チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

名前いろいろ

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普段何気なく耳にし、口にする言葉もよく考えればアレッと思うことがあります。間違われて使われているかもしれない…そんな名前に思いを馳せてみました…

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インドシナ・・・ってどこ?

「インドシナ」という言葉がありますよね。あれ、誰が作ったのでしょうか…あたしも何となく「インドシナ半島」なんて使ってるし、別に考えるほどのもんじゃない、と思ってた。でも一度疑問がよぎると、おかしなもんで気になって仕方がありません。
同じような言葉では「東南アジア」というのがあります。でもこの東南アジアというのもまた考えれば面白い呼び名ですね。日本は極東アジアだそうで、アラブは中東…中近東…
西アジアは中国西部みたいな気もするけど…
じゃあ北アジアは?東北アジアは?
どうやら米国の軍医用語らしいですけども・・・
昔は「南洋」と言う立派な日本語もありましたけど、今では死語になってしまったのでしょうか。これは日本を中心に世界を見た言葉でもっと使ってもいいような気もするんですけどね。個人的には・・・

余談はさておいて、
インドシナ、という時、何となく今の東南アジア大陸部をさすのかな…って感じ。
島嶼部、インドネシア、フィリピンなどを加えると東南アジアになるのかな?
でも「インド」と「シナ」を掛け合わせた「インドシナ」という言葉の響きにどことなく「継子」のような主体性を持たない頼りない存在のような感じを受けるのはあたしの僻みでしょうか…
コチラでは、この東南アジア大陸部をさす言葉として、レーム・トーン(LEEM THOONG)という言葉があり、また、スワンナプーム(SUWARNAPHUUMI)という言葉があります。その意味は、「黄金半島」「黄金の大地」、インドシナよりも遥かに情緒があって素敵だと思うんですけど、何故か使われませんね。
最近になって新国際空港の名前に使用されましたけど・・・

インドから見れば東方に位置する広大な大地、シナからすれば南方に広がる海に面した広大な大地。肥沃な大地に育まれた幾多の薬草と香辛料の数々。そして果物の数々。タイ北部、特にチエンマイの南ラムプーンの名産『苓枝(LINCII)』は、かの有名な楊貴妃の好物だったとも言われてますね。
両古代文明国からすれば魅力的な大地だったのかも知れませんね。
羅針盤を得た後の中国、特に明代の鄭和の大航海後の中国にとって、そこは魅力的な植民地というか、移民・海外移住の格好の地として写っていたのかもしれません。溢れる人口を要する両国の間に挟まれたこの地域にも人が住み、国があり、歴史が刻まれてきたはずなんですけど、「インドシナ」というどこか借り物の匂いのする言葉にそんな独自性がかき消されているように感じると寂しいですね。でも、二つの国のこの地への影響という面を見るとかなり異なっているようです。

広大な宇宙世界を生み出し、精神世界を浮遊することを好むインド文明が南西の季節風に乗ってこの地に来ると、バラモン教という精神世界の種を運んできて植えつけました。あたしの好きな「バリ島」なんて「劇場国家」と称されるほどバラモン教の精神世界に浸っていたように思うんだけど、今はどうなのでしょう…

遥かな昔のことです。
カウンディンヤがインド洋を渡って今のカンボジアの地オケオにやって来ると、裸形の未開部族の女性支配者と結婚し、きらびやかなバラモン世界を紹介したのがこの地に文明の光がさした初めであるとされています。
古くにはコームとも呼ばれたクメールの勢力拡大と共にバラモン世界が広がると、各地に消せないインド文明世界の刻印が刻み付けられました。各民族の持つ固有宗教・民俗信仰の上に重なるようにしてバラモン世界が覆いかぶさっていったのです。

次に、インドで興った仏教は、季節風を利用し、海を渡ってインドネシアに行けばボロブドゥールの大遺跡を残し、カンボジアにあっても石造寺院を建設していきました。本国内では西方イスラム世界の拡張とヒンズー世界の巻き返しの中で徐々に衰微していた仏教もスリランカでは衰えを知らずに発展を続けて行ったようです。
こうしたいわゆる大乗仏教系の伝播とは別に、いわゆる上座部系の仏教伝播のルートは、どうもモーン族の間を伝ってレーム・トーンの各地に広がって行ったようですね。しかし仏教は、先に到来していたバラモン教を押しのけることなく上書きされるようにしてこの地の基層文化を形作りました。ただ、上座部と呼ばれるモーン族の仏教すら決してそれほど単純ではなかったようですが・・・
こうして、民族固有の民間信仰にバラモン教の宇宙世界・精神世界が重なり、そして仏教の現世・来世世界が重なりながらも決して先の文化を消し去ることなく、不思議な調和を見せて溶け合ってきたみたいです。

近年あたらに建て替えられたバンコクにある巨大なブランコは、バラモン教のものだし、王室にはバラモン司祭がいるし、バンコク市内にある三面のブラフマン像を崇拝する市民は、願掛けと、大願成就の奉納舞踊を欠かしません。
工場新設に際しては、豚の頭を揃えての供儀は明らかにバラモン教の世界ですね。そして、敷地の片隅には、祠がありますが、たいていは中に仏も神もありませんが、そこには土地の神を祀る民間信仰が生きています。
それに何より、公式書類には必ずガルーダの紋章が印刷されていますよね。このガルーダは龍(NAAKH)共々バラモン教世界の動物ですよね。不思議なことに中国にも竜(MANGKOR)がいますが、インド世界のナーク(竜)は、キングコブラを抽象化したもののようですね。

仏教は、人々の生涯に亘って様々に関わり、切り離せないものです。子供が生まれると、信仰するお坊さんに命名を願い出、誕生日には祝福の言葉を受けに行きます。旅に出る時には交通安全の祈願をし、帰ってきてはお礼をします。自炊できない僧に日々の食を布施するのは信徒の大切な役目です。田舎に行けば、今も男子は出家の経験を積むものとされています。勿論、結婚式、家屋の新築においても僧侶を招請し、祝福の言葉を唱えてもらい、車には僧侶の有難い呪いをつけてもらいます。

こうした人々の生活の隅々にまで深く浸透したインド文明に対し、中国文化は、と見ると、余り見られません。勿論中国系の人々の中では父母より伝わる習慣を頑なに守る人もいますが、社会を規定するほどにはなっていないようです。
ところが、最近では、そうした中国系の伝統行事がマスコミに取り上げられている姿にどこか意図的なものを感じるのはあたしだけでしょうか。
中国式獅子舞、精進料理の習慣と苦行、御月見、そして何より中国人とは切り離せない食べ物、菓子類。年々形骸化していくタイのお正月行事に代わって陰暦の正月を『中国正月』と称して年々盛大になり、公的機関が後ろ盾にさえなっている感があります。

深く静かに社会の底に沁み込み、基層文化を形成してきたインド文化。
本国の強大化に伴って意図的に市民権を得させようとする中国文化。
二つの巨大文明国の影響は全く異質です。

そして・・・日本の文化は・・・お寒いですね・・・

チエンマイに来た誰もが、夕食後の散歩をかねてナイト・バザールに足を運ぶんでしょうね。それとも、ターペー門(PRATUU THAAPHEE)周辺かしら…?

今回は、その『ターペー門』のお話なの。ナイト・バザールの北の端が接する東西に走る道路は、さして広い道でもありませんが、道の両側に駐車していますから終日渋滞しています。その道の名前は、ターペー通りと言いますが、一方通行の道を進むと西の端に門が見えます。
これがターペー門です。
この門に限らず、チエンマイでは城門を閉じてはいけない不祥の出来事が起こる、といわれているんだけど、城門前にある筈の通路を破壊して作っている広場では出店が出たり、催し物をしたりで門の役目をなしていないの。以前は、この門を道路が貫通し、門の外、ターペー通りから見て門の左側が狭いながらも広場(KHUANG)だったのよ。時計塔もあったんじゃないかしら??
かつて門を通行止めにし、昔からの聖木と言われている古い木を根こそぎ掘り起こした高級官僚が不慮の死を遂げたことを忘れてしまったのでしょうかもうそんな古い言い伝えを知っている人がいなくなったのかも…寂しい。
そこは城門だから、通行自由でなければならないのに、経済優先の為政者は、そんな僅かな空間をまるで芝居の舞台のようにしてしまったのが悲しいわ。

ところで、通りの名前がターペー通り、城門の名前がターペー門。何の不思議も感じないですよね。でも…
門の名前が違う………
門の形が違う………
って言ったらどうでしょう?
だって本当に違う…ようです…
手元にないのが残念ですが、幾度も古い写真を見たことがあります。その写真にはっきりとチエンマイの門が写されており、城壁は一重ですが、門は二重になっているのです。つまり敵が城門を打ち破って侵入してきても内側の城門は閉じられたままですから、「袋に入った鼠」宜しく上から弓矢で狙い撃ちすることが出来たのでした。
チエンマイの城壁は一つだと誰もが思ってるかも…
でも違う…って言ったらどうしますか?
先ほど古い写真でも城壁は一重だといいましたが、それはあくまでも今残る濠の向こうの城壁のことでして、チエンマイを建設したマンラーイはそれだけで満足したのでしょうか?南の王国ハリプンチャイを知将アーイ・ファーの奇計で攻略したマンラーイは、南のラムパーンを統治する息子のパヤー・バーク(PHAYAA BAAK)を頼って逃げて行ったパヤー・ジーバー(PHAYAA JIIBAA)の逆襲に備えなければならなかったでしょう…ね???ですから、堀の内側の城壁一つでは安心できなかったのじゃないかしら???

チエンマイの城壁はね、町を建設した時に最初に着手したのは東北隅の吉祥地に相当する場所の城壁だったけど、当時ケーラーン・ナコーンと呼ばれた今のラムパーンに逃げたハリプンチャイの王パヤ・バークの報復を警戒して、更に南にもう一つ作られていたのです。それはある意味ではの感覚でしょうかね。決してチエンマイ全体を大きく包み込む形の城壁ではなかったようです。その一部は今も残っていますが、それすら心無い為政者はショベルカーで削り、分けの分からない公園を作っています。削り取った土の一塊一塊が歴史の生き証人であることを知らないのかもしれませんが、いつの日にか理解されることを願って無言のまま頑固に生き残っています。
その外城壁は、カー河を濠としているのでしょうか、四角い城郭の南西隅より南に伸びた後、東に向かい、そして北に上がっていきます。今もその残滓をところどころに見ることが出来ますが、街中の意外な所にもそれが残っているのです…よ。
ターペー通りを道なりに進むと交差点右手角にセーンファーン寺院がありますが、城壁はそこにまで来ていたのです。そのセーンファーン寺院の交差点を左折しますと、左手に雑草に包まれた土盛のようになった通りがありますが、その土盛に見えるところこそが外城壁の跡なのです。今ではそこに穴を穿ち家屋が建っていますが……何故???
そうです。そのセーンファーン寺院の交差点に昔は城門があったの。その城門の名前こそが『ターペー門』なのだそうです。
では、今のターペー門は?
あれは本来、『ルアック門(PRATUU RUAK)』と呼ばれていました…そうです。
この話は、チエンマイの寺院の中の九ヶ寺は方位学に元づいて建立された、という説に対する徹底的な反論として出版された著名な地元歴史学者たちの論文集『チエンマイに方位学による寺院はなかった』という本の中で、チエンマイを代表する歴史学者であるマニー教授が簡単にその説明文を乗せています。確かに、あたしも何度か『プラトゥー・ルアック(=ルアック門)』という名前を伝承の中で見た記憶があります。

読書は楽しいわね。

今までチエンマイの名前について好き勝手に書いてきましたが、ここで目先を変えて、チエンマイの町に目を向けたいの。

チエンマイの町を歩いていると、時としてメンラーイ(MENGRAAY)という言葉に出会うことがありません??
チエンマイの町の建設者をメンラーイとしている旅行ガイドブックがありません??
一方で、マンラーイ(MANGRAAY)としている本もあるのをご存知かしら?
このメンラーイマンラーイはどちらが正しいのかしら…??

答えからいうと…マンラーイが正解…でした。
〜。メンラーイだとタイ人の誰もが言ってるし、役所の像にもそう記しているし、辞書にだってそう書いているじゃないか、なんて強情を張らないで下さい…。確かに、そういうタイ人も多くいるでしょうし、そう書いてある公文書もあるかも???ん??
でも、違うものは違うのよ…。
メーンラーイだと言い張る人の根拠はもしかして、命名に時に遡るのかしら?

マンラーイの祖父はラーワマーン(LAAWAMAANG)という名前で、その王子の名前がラーワメーン(LAAWAMEENG)でした。ラーワメーンが成長すると、ラーワマーンはムアン・チエンルンの王(THAAW RUNGKEENCHAAY)王女ナーン・ウアミンチョームムアン(NAANG UAMING COOMMUANG)を嫁として求めたの…羨ましい。
この王朝の王名を見ていくと、ラーワ(LAAWA)という語が頭についているんですね。付いていないのはあたしの知っている限りでは、伝説の英雄クン・チュアンとチエンマイの建設者マンラーイだけのようですね。これもラーワ(LAAWA)ではなく、ラーウ(LAAW)だというかもしれませんね。そうすると何故か隣の国の民族名と同じになっちゃうのだけどね。
マンラーイはラーワという名前を冠していないことに新王朝創設を宿命付けられていたのかしら???
ムアン・チエンルンの王はラーワメーンの申し出を受けて喜び、娘の名前をナーン・テープカムカヤーイ(NAANG THEEPHKHAMKHAYAAY)に改めたの。でも、彼女の名前をナーン・テープカムカーイ(NAANG THEEPHKHAMKHAAY)としているところもあるのよ。ややこしいわね。
不思議な伝説に包まれた王子が小暦601年(佛暦1782年、西暦1239年)の正月下弦の9日日曜日の夜明け近くに生まれたというの。生後一月が経過して、ラーワメーンが岳父に孫の出生を知らせて一緒に祝うことになったのよ。この出生の年も小暦600年という話もあったような…なかったような…そして、ここで言う正月がチエンマイの暦によるものとすれば、多分そうでしょうけどね、現代の暦では10月ね。でも、年が改まるのはチエンマイ暦の7月現代の暦の4月、所謂ソンクラーン(SONGKHRAANGKH)からよ。

外祖父チエンルンの王ターウ・ルンケーンチャーイ(THAAW RUNGKEENCHAAY)がやって来ると、いよいよ命名が始まったの。父の名前がプラヤー・ラーワメーン、母の名前がナーン・テープカムカヤーイ、外祖父の名前がターウ・ルンケーンチャーイを併せて命名されたというのだけど、だから、父からメーン、祖父からルン、母からカヤーイと取ってきて、メンラーイ(MENGRAAY)としたというのかしら????でもね、『ラーンナータイ伝承集』の中の『王朝物語伝』でもその三人から名前を取ったと言ってるんだけど、その結果、マンラーイ(MANGRAAY)となっているのよ。ただ、この説だと、マンラーイのの音は何処からとったのかしら?

名前の綴りからより、もっと簡単にわかる方法があるのよ。
昔の文字ではっきりとマンラーイと書かれているんだから、そう信じるのが本当じゃないかしら???
御年80歳の時、市内の市場巡察に出たマンラーイは、町の真ん中で雷の打たれて亡くなったことは余りにも有名よね。その後百年もたたないで、石碑を刻んだ人がいるのよ。第六代目の王、パヤー・クーナー(PHAYAA KUUNAA)の時代のことよ。未だ、創業者の名声が人々の記憶に鮮やかに残っていただろう時代に、南のスコータイからやってきたスマナテーラ(SUMANA THEERA)という御坊さんだったかな石碑を刻んで今のチエンマン寺院に安置したの。それにははっきりとマンラーイと刻まれているのよ。どうお、参った???エヘン…
このマンラーイ王の出生にも面白い伝説が残っているのだけど、それはいつか話すことにしましょう。
それにも拘らず、未だに頑固に創業の偉人はメンラーイであると譲らない人がいて困っているの。もう〜〜
それ以上にある役所の前に最近建立されたマンラーイ像にメンラーイと刻まれているのを見ると腹が立つのよ。何故って。そこは役所なんですもの。
このマンラーイとラーンナーは学者がどう結論付けても、社会的に訂正されるにはまだまだ時間がかかりそう。あああ〜〜〜〜〜〜〜

以前、チエンマイの名前について書きましたが、ラーンナーという言葉を聞いたことがあるでしょうか?今回は、そのラーンナーという言葉のお話し…よ。

『チエンマイは、かつてはラーンナー・タイ(LAANAA THAY)王国の都でした』…なんていう文章を目にしません???ここでは敢えてTHAY としてTHAIとしていないのは、頑固にタイ語綴りに拘ったのと、タイ語綴りでがないタイがあるからなの。
ところで、皆さんがよく耳にする言葉は『ラーンナー(LAANNAA)』なのかしら『ラーンナー・タイ(LAANNAA THAY)』なのかしら?どちらかしら??同じようなものだけど、やっぱり気になりません??ならないか。。。気にするのはあたしぐらいかもね。

突然なんですけど、隣の国ラオスは、昔『ラーンサーン(LAANSAANG)』と呼ばれていたでしょ。これはラオスの方言(ごめんなさい、ラオス語ですよね)で、タイ語では『ラーンチャーン(LAANCHAANG)』と呼ばれて、どちらの語もその意味は『百万の象』ですよね、たしか。ラオスの人たちは、タイ語のCHの音をと発音しがちなのかしら…ね。あたしのあやふやな知識に間違いがあったら御免なさいね。これをチエンマイの昔の人々はCHとして発音して『ラーンチャーン(LAANCAANG)』と呼んでいたらしいんですよ。
昔のチエンマイの言葉では、現代タイ語のCHに当たる言葉がで発音される傾向があったみたいなの。あたしたち日本人には、CHでもでもでもどちらも同じですけど、タイ人とかラオス人とかにはその違いがはっきり分かるのね。だって文字が違うんですもの…タイの人たちの音に対する感覚はかなり繊細ですね…余談ですけど…
そのラーンサーンにラオスという言葉がないでしょう…だって、自分たちがラオス人だなんて大きな声で言う必要がなかったのじゃないかしら???今では世界が広がってしまってタイも、ラオスもカムボジアも日本も民族名を国名にしてるんですけどね。

それはともかく、ラーンサーンにラーウ LAAW という言葉が付かないように、それと同じようにラーンナーにも『タイ THAY』という言葉がなかったと思うのはあたしだけかしら…昔の伝承本ではラーンナーが多くて、現代人が書いた本にラーンナー・タイが多いと思うのはあたしの僻みかしら…むしろ、あたしの印象では、昔のチエンマイの人たちは自分からラーンナーとは呼んでなかったのじゃないかしら…?むしろ、周辺国の首長たちがチエンマイの王をラーンナーの王と呼んだりしちゃったりしたんじゃないのかしら…殆ど暴言になってますね…

余談ついでに言っちゃえば、タイだって今ではTHAI と書くけど、タイ語の文字からすると、THAY の方が正しいのかもしれないし、 の付かないタイ語綴りのタイもあれば、の付かないタイ語綴りのタイもあるのよ。つまりTHAYTHAITAIがあるの。どうやら同じタイ族でも部族として別々みたいね。

それは兎も角、ラーンナーというのはラーン LAAN『百万』ナー NAA『田』だから、併せると『百万の田』という意味なんだそうですけど、そうだったら「ラ」の低子音のLには、音が高い位置に発音される第二声調符号が付いてなきゃね。でもタイ語で書いた時、そんな符号を付けずに普通の音で発音している場合があったりしますよね。声調符号が付かないなら『広大な田(LAAN NAA)』という意味になりますよね。それでも昔のチエンマイの文字には声調符号が付いていないだけで、意味は『百万の田』なんだと言い張るのかもしれませんけどね。でもね、昔のチエンマイの文字を引用としようと、どうしようとチエンマイの人たちの発音からすると「象」を表す筈ですよね。ならば現代タイ語で書く場合には「ラ」のの文字には第二声調符号が付かなければならないのじゃないかしら…こんな話、面白くないですよね…ご免なさい。

それともう一つ、こっちの話の方が重要な気がするのよ。ラーンナー(LAANNAA)という言葉は、いつ誰が作ったのかしら???????

何冊かの古い伝承本といわれるものを読んでもわからないの…誰か教えて…本当に困ってるの。
伝承本の中にいきなりラーンナーという言葉が出てきてびっくり。しかも57のムアンがあったと言ってるんだけど、どの本にも『これこれのパヤーがこの王国の名前をラーンナーと命名した』とは書いてないの…違う…書いてる地元の伝承本を見たことがないのね。そして、伝承本の中には王の旅行行程を細かく、一宿ごとに距離すら詳細に記している場面があるのに、その57もあったという大切な王国構成の町の名前が何なのか、何処にあったのか、その町の首長の名前は何なのか、どの種族なのかは何処にも書いてないの…またまた違う…違う…書いてるのを見たことがないの。誰か教えて…お願い…クシュン

チエンマイなら兎も角、ノッパブリーなんて聞いたこともなかったわ…なんていう人もいるかもしれませんね。でも昔の本にはいろいろな名前で出てくるんですよ、この町は…。これから書くシーナコーンピンというのもその一つ。この前のノッパブリーよりは知名度がある…カナ。これも単にナコーンピンとだけ呼ばれたりもしますけどね…

シーナコーンピン…って?
次にナコーンピン(NAKHOR PHINGKH)とも呼ばれますが、シーナコーンピン(SRII NAKHOR PHING)というのはどういう意味なんでしょうか。意味を考えるなんてさして重要なことではないかもしれないんですけど、ブログ初挑戦のあたしとしては文章を書く練習のつもり。

これにもいろいろ面白い話があるのみたいです…

シー(SRII)とは、サンスクリット語で「聖なる」という意味があるそうです。
SRII と書いていますが、SII と読むのがタイ語の読み方ですね。タイ語を日本語表記することは不可能なんでしょうね。日本語にはタイ語にある声調がありませんから、それを表記できないんですね。それをすることも可能なんですが、ここに表記する方法を知らないあたしが馬鹿なだけなんですけどね…
それはともかく、日本語では子音には必ず母音が付きますから、この SRII をえてしてスリー SURII と読みがちですが、注意したいですね。でも同じ日本語的に読むにしても、シュリーと読めば何となく近くなりそうです。昔歴史で習った東南アジアのある王国の名前がシュリヴィジャヤであったような…そんな気がするんだけど、それはタイ語では、シーヴィチャイ SRII WICHAY と呼ばれています。これも地元チエンマイの古い伝承本の中に見える言語では、SALII と読んでいたようです。

そして、ナコーン(NAKOR)というのもまた、先のブリー同様「町」という意味です。勿論純粋タイ語ではありません。ナコーン・ラーチャシーマー、ナコーン・ナーヨック、ナコン・サワン…チエンマイの南の大きな町、ラムパーンも昔はナコーンと呼ばれていたみたいなの。ナコーンは時にラコーンとも訛っていたみたいですよ。
ついでだから思い出したままに書くと、日本で有名なアユタヤ王朝時代の日本人町の指導者でアユッタヤー王朝の高級官僚にまでなったという伝説の人物、山田長政の最期の地は六昆とも呼ばれますが、リゴールですね。そして、このリゴールこそがナコーンという音の訛ったものです。そして、カンボジアの世界遺産アンコールワットは、タイ語ではナコーンワットと呼ばれて「寺町」という意味になります、可笑しいわね…御免、可笑しくないですね。

寄り道しましたけど、以上のことからシーナコーンとは「聖なる町」になるのでしょうか…

そして、ピンPHING とも PHINGKH とも PING とも書かれますが、チエンマイの町の中を南北に流れ、昔からこの地域に住む人たちの命の源泉ともなっている川の名前ですね。
でもね、この河にもいろいろな名前があるみたいです。日本語ではピン河と書きますが、PINGPHINGKH の二つの綴りがあります。どちらも同じで、ただ発音をどう文字にするかで変わったのかな、と思っているんですけど…誰か知ってる人がいたら教えて下さい…
ただ PING の言葉の由来を説明する伝説がありましてネ、とっても信じられないことですが―もともと伝説はそのまま鵜呑みに出来ないものと決まっていますが―お釈迦さんが出て来ます。チエンマイの北の町、チエンダーウにお釈迦さんがやって来たというのです。お釈迦さんがやってきたことを伝え聞いた村人たちは、食事を差し出しました。その時差し出したご飯のおかずが焼き魚だったのです。河に泳いでいる魚を取ってきて二本の竹串で挟んで焼いた(ピン− PING)ものだったのです。さすがにお釈迦さん、差し出された焼き魚が可哀想に思えて竹串を外すとそのまま河に放した、といいます。すると、どうでしょう、アラ不思議…焼き魚になって死んだはずの魚に命が蘇って泳ぎだしたではないの。だからその焼き魚を放した河をピン河 MAE PING(焼き河)と呼びました…とさ。その魚は今も挟まれた竹の跡が体に二本ついているそうですが、あたしは寡聞にして目にしたことがありません。その魚の名前?聞かないで…知りません…伝説には載ってたカナ?どうだったかな?

それともう一つ、この河にもう一つ別の名前があるのをご存知ですかしら?ラミン河(MAE RAMINGKH)といいますが、今ではこの名前を聞くことはないみたいですね。でも古い伝承本にはしばしば出て来るんですけどネ。

とにかく、ナコーンピン「ピン河の辺の町」シーナコーンピンとは「ピン河の岸辺の聖なる町」でどうでしょうか。
こうしてみると、ノッパブリー・シーナコーンピン・チエンマイとは「新たなる町、ピン河の辺の聖なる町、新たな城壁都市」といえるのでしょうか?

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