<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>第一原理を考える</title>
			<description>宗教、特に神秘主義からの視点です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>第一原理を考える</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>宗教、特に神秘主義からの視点です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021</link>
		</image>
		<item>
			<title>量子力学</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-86/atio8021/folder/1122026/58/35412258/img_0_m?1571257624&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_180_255&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
ボーア&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といた思索家がかつて直面した 認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でも ある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-86/atio8021/folder/1122026/58/35412258/img_1_m?1571257624&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_180_234&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
シュレディンガー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-86/atio8021/folder/1122026/58/35412258/img_2_m?1571257624&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_225_357&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
ハイデルベルグ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展 に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統と、「量子力学」が、根本的に似ているからなのかもしれ ません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-86/atio8021/folder/1122026/58/35412258/img_3_m?1571257624&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_225_281&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
アインシュタイン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがある とすれば、それは仏教です」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「素人でも１からわかる不確定性原理」より</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35412258.html</link>
			<pubDate>Thu, 17 Oct 2019 05:27:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>A＝Bの原理</title>
			<description>アンリ・ポアンカレは 「数学とは、異なるものを同じものと見なす技術である」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数学とは 異なるものを同じものとみなす技術・アートである。」.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35402772.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 Oct 2019 08:48:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>知性の働き</title>
			<description>　知性とは魂のさまざまな働きの集合ないしは組み合わせである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　知覚し、あるいは意識を持ち、注意を向け、再認し、想像し、思い出し、反省し、諸観念を区別し、抽象し、比較し、組立て、分解し、分析し、そして肯定し、否定し、推理し、理解する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これら全体が、知性という働きなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コンディヤック『人間認識起源論』2・8・73</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35402299.html</link>
			<pubDate>Fri, 04 Oct 2019 17:46:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>純粋経験</title>
			<description>　５　純粋経験（直接体験）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　経験するというのは事実そのままに知るということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「純粋」というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こういえば、なんだか混沌として無差別の状態と思われがちですが、経験はおのずから差別相を具えているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　たとえば今視覚として現れた一経験を指してそれを「花」と呼びこれについて&lt;br /&gt;
さまざまな判断を下しても、経験そのものの内容になんの豊富をも加えないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　経験の意味とか、判断というのは他との関係を示すことであり、原経験より抽象した一部であり、その内容においては、かえって貧弱なものなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　学者のいわゆる「客観的」な見方は抽象的なものです。色と形とをそなえ生き生きとした草木からもっとも遠ざかったものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　事実上の花は決して学者のいうような花ではなく、色や形や香をそなえた、美しく愛すべき花なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　わたしたちのさまざまな&lt;br /&gt;
差別的知識は、原経験を反省し、分析し、言葉にあらわしたもので、抽象的な空殻なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「善の研究」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　西田幾多郎</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35398702.html</link>
			<pubDate>Mon, 30 Sep 2019 15:21:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>知的直観</title>
			<description>　真理の決定される所に、&lt;br /&gt;
直観がなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　直観のない思惟は空虚であり、思惟のない直観は盲目的です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　具体的思惟は一面に直観を含み、具体的直観は一面に思惟を含んでいなければならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
［知的直観］&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　知的直観はある人には一種独特の　神秘的能力のように思われ、またある人にはまったく経験事実以外の空想のように思われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　知的直観といえば主観的な働きのように聞こえますが、実は主客を超えた状態なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　むしろ主客の対立はこの主客合一の状態知的直観による統一によって成立するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すべての関係の根底には直覚があり、関係はこれによって成立するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　「知的直観」より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　*&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　神を外界の事実の上に求めたなら、その神は仮定の神でしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また宇宙の外に立ち宇宙の創造者とか、指導者とかいう神は絶対無限なる真の神とはいわれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　古代におけるインドの宗教、ヨーロッパの１５～６世紀に盛んであった神秘学派は神を内心における直覚に求めています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これが最も深い神の知識であると考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「実在としての神」より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　西田幾多郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『自覚について』より</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35398359.html</link>
			<pubDate>Mon, 30 Sep 2019 04:04:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>アリストテレスの直観</title>
			<description>　わたしたちの内奥にはある一つの原理があります。それが実際に神であるかはわかりません。しかし、わたしたちがそれに直接ふれたとき、思わずこう叫ばずにはいられないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「これが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　神なのだ！」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　*&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その思惟は思惟自身にもとづいてなされ、しかもその思惟がかかわるものはそれ自らで最善なるものをその対象としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして、それが最高の思惟であるだけにその対象も&lt;br /&gt;
最高のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　理性は自らを思惟するが、それは思惟されるものを共有することによるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　なぜなら理性は「思惟されるもの」にふれることにより、すなわちそれを思惟しているとき、すでに自らその対象そのものになっているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それゆえ、ここでは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　思惟するものと、思惟されるものとは、同じものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その理由は、思惟されるもの、すなわち実体を受け取るものは理性なのであるが、そして、まさにそれを所有しているその時にこそ、理性が現実に働いているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがってこの理性が保っている神的な状態は、それが単に「思惟されるもの」を受け取ることができる&lt;br /&gt;
状態というよりは、むしろ、現にそれを所持している&lt;br /&gt;
状態においてなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そしてこの理性の活動｡観照（テオリア）は、最も快であり、最善なものなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もし、このような最高最善な状態に（わたしたちは&lt;br /&gt;
ほんのわずかの時しかいられないのですが）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　神はつねに永遠にいるのだとすれば、それは驚くべきことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかも、さらにすぐれて善き状態にもしあるとすれば、さらに驚くべきことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところが神は現にそうなのである。そして彼には、生が属している。なぜなら、理性の活動は生命であり、そして彼はその活動そのものなのだからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして彼の活動は純粋に自身にもとづいており、それは最もすぐれた生であり、永遠の生なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だから、わたしたちは主張するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　神は永遠にして最善の生きているものであり神には&lt;br /&gt;
絶えることのない永遠の生と生の持続が属するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　けだし、これが『神』なのだから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アリストテレス　&lt;br /&gt;
　「形而上学」12巻－7&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35398168.html</link>
			<pubDate>Sun, 29 Sep 2019 21:23:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>二つの真理</title>
			<description>8&lt;br /&gt;
二つの真理（二諦）に依存して、もろもろのブッダは法（教え）を説いた。〔その二つの真理とは〕世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9 &lt;br /&gt;
この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10 &lt;br /&gt;
世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11&lt;br /&gt;
不完全に見られた空は知慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の咒術のごとくである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12&lt;br /&gt;
それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、聖者（ブッダ）が教えを説示しようとする心はやんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『中論』</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35376306.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Jul 2019 13:56:00 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>心身一如</title>
			<description>「而二不二」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ズバリと言えば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自己は自我であり、&lt;br /&gt;
　自我は自己なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかもそれらは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「一つ」ではなく、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「二つ」であり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「二つ」では　&lt;br /&gt;
　　　ありながら、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「二つ」では&lt;br /&gt;
　　　ないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それらは知性の上では&lt;br /&gt;
　分けられるのですが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　事実上は&lt;br /&gt;
　　分けることは&lt;br /&gt;
　　　できません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　見る者は&lt;br /&gt;
　見られる者であり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　見られる者は&lt;br /&gt;
　見る者なのだからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自己と自我の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このユニークな関係が&lt;br /&gt;
　十分に把握され、&lt;br /&gt;
　洞察されないと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　妄想だけが&lt;br /&gt;
　残ることになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Ｓ・大拙「神秘主義」６章より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「心身」の関係もこれと似たようなことで、実際上は分けられないけれど知的には分けて考えることができます。このような関係にある存在は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「一つ」ではなく、&lt;br /&gt;
　「二つ」であり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「二つ」では　&lt;br /&gt;
　　　ありながら、&lt;br /&gt;
　「二つ」ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　と表現することができます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
■入不二法門　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
喜見菩薩いわく、&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
色と色空とを二となす。色即ち是空なり。色滅して空なるに非ず、色は性として自ずから空なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　かくのごとく受・想・行・識と識の空を二となす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　識即ち是れ空なり、識の滅して空になるには非ず。識は性として自ずから空なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その中に於いて通達すれば、是れを不二法門に入ると為す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　「入不二法門」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35320683.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Jul 2019 19:53:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>パルメニデスの「ある」</title>
			<description>イメージ 1　サルバドール・ダリ「記憶の固執」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　西洋哲学の「実体」の概念を調べたら古代ギリシャの哲学者のパルメニデスまでさかのぼりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■「無」からは何も生じない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「無からは何も生じない」は哲学の一分野である形而上学、また科学の一領域である宇宙論の領域、などで議論される原理。主に世界の存在の起源や根拠について議論する際に使用される概念で、「無から有が生じることはありえない」という意味で使われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　西洋哲学の歴史の中で、この原理をはじめて強く打ち出したのは、紀元前5世紀のギリシアの哲学者パルメニデスです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　パルメニデスは以下のように言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Fr.8（抜粋） &lt;br /&gt;
　語られるべき道としてなお残されているのはただ一つ――すなわち（あるものは）あるということ。この道には非常に多くのしるしがある。すなわちいわくあるものは不生にして不滅であること。なぜならば、それは姿完全にして揺るがずまた終わりなきものであるから。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　またそれはあったことなくあるだろうこともない。今あるのである――一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして。それのいかなる生まれを汝は求めるのか? &lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　どこからどのようにして成長したというのか？あらぬものから、と言うことも考えることも私は汝に許さぬであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　なぜならあらぬということは 語ることも考えるこにともできぬゆえ。またそもそも何の必要がそれをかり立てて以前よりもむしろより後に無から出て生じるように促したのか?かくしてそれは全くあるか全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それにまたあるものどもの他に何かが無から生じて来るなどとは 確証の力がけっしてこれを許さぬであろう。このゆえに司直の女神ディケーは 足枷をゆるめてそれが生じたり滅んだりするのを放任することなく、しっかりと保持する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そしてこれらについての判定は一にかかってこのことにある、すなわち、あるかあらぬか――。しかるに判定は必然のこととしてこう下された、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すなわち、一方の道は考ええず言い表しえないものとして放棄し（真実の道ではないから） 他方の道は実在のもの真実のものとしてこれを選ぶべしと――。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そもそもどうしてあるものが後になって滅びえようか。どうして生じえようか?　もし生じたとしたならば、またあろうとするのであったとしても、常にあるのではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらにまたあるものは分かつことができない。すべてが一様であるから。またそれはいささかも、ここにより多くあったりより少なくあったりすることによって、互いに繋がり合うのを妨げられることなく、全体があるもので充ちみちている。このゆえに全体が連続的である。あるものがあるものに密接しているのであるから。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかしそれは大いなる縛めに限られて動くことなくはじめが無く終わることも無い。なぜならば生成と消滅が はるかかなたへとさすらい行き、まことの証がこれを追いやったから。 &lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　それは同じものとして同じところにとどまりつつただ自分だけで横たわり、そしてそのようにしてその場に確固ととどまる。なぜならば力つよき必然の女神が 限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから。このゆえにあるものが不完結であることは許されない。 &lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
　それは何も必要としないから。もしも不完結ならすべてを必要としたことであろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　思惟することと、思惟がそのためにあるところのものとは同じである。なぜならば、思惟がそこにおいて表現を得るところのあるものが無ければ、汝は思惟することを見出さないであろうから。まことにあるものの他には何ものも 現にありもせずこれからあることも無いだろう。運命があるものを縛めてそれを完全にして不動のものたらしめているのであるから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このゆえに死すべき者どもが真実と信じて定めたすべてのものは名目にすぎぬであろう――&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　生じるということも滅びるということも、ありかつあらぬということも、場所を変えるということも、明るい色をとりかえるということも。しかし窮極の限界があるからには、それはあらゆる方向において 完結していて、譬えて言えばまんまるい球の塊のようなもの、まん中からあらゆる方向に均等を保つ。ここあるいはかしこにおいてより大きくまたより小さいということはあってはならぬことゆえ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　なぜならばあらぬものが妨げてそれが同質のものへと到り続くのをやめさせることもなければ、またあるものがあるものとくらべてここでより多くここでより少ないということもないからである――全体が冒されぬものであるからには。それはあらゆる方向において自分自身と等しく、限界の中で一様同質の在り方を保つ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここで私は真理についての信ずべき言葉と考えをやめることにしよう。これよりのちは汝すべからく死すべき者どもの思わくを学べ、――わが言の葉の虚構を聞きながら。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　パルメニデス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■時間の否定&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　パルメニデスの主張の前提にあるのが「無からは何も生じない」という命題です。生じたり消滅したりするには時間が必要ですからここでいう「不生不滅」とは実際には単に時間の存在を否定していることなのです。だからパルメニデスの主張からは時間に関すること、生じる、滅する、過去と未来、動く、変化する、成長するなどがことごとく否定されてしまいます。&lt;br /&gt;
　　　　　&lt;br /&gt;
　人がいない世界です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■エレア派&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「実体」の概念は素材的な実質という面では「アルケー」に起源を持っているが、むしろエレア派の存在についての思考に負うところが大きい。エレア派は物事を考える上で誰しも前提にせざるを得ない同一律、矛盾律を厳密に突き詰めれば、生成変化は有り得ないと結論せざるを得ない、と考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ものはあるかないかである。あるものはあるし、ないものはない、と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、ものが別のものに変わるとすれば、あるものがなくなり、なかったものがあるようになる。しかし、エレア派によればものはあるかないかなのであるから、このなくなったものとあるようになったものが、同じ何かであるという根拠はどこにもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　二つの対象が、端的に異なる対象なのではなく、ひとつの対象の生成変化であるというためには、どこかの時点で、この対象は、或るものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されなければならない。しかし、これは矛盾律（Aは非Aではない）に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り，どの時点に於いても、そのものは、Aであるか、そうでないかのどちらかでしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とはいえ、現実には生成変化は観測される。生成変化するものは、まさしくそれゆえに、実在ではない。生成変化は、感覚が欺かれた結果なのであり、経験的対象も、真に存在する対象ではないがゆえに生成変化する。このような論理から要請された、「真に存在するもの」が「実体」である。（wiki）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35294328.html</link>
			<pubDate>Wed, 05 Jun 2019 21:31:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>弁証法</title>
			<description>■弁証法&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　物の考え方の一つの型。形式論理学が、「ＡはＡである」という同一律を基本に置き、「ＡでありかつＡでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イメージ 1&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　図式的に表せば、定立（「正」「自」とも言う）Ａに対しその（自己）否定たる反立（「反」「アンチテーゼ」とも言う）非Ａが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合（「合」「ジンテーゼ」とも言う）に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」（「止揚」「揚棄」と訳す）と言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イメージ 2&lt;br /&gt;
　子供向けの歌に『たのしいね』という歌があります。以下はその一番の歌詞です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　楽しいネ 両手をあわすと楽しいネ パチンとおとがする あなたの右手 わたしの左手あわせてみよう ほらねぐっとすてきな 音がするぐっと明るい音がする音がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弁証法の図を見てすぐに連想するのが右手と左手を合わせるとパチンと音がする─です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これに関して有名な問題があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　両手を合わせて叩くとパチンと音がでる。では片手からはどんな音がでるか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イメージ 3&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弁証法には問題点もあるようですが簡単で解りやすい有力な思考方法なのでこれを使ってパルメニデスの「無からは何も生じない」を考察してみます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/atio8021/35294321.html</link>
			<pubDate>Wed, 05 Jun 2019 21:28:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>