西暦17世紀頃より良質の鯨油が取れるマッコウクジラとセミクジラの捕鯨が始まっていましたが、西暦1776年7月4日に独立宣言を発した新興国アメリカもまた捕鯨産業に加わりました。捕獲後船上で解体して油脂だけを取る商業捕鯨の米国式捕鯨船の活動は、ベーリング海からオーストラリア周辺にまで至る太平洋全域に及び、捕鯨船も巨大化して排水量は300トンを超え、一度の出港で4年の航海を続ける船団まで現れた、といわれています。そして、西暦1820年頃には有力な捕鯨領域としての日本近海に集まる欧米の捕鯨船数は、一時500−700隻に及び、アメリカ船団だけでも年間5000頭近いマッコウクジラとセミクジラ、英国捕鯨船とあわせると、マッコウクジラだけで1万頭近くを捕鯨していたといいます。こうした捕鯨活動は、当然途中での薪、水、食糧の補給基地を必要としました。西暦1851年に発表され、その後幾度か映画化にまでなったハーマン・メルヴィルの『白鯨』は、こうした時代背景の下に書かれたものです。
米国の灯火用鯨油需要は、西暦1859年にペンシルベニア州ドレーク油田で始まった機械掘り採油による石油産業の本格稼動まで続くことになりました。即ち、マシュー・ペリーが浦賀にやってきた時には、まだ米国に石油産業はなかったのです。
捕鯨を目的とする米国の太平洋進出の余波を受け、独自王朝存立の危機と文化・歴史の消滅の危機に瀕した今一つの国がハワイでした。
米国はペリー来港の目的の一つを中国進出への橋頭堡と太平洋の海洋資源支配の拠点として日本を位置付けていた、と想像することが出来ないでしょうか。
江戸時代、日本は鎖国をしていたとはいえ、既に紅毛人は長崎の出島で交易に従事し、米国人もペリーが最初の訪問者ではありませんでした。西暦1789年に始まったフランス革命はヨーロッパに大きな波を引き起こし、オランダがフランスに占領されると、出島にやってくるオランダ船と称する船も実はオランダ国旗を掲げた米国商船でした。こうした交易船は寛永9年(西暦1797年)よりほぼ10年間続き、特命使節が中国で亡くなった為日本には至りませんでしたが、天保6年(西暦1835年)には、第七代米国大統領ジャクソンが使節を送り出しました。それより先の文化5年8月15日(西暦1806年10月4日)には、フランスの支配下に入ったオランダの商館攻撃を目指してイギリス艦船がオランダ国旗を掲げて長崎にやって来て、出迎えの商館員の身柄を抑えるとオランダ国旗を下げて英国旗を掲げるフェートン号事件が起きました。長崎奉行所では敵艦攻撃を指示しましたが、太平に慣れた日本では、長崎を護る兵は、わずか150名に減らされていたのです。結局イギリス船の求めに応じて食料、水を供給しました。イギリス船はその後も出没し、幕府は終に文政8年(西暦1825年)に異国船打払令を発しました。
フェートン号
嘉永元年(西暦1848年6月2日)に至ると、アメリカの捕鯨船が蝦夷地沖で座礁し、乗組員30人のうち半数が死亡し、15人が上陸する、という事件が発生しました。それより先、天保8年(西暦1837年)には、日本人漂流者音吉他7名を伴った米国商船を異国船打ち払い令に基づいて砲撃し、結果的に蛮社の獄に至ったという、いわゆるモリソン号事件もあり、松前藩では、薪と水を与えて立ち去らせようとしましたが、彼らは再び上陸してきました。やむなく身柄を拘束し、幕府の命により長崎でオランダ船に引き渡そうと船を待つ間にも3名が逃走を試みる等により牢に入れられ、残りの12人に対しての監視も強化されましたが、この間2名が亡くなる事件が起きています。
グリンの乗艦プレブル
これより先弘化3年(西暦1846年)、アメリカは、ジェームズ・ビドルに命じて戦艦コロンバスを率いて日本との開国の外交交渉に派遣していました。しかし、オランダ以外との通商は行わず、交渉は全て長崎において行われるという幕府の頑なな態度に、上陸することも叶わず引き返したばかりでした。この時のビドルは、『辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く』を基調とする交渉を指示されていた模様です。このビドルの不成功の件は、まだアメリカ東インド艦隊には生々しく残っていたと思われます。
そこで、広東においてオランダ領事よりこの拘留捕鯨船員の事件を知ったアメリカでは、ジェームス・グリンを艦長にして戦艦プレブルを日本に差し向けましたが、捕鯨船員引き取りに向かうグリンには、次のような指示がされました。
『貴官が日本側と対応する際には、融和的にしかし断固として振舞う必要がある。日本の法律や習慣を破らないように注意し、合衆国政府の平和的政策による成功を棄損するようなことをしてはならない。しかしながら、貴官は予測できないような状況に直面するかもしれない。そのような場合は、貴官の裁量において、かつ母国の利益と名誉を守ることを旨に行動すること。』
日本側の従来からの変わらぬ頑な態度に対し、戦端を開くことも辞さない『母国の利益と名誉を守る』断固とした決意に加えて強固な態度とオランダ商館の助言もあり、嘉永2年(西暦1849年4月26日)全員グリンのもとに送り返されました。この時、捕鯨船員とは別に今一人のアメリカ人もまた引き渡されました。
長崎市にあるマクドナルド顕彰碑(部分)
嘉永元年(西暦1848年7月1日)、インディアンのルーツは日本人である、と信じるアメリカ・インディアンの血を引くラナルド・マクドナルドは、自らのルーツを探してか、捕鯨船に乗り込んで密入国を図り、利尻島に上陸しました。まもなく役人に捕らえられ、宗谷、松前、長崎など転々と送られる半年間、彼は14人の通詞に直接英語を教えた日本での最初の英語教師となりました。彼は、翌年長崎に入港した米国船プレブル号に引き渡されましたが、日本に対する印象は良かったようで、離日に際しての言葉は日本語で『さようなら my dear さようなら』だったとされています。彼が米国にもたらした日本は、高度な文明を有する社会である、ということで、アメリカの対日政策にも少なからず影響を与えたとされています。
同じように戦艦を率い、時期もさして違わないにも拘らず、ビドルは失敗し、グリンが成功したのは何故か、アメリカはこれを分析し、ついにマシュー・ペリーの来航に繋がったのです。
伊豆急下田駅で展示されるサスケハナの模型
生粋の軍人であり、アメリカにおける蒸気船海軍の父とも呼ばれる、マシュー・ペリーは、嘉永5年(西暦1852年2月)オーリックスに代わって東インド艦隊司令官に就任し、第13代大統領フィルモアの親書を携えて日本の開国の任務を与えられましたが、その前年嘉永4 年(西暦1851年1月)、時のグラハム海軍大臣に建議した彼の対日政策には、次の一点が含まれていました。
『恐怖に訴える方が友好に訴えるより多くの利点がある』
『熊おやじ』は砲艦外交、恫喝外交を初めから意図していたのです。
国力に見合う軍事力の保持を
今も昔も『外交は力』
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