チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チャーマテーウィー伝

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ナーン・チャーマテーウィー伝−14−

ムアン・ハリプンチャイと故地ムアン・ラウォーとの数度にわたる戦いは、いずれのムアンも決定的な勝利を得ることが出来ませんでした。ムアン・ハリプンチャイとしては、ラウォーの開放に成功しなかったとはいえ、ラウォーの侵攻をも食い止めることが出来たので、まずは一安心だったのでしょう。

そんな幸運ともいえる出来事に、ハリプンチャイの官民は安堵し、町を飾りつけると神々を祀りました。

そんな人々の信仰心を愛でたのでしょうか、シヴァ神がヤーンサーイ樹(MAI YAANG THRAAY)と言う名前のフタバガキ科の樹を生ぜしめたといいます。この樹は今どこにあるのでしょうか。チエンマイからラムプーンに向う旧道のヤーン樹の並木は明らかに後世のもので、この話のものとは違います。

この樹は、シヴァ神の霊力によって地上に芽吹いたご神木に相応しく、成長すると、不思議な白い鶏がどこからともなく表れてこの樹の頂きに住み着き、その美しい鳴き声は人々の心を和ませたと言います。

一方、ハリプンチャイの人々の心を和ませた白い鳥の美しい鳴き声は、どうした訳か、クルン・ラウォーにまで響き渡るようになりました。しかし、クルン・ラウォーの人々はその白い鳥の鳴き声に心を和ませるどころか、恐怖に慄き、心振るわせたといわれます。

その鳴き声を聞いたクルンラウォーの王は、あたかも今正に鶏に捕らえられるのではないかと言う恐怖心を起こすと心落ち着きませんでした。そこで、占星術師たちを呼び寄せてその対策を講じさせました。

占星術師たちが言うには、「そのムアン・ハリプンチャイの守護鶏は、生まれたばかりであり、如何程の威力を持っていようとも、この世に現れて久しい大人であり、あらゆる事象を知る、プラ・ナコーン・ラウォーを守護する守護霊に匹敵する周到な能力は持っていないでありましょう。その守護霊を呼び寄せ、敵王の鶏の命を滅ぼしに行かせるべきであり、きっと成功するでしょう。・・・」と言うものでした。

かくして王の命を受けた守護霊は、沙弥に身をやつすと、ハリプンチャイにやってきました。沙弥は各地を白い鶏を求めて歩きましたが、どこにもそれらしい姿を見出すことができませんでした。

サルイ(SLUY)と言う名前の川にやってくると、そこには川の精がいました。ムアン・ハリプンチャイ守護の精霊の一人であるこの川の精は、眼に前に現れた沙弥がムアン・ラウォーからやってきた守護霊で、白い鶏殺害を目的とすることを察すると、ワニ(KUMPHIIL)に姿を変えて沙弥と戦いました。

余談ながら、ここに出て来るクムピーと言う言葉で表されるワニは、現実のワニというよりも想像上の動物と考えたほうがいいかもしれません。通常現実のワニはジョーラケー(COORAKHEE)と言います。日本で金毘羅さんと親しまれている讃岐金刀比羅という言葉は、ここで使われている KUMPHIIL と言う言葉に拠ります。思えば,金毘羅さんも海の神様で水に関係深いですから、原意が川のワニでることとどこかで繋がっているような気がします。

ワニと沙弥の戦いは、ワニが沙弥の体に噛み付いて噛み千切ることで勝負は決しました。勝負に敗れた沙弥の体から流れた血が川を下ってラウォーに流れ着くと、ラウォーの君臣は、自国の守護霊の敗北を知り、茫然自失として、気力も失せ、その後ムアン・ラウォーは衰退の一途を辿ったと言います。

こうした伝承は、ラウォーより放たれた密偵が道に迷った挙句に川でワニに咬まれて亡くなった、と言う事実を伝え残しているのでしょうか。

衰えるラウォーとは逆に栄えるハリプンチャイでは、プラチャウ・アーティットラートが新宮殿の建設を思い立ち、それに付随して厠を建設しました。

しかし、その厠建設の場所は、尊い仏舎利の安置場所であったようです。

プラチャウ・アーティットラートがそこに用足しに出ると、決まって1羽の白いカラスがどこからともなく飛んで来たといいます。烏は王の頭上を飛び交うだけでなく、突付き、羽で打ち、時には汚物をすら王の頭上に落としました。

度重なる不埒な白い烏の仕業にプラチャウ・ティローカラートは、側近にその捕獲を命じました。しかし、如何に努力し、鳥の捕獲に熟れた人を使っても白いカラスはそんな努力をあざ笑うかのように飛び回っていました。

白い烏は単なる烏ではなく、烏の王(PHAYAA KAA PHUAK)の孫だったのです。

そこで、プラチャウ・アーティットラートは、守護霊を祀る儀式を執り行って白い烏捕獲の援助を求めました。すると、不思議なほど簡単に捉えることができたと言います。王は、捉えた烏に神秘なものを感じると、殺す代わりに籠に入れておきました。

この話は、文部省の中等教育副読本「北の町の物語−重要人物編」にもほぼ同じ内容で収容されています。

王が白い烏を檻に入れて置いたその夜、夢に神が現れて言いました。その時の模様をその副読本では次のように記しています。

「王は、生まれて7日になる子供を連れて来るがよい。連れて来て烏の鳥籠と一緒に置き、子供に烏の鳴き声を毎日聞かせるがよい。さすれば、烏の言葉を解するであろう」

即ち、白い烏は王に何かを伝えようとしているのですが、それを解する為には生後7日の赤子に烏の言葉を習わせるしかない、と言うものでした。

こうして、烏と人間の赤子との奇妙な共同生活が始まりました。人間の赤子が成長して烏の言葉を解する頃には、烏もまた人間の言葉を解するまでになっていました。

子供が烏の言葉を解することを知ったプラチャウ・アーティットラートは、勅命を発して、子供に事の次第を烏から聞き取らせました。

烏が言うには「我が主たる王よ、王が御不浄所を建設された所は、仏陀の遺骨を安置する場所でこそあります。・・・遥か以前、この私の祖父である白烏の王がこの場所を守護しているように命じました。この地が聖なる地であることを知らない大王が清浄ならざる糞尿を流すであろう。そこで、私は、その場所において下品なことをされません様にと警告する為に不遜なことをなして妨害しました。もし王が私の言葉をお信じになられないようであれば、どうか、私を籠より離して下さい。私は、ヒマラヤの森より我祖父である白烏の王を連れて来て、詳細に亘って王に知らせるでありましょう。」

こうした話を聞いたプラチャウ・アーティットラートが白い烏を解放すとヒマラヤの山に向って飛んでいきました。やがて白い烏は白いカラスの王を伴って帰ってくると、白い烏の王は、仏陀の予見を告げ、法を説いて聞かせました。法を説き終わると、従者共々ヒマラヤの森に帰っていきました。

残されたプラチャウ・アーティットラートは、宮殿を打ち壊し、厠を壊して不浄を取り除き、土を埋め、そこに砂と金粉をふりかけ、芳香ある花で飾って仏舎利を供養しました。又住民にも仏舎利供養を命じると、人々は線香・蝋燭・花を手に供養にやってきました。

すると、そこから仏舎利を収めた箱が現れたと言います。しかし、副読本では、その箱は、「粉塵のように小さな仏舎利を収めた宝石箱」となっていますが、「ヨーノック王朝年代記」では、「バナナの蕾程の大きさの仏舎利を収めた宝玉の骨壺」となっています。

仏舎利の奇跡を目の当たりにして、プラチャウ・アーティットラートは、仏舎利を元の通りに地中に埋めると、その上に仏塔を建立し、周りに様々な堂を建立して寺院としました。

即ち、これが現在に至るもラムプーンの名刹として人々の信仰を集めているハリプンチャイ寺院(WAD HARIPHUNCHAY)です。

こうしてハリプンチャイに平和が訪れましたが、プラチャウ・アーティットラートの役目も終わったのでしょうか、間もなく亡くなりました。が、享年何歳であったのか伝承は残していません。

その後8代の王が続いた後、2代に渡って側用人が統治したと言います。

その後再び王家に戻り、5代の後、ハリプンチャイ王国最後の王パヤー・バー(PHAYAA YIIBAA)の時代に至りました。

(了)

ブログ仲間のご親切なご指摘を頂きましたので、訂正させて頂きます。
上より10行目

>心を和ませた白い鳥の美しい鳴き声

ココに出ている「鳥(とり)」とは、「鶏(とり)」のことで、変換間違いに気付きませんした。
ココに確認の上訂正させて頂きます。
(12/Aug.)

ナーン・チャーマテーウィー伝−14−

コレラの蔓延が収束し、ムアン・ハリプンチャイに帰ってきた住民は、再び平穏な生活の日々に戻り、稲刈りも終えた現代陽暦の11月の満月の日には河に供養の品々を流す習慣が続いていました。

しかし、この頃の王は誰だったのでしょうか。

「ヨーノック王朝年代記」であろうと、ハンス・ペンスの「ラーンナータイの成り立ち」であろうと、この点について余り述べていませんが、ただ言えることは、正体不明の王たちがどこからか表れてはハリプンチャイを支配し、一代にして消え、次の正体不明の王に変わっていくという現象が起こっていたようです。

ハンス・ペンスの論文では「次に仏暦1630年(西暦1087年=MANA 注)頃ムアン・ラムプーンは二度に渡って占領された。一度目はムアン・タムイ・ナコーン(MUANG THAMUY NAKHOOR)よりのアンクルット・チャッカワット(ANGKUR CAKRWATI)がムアン・ラムプーンを占拠支配すること9年にして崩御した。二度目は、スッパーン・ナコーン(SUPPAAL NAKHOOR)よりの王が占拠支配したが間もなく崩御した。
 この二人の王が誰で、二つのムアンがどこに位置しているのか不明である。」と述べています。

これに対し「ヨーノック王朝年代記」では、ハンス・ペンスの論文で言うところのアンクルット・チャッカワットに相当するアントルー・チャッカパット・ラート(ANGTRUU CAKRAPHARTI RAACH)を含めて9人の王の支配を名前を挙げて記しています。

こうした正体不明の王の後に名君というかハリプンチャイ王国最盛期の王プラチャウ・アーティットラ−ト(PHRACAU AATHITY RAACH)の時代を迎えます。

ただ、この王がどこから来たのか、手元にある資料には出ていません。これも「プーンムアン・ラムプーン伝」、仏教の動きを中心に歴史を追った伝承本「チンカーンマーリー・パコーン(CHINKAALMAALII PAKORY)」その他原資料などが手に入れば何とか分るのかも知れませんが、今は未入手ですので、何ともいえません。

このプラチャウ・アーティットラートは、大変に勇敢というか戦闘能力に自信を持っていたようで、遥か南のムアン・ラウォー攻撃の軍を起こしました。

時に仏暦11690年頃のこととされています。

この時の模様を「ヨーノック王朝年代記」は、「ある時、全土に威令を広める為に、王は、戦闘能力を試したく思い、多数の軍勢を調えると、ムアン・ラウォー・マハーナコーン攻撃に軍を挙げました。」と記しています。

しかし、伝承に見るこの時の両軍の戦闘というものは異様なものでした。大軍を繰り出した攻城側に対して、守備側では城を固く閉じて堅守の方針を貫き、戦闘状態に入りませんでした。

プラチャウ・アーティットラートは痺れを切らせ、書状を持って交戦するよう挑発しましたが、これに対するムアン・ロッブリーのソムデット・プラチャウ・ロッパラート(SOMDEC PHRACAU LOPH RAACH)からの返書というものは、戦闘を拒否するものでした。

大王たるものが軍勢を持って矛を交えることは適当ではなく、「・・・思慮分別ある善人が非難するところであり、勝敗いずれにしても、名誉とはならない。・・・正法を持って戦うであろう。・・・」と返事をしました。

そのロッブリー側の正法による戦いというのは、仏塔の建立競争を提案するものでした。即ち、ロッブリー側は城内に高さ15ワーの仏塔を一昼夜のうちに建立し、ハリプンチャイ側は同じ大きさの仏塔を城外に建立してどちらが完成度の高いものとなるかを競おうというものでした。

15ワーの仏塔とは30メートルの仏塔であり、いかにも大き過ぎるように思います。ただ、後の事を考えるとあるいはそう持ちかけたのもあながち嘘ではないかもしれません。

この申し出に対し、プラチャウ・アーティットラートは、自軍の兵力の多いことを恃みに楽勝であると判断して承諾しました。

勿論劣勢のロッブリーは、十分に勝算があるものとの判断での提案でした。

すなわち、土を盛り上げて通常に仏塔建立のやり方をとるハリプンチャイ側に対し、ロッブリー側では、城内の大工を集めて仏塔形の木枠を作らせると白い布で包みました。そして頂上部分に仏塔の尖塔を突き刺すと、夜間にそれを規定の場所に立ち上げたのです。そして、夜が明ける前に仏塔全体に漆喰を塗り、基壇部に赤い石を敷いたといいます。

夜明けを待って鉦太鼓を連打して、仏塔の完成を伝えると、それを目にしたハリプンチャイの兵たちは驚きあわてて逃げたといいます。ロッブリー側は多数の戦利品を獲得して、張りぼての仏塔を壊すと新たに正規の仏塔を建立しました、これが後に伝わるチェディー・プラーン(CEDIIY PHRAANG=偽りの仏塔)でした。一方ハリプンチャイ側が建立を手掛けたままの仏塔も引き続いて完成させるとチェディー・メーン(CEDIIY MEENG=ラーマンの仏塔)と名付けたといいます。

こうした姦計による勝利に味を占めたソムデット・プラチャウ・ロッパラートは、ハリプンチャイ攻略の好機と判断し、息子に全軍を指揮させて北上軍を起こしました

ロッブリー側の戦意高揚を目にした、プラチャウ。アーティットラートは、先の敗戦の雪辱を果たそうと姦計を持って挑戦を受けました。即ち、両軍は先の大戦同様軍を動かすことなく、正法に則って競おうというのです。先には仏塔建立でしたが、今度は互いに同じ大きさ、深さの四角形の池を掘ろうと提案したのです。しかし、単に池を掘るのではなく、使用する道具は、槍の柄だけを用い、所要時間は先と同じく一昼夜としました。

これを了承したロッブリー軍は、全軍の兵士が正直にあるだけの槍の柄をもって来て掘り始めました。これに対して、ハリプンチャイ側では、日中こそ槍の柄を使いましたが、日が暮れるとどこからか掘り棒を持ち出し、スコップを持ち出して来て掘りました。

明け方には勝負はついていました、ロッブリー軍は武器をも捨てて逃げ帰り、ハリプンチャイの人々は、そこをノーン・モー(=鍋沼)と呼び、道具を使って掘った池をノーン・パーン(=悪辣な沼)と呼んだといいますが、とすると自分たちでも卑怯であることを知っていたことになりますね。

自らの息子が敗軍の将として帰って来たことを知ったロッブリーの王は、怒りの余りに戦略優れた側用人の息子を司令官に選ぶと、ハリプンチャイ攻略に差し向けました。しかし、この軍は密林に迷い込んだのか、ハリプンチャイ守護の神々のなせる業なのか、どうしても迷路を抜け出すことが出来ませんでした。

それを知ったプラチャウ・アーティットラートは、直ちに出陣を命じ、ロッブリー郡を包囲しました。時にロッブリー軍は食料に事欠き、戦意はなく、なす術もないままにハリプンチャイに捕らえられました。
敗戦を知るとロッブリーでは、別の側用人の息子を司令官として三度送り出しましたが、この時も同じように道に迷っているところをハリプンチャイ軍に攻撃されています。

こうしてプラチャウ・アーティットラートのロッブリー侵攻に始まる両都の戦いは、共に志を遂げることが出来ませんでした。ロッブリーのハリプンチャイ攻略軍は三度に渡ってハリプンチャイ攻撃に失敗すると、その後二度と北上軍を挙げようとはしませんでした。

この戦いのきっかけとなったプラチャウ・アーティットラートの戦争目的は何なのでしょうか。

思い返せば、ハリプンチャイを建設したチャーマテーウィーたちモーン族の故地ロッブリーは、前述の通り既にクメールのスールヤヴァルマン一世と思われるクメール族に支配され、その後もクメールの支配下にあったことを思えば、プラチャウ・アーティットラートが戦端を切ったのは、あるいはムアン・ラウォー開放を目的としていたのかもしれません。

既に150年近い年月が経過していましたが、ハリプンチャイにとってラウォーを支配し続けるクメールは許せなかったのでしょうか。

ハンス・ペンスの論文では「伝承に従えば、ロッブリー側を呼ぶのに『カムポート(KAMPHOOCH)』といい、ラムプーン側を呼ぶのに『ハリプンチャイ』もしくわ『ラーマン(RAAMAN)』といっている。」と記しています。

ここでいうラーマンとはモーンのことで、カムポートとはカムボジア、即ち、クメールに他なりません。
つまり、ロッブリーとハリプンチャイという二都の間の戦いは、モーンとクメールという二つの民族の戦いであることを伝えています。

(続)

故地ラウォーとの戦い

ナーン・チャーマテーウィー伝−13−

短命な王が続いたあと、「ヨーノック王朝伝」では、勇名を馳せたプラチャウ・ワッタラーサタカ・ラート(PHRACAU WATRAASATKA RAACH)が王位に就き、その2年数ヵ月後には、彼らハリプンチャイに住むモーン族の故地ムアン・ラウォー攻撃の軍を挙げたというのです。

商圏争いが原因なのでしょうか、それとも既にチャーマテーウィーより後200年余が過ぎて故地とはいえ、ムアン・ラウォーは競争相手に見えていたのでしょうか。伝承は南下の理由を記していません。

一方、ハリプンチャイからの南下軍の報を受けたムアン・ラウォーには、ソムデット・プラチャウ・ウッチッタカ・チャッカワットラート(SOMDEC PHRACAU UCCHITTHAKA CAKRWARTIRAACH)という名前のこれまた勇猛な王がいました。彼は、南下軍の知らせを受けると怒りに燃えて領内に一歩たりとも踏み入れさせるべきではない、と檄を飛ばして都を出て、北に迎撃体制を敷きました。

ラウォーの町の遥か北で衝突した両軍は、互いに力戦及ばず勝敗を決することが出来ませんでした。

しかし、この同じ内容を先のハンス・ペンスの文章では両軍は戦っていません。又両国の王の名前にも齟齬がありますが、名前の齟齬はしばしばあることでさしたる問題ではありませんし、この時両軍が戦ったかどうかはさして大きな問題ではなかったようです。

なぜなら、両軍が戦闘体制に入っている時、その間隙を衝いてでしょうか、ナコーン・シータムマラートの王が大軍を擁して水陸両面よりこの戦場に向っていると言う報が両軍に届きました。

17万という想像を絶する軍勢に恐れをなした両軍は、もう互いに戦いのことなど忘れて、この第三の軍に対する対応に迫られました。それは、奇しくも同じ対応でした。

即ち、第三の軍から一刻も早く逃げることでした。しかも南はナコーン・シータムマラートの王に抑えられていて、ラウォーの軍さえ自らの国に帰る事が出来ませんでした。

この時、ラウォー軍とハリプンチャイ軍は、共に北の方向に望みを託しました。時に水路を下って来たハリプンチャイ軍が水路を遡って帰国の途についたのに反して、ラウォー軍は陸路を急ぐことにしました。
この時、ラウォーの王は次のように兵に告げたと伝承は残しています。

「・・・今、プラチャウ・シータムマ・ナコーン(PHRACAU SRIITHARMA NAKHOOR)が戦陣を敷いて道を塞ぎ、我らは、もう自らのムアンに引き返すことが出来ない。我らは、ムアン・ナコーン・ハリプンチャイを奪うべきであり、きっと容易く手に入るであろう。何故なら、ムアン・ハリプンチャイの者どもが引き返していく道は、水路であり、水は流れが激しく、迂回路であって、遅い。我らが行く陸路は、直線路であり、きっと先に到着するであろう。・・・」というものでした。

そして、その王の判断は正しく、ラウォーの軍は、ハリプンチャイの軍に先立ってムアン・ハリプンチャイに到着しました。王は、軍がムアン・ハリプンチャイに近づくと、人目に付かない場所に軍を潜ませ、夜間になるのを待って行軍を再開しました。そして、朝方城門に辿り着くと、捕虜にしているハリプンチャイの兵に国王のご帰還を告げさせました。
城内から守衛の兵が城門を空けると、雪崩を打ってラウォーの兵が入場し、瞬く間にハリプンチャイを占領しました。

その後間もなくハリプンチャイの軍が帰還しましたが、入城することが出来ず、先に入城していたラウォー軍と戦闘が始まりました。しかし、戦いに利あらずして本来の主であるハリプンチャイの王は、多数の兵を失い、敗残の兵と共に遥か南に逃れえた、と伝承は結んでいます。

こうしてハリプンチャイから仕掛けられた戦いは、ハリプンチャイの町を失い、敵のラウォー軍の手に落ち、しかもラウォーは、第三のクルン・シータムマ・ナコーンの王に奪われるという予想も付かない結果に終わり、しかもハリプンチャイの王自らはその後消息すら聞かれません。

ハリプンチャイを占領したソムデット・ウッチッタカ・チャッカワット・ラートは、旧来のムアン・ハリプンチャイの国王プラチャウ・ワッタラーサタカ・ラートの后と婚姻し、正式にムアン・ハリプンチャイの王となりました。

一方、ムアン・ラウォーを占領したムアン・シータムマラートの王は、クルン・ラォーに入城すると神々を祀り、自らの母の像と共に城内の神像を祀りました。不思議なのは、この時どうして仏教式に仏像を祀ることなく神を祀り、母の像共々神像を祀ったのでしょうか。

かくして3年、ラウォーを占拠したプラチャウ・シータムマラートには、ラムプーン伝でカムポーチャラート(KAMPHOOCHA RAACH)と呼ぶ一人の王子がいました。彼は、自らの有する財だけでは満足できず、ムアン・ハリプンチャイを求めて兵を挙げたといわれています。しかし、ハリプンチャイ側の反撃に遭うと惨敗し、ほうほうの体で自らの国に逃げ帰りました。

一方、ハリプンチャイの側では、敵を撃退すると、国の守護霊を祀り、石版に呪いの言葉を刻んで、ハリプンチャイ占領を意図するいかなる国王といえどもこと成就することなきよう祈願して、町の西方に埋めたといわれます。王は、王位にあること3年の短い期間にして病に倒れたといわれます。

こうしたことは何を意味しているのでしょうか。いきなり理由もなくハリプンチャイがラウォー攻撃に向
かい、場外に出て迎撃するラウォー軍の隙を付いて遥か彼方のムアン・シータムマラートの軍が攻め上ってくる。しかもその後3年にしてカムプーチャラートが北上してハリプンチャイを攻撃する。

この疑問の答えは、ハンス・ペンスの前述の論分の中にあります。
即ち、少なくとも仏暦1565年以降のロッブリーは、クメールの支配下にあり、同じ頃のナコーンシータムマラートもまたクメールの影響下にありました。即ち、こうしたモーン族間での闘いと遥か南部からの軍の移動の鍵はクメールの勢力拡張にあったようです。時のクメールの王は、かの有名なスリヤヴァルマン1世でした。

こうしたことから、ハンス・ペンスは「・・・ムアン・ラムプーン伝における『カムポーチャラート』とは、スリヤヴァルマン本人、もしくは彼の部下の司令官かもしれない・・・」と記しています。

この時期は、クメールの西方への勢力伸張の時期と重なっていたのです。クメールの西方進出に抵抗するモーン族の戦いを援助するべく遥かハリプンチャイから援軍をして出陣したが、遥か南のクメールの影響下にあったナコーン・シータムマラートからの大軍を見て恐怖の余り北に逃げたのが真相かもしれません。

そんな大きな民族の流れ、歴史の流れの中に遥か北の山の中に位置する小さな国が巻き込まれていたのです。

ソムデット・ウッチッタカ・チャッカワット・ラートが病に倒れた後、王位に就いたのが、プラチャウ・カモン・ラート(PHRACAU KMO)RAACH)でした。そして、その次の王、プラヤー・チュレーラ・ラート(PHRAYAA CULEERA RAACH)の時代、ハリプンチャイを恐ろしい疫病、コレラが蔓延し、住民はいることが出来ず揃って現在のビルマ国内にあるムアン・サターム(MUANG SATHAAM)に避難したといいます。

しかし、ムアン・サタームでは同じモーン族ながら住民たちと必ずしも平和裏に共存できなかったようで、人々は誘い合わせて今ひとつの同族の住む町、パコー(PHAKHOO)、即ち、現代のペグーに向いました。ペグーの人々はハリプンチャイよりの避難民を暖かく迎え入れ、融和して親しみ、一つの社会を形成しました。

こうして避難生活6年が経過し、中には地元民と結婚生活を始めるものも出て来ましたが、やはり捨ててきた故国のことが気になりました。既にコレラの恐怖も沈静化し帰国の途に付く人、そのままペグーに残る人様々でしたが、互いに親愛の情は保ち続けたようです。

こうして6年ぶりに故国に帰ってきた人々は、どうしてもペグーに残る親戚知人のことが忘れられず、毎年決まった月になると河に食物を流してペグーの親戚への供養とした、という説があります。

そして、現在、チエンマイ、スコータイで有名なローイ・クラトーンという伝統行事の源も案外このハリプンチャイの人々が避難先に残った親戚への供養に河に食物を流したことに始まるのではないかとも思えます。

(続)

国家存亡の危機

ナーン・チャーマテーウィー伝−12−

創業の王亡き後を継いだマハンタヨットの王子ドゥーマン・ラート、その後アルノータイ(ARUNOOTHAY)、スワンナマンチャナ(SUWARNNAMANCHANA)と続く間、ムアン・ハリプンチャイは平安で、人民は何不自由のない穏やかな日々を過ごしていたといいます。

ところが、スワンナマンチャナの死後、サンサーラ・ラート(SANGSAARA RAACH)という名前の王子が王位を襲いましたがこのサンサーラ・ラートの頃からどうもハリプンチャイに暗雲が立ち込めるようになったようです。

マハンタヨットの死後200年近くが既に経過していました。

このサンサーラという名前からしてどうも縁起がよくないのでしょうか。これはそのまま仏教で言うところの輪廻を意味し苦界を意味します。同時に日常タイ語にあってはそれは「哀れ」「可哀相」という意味にも通じます。

彼はこれまでの国王たちが国王に相応しい正義に則った手法で国を治めていたのに反し、正義に基づかなかったようです。その内容は詳しく記されていませんでしたが、悪友と交わり、非道の行動をなしていたようです。朱に交われば赤くなるの喩え通り、選ぶ仲間を間違えたようですが、その仲間というのがどういう人物であるのかまでは寡聞にして知りません。

治世わずか10年にして崩御すると、王子のプラトゥム・クマーン(PRATHUM KUMAAR)が後を襲って王位に就きました。この王は、父王とは異なり、慈悲の心篤かった模様で、「ヨーノック王朝年代記」では「・・・4箇所の貧民救済所を建設し、寺院、庫裏、御堂を建立して僧団に献上し、善行を欠かしませんでした・・・」と記されています。

こうした王の善行も暗雲を払うことは出来なかったようです。王位にあること30年にして崩御すると、次にクラテーワ(KULTHEEW)という名前の王子が王位に就きました。
こうした古い時代よりバラモン僧による占星術が王室内に深く浸透していたらしく、このクラテーワの治世7年の年、占星術師たちが揃って卯の年に災いが起こる。ついては儀式を執り行って神々に祈りを捧げ、国と国王に対する神の御加護を求めるよう進言しました。

こうした進言に対し、王は「・・・誰かに降りかかって来るであろう禍と言うものは、誰が押し止めることが出来るであろうか。なる様にしかならないものである。」と告げたとされています。まるで唯物論者・運命論者のような言い方ではあります。こうした王の言葉に占星術師たちはそれ以上の助言も進言の言葉もありませんでした。

その予言の年、仏暦1441年の卯の年(西暦898年)予言の言葉が現実となってムアン・ハリプンチャイに襲い掛かりました。即ち、遥か北方のムアン・ヨッサマーラー・マハーナコーン(MUANG YOSMAALAA MAHAA NAKHOOR)のプラチャウ・ミラッカ・マハーラート(PHRACAU MILAKKHA MAHAA RAACH)と言う名前の王が、軍を挙げてムアン・ハリプンチャイを包囲しました。

ここに出てくるミラッカというのも、チャーマテーウィーに恋して戦闘を持ち掛けたミラッカの王と同じように未開の王・異郷の王という風に捉えて固有の人名と考えない方がいいのかもしれません。

この時のことを、アメリカ人の古代ラーンナー文字研究第一人者であるハンス・ペンス博士は、チエンマイの三大王銅像建立記念式典記念本「ラーンナータイ」への寄稿文「ラーンナータイの成り立ち」と中で次のように述べています。
「ムアン・ラムプーン伝に拠れば、大凡仏暦1500年頃、ムアン・ヨッサマーラーもしくはナコーン・サッパーン(NAKHOOR SAPPAAL)の2-3人の「ミラッカ」の王(即ち異国、もしくは未開国の王)が一時期占拠して支配した。歴史学者は、三人の王のうち少なくとも一人は、ムアン・セーンウィー(MUANG SEENWII)、もしくわ、ムアン・パーン(MUANG PHAAN=パン(MUANG PAN))からやってきたタイ・ヤイ族であろうと考えている。ムアン・セーンウィーは、ムアン・ラムプーンの西北方向直線路で約540キロに位置し、ムアン・パーンはムアン・ラムプーンの西北方向約200キロの距離に位置し、ムアン・セーンゥイーとムアン・パーンは現在のビルマ国内に位置する。」と記しています。

即ち、現在のビルマの地にある、遥か彼方の国よりハリプンチャイを攻撃にやってきた異民族がいたのです。もちろん彼等は、現在のチエンマイから東北方向に向う道ではなく、まっすぐ北方に向い、そして、山を越えて東に出たと思われます。

余談ながら、かつてビルマから山を越えて大量に入ってきた回族は、今も国境周辺に多くいますが、チエンラーイの北部チエンセーンに向う途中の山ドーイ・メーサローン(DOOY MEESLOONG)の頂に元中国国民党の村があり、そこに中国語を倣いに行く人たちは、最近まで、チエンマイからまっすぐ北上する古いルートを使い、それが近道であるといいます。

こうして遥か彼方よりの敵襲にクラテーワは抗することが出来ず、敗走しました。城主のいないハリプンチャイに入城したミラッカは、見事占拠・支配を成し遂げました。

ところが、約1年が経過すると、更にミラッカ・トライラート(MILAKKHA TRAI RAACH)ともミラッカ・ラート(MILAKKHA RAACH)とも呼ばれる王が軍を率いてムアン・ハリプンチャイを奪い取ったといいます。

これはハリプンチャイという最新文明、宗教を持って栄えるモーン族の最先端基地であるハリプンチャイをはるか彼方に住む異民族が知っていたこと、そして、彼等は逆に南下してハリプンチャイを襲ったことを伝えていますが、それが一度ではなかったことに注意したいです。

どうして数百キロも離れた町にハリプンチャイの存在が知られていたのでしょうか。まるで遥か後年パヤー・マンラーイがハリプンチャイの豊穣さを仄聞して手に入れたいと思ったことに似ているようにも思えます。

これは、ハリプンチャイというムアンそのものがモーン族の交易路上の中継基地として位置付けられていたと考えられますので、彼らハリプンチャイの商人たちは、南下してロッブリーの人々と交易し、そして北上して現在のビルマ領内のモーン族国家の人々と交易していたでしょうから、この通商路上に位置する諸部族はハリプンチャイの隆盛を耳にしていたものと思います。

そして、面白いのは、「ヨーノック王朝年代記」はチャーマテーウィー本の解釈ではトライ(TRAI)とはタイ(TAI)もしくはタイ(THAY)を表す、ことを述べています。ということは、既にこの頃遥か後年のパヤー・マンラーイのハリプンチャイ占拠よりも早くこの地にタイ族が紛れ込んでいたことになります。
このタイ族と思われる王の統治もわずか1年に過ぎなかったようです。

伝承は様々なことを述べていますが、ムアン・ヨッサマーラー・マハーナコーンのプラチャウ・ミラッカ・マハーラートの襲撃に耐え切れず、サミンカ・ナコーン(MUANG SMINGKHA NAKHOOR)に逃げていたクラテーワ・ラートもしくはその王子がムアン・ハリプンチャイを奪い返したようです。

こうして異民族支配を脱したハリプンチャイは、不思議なことに次々と変わる王は誰もが短命でした。
「ヨーノック王朝年代記」は、チャーマテ−ウィー本とラムプーン伝を引用していますが、両書に見る後継諸王の統治年にはかなりの隔たりがあり、原書を読んでいないあたしには是非を判断する術がありません。

たとえば、異民族からハリプンチャイを奪い返した後、1年と三ヶ月にして王が崩御すると、ノーカ・ラート(NOOKA RAACH)とも、チョーティ・ラート(CHOOTI RAACH)とも呼ばれるプラチャウ・クラテーワ・ラートの孫が王位を継承しましたが、その統治は、ラムプーン伝では、4年と7か月、チャーマテーウィーウォン本では、わずか7か月にすぎません。また、続くプラチャウ・パーラ・ラート(PHRACAU PHAALA RAACH)がチャーマテーウィー本では二か月半、ラムプーン伝では、10年と二か月半にして崩御しました。次のプラヤー・カンラヤーナ・ラート(PHRAYAA KALLAYAANA RAACH)とも、プラチャウ・クタ・ラート(PHRACAU KHU9A RAACH)は、チャーマテーウィー本では三か月、ラムプーン伝では3年と六か月にして亡くなりました。

このように統治年数に一致を見ませんが、幾代もの間比較的平安がもたらされたようです。
しかし、歴史は永久の平安を許さなかったようです。今度は南の方から暗雲が垂れ込めてきました。

(続)

王国創業期の終焉

ナーン・チャーマテーウィー伝−11−

遥か南の国より身重の身体で北上して来たチャーマテーウィーは、ステーワ仙の建設したムアン・ハリプンチャイの王位に就き、先住民のルアッとの戦いにも隠者の呪力を得て難なく勝利しました。そして、ハリプンチャイの統治を双子の王子の長男、マハンタヨット王子に譲り、次いで弟のアナンタヨット王子の求めに応じて今ひとつのムアンを東に方向に建設しました。マハープローム仙の力によって建設されたケーラーンカ・ナコーンがアナンタヨット王子の国となりました。

新たな都の王となったアナンタヨットを祝して長兄のマハンタヨットのみならず多数の隠者、行者たちが多数の高級官僚共々集まりました。

この時はどうやら季節としては乾季だったようです。

王位就任の祝賀行事を終えたチャーマテーウィーとマハンタヨットは、あの伝説のラムパカッパ・ナコーンの仏舎利塔拝礼に向いましたが、飲み水にも窮したようです。そこで、チャーマテーウィーは、天に願をかけ、従者に近くに井戸を掘らせると、そこに水が湧き出して井戸となったというのです。

その井戸が「恵みの井戸」とでも訳すのでしょうか、ボー・ナームリアン(BOO NAAM LIANG)といわれているそうです。

今、手元に西暦1987年著の「ポンヤーンコック寺院のチャーマテーウィー堂(WIHAAR CAAMTHEEWII WAD PONGYAANGKHOK)」という書物があります。残されている写真に見る寺院は数百年前の旧い形式の木造建築できれいの彫刻が施されています。そして、その境内に一本の菩提樹(KAU MAI SALII)があり、その横にレンガで囲われた井戸があります。その井戸こそがチャーマテーウィーが祈願して出来たボー・ナームリアンだとされています。

聖地参拝を終えたチャーマテーウィーは、ついで新都の北に位置するドーンプラヤイ(DOONPLAYAI)という場所に向い、一対のチークの木の木陰で休息して千年の寿命を祈願したといいます。すると、チャーマテーウィーの願いが仏舎利に届いたのでしょうか、ニレ科の高木クラチャウ(TON KRACHAU)の頂きが神々しく耀きました。その木こそは、仏舎利を求めてやってきたパララート・ナコーンの王が、チャンテーワラートの仏塔守護の為に仕掛けた仕掛けが敗れないままに掘り返した土を埋め戻し、その中央に目印として植えていたものでした。

その一対の木は、チーク兄弟木とでも訳すのでしょうか、サック・ソーンピーノーン(SAK SOONG PHII NOONG)と呼ばれた、といいます。

こうして次男のアナンタヨットが希望した通り、一国の城主という地位に就き、ハリプンチャイを支配する長男に対して、ケーラーンカ・ナコーンを統治することに成りました。この新都は、マハー・プローム仙の霊力によるものか、何不自由することもなく豊穣の都であり、アナンタヨットの徳を慕ってか、ミラッカ人が集まり住み着くようになりました。

このミラッカ人とは特定の民族名であるよりも未開の民、であろうとされています。そして、既述の通り伝承ではこの地の先住民ルアッ族の王としてミラッカという呼称を使っていますので、多分ルアッと同じ種族の未開の民ということになるのかもしれません。

母のチャーマテーウィーも既にハリプンチャイに引き返し、兄のマハンタヨットも既に新都にはいません。アナンタヨットは、一人ケーラーンカ・ナコーンを統治しながらも、マハー・プローム仙を拝する日課を欠かしませんでした。

しかし、その当時、まだ信徒には仏教は普及していなかったようで、アナンタヨットは、マハー・プローム仙に暇を告げると、母と兄のいるハリプンチャイに帰り、仏教普及の必要性を訴え、ハリプンチャイの僧とバラモンの招請を申し入れました。

このことは、仏教とバラモン教という異なる宗教が当時においても既に対等の立場であったことを示しているのでしょうか。現代タイ社会においても両宗教は対立・競合するものではなく、並立・共存するものとして人々の生活の中に溶け込んでいるようです。それは日本における神道の仏教の関係にも似ているように思えます。

マハンタヨットは、弟の願いを聞き入れ、そして、チャーマテーウィーはケーラーン・ナコーンに再び行幸しました。しかし、伝承は、アナンタヨットが母チャーマテーウィーに機嫌をとるようにしてケーラーンカ・ナコーンに長く留まるよう意を尽くしたと記していますから、既に年老いていたチャーマテーウィーに長途の旅はきつかったのでしょうか、ハリプンチャイが恋しかったのでしょうか、心安からなかったようです。

一方、アナンタヨットは、ケーラーンカ・ナコーンを母に献上するかのように、マハープローム仙を尋ねると、今ひとつのムアンの建設を願い出ました。

こうしてケーラーンカ・ナコーンの西南方向すぐ近くに出来た町が、アーラムパーン・ナコーン(AALAMPHAANGKH KHOOR)と呼ばれる町でした。この隣接する二つの町はいつの間にか一つのように人々に思われるようになると、ナコーン ・ケーラーン・ラムパーン(NAKHOOR KHEELAANGKH LAMPAANG)となったといわれ、これが現在のラムパーンの原型に過ぎません。

今に至るも、ラムパーンは時にケーラーンと呼ばれたりもしますが、厳密には同じ町ではなく別々の町であったことがこの伝承から分ります。

かくして二つの町が出来、アナンタヨットが統治することとなりましたが、それは実際に今においてもラムパーンとラムプーンを比べる時、ラムパーンが政治的にも経済的にも大きいことが分ります。しかし、ラムプーンは優れた宗教都市として栄え、ラムパーンもまたラムプーンの影響で仏教を広めたことが分ります。

しかし、チャーマテーウィーの望郷の念は絶ち難かった様で、新都ケーラーンカ・ナコーンに逗留すること6年にしてハリプンチャイに帰ることになりました。只、この時既にチャーマテーウィーは病に侵されていたようです。

マハンタヨットに温かく迎えられ、十分な世話を受けながらも病が軽減することなく、終に92年の生涯を閉じました。

今は二都の王となった残された双子の王子、亡き母チャーマテーウィーの葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付すと、ハリプンチャイの西方に黄金で覆った仏塔を建立してそこに亡き母の遺骨を納め、スワンナチャンコート塔(SUWARNACANGKOOT CEEDIIY)と名付けたと伝承は伝えています。

二人の王は丁重に亡き母の霊を供養すると、アナンタヨットは兄のマハンタヨットに暇を告げて、自らの両国ケーラーンカ・ナコーンに引き返していきました。そして、伝承は、残されたマハンタヨットは、80年の永きに亘って王位を守り、老いに倒れたと老衰による死を伝えています。

王位に就いたのが7歳とすれば87歳であったことになり、18歳であったとすれば、98歳の長寿になりますが、こうした年数はあてにはなりませんが、長寿はあったのでしょう。跡を継いだのは王子のドゥーマン・ラート(DUUMAN RAACH)であったとされていますが、その母は、あのルアッの王女なのでしょうか、それともステープ仙の使者となってロッブリーに下ったカワヤの娘なのでしょうか、伝承は、この点について何も残していません。

また、ケーラーンカ・ナコーンを統治するアナンタヨットもまた亡くなりました。しかし、その時何歳であったのかは述べられていませんし、マハンタヨットとどちらが先なのかもはっきりとはしません。只、遺体はハリプンチャイに運ばれて荼毘に付され、ハリプンチャイの東北方向に位置するマーンリワンの森(PAA MAALLIWAN)、すなわちヤーン樹の森(PAA MAI YAANG)に仏塔を建立して遺骨が納められました。
かくして数奇な運命のもとで遠く故郷を離れて身重の身を押して北上し、ハリプンチャイを建設したチャーマテーウィー、生まれた双子の王子と先住民との戦い、そしてケーラーンカ・ナコーンの建設、一連のハリプンチャイ王国の建設を見届けるように母子三人が世を去りました。

残された後継王に与えられた試練はまた母子にも増して激しいものでした。

(続)

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