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5 純粋経験(直接体験)
経験するというのは事実そのままに知るということです。 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのです。 「純粋」というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。 こういえば、なんだか混沌として無差別の状態と思われがちですが、経験はおのずから差別相を具えているのです。 たとえば今視覚として現れた一経験を指してそれを「花」と呼びこれについて さまざまな判断を下しても、経験そのものの内容になんの豊富をも加えないのです。 経験の意味とか、判断というのは他との関係を示すことであり、原経験より抽象した一部であり、その内容においては、かえって貧弱なものなのです。 学者のいわゆる「客観的」な見方は抽象的なものです。色と形とをそなえ生き生きとした草木からもっとも遠ざかったものです。 事実上の花は決して学者のいうような花ではなく、色や形や香をそなえた、美しく愛すべき花なのです。 わたしたちのさまざまな 差別的知識は、原経験を反省し、分析し、言葉にあらわしたもので、抽象的な空殻なのです。 「善の研究」 西田幾多郎 |
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2019年09月30日
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真理の決定される所に、
直観がなければなりません。 直観のない思惟は空虚であり、思惟のない直観は盲目的です。 具体的思惟は一面に直観を含み、具体的直観は一面に思惟を含んでいなければならないのです。 [知的直観] 知的直観はある人には一種独特の 神秘的能力のように思われ、またある人にはまったく経験事実以外の空想のように思われています。 知的直観といえば主観的な働きのように聞こえますが、実は主客を超えた状態なのです。 むしろ主客の対立はこの主客合一の状態知的直観による統一によって成立するのです。 すべての関係の根底には直覚があり、関係はこれによって成立するのです。 「知的直観」より * 神を外界の事実の上に求めたなら、その神は仮定の神でしょう。 また宇宙の外に立ち宇宙の創造者とか、指導者とかいう神は絶対無限なる真の神とはいわれません。 古代におけるインドの宗教、ヨーロッパの15〜6世紀に盛んであった神秘学派は神を内心における直覚に求めています。 これが最も深い神の知識であると考えられます。 「実在としての神」より 西田幾多郎 『自覚について』より |
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