チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チエンマイの民間信仰

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

落ち葉拾い

チエンマイの民間信仰−11−

いつの日にか、宗教にとって避けて通れない人生の最後、死の扱いについてタイ人が如何に考えているのかを記してみたいと思いますが、ここでは、自らの見聞を中心としてその様子を簡単に記して見ます。

チエンマイにおける葬儀について見てみますと、面白いことが見えてきます。即ち、チエンマイにあっては、タイ中部、東北部に見られるような寺院境内における荼毘がないことです。

街中にあっては、遺体は通常寺院に運ばれ、そこで葬儀が執り行われます。
当地を旅され、有名寺院を訪れた方は目にされたことがあるかもしれませんが、寺院本堂傍の建物、通常そこはシャッターが下ろされて人の気配はありません。しかし、葬儀があると、棺はその堂に運ばれて安置されるのです。1週間近くに亘って遺体は安置され、昼夜の読経に合わせて連日親類縁者がやって来て焼香しています。

我々日本人には驚きに見えますが、そこには一粒の涙も見られないのです。

『死』は必ず誰にでも訪れる摂理であり、避けて通れないことであると同時に、『死』は現世の『苦』の消滅を意味しているからなのでしょうか。『悲しみ』で『死』が覆ることがないことを知っているからなのでしょうか。それとも、悲しみの表情を表さないことで残された遺族の悲しみを少しでも和らげようとする配慮からなのでしょうか。

参列者の多くの顔には笑みすら浮かんでいます。そして、久しぶりに顔を合わせた人たちは、互いの消息を伝え合っています。そして、予定通りの葬儀が終わると、遺体は車に乗せられ、車列を組んで城外にある火葬場に送られます。
そうなのです。ここにあっては、遺体の荼毘は城内で行われることがありません。それは、今も昔も変わることのない決まりなのです。

目を郊外の集落に向けますと、さらに古い習慣が残っています。遺体は自宅に安置され、幾日かに亘って僧侶を呼んでの昼夜の読経があることは市内の場合と変わりはありません。荼毘の前夜には、遺体は家屋から引き出され、庭先に安置されます。
その時巨大な傘が翳されます。

葬儀の間、村人たちは、寄り集まって互いに手分けして肉親に代わって一切を取り計らいます。ある人は木を切り、土を均して駐車場を作り、棺を安置する部屋の片付けを手伝い、時には遺体の着替えさえ手伝います。そして、女性たちは、そうした手伝いの人たち、参列者に差し出す料理を作ります。

全ては自然に出来上がる組織なのです。誰も命令することがありません。そこにはいまだに古くからの村落共同体が見られます。そして、荼毘の日には、台車に乗せられた棺は、僧侶、親族を先頭にして村人たちが力を合わせて近くの火葬場まで曳いていきます。

時に午後1時頃のことです。
狭い田舎道は、葬儀の行列で渋滞すら起こします。

こうしたことから分かるとおり、チエンマイにあっては、決して遺体を寺院で荼毘に付すことはありません。何年か前、筆者の住む村の寺院の住職が亡くなった際にも、荼毘は、寺院の外、門脇の臨時火葬場で執り行われました。このことからもチエンマイの仏教がタイの他の地方の仏教と若干の相違を見せていることが分かります。

まさに、宗教は人の作るもので、その地方、民族の特性を現しているといえるのではないでしょうか。
そして、火葬場に運ばれた棺は、メーン(MEER)と呼ばれる塔に移されます。

これも田舎に行けば、塔ではなく、広い野原の一箇所に棺を置く台が下駄の歯のように設えられています。その台の間の窪地には幾本もの古タイヤが置かれています。須弥山を模した木製の塔が棺に被せられると、参列者からはまさに天上世界の出現のように思われます。

そして、参列の人たちは、少し離れた席に着すと、主催者よりの挨拶、僧衣献上者および、それを拾い上げる僧が呼ばれ、遺体に対する最後の読経が行われます。そうした一連の行事が終わる頃、参列者には白檀などの香木の芯材から作られた、小さな蝋燭が添付された小さな花(ドークマイ・チャン―DOOKMAI CANTHN―と呼ばれます)が配られます。

行事の終了後、参列者は粛々と棺に向って最後の別れをすると同時に手にした小さな花を捧げます。そうです、これも一つの荼毘の道具だったのです。

献花を終えた参列者が元の席に戻ってくると、葬儀の最後の瞬間を待ちます。

その塔に向って参列者たちのいる席近くから一本の鉄線が走っています。全ての行事が終わるといよいよ点火です。鉄線の端に取り付けられた花火に点火されると、シュルシュルと音を立てて鉄線を伝って棺に向って飛んでいきます。

木製の須弥山にたどり着くと、どこからともなく非常に高音の玄妙な音が響き渡ります。勿論楽団などはありません。それは、まさに釈尊の入滅の瞬間、時ならずして天上の楽の音が響いたと言う仏伝を思い出させてくれます。

仏塔の周りに火花が散ると忽ちにして塔は火に包まれます。その火を合図にするかのように、参列者たちは帰途につきます。間もなく帰途についた参列者たちの遥か後ろで黒い無常の煙が立ち昇ります。

一方、市内の火葬場に運ばれた棺はさすがに野辺に積まれることはありません。コンクリート製の塔に到着すると、棺を飾った須弥山を象った木製の塔が解体され火葬の木に変わります。こうしたことはその職専用に人がいて彼らに任されます。

火葬の塔には祭壇が設けられ、延々と僧侶への僧衣献上の儀式が続きます。
参列者の手には小さなドークマイ・チャンが握られていること何処も同じです。僧の読経が終わると、参列者は最後の別れと献花に棺に向います。献花を終えて塔を離れる参列者に記念の品が配られるのは市内も郊外も同じですが、著名人、もしくは、その親族であれば、その時に小冊子が配られることがあります。これがいわゆる葬式本と言われるもので、貴重な歴史、仏伝、物語が記されていたり、また亡くなった人および家族の履歴が記されたりする貴重なものです。

そこには田舎のような鉄線もなく、楽の音もありません。献花が全て終わると、棺は献花のドークマイ・チャン共々塔の中に移され、固く鉄の扉が閉じられます。

やがて煙突から黒い無常の煙が立ち昇る頃、人々は帰途に着きます。

(了)

大乗仏教の痕跡

チエンマイの民間信仰−10−

チエンマイ建都に関わった三人のタイ族の王の盟友関係を示すことを目的に作られた記念像を記念して一冊の本が上梓されました。「ラーンナータイ」という名のその書の中で、チエンマイ大学準教授のセーン・チャンンガーム(SEENG CANTHRNGAAM)は、ラーンナー地域内の仏教について興味深い論文を記しております。

その概略を記すと以下のようになります。
タイ族は、西暦紀元前に何らかの事情で中国国内を南及び南西に移動し、西暦前後に現在の雲南省に至りアーイ・ラーウ王国(AANAACAKR AAYLAAW)を建設し、そこにおいてインドより何らかの宗派の仏教を受け入れたのではないか。それを証するかのように「漢書」の中でタイの王の一人クン・ルアン・マウ(KHUN LUANG MAU)が仏教徒であることに言及していると言います。

その後西暦2世紀頃に中国軍の攻撃を受けたタイ族は、四分五裂して河川に沿って現在の東南アジア各地に散り、雲南に残ったものは中国の権力下に組み込まれました。西暦7世紀頃になるとポー・クン・ピロック(PHOO KHUN PHILOK)と言う名の英雄の指導のもと、タイ族は中国の支配を跳ね返し、現在の昆明のあたりに南詔王国(AANAACAKR NAAN CAU)を建設しました。その南詔王国は、中国仏教隆盛期の唐・宋両王朝に跨がる500年間に亘って栄えたそうです。

その宋の時代、タイの一人の王が大乗仏教の教典である「金剛智波羅蜜多教」3巻及び「大マハーヤマーナカ(MAHAAYAMAANKA)」3巻を中国皇帝に献上したと言います。更に西暦12世紀、モンゴル軍の攻撃を受けて南詔王国が崩壊すると、タイ族は再び南下の移動の旅に出、先に移動しモーン・クメール族の中に混じって住みついていた同じタイ族と合流しました。

南詔王国がタイ族のものであるか否かは、現在大いに異論のある所かもしれませんが、中国の史書を読まない私には何とも判断出来ません。又、タイ族の移動そのものが霧の中深くに隠れて見えない現在、移動を想像する楽しみはあっても、都を特定することは不可能です。

ただ、ここまでの記述で面白いのは、タイ族の王が大乗教典を中国皇帝に献上した点であります。とするならば、雲南省にあってインドより受け入れた何らかの仏教とは大乗仏教と言うことになるのでしょうか。そして、先住のモーン・クメールが受け入れた仏教も必ずしも純粋な上座部仏教とは言えないことはカンボジア仏教遺跡を見れば分かります。

ともかく、セーン準教授は、ラーンナーの地にやって来たタイ族の初期、即ちパヤー・マンラーイがこの地に王国を築いた頃のタイ族の信仰する宗教は、まだ、大乗と上座部の仏教にバラモン教、精霊信仰が混じったものであろうと結論しています。しかも、クメールより大乗仏教の何らかの儀式、特に密教のものを受け入れていたものであろう、と言う点は、大いに興味をそそられます。

現在においてもカンボジアと言えば、どこか呪術的な匂いが立ち籠めており、秘儀・祈祷を重視する密教系仏教が、クメールを通じてモーン族社会に、そしてタイ族社会に浸透していったと想像するのは楽しいことです。そして、そう言う想像の上に立てば、ナコーン・ラーチャシーマー県の博物館にある密教の儀式に用いる道具も、チエンマイの旧都より発掘された仏像の中に混じる菩薩象も説明がつくのではないでしょうか。

そして、セーン準教授は、かつてこの地において大乗仏教が栄えていたことを示すものとして、その論文の中で次の6点を上げています。即ち、
 1.大乗仏教密教派の呪文である陀羅尼呪文を刻んだ貨幣がチエンセーンで発見された。

 2.かつてパヤー・クーナー時代にチャンタと言う名前の僧正がドーイ・ステープにおいて知恵を増す為に「マハー・ヨーキ・マンタラパ・ペータ」を繰り返し繰り返し誦したことを記した文書がある。

 3.このラーンナーの古い仏像には、王の如く装ったものが多くあり、これらの仏像は、密教の大日如来であり、法身仏であって、釈迦牟尼仏ではない。

 4.ラーンナーにあっては、僧も信者も敬虔な仏教徒は中国、日本の大乗仏教徒同様に肉食をしない。

 5.かつて、ラーンナーの僧は、夜間や夕方の食事摂取など軽微な破戒条項は守ることがなく、少年僧は、得てして夕方になると村に帰り、家族が用意した食事を摂ったものである。この点は、今も田舎に行けばその雰囲気を味わうことが出来ます。一日に1回、もしくは2回、正午前に食事を獲り、それ以後は一切の摂食を禁止する上座部仏教のタイにあっては異様なことです。

 6.吉祥の行事にあっては、招請を受けた僧は、三蔵の中にはなく、大乗仏教のウナヒット・ウィチャヤ経(UNAHIL WICHAYA SUUTR)を誦した。時には、同じく大乗のチョムプー・ボーディー経(CHOMPHUUBODII SUUTR)を誦した。

残念ながら経典の知識のないあたしには、今ひとつ実感がなく、この点について私見を述べることが出来ませんが、このチエンマイのタイ族が従来持っていたと思われる宗教は、彼らが先祖代々堅持して来た精霊信仰「ピー」崇拝に加えて、中国国内において未消化、もしくは確たる宗派の意識もないままの大乗仏教を受け入れたまま南下して来たものではないでしょうか。

一方、インドシナ大陸部にあっては、バラモン教の基礎に密教系大乗仏教が混入したクメールの宗教、大乗派と上座部派の混入したモーン族の仏教が栄えており、メコン河を越えてやって来たタイ族が、ここでモーン・クメールの仏教に接しても、それほどの違和感を抱かなかったでしょう。

むしろ、積極的にクメール・モーン文化を吸収しながら、政治的には両族の上に立ったのではないでしょうか。それは、彼ら先住民がかなり高度な文明を誇っていたからではないでしょうか。

現在のタイ社会においてもバラモン教世界は脈々と生き続け、呪術は人々の信仰を集め、僧侶すらもが様々な呪文を唱え、呪術世界を形成しています。又、人々も僧侶の呪力を信じればこそ、車に信仰する僧の写真を貼り、僧侶に呪文を唱えて貰い、時には、呪術によって人の心すらをも支配しようと考えるのではないでしょうか。

釈尊が秘術を否定し、神秘を否定し、各自のひたすらな努力を奨励し、どれほどに「因」「果」を説いても、人々は、呪文のもつ超能力、高僧の持つ超能力を否定しようとはしません。

死者に対しても、葬儀は行いますが、その後の法要・供養を行うことなく、使者の死後の世界、死後の生活について言及することなど殆ないタイ仏教界の中で、死後の世界を否定しないのも又、タイ人の考える仏教なのではないでしょうか。

(続)

チエンマイの宗教改革

チエンマイの民間信仰−9−

特別な意図も目的もないまま移動の旅の中で接触し、染み込んでいったであろう仏教、整然と整理されないままいつの間にか民族の中に入り込み、信仰されていた仏教は、先祖伝来の固有の宗教である精霊信仰を排除することなく、何の違和感もないまま人々の間に信じられてきました。
長い時の中に続いて来た流浪の旅が終わりを告げ、メコン河の辺の豊穣の地に定住した人々は、先住民との戦い、北部より押し寄せる中国との脅威に耐えながら、自らの国を建設してきました。

中国の脅威を避けるように更に南下のたびの末にピン河の原流域に進出し、遥か南に栄えるモーン族の国を望みました。そして、謀計を持ってハリプンチャイを滅ぼしたタイ族は、ここに不動の都を建設することになったのでした。

王国の基礎が固まり、内憂外患が失せた王国の王が質的な充実を図ろうとするのもまたあり得る話です。

こうして宗教界には、大きな曲がり角を迎えることになります。
歴史を遡ってみますと、ラーンナー王国は、その初期、マンラーイ王朝の時代の260余年の間に二度に亘って大きな宗教改革とも言える変革期を迎えています。こうした宗教の変革は共に国王の強力な指導力と王国の不動の敬意がその後ろ盾になっています。

こうして自らが引き摺って来た仏教、クメールが残した仏教、モーンが伝えた仏教、これらを漠然と受け入れて来たマンラーイ王朝は、仏教を国家宗教としていくのです。
そして、その二度の変革はいずれも王の権力が強大であった時代のことで、いずれの場合にも、ラーンナーの圏外より新しい教義を導入し、新しい宗派を作っています。

時にマンラーイ王朝第6代目の王パヤー・クーナーの時代、サワンカローク(MUANG SWANKHALOOK)の町に一人の僧がいました。この僧はスマナ・テーラ(PHRA SUMANA THEERA)と言い、チエンマイの名刹の一つドーイ・ステープ寺院(WAD DOOY SUTHEEPH)、スアンドーク寺院(WAD SUANDOOK)の歴史を語る時、避けて通ることの出来ない僧侶です。
師の経歴については、ドーイ・ステープ寺院の歴史を見る時に述べてきましたので、ここでは、言及しません。師の名声がラーンナーの地にまで響いて来ると、パヤー・クーナーはチエンマイに招聘し、自らの離宮「ウィアン・スアンドークマイ(WIANG SUAN DOOK=花園の町)」を寺院に改修して師に献上するまでになります。

これが「スアンドーク寺院」に他なりません。

こうしてチエンマイにやってきたプラ・スマナ・テーラが、この地にバーリー語の経典ををもたらしたのですが、ではそれまでの寺院ではどんな経典を使用していたのでしょうか。大いに興味あります。
師は、かつて現在のビルマ南部の町であるモーン族の町で師について仏教を学んだとされており、従って、師のもたらした仏教はラーマン派(NIKAAY RAAMAN=モーン派)と称されました。
そして、パヤー・クーナーは、僧たちに命じてスマナ・テーラのもとで出家徳度の儀式をやり直させる程師を応援しました。当然この新たなラーマン派、もしくは、スアンドーク派(NIKAAY SUAN DOOK)は、王の庇護の下で急速に栄えて行きました。

系統だった仏教教義がラーンナーの各地に広がると、僧たちの就学に対する関心が大いに高まり、更なる知識を求めるようになったのでしょうか。
次いで、パヤー・クーナーの孫に当たるマンラーイ王朝第8代目の王パヤー・サームファンケーン(PHYAA SAAM FANG KEEN)王の時代、チエンマイの僧は、多くスリランカに渡り、真の仏教なるものを修学して持ち帰りました。

それはかつての遣唐使船で渡航して中国より最新の仏教経学を持ち帰った多数の留学僧にも似ています。彼らはスリランカで出家し直し、修学に努めた後、二人のスリランカ僧と共に帰国して来ました。こうした留学僧がもたらした最新の仏教経学がやがてラーンナー王国に仏教文化の花を咲かせることになるのです。
その頃の帰国留学僧はパーデーン寺院(WAD PAAFEENG)に住したことから、この派はパーデーン派(NIKKAY PAADEENG)と呼び習わされました。

そして、こうした仏教文化隆盛を背景にして、その次の王プラチャウ・ティローカラート(PHRACAU TIROOKARAACH)の時代の仏暦2020年、 チエンマイの地において仏教史上最重要行事が持たれました。即ち、第八回目の仏教経典編纂会議である第八回結集(SANGKAAYANAA)です。約1年を要して教典を編纂をした場所が、チェット・ヨート寺院(WAD CED YOOD)と呼ばれるポーターラームマハー・ウィハーン寺院(WAD PHOOTHAARAAM MAHAA WIHAAR)です。

こうして、様々な形で仏教を受け入れて来たラーンナー王国ですが、決して、先の仏教が後の仏教に置き換わることもなく、共生しながら伝わって来たことは、日本仏教と同じです。そして、時代の流れの中で少しずつ変化し、そんな変化が大きくなった時、又は、何らかの必要性が生じた時、新たな流れが入ってその変化を和らげていったのでしょうか。宗教が人によって受け継がれて行く以上、時代の中で変化して行くことは避けられず、今もまだ変化していっているのかもしれません。

こうしたバーリー語に通じた僧たちの出現、仏教教学の発展を下地に、チエンマイの地にいわゆる仏教文学の花が開く時代を迎えました。その代表ともいえるのがプラ・シリマンカラーチャーン師(SIRIMANGKHALAACAARY)でしょう。今師の像は、ナワラット橋の麓プッタ・サターンと呼ばれる施設の隅にひっそりと立っています。

こうした仏教隆盛時代の文学作品ともいえるのがロッチャナパンヤー師(ROCHANAPANYAA)の著書チンカーンマーリー(CHINKAALMAALII)であり、シヒン仏の伝記であるシヒンカ・ニターン(SIHONGKHA NITHHAN)です。しかも、現在ナコーン・シータムマラートを中心とするタイ南部地方の伝統芸能とされる「マノーラー(MANOORAAH)」もまた、実はチエンマイの無名の僧が仏暦2038−2068年の間に記したとされる「パンヤーサ・チャードック(PANYAASA CHAADOK)」の中に記されているといわれています。
この書は「チャードック(CHAADOK=ジャータカ)」と仏生譚の形をとっていますが、仏生譚でもなければ、経典より来ている物でもありません。仏生譚の形をとった師の独創による文学作品です。

(続)

狂気を発する名僧

チエンマイの民間信仰−8−

タイ族がどこで生まれ、どこを通って南下して来たかはともかくとして、彼らが従来持っていた精霊信仰・祖霊信仰に加えて、中国国内を南下して定住の地を捜し求める長い旅の途中のどこかで仏教と接触したと考えることは不思議ではないでしょう。

中国国内で仏教と接触したとすれば、それははっきりとした宗旨・宗派ではなく、西域から北上してくる様々な教義の入り混じった大乗系の仏教であったと想像することも出来るのではないでしょうか。そうした大乗系の仏教を祖霊信仰・精霊信仰の上に積み重ね、混交しながらメコーン(MAE NAAM KHOONG)を越えて来たものと思われます。
そして、彼らの中に伝えられた大乗教典は、決して系統立てられたものではなく、宗旨・宗派で理論つけられたものでもなく、ただ脈々と伝えられ、時として人々の仏教文化の奥深い所で公には知られることなく密かに染み込んでいったのかもしれません。

それを裏付けるかのように、私の手元に一つの興味深い話があります。
その話は、中等教育の副読本でもある「北の町の物語−重要人物編」の中に紹介されているある僧の物語です。

即ち、はるかな昔マンラーイ王朝の第6代目の王パヤー・クーナーの時代のことだそうです。国は栄え、中国への朝貢すら一方的に停止して恐れることなく、王は厚く仏教を保護していたその時代、チエンマイの城外を北に向かい、今のラーチャパット大学のあたりに相当するのでしょうか、そこにあった小さな町ウィアン・ブア(WIANG BUA)に一人の少年がいました。
チャンタ(CANTHA)と言う名前のその少年は、当時の習慣に従って寺院に行って学問を修めていました。小僧になって文字通り寺子屋教育を受けていたのです。その寺院は、バーンパイ寺院(WAD BAANPHAI)という名前だそうですが、現在のウモーン寺院(WAD UMOONGKH)がかつてはパイ・シップエット・コー寺院(WAD PHAI SIB ED KHOO)ともウェールカッターラーム寺院(WAD WEELUKATTHARAAM)とも呼ばれていたそうですから、両者は同じ寺院なのでしょうか。

何歳で師について学問を修めたのかは述べられておりませんが、18歳の時に師に分かれて、ポーノーイ・シーカート寺院(WAD PHOOTHINOOYSRIIKAAD)に向かって今一人の師について更に勉学に励み、三年の後に出家得度して正式僧となりました。
更に3年が経過した頃、最初に師事した師が病の床についたという知らせを受けたチャンタ師は、師に暇を乞い見舞いに行き、そのまま看病する日々が続きましたが、師の病状が回復することはありませんでした。

最期を悟った師は、弟子のチャンタ師に1冊の教典を差し出し、次のように告げたと言います。
「我が死の後、お前はこの教典を持って学習に努めなさい。お前は、誰にも負けることのない勝れた知恵を身に付けるであろう。この教典は、『マハー・ヨーキー・モン・プラテート(MAHAA YOOKHII MONT PRATHEES)』と呼ばれ、偉大なるベーダの教典(PHAMPHIIR SAASTR PHEETH)である」

そうして自らの大切な教典をチャンタ師に預けた師は、間もなく入滅しました。
教典を手にチャンタ師は静寂の地を求めてドーイ・ステープ(DOOY SUTHEEPH)に向いました。そして、ステープ仙(RUUSII SUTHEEPH)のかつて住んだといわれる小屋に向かうと、教典の記す所に従って呪文を唱えていました。

そんなある夜、師の前に一人のナーン・ファー(NAANG FAA=女性の姿をした 何らかの精霊)が現れ、誰よりも勝れた知恵を得ようと、呪文を唱えているという師に対し、ならばこの木の実を噛むと良い、と言って右手を差し出しました。
差し出された木の実が何なのか非常に興味あるところですが、残念ながら今のあたしには分りません。
チャンタ師が木の実を受け取ろうと腕を差し出しますと、ナーン・ファーは、腕を振り解いてチャンタが我が体に触れたと破戒の罪を唱え、その破戒の罪によりチャンタは気が触れるであろうと呪ったといいます。

この物語は、一人の偉大な僧侶の評伝であると同時に、ウモーン寺院についいての説明でもありましょうが、私には、そうした点以上にチャンタ師は、最初に師事した師が持っていた教典、即ち、最高の知恵をもたらす呪文が載ったと言うその教典にこそ興味があります。
仏典に付いての知識などない私には、それが日本で言うどの教典なのか判断しようもありませんが、いわゆる上座部仏教に伝統的に伝わる教典ではないと思われます。何故なら、もしもそれが伝統的な教典であるならば、誰もが持っており、決して秘伝ではない筈です。

また、その教典の名前にある「モン(MONT)」と言う言葉が「呪文」「真言」を意味することから、どことなく密教に近いような気がします。
パヤー・クーナーの絶大な信任を受け、多くの信者に支えられながらも、時として、気が触れたような症状を起こし、ウモーン寺院の森に姿を隠したと言う話は、どことなく何かに憑かれたような感じがしないでもありません。しかも、教典の伝授そのものすらが、密教の一子相伝の秘伝儀式に似ているような気がするのは私だけでしょうか。

そこで思い起こすのは、クメールの仏教が大乗系であること、今もクメールには様々な呪文があることなどから、想像をたくましくするならば雑蜜がクメールに流れ、そんな中の経典の一部がモーン族を通じて密かに受け継がれていたのかもしれません。

今も一部僧侶は密教かと思うような儀式をすることもあり、死霊と交信して意のままに操ることが出来ることを吹聴して信者を怖がらせる僧もいます。胎内で亡くなった嬰児に偉大な霊力があるとして行われる特殊な儀式の末に完成するクマーントーン(KUMAAR THOONG)などはとても恐ろしいですね。

こうした仏教とは異質とも見える儀式、上座部仏教とは異質の教義が今もありますが、このチャンタ師の授かった経典もそんな秘伝の一つだったのでしょう。少なくとも、今のタイ仏教界のどこにも見出されないものでしょう。

(続)

史跡に残る仏教

チエンマイの民間信仰−7−

これまでは、タイ族が本来持っている先祖伝来の伝統的・原始信仰に基づく精霊信仰についてその概略を見てみました。そうした原始的な精霊信仰と共に生きてきたタイ人が仏教を受け入れた時、先祖代々伝わり自らの血身となっているピーへの恐れ、畏敬の念はどうなったのでしょうか。

結論を言えば、日本人が八百万の神を捨てることなく仏教を受け入れたようにタイ人の精霊信仰は少しも衰えることはありませんでした。

これから暫く、そんなタイ人(チエンマイを中心とするラーンナー王国のタイ人)が受け入れ信仰した仏教について触れてみたいと思います。
日本人は、往々にしてタイの仏教は上座部仏教であると、いってしまいますが、決してそれほど単純ではない様です。むしろ彼らの仏教はもっとおおらかであったようにも思います。

仏教は、ゴータマ・シッタタという王子が四門出遊という伝説を持って出家し、死を賭した苦行の果てになお悟りを開けず、ネーランジャラー河の辺で村娘の差し出す乳粥で生気を取り戻し、そこで中庸を悟ったといわれます。そして、菩提樹の根方で瞑想して終に大悟して仏陀、すなわち目覚めた人になったのです。
当時の思想自由の風潮の中、釈尊は、自ら悟った法は世俗の人々の理解するところではないとして、一人味わおうとしましたが、インドラ神が降臨して法を説くよう勧請したとされています。

このようにして各地に広がって行った釈尊の御教えですが、その仏教は、インドからスリランカに下り、東南アジア各国に広がったいわゆる南伝仏教と呼ばれるものでした。
そして、中国より南下して来て今の地に落ち着いたタイ族が、先祖伝来の精霊信仰だけを心の拠り所にして南下の旅を続け、このメコン川の辺、コック川の辺、そして、ピン河の辺に都を築いて始めて仏教に接触した、と考えるには余りにも無理があるように思います。

かつて、タイ東北部への入口といわれるナコーン・ラーチャシーマー(NAKHOR RAACHA SIIMAA)という町を旅した時、そこの博物館で、密教で使用する鈷を見て衝撃を受けた記憶があります。
ナコーン・ラーチャシーマーの博物館の中の鈷は、きらびやかなインド文明に染まったクメール王国が西方への勢力拡張に伴って今の東北タイ各地にその足跡を残したクメール王国の残滓でしょうが、数多の石造建築物の他にも、クメールで栄えた大乗仏教が紛れ込んできたものだと想像されます。

又、チエンマイのピン河添いに南に下ったサーラピー郡(AMPHAA SAARAPHII)の「プラノーン寺院(WAD PHRA NOON)」の中にある小さな博物館でウィアン・クムカーム(WIANG KUMKAAM)という廃墟の町から彫り出されたという多数の仏像の中に菩薩像を見た記憶もあります。残念ながら、今その寺院内の博物館は、扉に鍵をかけて外部の人間には解放されていません。

このウィアン・クムカームという町は、チエンマイ建設よりはるかに古い時代、チエンマイの南に栄えたモーン族の国で現在のラムプーンに相当するハリプンチャイ(HARIPHUNCHAY)時代に既に一大集落地でした。ハリプンチャイを中心にして、その北にいくつもの集落があり、それぞれが点のように存在していたのですね、そんな中の一つで今も残っているのがハンドーン(HAANGDONG)という町です。

ウィアン・クムカームの町跡から彫り出された仏像群の中の菩薩像は、どう理解すればいいのでしょうか。何処から来たのでしょうか。
チエンマイより古い町、現在ラムプーン(LAMPHUUN)と呼ばれるかつてのハリプンチャイ王国を栄えさせたモーン族のものでしょうか。それとも、チエンマイに都を建設する以前、二年間に亘ってパヤー・マンラーイがウィアン・クムカームに居を構えていたことがありますので、その時パヤー・マンラーイと一緒にいた仏教信者もしくは僧が建立して拝礼供養していたのでしょうか。

現在のタイの地における仏教は、クメール族、モーン族によりもたらされたと一般に言われており、彼らクメール族、モーン族が敬虔な仏教徒であることに誰も異議を差し挟まないでしょう。そのクメール族は、タイ族が巨大な王国を建設する以前にこの地に住んでおり、それは、古い伝承の中でコーム(KHOOM)と言う言葉で表されています。

そして、タイ族の一つラーウ(LAAW)族の歴史を記した本の中で、不祥の子供としてラーウの国から追放された王子は、川に流されクメールの地で成長し、そこの王女と結婚して帰国の途につきますが、その時、王女は仏教をラーウに伝えたとされています。
しかも、面白いのは、そのクメール王国はかつてカウンディンヤと言うバラモンがインドより渡来して原住民の女王を結婚し、バラモン世界を伝えたとされていますが、同じようにインドからやって来た仏教僧が渡来インド人に布教したとしても不思議はないでしょうし、そう考えて始めてあの絢爛たるアンコール・ワットの仏教文化が理解されるのではないでしょうか。
そこに見られる大乗仏教世界、バラモン世界は、そのまま現在のタイに入り込んだとしても不思議はないでしょう。

一方、同じくインドから、もしくはスリランカ(SRIILANGKAA)から現在のビルマ南部マレー半島の付け根に伝えられた仏教は、モーン族の町々を伝わって広がっていったことでしょう。
今のロッブリー(LOPHBURII)の町、モーン族の町より一人の王女が千人の従者を引き連れて北上します。その王女の名前はプラナーン・チャーマテーウィー(PHRA NAANG CAAMATHEEWII)といい、建設されたばかりのハリプンチャイの初代統治者として君臨するべく、ピン河(MEE NAAM PING)の険しい瀬を流れに逆らって上って来ました。

そして、その従者の中に多数の僧侶が含まれていたことが、この地への正式な仏教伝来と言えるのでしょう。そして、そのモーン族の仏教もまた、今我々が考える上座部仏教一色であったとは考えられないと言う説も出て来るに至って、ますます謎が深まって行きます。

そのモーン族の仏教は、ハリプンチャイで大いに栄え、後年ハリプンチャイを襲って征服したパヤー・マンラーイが、余りにも仏教色が強過ぎるとハリプンチャイに居を構えることを躊躇い、わずか二年にしてピン河を北上した先にある小さな集落ウィアン・クムカームを仮の都とした程でした。

(続)

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
mana
mana
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(37)
  • はたやん
  • せいちゃん
  • badboy
  • 初詣は靖国神社
  • よっしー
  • ヘムレンしば
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事