チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

天孫降臨物語

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ンガーンヤーン王国を作った謎の王、ラワチャカの出自…歴史の夜明けに繋がる王国の誕生…そこに秘められた伝承…そこにチエンマイの原風景の基礎があるのかも…

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英雄クン・チュアン物語−大王の最期−

ムアン・プレー、ムアン・ナーンの皇女を娶って両国の婿となり、次いでムアン・ケーウの王の心を捕らえた美貌の従妹を妻にし、そして、メコン河を渡ってラーン・チャーンの王女ナーン・アマラテーウィーを娶り、最後には、ムアン・ケーウを攻略して、その地の王女ナーン・ウーケーウを妻にしました。
こうして最終的には合計五人の女性を妻としたクン・チュアンですが、このムアン・ケーウ攻略にはそれまでの三人の妻を伴っていかなかったらしいのです。

このムアン・ケーウにおける即位の祭典は盛大を極め、兵たちには飲食を惜しみなく与えて労い、将軍・高級官吏たちには十分な褒章を下賜しました。それは7日間に及び、それから城に入っていったというのです。
そして、この式典に参列した諸国の王たちは、数ヶ月に亘って逗留した後、それぞれに国に引き返して行ったと言われます。

クン・チュアンの新たな人生の始まりです。
その後ナーン・ウーケーウとの間に三人の男を子を設けたことが伝承に残っています。すなわち、長男がチャウ・パールアンメーンカムカー(CAU PHAARUANGMEEOKHAMKHAA)、次男がチャウ・ジーカムハーウ(CAU YIIKHAMHAAW)、三男がターウ・チュムセーン(THAAW CHUMSEENG)という名前でした。すべて平和裏に終わったかのようですが、クン・チュアンの滞在はわずか3年余に過ぎませんでした。
ラーウより伴ったナーン・アマラテーウィーを伴ってチエンラーウに引き返し、わが子ラーワ・ンガーンに印綬を授けたとされています。ラーウ攻略戦においても戦利品のようにして手に入れていたのでしょう。こうして遠く離れた母国にナーン・アマラテーウィーを預けると、再びムアン・ケーウに引き返して来ました。
帰ってきたクン・チュアンは、ナーン・ウーケーウとの間に出来た三人の子供うち、長男のチャウ・パールアンメーンカムカーにムアン・ケーウの統治を任せ、次男のジーカムハーウをラーンチャーンに赴かせて統治させ、三男のターウ・チュムセーンには、ムアン・ナンタブリー(MUANG NANTHABURII)、すなわち、ムアン・ナーンに赴かせて統治させました。

御年36歳にして王位についたクン・チュアンは、王位にあること14年、ムアン・ケーウに留まること17年、時に77歳、戦場の英雄は後事を息子たちに託して波乱の一生を思い出の中に閉じ込めて余生を過ごすかと思われました。
しかし、戦場の英雄に平安な終わりはなかったようです。子供たちに各地の統治を任せたクン・チュアンは、77歳にして更なる戦場を求めて行きました。そんな彼の心を支えたのは、飛翔する以外のあらゆる能力を授けられている、と言う自信でした。稀代の英雄は、建国の士、治世の士ではなく、終生戦場の勇士だったのです。

彼は軍を編成して新たな旅に出ました。『プーンムアン・チエンマイ伝』『王朝物語伝』『十五代王朝伝』および『クン・チュアン伝』においては、ムアン・ケーウメーンタートークコークファーターユーン(MUANG KEEWMEENTAATHOOKKHOOKFAATAAYUUN)平定を最初から目指していたと言いますが、こんなに長い名前のムアンがどこにあるのでしょうか。文部省の中等教育用副読本の『北の町の物語り−重要人物編』では、ムアン・クメールであるとしていて、この時クン・チュアンは海までその勢いを伸ばしたと述べています。

世紀の英傑クン・チュアンを迎え撃つ側でも、大軍を擁して出てきました。その時敵は石橋を建設して渡河して来たといいます。ではどの河なのでしょうか。紅河かも知れませんが伝承は一切記していません。
襲い来る蜂の大群にも似た敵勢を目にしたクン・チュアンは、それでも敵に後ろを見せることなく、愛象に跨りました。さすがに自らの最期を感じたのでしょうか。クン・チュアンは、自らの衣服を脱ぎ捨て体に擦り付けて匂いを染み付けたようです。そして、従者に持たせると、愛妻ナーン・アマラテーウィーの元に届けさせたといいます。まさに決死の覚悟をした瞬間でした。

ナーン・アマラテーウィーは、息せき切って帰ってきた夫の使者より夫の衣服を受け取ると、胸に抱きしめました。そして彼女の不安を象徴するかのように、町は異変に覆われ、小鹿のキョンが家の中に走りこみ、多数のカエルがムアンの中を飛び跳ね、巨大な蛭が這い出した。雨が降り続いて船着場を壊し、その他の諸々の不詳の出来事が発生した、と使者に語って聞かせました。
守護霊に一心に祈りを捧げて夫を守らせるだろうと告げましたが、敵に後ろを見せることのない夫は、既に年老いてはいるが、大きな至玉の象に打ち跨り、プラヤー・ケーウメーンタートークコープファーターユーンとの戦いに出向いた、という知らせをじっと待とう。夫はこの戦いにおいて命を落とし、自分は最愛の夫をこうして失うで去ろう、と夫の最期を予見していました。

その時、ケーウ・メーンタートークの者たちは、軍を率いて前線に陣を敷いて クン・チュアンとの戦いに備えていました。石の橋を渡って麓で待ち受ける大地を埋め尽くす大群に向かってクン・チュアンの最期の無謀とも言える戦闘が開始されました。
稀代の戦場の英雄も如何せん77歳の高齢に加えて多勢に向かう無勢、それはまさに死地へ向かっての突撃でした。
メーン・ケーウメーンタートークコークファーターユーンは、大軍を持ってクンチュアンを包囲すると一斉に襲い掛かりました。抗する事も出来ないまま、クン・チュアンは敵の武器に当たって敢え無く象の背上で命を落としました。その時の武器は、長刀であったのかもしれません。
クン・チュアンが倒れたことを知った味方将兵は、いっせいに駆け寄ると、彼を真ん中にして敵の更なる加害を防ぎ、戦場を後にしました。
戦場の英雄は、戦場で名をなし百戦不敗のまま、稀代の英雄に相応しい敵に後ろを見せることなく勇敢に戦い戦場で亡くなったのでした。敵に無残な姿を晒すことを許さない味方将兵が今は指揮を取ることのない主を守って一路ムアン・ンガーンヤーンに引き返してきました。そして、荼毘に付しました。

その遺骨はどこに祀られたのか、伝承は黙して語りません。
ヒランナコーン・ンガーンヤーン王朝第19代でした。
『プーンムアン・チエンマイ伝』『王朝物語伝』『パヤウ建国の章』のいずれにおいてもクン・チュアンの最期は、敵の武器に当たって命を落とした、とされていますが、『十五代王朝伝』だけは、敵に囲まれたクン・チュアンが自殺したと記しています。
伝承に現れる様々な戦闘において、王の自殺は寡聞にして見当たりません。英雄の死を敵に遅れをとったとしたくないばかりに自殺にしたのかもしれませんが、あたしはやはり、敵と戦い、矢尽き、刀折れ敵の武器に当たって最期を迎えたとしたほうが、英雄に相応しいと思います。

このクン・チュアンの6代の後、第25代目の王として、今一人の英雄ムアン・チエンマイ建国の王、パヤー・マンラーイが歴史に登場します。
チエンマイは、もうすぐそこまで来ています。

(了)

英雄クン・チュアン物語−絶頂期の大王−

コームを追放し、シンハナワットナコーンを取り戻し、逃げるコームを執拗に追って南下する勢いに恐れたインドラ神が建設の神ヴィシュヴァカルマンに金剛の壁を作らせたという伝説を持つプロームマクマーンは、ムアン・チャイプラーカーンを建設したとはいえ、その活動の範囲は自国防衛の域を出ませんでした。しかし、ここに登場するクン・チュアンは、遥かな後年にさえも辺境の地といわれたムアン・プレー、ナーンへ旅してそこの王女を娶り、しかも遥かに東、メコン河を渡ってラーンチャーンを攻略し、更にはケーウすらをも攻め滅ぼしてしまいました。
同一人物ではないかと噂されながらも両名の活動の範囲は時代の推移をそのままに反映してかなりの相違を見せています。

従兄弟の女性に横恋慕したムアン・ケーウの王を殺し、国境を超え山を超え川を渡ってムアン・ケーウを攻略したクン・チュアンは、自らが殺したターウ・カーウの娘、ナーン・ウーケーウを我が物として、そのままムアン・ケーウの王となりました。
この点を「王朝物語伝」は単にナーン・ウーケーウをものにしてムアン・ケーウの王となった、としか述べていません。
しかし、「プーンムアン・チエンマイ伝」「十五代王朝伝」は、同じ口調でやや詳しくその当時の模様を記しています。すなわち、クン・チュアンがムアン・ケーウの王となると、その武勇が周辺諸国に響き渡り、ムアン・ロー(MUANG ROO)のプラヤー・ルムファーパウピマーン(PHRAYAA LUMFAAPAUPHIMAAN)が中心となって諸王を集め、聖水を頭に注いでの即位の灌頂の儀式を執り行ったといわれています。

一方、「ヨーノック王朝年代記」の中の「パヤウ建国の章」においては、事はそう簡単ではないようですが、これも今ひとつ納得がいきません。すなわち、ヒランナコーンに攻め寄せてきたケーウ軍を駆逐したクン・チュアンは、伯父のクン・チンから、美貌の主でこの度の政争の因ともなったナーン・ウアカムコーンムアン(NAANG UAKHAMKHOONMUANG)という名前の王女を得て妃とし、ラーワンガーンルアン(LAAWNGAANRUANG)という名前の自らの子供に王位を譲ってムアン・パヤウを統治させました。
こうして、ラーンナーの領域から敵を追い出したクン・チュアンは、どうしたことか、現在のラオス国である当時のラーンチャーン王国を攻撃して手に入れた、というのです。何故にはるか東メコンの大河を渡ってまでラーンチャーンを攻撃しなければならなかったのでしょうか。少なくともこのクン・チュアン時代以前において、チエンマイ系の伝承では、ラーンチャーン攻撃どころか、その王国の存在そのものすら記述していません。

いかなる理由をつけてラーンチャーン王国を攻撃しなければならなかったのか、平定しなければならなかったのか、そして、平定して何を得たというのでしょうか。「チュアン伝」にはラーンチャーン攻撃に言及しているといいますが、この点については一切言及していません。両伝共に、まるでケーウへの途中にあったのでついでに攻撃して手に入れた、という感じの書き方です。
今手元にある伝承だけでは、歯痒い位に疑問だらけですが、いつの日にか他のムアンの伝承本を読み進んで疑問を解いていきたいと考えています。

とにかく話を続けましょう。
ラーンチャーン王国を手に入れたクン・チュアンは、さらに進んでムアン・ケーウを攻撃して平らげ、ケーウ国の全国土を手に入れました。のみならずターウ・カーウの王女までをも手に入れたクン・チュアンの名声は、あらゆる方向に広まり、チャウ・ロムファーカウピマーン(CAU ROMFAAKAUPHIMAAN)という名前のプラヤー・ホー(PHRAYAA HOO)が周辺諸国に呼びかけてクン・チュアンに聖水頭頂礼の灌頂を施して、帝王としたというのです。ここで言うプラヤー・ホーとは回族の王ということでしょうか。そうであるならば、名声は中国南部一体に広く知れ渡っていたことになります。

ところが面白いことに、これまで比較的淡白な表現に過ぎなかったチエンマイ系の伝承本でこの時の儀式が非常に詳しく記され、逆に「パヤウ」の伝承、「チュアン伝」では触れられていないようなのです。
これはどういうことなのでしょうか。
学者の中には「パヤウ」の伝承は、往々にして極端な手前味噌であり、あまり信用が置けないということを言う人がいますので、自国の英雄とはいえ、他国で盛大な即位の儀式をしたことを伝える気がしなかったのでしょうか。

そうした憶測は一応置いといて、飽く迄「伝説」ですから、チエンマイ系の伝承からその時の様子を見てみましょう。
「プーンムアン・チエンマイ伝」では、この時の様子をどのように伝えているでしょうか。
ムアン・ケーウの権力圏内のムアン・ロープラカン(MUANG ROOPRAKAN)に集まった諸国の王は、そこに仮設の城を建設し、770本の傘蓋を立てたといいます。傘蓋とは仏のほかにも高貴な人に指しかける傘を意味しますが、770本立てたところにクン・チュアンの力が偲ばれます。
そして、黄金の浴槽も用意され、その中には香水が入れられていたといいます。その高さは150センチもあったといいます。
その浴槽の中にクン・チュアンが入り、参列の王たちが法螺貝に水を満たして頭に注いだそうです。ここに法螺貝が出てきますが、これはバラモンが吹く聖なる貝であり、新郎新婦に水を注ぐ時に用いられる聖なる物です。また法螺貝王子物語というお話があって、王妃が法螺貝を産み落とし、後にその中から王子が生まれるというどこか桃太郎とか竹取姫にも似た話にも登場するものです。

この時の法螺貝は右巻きに百回巻いていたと伝承は伝えていますが、それはいかにも多すぎますね。
穢れを取り払ったクン・チュアンは、黄金の髷飾りを頭に頂きました。昔の貴人は、頭頂に髷を結い、そこに黄金の輪を被せ、日本の昔の簪にも似て様々な飾りを施したもののようです。

この式典の中でのこととされていますが、チャウ・ロムファーパウピマーンがクン・チュアンのために印綬を作って献上したと言います。また、「チュアン伝」では、中国宋王朝より王の称号を受けたと言うのです。
また、中等教育用副読本の「北の町の物語−重要人物編」のクン・チュアンの項によれば、クン・チュアン自身が中国の天子に対して息子のラーワンガーンルアンをチエンラーイの王とすることを認める印綬を作成するよう願い出た、とされています。
これらが正しいとするならば、その印綬がどこかから出てくる可能性があります。それさえ出土すれば、彼の存在が大きく現実味を帯びてきます。ただ出てくるとすれば、今のベトナムの地でしょうが。

こうして諸国の王にその力を認められたクン・チュアンは、ムアン・ケーウの王として君臨しました。そして、ラーウより伴ったナーン・アマラテーウィー(NAANG AMARATHEEWII)とムアン・ケーウの王女ナーン・ウーケーウが後宮を取り仕切ったと伝えられています。そして、そこには驚くことに44万の美女がいたといいます。

(続)

英雄クン・チュアン物語−大王への道−

ところで、ここに出てくる『ケーウ』ですが、通常『ベトナム人』と言うことになっています。ベトナムが『越南』であり、『越』の『南』を意味するならば、かつて何かの本で読んだ記憶があるのですが、『越』『呉』の地域はかつてはタイ族の居住区であったと言うのです。今も壮(チワン)族自治区というのがあるそうで、その壮はタイ族であるというのですが、本当なら面白いですね。
また、その壮族自治区の東方海上に海南島がありますが、そこに住む黎(?)族もまたタイ族ではないかというのを何かの本で読んだ記憶がありますが、タイ族というのは思いの他多くの部族に別れていて広範囲に広がっているようですね。

それはともかく、『呉』『越』の民族は、中国の膨張に押されるようにして南に下り、先住民のチャムパー(CAMPAA)を押しやって『越南国』を作ったとすれば、今のベトナム人だとされる伝承本の中の『ケーウ』もまたそんな流れの中のひとつで、タイ族の血を引くのかもしれません。
実際問題として、現在ベトナム北部のシップソーンチュタイ(SIP SOONG CU THAI)にいる人たちがタイ族であることは間違いないですから、ベトナム北部とは古くから何らかの接触があったのかもしれませんね。シップソーンチュタイとは、シップソーンチャウタイ(SIP SOONG CAU THAY)−12人の王を有するタイ族とでも訳すのかしら−でしょうね。
シーサック・ワンリポードム、スチット・ウォンテート著の「タイ・ノーイ、タイ・ヤイ、タイ・サヤーム」は第一次資料ではありませんが、現地を検分しての考察で、読んでいて面白いですね。

余談はさておいて本題に入りましょう。
さあ、大変です。ムアン・ケーウの王ターウ・カーウ(THAAW KAAW)が大軍を挙げて近づいてきます。
この国の一大事に時代の英雄の登場です。
叔父のラーワチューンは、自力では対応できなかったのか、すでにクン・チュアンの力が伯父をはるかに凌いでいたのでしょうか、書状を持って甥のクン・チュアンに救援を求めました。
この時のクン・チュアンの行動は、チエンマイ系の伝承本の中にあっては、一代の英雄にしては、余りにも素っ気無い扱いしか受けていません。
ケーウの求めに憤りを覚えて軍を起し、迎撃してムアン・ケーウのターウ・カーウを殺し、ターウ・カーウを戦場で倒したクン・チュアンは、ラーワ・ンガーンブンルアン(LAAWANGAANBUNRUANG)と言う名前の自らの子供と叔父のラーワチューンにムアンを預け、自らは逃走するケーウを追って討伐の遠征に出ました。
逃げるケーウ兵を追撃するクン・チュアンは、見事にムアン・ケーウを攻略すると、主亡き後の王宮に入り、ターウ・ケーウの娘と結婚した、と簡単に述べているだけです。

遥かな後世、ムアン・ハリプンチャイ奪回を目指して北上してくるモーン族を迎えるパヤー・マンラーイの子供ターウ・ソンクラームの活躍の場面では、戦略、陣形、軍の配置、人員に至るまで細かく述べていることに比較すれば英雄伝にしては余りにも素っ気無いという他ないですね。

ところがパヤウに伝わる伝承では、驚くほど詳細に述べています。
叔父のラーワチンからターウ・カーウの無謀な要求を受けたという知らせを受けたクン・チュアンは、ムアン・パヤウの外に20箇所全てのムアンから兵を集めたと述べています。しかもその20箇所のムアンの名前を一つ残さず列挙しているのですね。兵員133,000人、象の数700頭、馬の数3,000頭を数え、ノーンハーン(NOONGHAANG)の西方ドーンチャイ地区(TAMBOL DOONCHAY)に兵を集めて、ムアン・クア(MUANG KHUA)、ムアン・チエンタン(MUANG CHIANGTANG)、チエンチャーン(CHIANGCHAANG)方面に向かい、ヒラン・ナコーン・ンガーンヤーンに到着してケーウ軍と戦った、とチエンマイ系の伝承本に比べるとその力の入れようは比較になりませんね。

そして、ターウ・ケーウを殺して戦闘に勝利を収めると、伯父のラーワチン(LAAWACHIN)に戦務を報告し、続いてムアン・ヒランナコーンの統治を委ねると、自らの子供ラーワンガーンルアン(LAAWANGAANRUANG)に王位を譲ってムアン・パヤウの王としました。この時、この度の政争の因となったナーン・ウアカムコーンムアンを伯父から与えられているんですね。
ここで言う所のラーワチューンとラーワチン、ラーワンガーンブンルアンとラーワンガーンルアンが同一人物であることはいうまでもありません。伝承がどちらのものであるかで、名前さえも違っているのですね。
敗走するケーウ軍を追撃して行ったクン・チュアンは、主のないムアン・ケーウを攻略すると王宮に入りました。その王宮には、亡くなったターウ・カーウの娘ナーン・ウーケーウ(NAANG UUKEEW)がいました。クン・チュアンは、当然のように美貌のナーン・ウーケーウを我が物とし、王位に就いたのでした。
プラヤー・ケーウは、クン・チュアンの従兄弟に当たる、ナーン・ウアカムコーンムアンに懸想したばかりに、自らは命を落とし、国を失い、娘すら敵将に奪われることになってしまったのです。

こうして、生国の王統を継承するのみならず、ムアン・ナーン、ムアン・プレーの婿となり、終には、こうしてケーウの地にもクン・チュアンの血が流れることになったのです。
クン・チュアンは何人の女性を娶ったのでしょうか。

これをいつのことと考えればいいのでしょうか。
チエンマイ系の伝承では、この年代を述べていませんが、パヤウの伝承では、クン・チュアンの王位就任は31歳、その後6年にしてケーウがムアン・ヒランナコーンにやって来て戦ったとなっていますから、37歳ということになります。
一方、ヨーノック王朝年代記の中で言及されている『チュアン伝』では、仏暦1653年に36歳で王位に付き、60歳にしてラーンチャーン(LAANCHAANG)を平定し、更に3年の後にムアン・ケーウを攻略したというのです。ならば、このムアン・ケーウ平定の年は仏暦1680年(西暦1137年)ということになりますが、こうした年代は非常に疑問で、この時代は、伝説・作り話の要素が大ですから、同じ本でも前後に時代的齟齬が出てきます。
従って、ここに出した年代もまた一応の目安として置いてください。
しかし、クン・チュアンが現在のラオス国を意味するラーンチャーン国を平定した話は、チエンマイ系の伝承本、ヨーノック王朝年代記の中のムアン・パヤウ建国について言及する章においても触れられていません。
ここにも、彼の存在に多くの疑問符がつけられる所以があるのでしょうか。

(続)

英雄クン・チュアン物語−ケーウとの戦い−

クン・チュアンが遥か彼方の国に象狩りに出て、その地の王女を妻に娶ったと言う話を追って行くと、古い昔のラーンナーにおける男性の生活形態の一つである、嫁探しを兼ねた『行商』の旅の姿を思い出します。
『エーゥ・サーゥ(EEW SAAW)』とも呼ばれたりしますが、直訳すれば『女遊び』ともなり、表面的なことだけ見て言えば、昔の日本にあった『夜這い』に近いと思われるかもしれませんが、その実態は全く違うもののようです。
ラーンナーの『エーウ・サーウ』は、女性側の両親が公認で夜間娘を縁側に出して仕事をさせます。そこに『別の村』の男性が『恋歌』を持って言い寄るのですが、若い男女は一指といえども触れることは禁忌だった事が『夜這い』とは違います。勿論女性側が未亡人の場合にはこの限りではなかったようですが…
昔のラーンナーの男性は長ずるに及んで商品を担いで村から村へと渡り歩き、年余を数えることもあったといいます。見聞を広め、経験を積みながらの商用をかねた旅の中で気に入った『女性』がいれば『エーゥ・サーゥ』で近づき、あわよくばそのままその家に『入り婿』になったと言うのです。
こうした話に限らず、ラーンナーの生活・社会習慣はウィティー・パーニットパンの『ラーンナーの道(WITHII LAANNAA)』の中でいくつも触れられています。読むと昔のラーンナーの人々の生活の姿が浮かんできますよ。

北部タイの一体に広がる英雄クン・チュアンの話は、その幼年期は『ヨーノック王朝年代記』の中の『パヤウ建国の章』に述べられているだけで、同年代記の中で言及されている『チュアン伝』『プーンムアン・パヤウ伝』も読んだことのないあたしには、書くのに苦労します。それでも、所詮は『伝説』『伝承』と受け止めれば、単なる『お話』に落ち着くのではないでしょうか。
『お話』であれば、その信憑性を云々するのも大人気ないといえそうです。もともと『歴史』を書いているのではありませんから…これは言い訳。
さて、類まれな『世界の王』の相を備えてこの世に生を受けたクン・チュアンは、象狩りに出た先でナーン、プレー両ムアンの王女を妻とし、『聖象』ともいえる『白象パーンカム』を手に入れて帰国しました。

何処に…これが問題なんですね…
『パヤウ建国の章』では、明言されていませんが、当然パヤウに違いありません。だって、父のチョームタムは、ムアン・パヤウを統治していて、クン・チュアンはその長男ですから。
文部省中等教育局推薦の副読本『北の町の物語』の中の『重要人物編』でもクン・チュアンがパヤウの王であることを前提に話を進めています。
でも、手元にあるチエンマイ側の『プーンムアン・チエンマイ伝』『十五代王朝伝』『王朝物語伝』では、場所を特定していませんが、当然ンガーンヤーン王国の統治者チョームパールアンの長男ですから、帰る場所は生家のあるンガーンヤーンでしょうね。
ところが、『ヨーノック王朝年代記』に引用されている『チュアン伝』では、36歳の時に『ムアン・チャイブリーチエンセーン』で王位に就いた、と言ってるんです。でも、この街の名前、チャイブリーチエンセーンという名前を覚えていますか。白い鰻に祟られて水没したあの町の名前がチャーンセーンですから、同じ町でしょうね。だとすると水没した町で王位に就いたとでも言うのかしら…

こうした状況で、不完全な形での引用にならざるを得ない限界を感じてしまいます。
あたしは、やはり『チエンマイ派』だし、所詮は『伝説』ですから軽く考えて天孫降臨伝説を持ってこの地上に現れた伝説の人ラーワチャカ王朝の支配する『ヒラン・ナコーン・ンガーンヤーン』としたいの。だって、クン・チュアンの血筋を引くと自負する一代の英雄パヤー・マンラーイが150年近くの後世に現れてムアン・チエンマイを建設したのですもの。
父チョームパールアンが59歳で亡くなると、37歳とも39歳とも伝承では一致していませんが、クン・チュアンが代わって王位に就きました。これも、パヤウ関係では、チュアンの父チョームタムの享年を49歳としています。だとすると、チョームタムが王位にあること34年だと言い、パヤウを拓いて3年の後にチュアンが生まれていますから、この時のチュアンの年齢は31歳になりますよね。
こうした時代考証は、いつの日にか『プーンムアン・パヤウ伝』を手に入れ、『プーンムアン・チエンラーイ伝』『プーンムアン・ナーン伝』『プーンムアン・プレー伝』を読み終えた後、改めて様々に思いをめぐらしながら、楽しみながら時間を掛けてゆっくり書き進めて行こうと思っています。余りにも資料が偏りすぎ、今のあたしに語る資格がありませんから、ここでは省略します。

パヤウに伝わる話では、王位に就いて6年の後、ムアン・ケーウ(MUANG KEEW)が軍を挙げてヒラン・ナコーン・ンガーンヤーンに戦闘にやって来た、と言うのですが、その理由を述べていません。
一方、チエンマイ系の伝承本を読んで見ますと、クン・チュアンの父、チョームパールアンには、ラーワチューンと言う兄がいましたが、彼には、ナーン・ウアカムコーンムアン(NAANG UAKHAKOONMUANG)と言う名前の王女がいて、彼女は絶世の美女であったというのです。その彼女の美貌が噂となって四方に広まったのですね。彼女の美貌を耳にしたムアン・ケーウの王は、どうしても美貌の王女を手に入れたくなり、様々な引き出物を差し出したりして彼女を求めました。
しかし、これも理由を述べていませんが、ラーワチューンはそれを認めなかったらしいのです。異民族だからでしょうか。でも、パヤー・マンラーイの母はチエンルンの王女であり、彼の三男はビルマの異民族に預けたことになっていますから、異民族とはいえ、決してそれが理由で姻戚関係を結ぶことを断ったのではないのではないかしら。

兎も角、申し出でを断れば、昔のことですから、その結果は当然戦闘と言うことになります。
ケーウはいよいよ大軍を発して絶世の美女争奪戦に乗り出しました。

(続)

英雄クン・チュアン物語−謎の幼年期−

名前が異なっているのは、『バイラーン』と言う一種の椰子の葉に刻みつけた文章からなっているのが所謂『伝承本』ですから、永い時の中で人の手で一字一字書き継がれていかなければならず、その途中で綴り間違いもあったかもしれません。また、あたしは未だ手に入れておりませんが『チンカーンマーリニー・パコーン』と言う伝承本は、ある意味ではこの地域の仏教史のようで、仏教にいかに貢献したか、と言う面からの『伝承』ですから、登場人物の名前は必ずしも事実通りである必要はなかったのかもしれません。
いずれにしても『正史』等ないような状況ですから、手元にある幾冊かの伝承本を捲りながらも、あくまでも『あたし』の『想像』を元に自分勝手な『お話』の領域を出ません。

全てが謎のベールで包まれている所は、さすがに『英雄』らしいですね。ただ、今まで引用してきた『パヤウ伝』も『ヨーノック王朝年代記』の中の『パヤウ建国に関わる話』からの引用で、正規の『プーンムアン・パヤウ伝』をあたしは直接見ていませんから、その内容に付随したニュアンスなども分かりません。
それは、あたしが今探している何冊かの『伝承本』の一つなんですけど、ただ、その内容が『自己中心的』過ぎると言う地元の歴史学者がいたりしてるんで、手に入れても読むのが楽しみなような、怖いような…。確かにラワチャカより41代目の王が子供を東に派遣したなんてね…ちょっと信じかねます。あのシンハナワットがインドの王舎城からやって来た、と言う話みたい…

手元の『ラーンナータイ伝承集』の中にも『プーンムアン・パヤウ伝』が収録されていません。今別の『伝承集』を探してはいるんですけど、市内一の大書店で聞いてもコムピューターで検索して貰っても返って来る答えに寂しく項垂れて帰って来るしかない状況です。それでも、いつか古本屋で見つけたいと思ってはいます。
でも、所詮は伝説ですから、目くじら立てずに続きを見てみましょ。
『ヨーノック王朝年代記』の中のパヤウ建国について述べている章においては、クン・チョームタムがムアン・パヤウを建設して3年、小暦461年(仏暦1642年、西暦1099年)の卯の年の北部暦7月即ち、バンコク暦5月(現代の陽暦では4月になりますが)の上弦の1日火曜日明け方、クン・チュアンが生まれたことになっています。でも同書の他の箇所では、『チュアン伝(TAMNAAN CUANG)』を引用して、小暦436年(仏暦1617年西暦1074年)のバンコク暦の5月上弦の1日明け方に生まれたことになっていて、年代に25年の開きがあります。
この『チュアン伝』も欲しい…

『パヤウの建国に関わる章』では、比較的詳しく『クン・チュアン』のことを記しています。即ち、王子が生まれると、チョームタムは、占星術師に占わせたといいます。こうしたことは古くからある習慣のようですね。パヤー・マンラーイの誕生に際しても、懐妊した后の夢をラーワメーンは占星術師に占わせていますから。
占星術師は、生まれてくる子供は全世界を征服する王となる、と予言したと言うのです。何となく釈尊の降誕説話を思い出すのはあたしだけでしょうか。また、あのプロームマクマーンの説話を思い出しませんか。
王は、生まれたばかりの王子に三種の神器即ち、『払子』と『神剣』、そして、『水瓶』を授けたと言い伝えています。その記述の中では、これら三種の神器のうち、払子と剣は、モン・クメール系民族であるカーチャラーイ(KHAA CRAAY)の手中にあると述べていますが、どうして大切な神器が異民族の手に渡ったのでしょうか。その詳細は大いに興味がもたれるところですが、同書の中では述べられていません。
長ずるに及んで、当時の学問、象学その他の全てを学び習熟したクン・チュアンは、いよいよ英雄物語を形成していきます。
この象学というのは、いろいろな伝承本の中で王たちの就学項目として出てきますが、象の捕獲、訓練、操縦方法を学ぶものだったのでしょうか。少なくとも、近代に至るまで王たちは象捕獲の知識・能力を多分に持っていたようです。

そして、16歳になると、学んだ象捕獲術を実地で試す為でしょうか、ムアン・ナーン(MUANG NAAN)に象狩りに出ます。パヤウとナーンは地図では近いようにも見えますが、幾多の山を越えなければならず、かなりの危険を冒しての長旅だったみたいです。
すると、その地の王、パラテーワ(PHLATHEEWA)は自らの娘ナーン・チャンタラテーウィー(NAANG CANTHRTHEEWII)を妻として差し出したと言います。続いてムアン・プレーに象狩りに行くと、そこのプロームマウォン(PHROHMWONGS)と言うプラヤーがナーン・ケーウカサットリー(NAANG KEEWKASATRIY)と言う名前の自らの娘を差し出したと言うのです。
何故に簡単に大切な娘を異郷の王子に差し出さねばならなかったのかしら。残念ながら、手元の資料にはそうした細かな経緯に触れられていません。ただ想像が許されるならば、クン・チュアンの出身を耳にした地元の王が姻戚関係を持つことによって安全を求めたのかもしれませんね。
こうして象狩りの危険な長旅を終えて帰国した時には、クン・チュアンは若くしてムアン・ナーン、ムアン・プレー両ムアンの王婿となっていたのです。

こうしたナーン、プレーでの王の婿としての生活の中で、いつのこととも場所も記されていませんが『ヨーノック王朝年代記』の中の『パヤウ建国の章』の中でクン・チュアンは吉祥の白象を手に入れたといいます。しかも、その名前が『パーンカム(PHAANG KHAM)』である、というのです。
そうです、あのコームをこの地から遥か南の地に駆逐した『プロームマクマーン』がインドラ神の夢のお告げを信じて河で蛇に変身した白象を手に入れましたが、その象も同じく『パーンカム』でしたよね。
手に入れた経過まで二つの話が一致しているそうです。そうしたことから『クン・チュアン』と『プロームマクーン』が同一人物ではないか、という意見が聞こえてくるのですね。

(続)

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