チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チエンマイ古寺巡礼

[ リスト | 詳細 ]

世界的観光都市チエンマイ…そこには数多くの寺院が夫々に歴史を秘めて現代に生きています…そんな寺院の由来を追いながらチエンマイにまつわるお話をしてみたいなあ…と思います

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1

スアンドーク寺院縁起−8−

このスアンドーク寺院には、北部タイで最も美しいといわれるプラチャウ・カウトゥー(PHRACAU KAU TUU)と言う名前の仏像が安置されています。ここでいうプラチャウ(PHRA CAU)とは、現代タイ語で言う「王」を指す言葉ではなく、伝抄本等の北部文字で記された古文書の中においては、「仏像(PHRA PHUTHTHA RUUP)」を意味します。
従って、プラチャウ・カウトゥーとは「カウトゥー仏」という意味になります。
今、「チエンマイーラムプーン観光案内」に沿ってこの仏像について記してみましょう。
プラチャウ・カウトゥー堂(WIHAAR PHRACAU KAU TUU)に安置されているこのカウトゥー仏は、巨大な鋳造坐像仏であり、姿が美しいだけではなく、大きさにおいても目を見張るものがあります。そして、御仏の印は日本では触地印とも呼ばれますが、降魔印で、釈尊が悟りを開く直前、悪魔の誘惑を全て断ち切った瞬間を表し、右手の指先で軽く地に触れています。最もタイに多い印相です。
この仏像は、ラーンナー王国マンラーイ王朝第11代目の王、プラ・ムアンケーウの時代に、チエンセーンとスコータイの様式を取り入れて真鍮で鋳造されたといいます。
このプラ・ムアンケーウの御世は、マンラーイ王朝第6代目の王パヤー・クーナーより続く仏教隆盛の最中にあり、2代前の偉大な王プラチャウ・ティローカラートの名声は、まだ周辺諸国に轟いていました。
そして、仏教を通じてスコータイ、ランカーとの繋がりも絶えることがなく、この時代には、ランカー国への留学僧が帰国し、新しい学派を起こして王国内に新鮮な改革の空気を吹き込んだ時代でした。
これは、プラチャウ・ティローカラートの御世に始まった宗教改革の余波が残っているのではないかと思われます。こうした林住派の僧侶たちは、パーデーン寺院にその活動の場を定めておりました。
その頃のラーンナー王国の高僧の多くは、インドの古代国マガタ国(MAKHATHA)の言語に通じ、マガタ語(PHAASAA MAKHATHA)を持って書籍を執筆するまでに精通しておりました。
ここでいうマガタ語とは、現代にあってはバーリー語(PHAASAA BAALII)と言った方が分かり易いでしょう。このバーリー語はサンスクリット語同様、現代タイ語の中にも様々に染み込んでいて、外国人のタイ語学習者にとっての文章作成時、解読時などに際して時として大きな障害となるものです。
そして、そのマガタ国こそが、仏陀が活動の中心とした王舎城(RAACHA KHRUH)、即ち、現在のラージギル(RAJGIR)を都とした当時のインド16大国の一つで、現在のビハール州(PHIHAAR)に当たります。
仏陀が悟りを開いたとされるブッダガヤ(PHUTHTHAKHAYAA)は、その国にあり、仏陀が説法したと言う霊鷲山(りょうじゅさん=KHAU KHICHANAKUUT)は、王舎城の外れにあります。
釈尊は、その山頂の岩場で説法したとされていますが、フィルムで見るそこは余りにも狭く、釈尊が大勢に説法するには不向きなようにも見えますが、一人瞑想するには向いているかも知れません。
このように釈尊に所縁がある故にでしょうか、上座部仏教にあっては、このマガタ語、即ち、バーリー語を仏陀の用いた聖なる言語としております。
当時のラーンナーの僧のバーリー語能力の素晴らしさを証明する例として、例えば、当時のスアンクワン寺院(WAD SUAN KHWAN)(現在のタムナック寺院(WAD TAMNAK))のプラ・シリマンカラチャーン・マハー・テーラ(SIRIMANGKHLACAARY MAHAA THEERA)が著したモンコン・ティーパニー経(MONGKHOL THIIPANII SUUTR)は、タイ国のみならず、ラーウにおいても、更には、ビルマにおいてすらも学僧(NAKSUKSAA PARIAN)の基本教材となっています。
現在、ピン河を東から西に渡ってターペー通りに差し掛かった交差点の左手隅に仏教会館があり、その角に一人の僧の象が立っていますが、この僧侶こそが余り知られていませんが、シリマンカラーチャーン師に外ならないのです。
師は、その他にも多数を著していますが、師の他にも、プラ・ラッタナパンヤー(PHRA RATANA PANYAA)は、仏教側から時々の動きを記し留めた貴重な歴史資料であるチンカーンマーリー・パコーン(CHINKAALMAALII PAKOORN)を著しています。
しかし、様々な書籍の中に引用されている内容から判断すると、チンカーンマーリー・パコーンは、仏教色が強く、王の名前までどこが異国のバラモン世界の雰囲気をしのばせるものです。
このプラ・ムアンケーウは、篤く仏教を保護し、現在ターペー通り(THANON THAA PHEE)にあるブッパーラーム寺院(WAD BUPPHAARAAM)を建立した他、ムアン・チエンマイ及び、ムアン・ラムプーンの城壁を補修していますが、この補修時に土盛の城壁が煉瓦に変わったのでしょうか。
そして、仏暦2047年(西暦1504年)の子の年の北部暦8月(バンコク暦6月、西洋暦5月)上弦の11日木曜日にこのカウトゥー仏の建立に着手しました。これも資料によれば、本来この仏像はにプラッシン寺院の本尊仏として全住民の信仰の中心とする為に鋳造されたものでしたが、完成の暁にいざ移動させようとすると、余りの大きさに動かせなかったので、止む無くスアンドーク寺院に安置したとされています。
その姿はラーンナーのふくよかなお顔に対して、どこか細長い感じで、いわゆる頭上肉髷相が、炎のようになっていますが、これもラーンナー様式よりもスコータイ様式といえるかも知れません。この仏像の中には、こうしたスコータイの様式の一端を伺うことが出来るようですが、胸の分厚い所、全体的にどっしりとしたところ、逆三角形のような胸の形にラーンナーの面影を残しています。
この仏像は九つの部分からなり、八か所で接ぎ合わせ、その重さが9トゥーである、ということをそのまま信じると、トゥー(TUU)とは古代重量単位で、これを現代の重量に置き換えると、富田竹二郎の「タイ日辞典」によれば、9コーティ・タムルン(KOOTI TAMLUNG)となり、1コーティとは一千万で、1タムルンとは4バーツ、即ち60グラムです。ですから、9コーティ・タムルンとは90,000,000×0.06Kgとなり、5,400,000KGなります。すなわち5,400トンというとてつもない重さになります。
しかし、ラーンナーの言葉で言うトゥーとは、黄金の重さ1000チャン(CHANG)を意味していますので、重量にかなりの開きが出て来ます。即ち、タイ語文献では、9トゥーとは9000チャンである、としています。これであれば、「タイ日辞典」では1チャンとは80バーツ、即ち1,28KGですから、9000チャンとは11,52トンとなります。
これも、資料によれば昔のラーンナーではチャンを単に1キロと計算しているとして、カウトゥーを9000キロとしているものもあります。
これのほうが実数に近いとはいえ、いずれにしても、このカウトゥーというのは、実際の重さではなく、とてつもなく重いという抽象的な意味に捕らえる方が常識的かも知れません。
この巨大な坐像の両膝の間隔は、旧い伝承本によれば8ソーク(SOOK)といいますが、ならば4メートルになります。しかし、同じ文献で述べている3メートルと記しています。そして坐像の高さは4.70メートルに及びます。
しかし、この仏像が寺院の本尊仏としてスアンドーク寺院の本堂、即ち、プラチャウ・カウトゥー堂に移されたのは、仏暦2052年(西暦1509年)北部暦5月(現在の2月)上弦の4日水曜日のことであったと言います。
建立当初、この仏像は如何なる名前を持っていたのでしょうか、伝承は、伝えておりません。理由ははっきりとはしませんが、後年人々がこの仏像の大きさからでしょうか、重さが9トゥーあると信じるようになり、いつの間にか「プラチャウ・カウトゥー」と呼ぶようになったと言います。
古代の話を読む時、新たな物語りを知ると同時に、こうした新たな疑問もまた浮かんで来るのが楽しみの一つでもあります。
そして、この観光案内本の作者サングアン・チョーティスックラッタ(SANGUAN CHOOTISUKHRATN)は、その美しさを北部一のみか、タイで最も美しい仏像であると絶賛しており、賛辞として、この仏像は、奥深い審美感を持ち、そのお顔は何処までも美しく、微かに微笑みを称え、目には深い慈しみの心を宿しておられるというのです。
そして、まるで命を持っているかの如く、姿形はどこまでも美しく、豊満でありながら、太っているわけでも痩せているわけでもありません。その美しさは、筆舌に尽くし難く、見れば見る程奥深い仏の御心を観る思いがして信仰心を起こさずには置かないとのことであります。

(了)
冒頭の写真は下記URLよりお借りしました。
http://muanglanna.com/index.php?option=com_content&view=category&layout=blog&id=10&Itemid=11

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

スアンドーク寺院縁起−7−

ともかく、マハー・ナーカセーンの死に先立ち、仏歴2030年(西暦1487年)になると周辺諸国にその覇名を響かせ、恐れられた一代の英傑プラチャウ・ティローカラートが亡くなりました。自らの後継者たる王子を自らの手で葬り去った悲しい過去を背負うプラチャウ・ティローカラート亡き後のラーンナー王国の王位は、孫のプラチャウ・ヨートチエンラーイ(PHRACAU YOOD CHIANGRAAY )に受け継がれました。
王は、ムーンサーン寺院のマハー・プカームヤーナサーコーン(MAHAA PHUKAAM YAANA SAAKHOOR)という名前の僧をスアンドーク寺院に招請して守らせましたが、師はわずか10年いただけで亡くなりました。しかもそれより早く、プラチャウ・ヨートチエンラーイは、在位わずか8年にして突然王位を子供に譲ってしまいました。
チエンマイの歴史においてパヤー・サームファンケーンのプラチャウ・テローカラートへの禅譲に続く2度目の禅譲です。実の父の禅譲を受けて後継王となったプラチャウ・ムアンケーウ(PHRACAU MUANG KEEW)は、即位の翌年、即ち、仏歴2039年(西暦1496年)にスアンドーク寺院の修復を手がけ、マハー・プリテープ(MAHAA PURITHEEPH)という名前の僧を招請しています。
師は、27歳の時にムアン・アングヮに行って法を学ぶこと10年、プラ・サンカラーチャー・タムマランシー(PHRA SANGKHA RAACHAA THARMMA RANGSII)にムアン・チエンマイにあるという28か所の仏足石・仏舎利塔の由来について書き記したいと願い出て、チエンマイに帰って来て、スアンドーク寺院に逗留していました。
そうすること3年、プラ・ムアンケーウの耳に入ると、スアンドーク寺院の住職に任じられました。そうして10年、師の御年50歳の時、プラ・ムアンケーウは、ムアン・チエンマイにある全仏足石、仏舎利についての師の話を聞き、師の徳質に大いに傾倒しました。そこでプラ・ムアンケーウは、その全ての場所を復興させることにしました。御年50歳の師は、プラ・ムアンケーウに暇を告げると、ファーランの森(PAA FAA LANG)にいること3年、師は、伝承に従って仏足石・仏舎利を訪ねて旅に出ました。
しかし、その28箇所の仏足跡とは何処にあるものを指すのか、その伝承本なるものを読んでいませんので何ともいえません。
師は、スアンドーク寺院の北側にいた時には、マハー・シーラテーワ(MAHAA SIIL THEEWA)という名前であったそうですが、ムアン・プカームに修学に行って帰って来ると、人々は、マハー・プカーム(MAHAA PHUKAAM)と敬意を込めて 呼んだと言います。
現在、チョームトーン寺院というというのは幾箇所もあるようですが、ここで言われているプラタート・チョームトーン(PHRA THAATU COOM THOONG)とは、チエンマイの南約60キロのところにあるチョームトーン郡のプラタートシーチョームトーン・ウォーラウィハーン寺院のことでしょう。
仏暦19世紀(西暦13世紀)に建立されたと言われる伝説を持つ寺院ですが、歴史に登場するのは、この師がプラ・ムアンケーウに伝承を伝えたからであり、ラーンナーの仏塔伝承を知る上で欠かすことが出来ない僧侶のようです。
その後、仏暦2041年(西暦1498年)、プラ・ムアンケーウは、スアンドーク寺院の御堂の真ん中に1棟の玉座を建設し、拝礼・供養の為にその玉座を仏像を安置する場所としました。又、三蔵を尊崇する場所、バーリー語を修学する場所として玉殿を建立させ、仏教を将来に向かって隆盛するよう務めました。
仏暦2047年(西暦1504年)になると、プラ・ムアンケーウは、更に大仏の鋳造に着手しました。その大仏は、九つの部分に分かれており、8か所の継ぎ手を持つといわれております。仕上げの段階になると、奇麗に削りツルツルに磨きあげましたが、全てが終了するまでには、何と5年の長歳月を要したと言うのですから驚きです。
この仏像が後述するカウトゥー仏(PHRACAU KAUTUU)です。
仏暦2052年(西暦1509年)には、プラ・ムアンケーウは、高級官僚、長者、市民、そして近隣諸国のプラヤーを率いて、人々がカウトゥー堂(WAD KAU TUU=カウトゥー寺院)と呼んでいるスアンドーク寺院の本堂の法座に安置する為に、その仏像を招請しました。その時の招請に応じて集まった僧侶は3つのグループで、総数千を数えたといいます。
そして、仏暦2064年(西暦1521年)になると、プラヤー・パセーンティコーソーン(PHRAYAA PASEENTHIKOOSOL)が建立したと伝えられるケーンチャン仏(PHRA PHUTHTHA RUUP KEEN CANTHN)がムアン・パヤウより招来されました。このケーンチャン仏については既にチェットヨート寺院伝のところで言及していますので、重複を避けます。
このプラ・ケーンチャン仏がチェットヨート寺院に写された仏暦2068年(西暦1525年)、30年に亘ってチエンマイを統治したムアンケーウが亡くなりました。
この王の死後くらいからでしょうか、王位継承に絡んだ役人たちの権力争いが激しくなり、国力は衰え、終に仏暦2101年(西暦1558年)ブレーンノーンのビルマ軍に敗れ去り、不本意な属国の地位に落ちていきました。
そして、チエンマイ王朝の祖であるチャウ・カーウィラ(CAU KAAWILA)によってチエンマイが開放されたのは仏暦2317年(西暦1774年)で、完全な復興にはさらに30年の時間を要しました。
その後のスアンドーク寺院の変遷を見てみますと「王朝物語伝」に次の様な記述が見えます。
仏歴2368年(西暦1825年)の8月満月の日、チエンマイ王朝のチャウ・マハーウパラーチャー(CAU MAHAA UPARAACHAA)を始めとして、王族子弟が揃ってブッパーラーム寺院の仏塔に傘蓋を立てました。そして、西暦2440年(西暦1897年)の8月(現在の陽暦5月)には、チャウ・チーウィット・アーウ(CAU CHIIWIT AAW)と人々から恐れられたチエンマイ王朝第7代目の王プラチャウ・インタウィチャイヤーノン(PHRACAU INTHAWICHAYAANONTH)が、スアンドーク寺院の御堂を建立しました。
そして、その同じ年の2月(現在の陽暦11月)下弦の14日午後2時25分、プラチャウ・インタウィチャイヤーノンが亡くなりました。因みにこの王の名前を取って付けられた山がタイ国最大のドーイ・インタノーン(DOOY INTHANOONTH)です。
「ムアン・チエンマイ備忘録」によれば、このプラチャウ・ウィチャイヤーノンの王女であり、バンコクに下ってラーマ五世の側室となってプラ・ラーチャチャーヤー(PHRA RAACHA CHAAYAA)の位を受けたチャウ・ダーラーラッサミー(CAU DAARAARASAMII)は、ラッタナコーシン暦127年(仏暦2456年=西暦1913年)4月9日にムアン・チエンマイに帰国し、ピン河波止場にあるチャウ・ウパラート(CAU UPARAACH)の館に逗留し、父母のお墓に回向の儀式を行ないました。
そして、祖先のお墓が荒れ果てているのを目にしたチャウ・ダーラーラッサミーは、異母兄弟のチエンマイ王朝第8代王チャウ・インタワローロット・スリヤウォン(CAU INTHAWAROOROS SURIYAWONGS)及び、同じく異母兄弟の長男であるチャウ・ウパラートと相談して、祖先のお墓をスアンドーク寺院の仏塔北に移すことに決しました。こうして、現在スアンドーク寺院の中の白い小さな多数の仏塔、即ちお墓群が出来上がったのです。
 その時移転されたお墓は次の通りであります。
 1.プラチャウ・カーウィラ(PHRACAU KAAWILA=チエンマイ王朝の祖)
 2.プラチャウ・チャーンプアック(PHRACAU CHAANG PHUAK=チエンマイ王朝第2代目王)
 3.チャウ・ルアン・スパトー・マハーセーティー(CAU LUANG SUPHATOO MAHAA SEESRSTHII=チエンマイ王朝第3代目王)
 4.チャウ・ルアン・ペーンディン・イェン(CAU LUANG PHEEN DIN YEN=チャウ・ルアン・プッタウォン(CAU LUANG PHUTHTHA WONGS)=チエンマイ王朝第4代目王)
 5.プラチャウ・チーウィット・マホート・プラテート(PHRACAU CHIIWIT MAHOOTR PRATHEES=チエンマイ王朝第5代目王)
 6.プラチャウ・カーウィローロット・スリヤウォン(PHRACAU KAAWILOOROS SURIYA WONGS=チエンマイ王朝第6代目王)
 7.プラチャウ・インタウィチャイヤーノン(PHRACAU INTHAWICHAIYAANONTH=チエンマイ王朝第7代目の王でチャウ・ダーラーラッサミーの父)
 8.プラメーチャウ・テープ・クライソーン(PHRA MEE CAU THEEPH KRAISOOR=プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの妃でチャウ・ダーラーラッサミーの母)
 9.プラメーチャウ・ウサー(PHRA MEE CAU USAAH=チエンマイ王朝第6代目王、プラチャウ・カーウィローロット・スリヤウォンの妃)
10.メー・チャウ・リムカム(MEE CAU RIMKHAM=チエンマイ王朝第7代目の王プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの側室)
上記の10人のお墓です。

(続)
冒頭の写真は下記URLよりお借りしました。上の写真はチエンマイ王朝第七代目の王、プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの荼毘に使用された仮設の火葬場です。何故その地が現在チエンマイ最大の市場となっているのか疑問ですが、言及する資料を持っていないのが悔しいです。
二枚目はスアンドーク寺院にあるチエンマイ王家の墓地です。
http://www.bloggang.com/mainblog.php?id=akkarachai&month=15-12-2009&group=2&gblog=1

イメージ 1

スアンドーク寺院縁起−6−

その日、時のチエンマイの王パヤー・サームファンケーンは、ドーイステープの麓の小さな町ウィアン・チェットリンの館に逗留していました。王には、10人の王子がいましたが、その日の深夜その中の第六子ターウ・ロック(THAAW LOK)が謀反を起こしました。
パヤー・サームファンケーンは、子飼のサームデックヨーイ(SAAM DEK YOOY)の裏切りにあって館を焼き打ちされ、命からがらチエンマイに逃げ帰り、王宮に入りました。そして、夜明け前の宮殿の中では、自分の座るべき玉座に追放した筈の第六子の姿を見て驚くのです。
御年57歳の時、ムアン・チエンマイを統治すること41年にして、プラヤー・サームファンケーンは自らの子供に不本意な禅譲を余儀なくされ、ムアン・チエンマイを遠く離れました。
時に仏暦1984年(西暦1441年)のことであったと言います。
禅譲に際し、パヤー・サームファンケーンは、息子のターウ・ロックに対して最後の訓示にも等しい助言を与えました。
「父はサームデックヨーイに出来る限り目をかけてきたが、この様に父を裏切った。お前は奴にさして目をかけてやってはいない。だから奴を決して重用してはいけない」
後年、ターウ・ロックは父の言を忘れたのか謀反を起こしたサームデックヨーイを重用したが故に、一時は王座の危機さえ迎えました。これについての詳細は別の稿に譲りたいと思います。
父を追放したターウ・ロック(THAAW LOK)が代わって王位に就き、プラチャウ・ティローカラートとして歴史に名を残した時代、今のビルマにあったムアン・プカーム・アングヮ(MUANG PHUKAAM ANGWA)において法を収めたマハー・ヤーナランシー(MAHAA YAANA RANGSII)が7年に亘ってスアンドーク寺院の住職となり、仏暦1993 年(西暦1450年)に亡くなると、マハー・サンカラーチャーピドック(MAHAA SANGKHA RAACHAA PIDOK)が続いて6年に亘ってスアンドーク寺院を治め、仏暦1999年(西暦1456年)に亡くなりました。
その同じ年、プラチャウ・ティローカラートは、ラムプーンのマハーモンコーン寺院(WAD MAHAA MONGKHOL)よりマハー・プッターティッチャ(MAHAA PHUTHTHAA THICCA)を招請しました。
この時代は、王国内における仏教は最盛期を迎えようとしておりましたが、その反面、この師の時代に思いも掛けない一大論争が沸き起こりました。
即ち、得度して僧となろうとする沙弥(SAAMANEER)は、得度に先だって戒本を習得するべきか否かと言うものでした。
ムアン・アンングヮにおいて修学した僧たちにも同じ様に尋ねると、マハー・ヤーナサーコーン(MAHAA YAAN SAAKHOOR)は、不可を唱えましたが、一方、マハー・プッタティッチャは可を唱え、プラヤーもまた可に与しました。そうして、正式得度を経て僧を目指す沙弥の戒本修学が始まったのですが、マハー・プッタティッチャは、スアンドーク寺院に留まること12年、66歳にして他界しました。
師の後を継いだのは、不思議にもかつての宗論で破れたマハー・ヤーナサーコーンでした。何故に、宗論に敗れた僧が名刹スアンドーク寺院の住職となったのかについて、その理由を伝承は伝えておりません。
宗論闘争の痛手が残っていたのでしょうか、見習僧が戒本を習うことを快く思わないこの師は、心に不満を抱いたままスアンドーク寺院にいること7年にして、ラムプーンの西方に移り、そこで67年の生涯を終えました。
仏暦2018年(西暦1475年)に至ると、セーンファーンマー寺院(WAD SEEN FAANG MAA)のマハー・ナーカセーン(MAHAA NAAKHA SEEN)を招請してスアンドーク寺院を守護させました。そして、 小暦年末尾1の亥の年になると、ウィアン・クムカームのバーンメーヒム寺院(WAD BAAN MEE HIM)にいるマハーワンナ(MAHAA WARNNA)という名前の一人の僧が、他の僧たちに対してスアンドーク寺院の結界は、結界にあらずして、例えそこで得度出家しても比丘となることはない、と言い出しました。
それに対し僧侶の一部は、プラヤー・ティローカラートにその師の言の不可不当なることを訴え出ましたが、プラヤー・ティローカラートは、自分には僧界のことを捌くことが出来ないので、僧団内で処理して欲しいとすげない態度で応えました。
偉大な時代の英雄すら、こうした僧界のうち続く混乱に匙を投げた格好であります。といって、そのまま無視することも出来ず、プラヤー・ティローカラートは、事態の処理をセーンポー寺院(WAD SEEN PHOO)にいるマハー・ヤーナスントーン(MAHAA YAANA SUNTHOOR)に委ねました。
そこで、マハー・ヤーナスントー ンは、その結界は、ラーンナーの王が命じたものであるとして、その結界において出家得度した僧たちに新たに出家のやり直しをさせました。即ち、仏歴2004年(西暦1461年)に出家した僧たちをその16年後の仏歴2020年(西暦1477年)に再度出家させたと言うのです。
ここにも年代の混乱が見られます。マハー・ワンナの歴史に登場するのが伝承に言う通り小暦年末尾1の亥の年であるならば、それまでの推移から小暦841年、即ち、仏暦2022年(西暦1479年)となりますが、師の動きによっての再度の得度出家騒動が起こったのが小暦年末尾9の酉の年、仏暦2020年(西暦1477年)と言う伝承の記載と矛盾しています。全くの私見ですが、マハー・ワンナの登場は、マハー・ナーカセーンがスアンドーク寺院の住職となった仏暦2018年から再度の得度出家騒動が起こった仏暦2020年の間であろうと想像しています。
ともかく、再度の出家のやり直しは、当然の如く宗教界に大きな混乱を引き起こしたものと思われます。弟子の中のあるものは再出家し、ある者は自らの師に再確認したものもあり、あるものは嫌気がさしたのでしょうか還俗し、またあるものは再出家したと偽りの言葉を述べる始末でした。その他の師につく僧たちは、夫々の師次第の有様でした。
こうした混乱があった年を仏暦2020年のことと伝承は伝えておりますが、この年は、第八回結集という、チエンマイが世界に誇り得る仏典編纂会議を持った、宗教的に大きな意味をもつ年であります。この第八回結集の舞台となったのが今に残るチェットヨート寺院であることは、同寺院の項で述べた通りです。
高度な仏教経典の知識に加えて、正確なバーリー・サンスクリット語能力が求められる、決集を成功させた、そうした仏教の隆盛を思わせる反面で、この時代にはスアンドーク寺院を舞台に沸き起こった宗教的大混乱に見られる如く混沌とした時代であり、混乱を目の当たりにした当時にあっても心ある人たちは、まさに末法の時代に突入したと嘆いたそうです。
新たな帰国僧たちは、スアンドーク派僧たちよりも新しい仏教に香をもたらし、パーデーン寺院派という一大教団を形成していました。旧来の教えを墨守する僧たちに対してスアンドーク派、パーデーン派、様々な教義が入り乱れ、それらは統一されることなく小さく分裂して行来ましたが、その萌芽がこうしたスアンドーク寺院の建立から発展の時に求めることが出来るかも知れません。
こうした末法の世界を映し出すかのように、プラチャウ・ティローカラートの御世は、高名な僧を輩出し、仏教文学の花開かせ、対外的にはアユタヤーの王を怯えさせた一方で、アユッタヤー側の送った呪術師の言に惑わされてチエンマイのご神木を斬り倒し、根を掘り起こしてそこに離宮を建設して汚物を流す事態を招来しました。
その故か、後継者と頼む王子を側室の讒言に惑わされて追放し、更なる讒言を信じて王子に死を下賜して自ら後継者を失い、有能な部下たちが相争い、混乱を引起しました。アユッタヤーの送って来た呪術師は、チエンマイの各地に毒を埋めて呪詛していたことが判明した時には、既に有能な士は世を去っていました。
こうした相次ぐ不祥事が偉大な王を宗教に向わせたのかも知れません。
僧侶たちはプラチャウ・ティローカラートの許しを得てスアンドーク寺院の旧来の結界を取り除いて、新たに結び直しました。また、プラチャウ・ティローカラートはスアンドーク寺院の仏塔復旧事業を手がけ、新たに金を貼らせました。
仏暦2030年(西暦1487年)、一代の英雄プラチャウ・ティローカラートが崩御しました。そして、その後を追うように、仏暦2032年には、マハー・ナーカセーンが御年86歳にして冥土に旅立ったと言います。
伝承に見る限り、プラチャウ・ティローカラートには王子はただ一人で、その王子は側室の讒訴を信じた自らの不明からなくしていました。そこで、王位は、亡くなった王子の忘れ形見であるターウ・ヨートチエンラーイ(THAAW YOODCHIANGRAAY)に受け継がれました。

(続)冒頭の写真は、スアンドーク寺院の黄金色の仏塔です。下記URLよりお借りしました。http://www.bloggang.com/mainblog.php?id=akkarachai&month=15-12-2009&group=2&gblog=1

開く トラックバック(1)

イメージ 1

スアンドーク寺院縁起−5−

こうして現在我々が目にするスアンドーク寺院の原形が出来上がりました。そして間もなく、仏暦1928年(西暦1385年)になると、ドーイ・ステープ寺院、スアンドーク寺院という名刹を今に残し、王国を基礎を強固なものとしたパヤー・クーナーがプラ・マハー・スマナ・テーラに先だって他界しました。
諸伝説に伝える通り仏暦1898年(西暦1355年)に40歳で王位に就いたとするならば、王の在位期間は、30年の永きに渡り、王の享年は70歳ということになります。王の死後は、予定通り、パヤー・セーンムアンマー(PHAYAA SEEN MUANG MAA)という名前の王子が王座を襲いました。
パヤー・マンラーイ以来連綿と続いてきたラーンナーの仏教は、モーン族から伝わった仏教は、多分に原始的要素を残した、様々なものの織り交じった仏教であったのではないかと思います。
e-lanna(http://www.sri.cmu.ac.th/elanna/elanna47/public_html/history/mungrai_4.html)にあっては、ロッブリーのモーンよりのテーラワーダ仏教に加えて、ホンサーサディー(HONGSAAWADII)、アングァ(ANGWA)よりの仏教が加味されていたとしていますが、共に現在のビルマ国内のモーン族の国です。30年近く前にNHKで放映したビルマのパガンの寺院群の中でモーン族の仏教として、そこにあるものは大乗的要素を含んでいるという指摘があったように思います。
もしも、大乗的要素を含んでいるとすれば、仏教は、世俗とかなり近くに位置する筈です。国民が仏教を篤く信仰すると、必然的に僧侶の社会的地位、名声、発言力が増して来ます。もしも、こうした国民の僧侶に対する信仰心の高まりに世俗の為政者が脅威を感じるとすればどうなるでしょうか。脅威を感じないまでも、そうしたことに考えが及ぶだけでも大変なことです。
しかし、世俗から離れようとする上座部仏教にあっては、信徒が如何に僧侶に篤い信仰心を捧げても、僧侶が世俗のことに一切発言力を持ちませんから、ある意味為政者にとっては、国民の不満の捌け口として良いかも知れません。
戒律に厳しい、プラ・マハー・スマナ・テーラは、そんな為政者の望みを叶えることができるのではないでしょうか。僧侶は、世俗を離れて227か条もの戒を守り、出家の儀式から一切が決められたものになります。
そして、実際にプラ・マハー・スマナ・テーラのもとで、多くの僧侶が出家の遣り直しをしました。
現代におけるタイ国の出家者には、単に出家希望者の両親の許可のみならず、出家希望者に具足戒を授ける際の首座に位置する戒和尚(UPACHCHAAY)、導師である猲磨師(KARMWAACAACAARY)、そして、作法を教える教授師(ANUSAASANAACAARY)の三師のほかに僧侶7名の証人が必要とされています。
しかし、このプラ・マハー・スマナ・テーラの時代以前には、こうしたことすらある意味では惰性に流れていたのかもしれません。
かくして、ラーンナーの地に厳しい戒律遵守の仏教宗派がもたらされました。
通常、この宗派は、スアンドーク派とも呼ばれます。これは、ラーンナーの仏教界には、大変な衝撃をもたらしたと思いますが、それでも全てが変わったわけではないようです。
ラーンナー王国は、二度に渡って宗教改革を行っていますが、その初めがこのプラ・マハー・スマナ・テーラによってのものでした。そして、今ひとつは、後年のプラチャウ・ティローカラートの時代のことですが、これについては既にチェットヨート寺院の項で述べた通りです。
偉大な庇護者パヤー・クーナー亡き後も、正しい仏教教義普及の使命に燃えるプラ・マハー・スマナ・テーラは、チエンマイのみならず、遠くチエントゥン(CHIANGTUNG)、チエンセーン等々王国内各地からやって来る僧侶たちに精力的に三蔵を教え、ここに後年ラーマン派ともスアンドーク派とも呼ばれる一大宗派を築き上げました。
サグアン・チョーティスックラット編の「ラーンナータイ伝承集」に収められている「ブッパーラーム・スアンドークマーイ伝」によれば、プラ・マハー・スマナ・テーラは、パヤー・クーナーの死後18年にしてスアンドーク寺院において他界しました、とされています。とすると、ラーンナーの地に足を踏み入れた仏暦1912年(西暦1369年)には60歳で、入滅が、仏暦1928年(西暦1385年)のパヤー・クーナーの滅後18年ということは、仏暦1946年(西暦1403年)となり、ラーンナーの地に止まること34年の永きに亘り、享年94歳という長寿を保ったことになります。
師の入滅時には、パヤー・セーンムアンマーがこの世を去って既に2年が経過しており、御世は長男であるラーンナー王国第八代目の王パヤー・サームファンケーン(PHAYAA SAAM FANG KEEN)に移っていました。これも、先のE-LANNA に寄れば、師の入滅は、スアンドーク寺院に住して18年後の仏暦1932年(西暦1389年)のこととしています。実に14年の差があります。
パヤー・クーナーの在世中、スアンドーク寺院は、チエンマイのみならずラーンナー王国の仏教の中心地となりました。王は、域内の僧にスアンドーク寺院に来て仏教を学び、律法を学ぶよう積極的に推薦したといいます。こうした努力の上に、後年ラーンナーの地に仏教文化の花開く素地が作られることになりました。
一方、寺院側では、伝承に従えば仏暦1931年のプラ・マハー・スマナ・テーラの甥であるクマーンカッサパ(KUMAARKASAPA)をスアンドーク寺院の管主としたとなっていますが、この師は、遊行(自然の中を遊行しながら修行に励むこと)を最重要視し、スアンドーク寺院は、人家に近く雑音が入るが故に、プラチャウ・サームファンケーンの許しを得て寒季、夏季の間はドーイ・ステープに上り、雨季になるとスアンドーク寺院に戻って来る生活を繰り返していたといいます。
今に残る航空写真においてさえも、現代人から見れば人里離れた森の中に佇むように見える寺院であるにも拘らず、今より600年余り前の林住派の僧にとっては、これでもまだ人家に近いと感じていたのでしょう。
師は、スアンドーク寺院にいること15年、仏暦1946年(西暦1403年)に亡くなりました。
その後を襲ってスアンドーク寺院の管主となったマハー・ナンタパンヤー(MAHAA NANTHA PANYAA)は、本堂が余りにも小さいと思い、打ち壊してしまいました。そして、新たに結界を設け直し、旧来にも増して大きくしました。仏暦1961年(西暦1418年)になると、スアンドーク寺院にいること15年、マハー・ナンタパンヤーが亡くなりました。
プラチャウ・サームファンケーンは、マハー・ナンタパンヤーに代わってマハー・プッタヤーン(MAHAA PHUTHTHAYAAN)を招聘して管主としました。このマハー・プッタヤーンの時代には、様々な問題が起きたようで、パヤー・サームファンケーンは、マハー・プッタヤーンをラムプーンのマハーワン寺院(WAD MAHAA WAN)に移し、師はその地において生涯を終えました。その移動の理由というのは、スアンドーク寺院が夜盗の巣窟になっていた、というのです。
もともと森の中に作られた寺院で、そこに住むものが必ずしも僧侶だけとは限らず、僧侶の身の回りの世話をする在家の人もいたでしょうし、信者もいたでしょう。もしも為政者がそれらを夜盗といえば、それもいえなくはないかもしれませんが、師の時代に仏教界が二分する論争を起こしたのもまた伝承に残されていますから、為政者としては事態収拾のために、師を移したのかもしれません。
次いでムーンサーイ寺院(WAD MUUN SAAY)のプッタカムピーラ(PHUTHTHA KHAMPHIIRA)が招請されてスアンドーク 寺院を15年に渡って守り、そして、亡くなりました。
パヤー・サームファンケーンは、自らの御世の中でスアンドーク寺院の四人の高僧、即ち、マハー・スマナ、マハー・クマーンカッサパ、マハー・ナンタパンヤー、マハー・プッタカムピーラを庇護し、厚く信仰して戒を守り、法を聞くことを怠りませんでした。
時に仏暦1963年(西暦1420年)になると、スアンドーク寺院のシッタンタ(SITHTHANTA)と言う僧が、3人の弟子を伴ってランカー国に仏舎利参拝に向い、仏暦1966年(西暦1423年)8月にチエンマイに帰ってきました。そして、ウィアン中心部のチェディー・ルアン寺院の本堂で告げて言うには、拙僧たちは、ランカー国に2年いて、マハー・スリンタ・テーラ(MAHA SURINTHA THEERA)に師事した。彼の地では、今我々が用いている戒律語は、間違っていると、非難しています。
連綿として受け継がれて来たものではありますが、もしもこのまま使って行くのならば、何の益にならないであろう、と言うのです。「この点がプラ・マハーヤーナカムピーラ(PHRA MAHAA YAANA KHAMPHIIRA)をしてランカー国に赴いて御仏の御教えをもたらせる原因となったと思われる」と伝承は推測しています。ここにチエンマイにおける次なる宗教改革の兆が仄見えます。次のプラチャウ・ティローカラート(PHRACAU TILOOKA RAACH)時代の宗教改革は、父のプラヤー・サー ムファンケーンのこの時代に既にその萌芽が見受けられるのです。
同時に、この山奥のチエンマイの地から、海を見たこともない僧侶たちが広大な海を渡り、スリランカに渡っていたということは、大変な驚異です。それは、遣唐使船に乗って天台宗を学んだ伝教大使、真言密教を学んだ弘法大使の偉業に似たものかもしれません。

(続)
冒頭の写真は、NOVABIZZ(http://www.novabizz.com/Map/Chiang_Mai/Wat_Suan_Dok.htm)さんよりお借りしました、スアンドーク寺院の御堂と後ろに聳える黄金色の仏塔です。

イメージ 1

イメージ 2

スアンドーク寺院縁起−4−

タイの僧侶には、二つの流れがあるようです。一つは、人々の住む街中に住んで修行をする僧たちの流れと、そうした集落を離れ、世俗の汚れを嫌って只管に人郷離れた地で孤独を共に修行に励む流れです。
かつて足跡を辿ったクルーバー・シーウィチャイは、この世俗の汚れを嫌う流れに属していました。そうした人々を一般に林住派と呼んでいます。これは文字通り林野を住居とし、動物の鳴き声、風の音を友として孤独と共に修行に励みます。
ラーンナーの地におけるこうした林住派の流れを遡れば、どこに向うのでしょうか。どうやら、パヤー・クーナー時代のプラ・スマナ・テーラではないでしょうか。
外敵もなく、平安のうちに強大な力を有する王が国内を安定充実させようとする時、宗教を保護育成して、人々に精神的支えを与えることは昔にあってはさほど珍しいことではなかったかもしれません。
当時のチエンマイ初めラーンナー王国内の宗教が如何なるものであるのか、極めて興味ありますが、残念ながら必ずしもはっきりしていないようで、様々な伝説があるもののどれもが後世に出来たもので、どこまで事実を反映しているか疑問です。
タイ族が中国にいた頃より仏教に接し、それを受け入れていたとすれば、それは、日本にも流れていくいわゆる大乗派仏教ではないでしょうか。確かに、パヤー・マンラーイの時代に幾つかの寺院が建立されています。パヤー・マンラーイの王宮がチエンマン寺院になったことは先の同寺院の項で記した通りです。その他にも、パヤー・マンラーイのチエンマイ建都の年ではないかと思いますが、スアンドーク寺院の更に西の林の中にウモーン寺院(WAD UMOONGKH)が建立されています。
確かなことは、この地にはタイ族進出よりはるか昔、ムアン・ハリプンチャイ時代にプラ・ナーンチャーマテーウィーが500名の僧を伴って南のムアン・ロッブリーよりやって来て、この地に仏教を植えつけています。それは深く人々の生活の中に浸透し、ムアン・ハリプンチャイを占領したパヤー・マンラーイが新たにムアン・チエンマイを建設して都を移したのは、その余りにも強い宗教色を嫌ってだとも言われています。ですから、ラーンナーの仏教はモーン族の仏教といえるかもしれません。
とすると、モーン族の仏教とはどんなものでしょうか。どうやらこれはいわゆる上座部とも違い大乗とも異なるもののようです。そうした判然とした区別がついていなかったある意味混沌としたものであったと思います。
そんな状況下で、パヤー・クーナーがラーンナーの仏教強化を考えた時、その必要性を感じたのが規律と正確な教義に基づいた宗教儀式の確立だったようです。このことは王国内で統一的教義が確立していなかったことを表しているのかもしれません。そして、そのことは、はるかな後年、クルーバーシーウィチャイの時代においても、幾つもの流れがあり、夫々が夫々の流儀を固守していたことからも伺えます。
もしくは、王国の始祖パヤー・マンラーイのチエンマイ建都より既に60年が経過していますので、彼らの宗教にも惰性が出てきて新鮮味が感じられなかったのかもしれませんし、又、惰性に流れる仏教界自体に確たる知識者がいなかったのかもしれません。
こうした中で、パヤー・クーナーは、ラーンナー王国に新しい仏教の風を吹き込みました。これは、ある意味では宗教改革かもしれません。
この新風を吹き込む役目を探すのに、北方ではなく、南方に求めたのは、やはり北に対する心理的抵抗感があったのかもしれませんし、単にラーンナー仏教の故地としてロッブリーがあり、その方面を意識したのかもしれません。
そんな時に流れてきたのがプラ・スマナ・テーラの名声でした。それは、ある意味では日本仏教界に新風をもたらした鑑真和尚の役割に似ているのかもしれません。
プラ・スマナ・テーラが何人なのか正直確たる資料が手元にありません。
ドーイステープ寺院の住職プラ・テープウォーラシッターチャーン(PHRA THEEPHWOORASITHTHAACAARY)は、「プラ・スマナ・テーラの夢(PHRA SUMANA THEERA NIMIT FAN=http://old.doisuthep.com/index.php?option=com_content&task=view&id=4&Itemid=41&lang=th_TH)」という一文をネットに掲載していますが、師は、その文の中で、プラ・スマナ・テーラについて、次のように述べています。
「仏暦19世紀(西暦13世紀=mana 注)、ランカーの人である一人の比丘がいて、その名をプラ・スマナ・テーラと言い、律法に精通し、三蔵を熟知した僧侶でした・・・」
これによれば、師はランカー国、即ち、現在のスリランカの人ということになります。そして、人々の信仰を一身に集めていたといいます。そんな師が現在にタイにやってきた理由として次のように述べています。
「・・・テーラワーダ派仏教布教の為に、スコータイ、特に、シーサッチャナーライ(SRIISACHCHANAALAY)とサワンカローク(SWARKHALOOK)にやって来て、その当時のスコータイで短期間の間にテーラワーダ派仏教を栄えさせたといえるでしょう。」
としています。
しかし、一方では、師は現在のミャンマー国南部の町モタマ(MOTAMA=マルタバン)に出向いてウトゥマポーン・マハー・テーラ(UTHUMAPHOR MAHAA THEERA)と言う僧について出家した、という話もあり、そうすると、スリランカから仏教布教に来たという話と異なってきます。
しかし、タイにおいては、仏教はビルマからよりもスリランカから入ってきたと考えるのだと思いますが、現実には、当時は既にインド国内の仏教は衰微し、スリランカにその隆盛を見ていました。そして、タイへは、このランカー国の仏教がモーン族のルートを通じて流れてきますので、スリランカ仏教がモタマに入り、それを修行して帰って来たと考えるのが自然かもしれません。
勿論、師であるウトゥマポーン・マハー・テーラと共にスリランカからモタマにやって来て、そこからスコータイに来たというのかもしれませんが、言い切るにはウトゥマポーン・マハー・テーラについての資料を持っていません。
モタマで仏教教義を習得したプラ・スマナ・テーラがスコータイにやって来て、スコータイ及び、シーサッチャナーライで広く仏教教義を指導していました。では師が指導する仏教とは何なのでしょうか。一般に師は林住派と呼ばれますので、村を離れ、山野に住して法を会得していく派だと思われますが、それで大切なことは、己を厳しく律していくことです。
227か条にも上る戒律を厳格に守り、破ることなく、終日己が心を清めていかなければなりません。同時に、仏教の決まりである出家者の受戒の儀式に通じている師は、出家を志す者たちに正しい受戒の儀式に則って出家させた模様です。こうした厳しい戒律重視故でしょうか、テーラワーダ派仏教は時に戒律仏教とも呼ばれ、ともすれば戒律を守ることに主眼を置き、最終目的である悟りを得るための修行であることを忘れる危険があります。
今、この戒律を厳しく守る派としては、タイ国内にタムマユット派というのがありますが、北部タイのそのタムマユット派最高位の僧侶が1昨年入滅し、去る1月18日に荼毘に付されましたが,かつて師を庫裏に訪問した際に目にした師の寝室は、大変に狭く、たくさんの仏像が安置されている前で、床に薄い煎餅布団よりも尚薄いかと思うような布団を敷いていて、ベッドなるものはなく、寝床は硬く決して寝心地がいいとはいえないと思います。しかし、師はそうした生活を70年余に亘ってしてきました。
プラ・スマナ・テーラは、夢のお告げに従ってムアン・パーンチャー(MUANG PAANGCAA)の壊れかけた仏塔下より掘り出した仏舎利を守護しながら、僧たちに教義を教えていました。その間にも、師の名声は、単にスコータイだけではなく、遠くラーンナーにまで聞こえていました。
時に、ラーンナーにおける仏教の基礎固めを考えていたパヤー・クーナーが師の名声を聞いて、役人と二人の出家修行者を遣わしてラーンナーに招請しました。伝承を見てみますと、この時のラーンナーの使者は、プラ・スマナ・テーラの招請の許可をまず、スコータイの王、プラチャウ・タムマラーチャーに求めました。これは、当時としては、僧侶というものが王国にとっての財産にも等しい重要な地位を占めていたことを示しているのでしょうか。
プラチャウ・タムマラーチャーは、名声高いプラ・スマナ・テーラの出国に対して何の異議も差し挟まなかったということは、師に対してそれほどまでに信仰心を抱いていなかったと言うことでしょうか。
王の許しを得、身の回りの整理を終えたプラ・スマナ・テーラがスコータイを出てラーンナーの地にやってきたのは、仏暦1912年(西暦1369年)のことで、師の60歳の時のことでした。
弟子たちを伴ってやってきた師が廃寺から掘り出した仏舎利を奉じていたことは言うまでもありません。一行は、チエンマイに入る前に、ラムプーン東方のプラユーン寺院(WAD PHRAYUUN)に逗留しました。
プラユーン寺院逗留中のことでしょうが、パヤー・クーナーは師が優れた仏教教学を有し、あらゆる問いかけによどみなく見事な教えを述べることに喜ぶと、わが師となし、プラ・スマナ・ブッパー・ラッタナ・マハー・サワーミー(PHRA SUMANA BUPPHAA RATNA MAHAASAWAAMII)と名付けて敬意を表しました。

(続)
冒頭の写真は、本文中で引用しているドーイステープ寺院の住職プラ・テープウォーラシッターチャーン師の文章に添付されている絵で「夢見るプラ・スマナ・テーラ」です。そして、今一枚は、http://www.oknation.net/blog/key/2009/09/24/entry-2よりお借りした、スアンドーク寺院御堂正面の写真です。

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
mana
mana
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(37)
  • 千葉日台
  • 代表者
  • うまやど
  • tousan
  • ネコマロ
  • keiwaxx
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事