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わたしたちの内奥にはある一つの原理があります。それが実際に神であるかはわかりません。しかし、わたしたちがそれに直接ふれたとき、思わずこう叫ばずにはいられないのです。
「これが、 神なのだ!」と。 * その思惟は思惟自身にもとづいてなされ、しかもその思惟がかかわるものはそれ自らで最善なるものをその対象としている。 そして、それが最高の思惟であるだけにその対象も 最高のものである。 理性は自らを思惟するが、それは思惟されるものを共有することによるのである。 なぜなら理性は「思惟されるもの」にふれることにより、すなわちそれを思惟しているとき、すでに自らその対象そのものになっているのだ。 それゆえ、ここでは 思惟するものと、思惟されるものとは、同じものである。 その理由は、思惟されるもの、すなわち実体を受け取るものは理性なのであるが、そして、まさにそれを所有しているその時にこそ、理性が現実に働いているのである。 したがってこの理性が保っている神的な状態は、それが単に「思惟されるもの」を受け取ることができる 状態というよりは、むしろ、現にそれを所持している 状態においてなのである。 そしてこの理性の活動。観照(テオリア)は、最も快であり、最善なものなのである。 もし、このような最高最善な状態に(わたしたちは ほんのわずかの時しかいられないのですが) 神はつねに永遠にいるのだとすれば、それは驚くべきことである。 しかも、さらにすぐれて善き状態にもしあるとすれば、さらに驚くべきことである。 ところが神は現にそうなのである。そして彼には、生が属している。なぜなら、理性の活動は生命であり、そして彼はその活動そのものなのだからである。 そして彼の活動は純粋に自身にもとづいており、それは最もすぐれた生であり、永遠の生なのである。 だから、わたしたちは主張するのである。 神は永遠にして最善の生きているものであり神には 絶えることのない永遠の生と生の持続が属するのである。 けだし、これが『神』なのだから。 アリストテレス 「形而上学」12巻−7 |
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