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最近、小学校の先生方と交流することが多かったせいか、お世話になった小学校のときの担任の先生を思い出していました。 もう25年前になるのですが、今でも鮮明に先生のことは覚えています。 小学校2年生の担任の先生でした。 5年前、「先生」をテーマにした作文コンテストに、生徒と張り合って応募しました。そのときも、その先生のことを書きました。 できるだけ当時のことを思い出して、私には珍しく、誠実に書いた作文だったと思います。 賞をいただいて、新聞にも名前とタイトルが載ったようです。 ちょっとだけ、先生からの連絡を期待していました。 だってタイトルが 「拝啓 イリノユリコ先生」ですもん。 でも、残念ながら先生からは連絡はありませんでした。 もう会えないなあ、でも会いたいな、と思って何気なく先生の名前を検索したところ、 なんと! ヒットしてしまいました。 とある小学校の配布物でした。 先生の名前が載っていたのです。 なんだか急に会いたい熱ががーっと上がってしまい、明日連絡をとるぞ!と決めました。 25年も前の、何百人の中の1人なので、覚えてないだろうな、とは思いますが。 あと同姓同名、ということもありますが。 でも、最後ののぞみをかけて連絡してみたいと思います。 ちなみに私が書いたのはこんな作文です。下書きなので、掲載されたのと微妙に違いますが。 拝啓 イリノユリコ先生 小さいときに、大きな手術をしました。 今でも私の胸には手術跡があります。この傷のおかげで、私は親からとても大事にされました。 傷が痛むわけでも、心臓が悪いわけでもありません。 でも、この傷のおかげで、周りの人からとても大事にしてもらいました。 別の言い方をすると、「かわいそうに」という「におい」を私はとても上手に利用したのです。 母親が、「この子は身体が弱くて」と言って傷を見せれば、たいていの大人は私がすることを大目に見てくれました。 おかげで冬の乾布摩擦も、ただの高所恐怖症のせいで登れないジャングルジムも、登らずに済んでしまいました。 私の小学校は田舎にあり、山が一つ、小学校所有のアスレチックになっていました。 そこには大きな「クライミングネット」という大きな遊具があるのですが、小学校の1年生から、体育の時には、準備運動代わりにそこを登って、頂上にある丸太をまたいでむこうに下りて運動場に行かねばなりませんでした。 私は当然、できない理由を身体のせいにしました。 悲しそうな顔をして登りかけると、先生が 「あっちゃんは途中まででいいからね」 とやさしく言って、一緒に途中で降りてくれました。 私はきっとこのクライミングネットをまたぐことはないだろうと思っていました。 2年生になって、若い、元気な女の先生が担任になりました。 私はその先生が大好きでした。 私はお話を作ることが得意で、よく紙芝居を作ったり、絵本を作ったりして、周りの子に見せたりあげたりしていましたが、その先生が誰よりとても褒めてくださったのです。 私はよく先生にまとわりついていました。 ところが、大きな事件がありました。 体育の時間、いつものようにクライミングネットを通り過ぎるコースに入りました。 私はまたいつものように途中まで登り、降りようとしました。 ところが先生は 「どうして最後まで登らないの?」 と聞いてきたのです。 私は正直びっくりしました。 母親から私の傷の話は聞いているはずなのに、どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろうと思ったのです。 私は少しむっとしながら、 「傷が・・・」 と言うと、 先生は 「傷は痛くないでしょう?大丈夫だから、一緒に登ろう。」と言ったのです。 私は冗談だと思いました。 まさか、このやさしい大好きな先生が、この私がいやだと思うことをさせるなんて、と思ったのです。 私はぐずぐずしていました。 ところが先生はずっと待っているのです。 どんどんクラスメイトは先に行ってしまいます。 私はあせりました。 本当に、この先生が登らせようとしていることを感じたのです。 私は瞬間、迷いました。 「傷が痛い」 と言えば、この先生は無理に登らせたりしないでしょう。 いつもの私なら、すぐにそうしたと思います。 でも私は迷いました。 大好きな先生に嘘はつきたくなかったのです。 嘘がいけないから、ではなく、先生は、嘘をきっと見抜くと思ったからです。 でも私はうすうす、まわりの大人が私の嘘を見抜いているのを知っていました。 でも「かわいそうに」と思う気持ちがあるのを知っていたから、平気で嘘をつけたのです。 でも先生は「かわいそうに」と思っていないことが分かりました。 きっと嘘をついたら、私のことを嫌いになるに違いないと思いました。 そのため、迷いました。 嫌われても、怖いことはしたくないという私と、したくないけど嫌われたくない、という狭間でぐずぐずしていました。 先生は、「大丈夫だよ。」ともう一度繰り返しました。 私はそのとき初めて、今まで「怖いからやりたくない」と言ったことがないと気づいたのです。 「やりたくない」のではなく、「できない」としか言ったことがなかったのです。 どうして本当のことを言わなかったのかわからないのですが、いつもそう言っていました。 でも先生は、 「怖くないよ、大丈夫。先生が一緒に後ろからいるから、あっちゃんが落ちそうになったら一緒に降りてあげるから、何も心配しなくていいよ」 と仰ったのです。 私は、覚悟を決めました。 先生は私ができないのではなく、したくないのだということを知っています。 もう逃げ場はありません。 同時に、悪い私は、もし本当に何かあったら、嘘じゃないと信じてくれるだろうと思ったのです。 私は起こったことがない傷の痛みをのぞみました。 胸がどきどきするのが分かりました。 ついでにひどい痛みがおそってくれないか、待ち望みました。 が、一歩、一歩と上に行くにしたがって動悸がひどくなっても、痛みは起こりません。 また足ががくがく震えるのですが、止まると尚更ひどくなります。 怖くて怖くて、手はぶるぶる震えました。 後ろは振り向けないのですが、先生が後ろすぐ近くにいることが分かりました。 「大丈夫、大丈夫」 先生が声をかけてくれました。 そしてとうとう、頂上の丸太に来てしまいました。 ここからは、丸太にきりきり巻きついている縄の隙間に指を突っ込んで握り締め、また逆の手を向こうの縄を握り、身体を支える、という恐ろしい状況になります。 私はもう泣き声でした。 「先生、怖い」 私は初めて「怖い」と言いました。 もう隠すことができないくらい、恐怖に襲われていたのです。 絶対できないと思ったのです。 もう手がぶるぶる震えて、身体が支えられなかったのです。 先生は、ゆっくり指示を出し始めました。 「左の手を反対に置き換えてごらん、大丈夫、ほら絶対に離さなければ落ちないからね、次に右手を反対の縄をぎゅっと握ってごらん、ほらこっちも離さなければ落ちないよ。次に左足をもういっこ上の段にひっかけてごらん。怖くないよ、もう片方の足を、さっと向こう岸においてごらん。大丈夫大丈夫、ほら落ちないからね。」 私は先生の指示通りに、動き始めました。どんなにしがみついても、この状況を脱するには自分で動くしかなかったのです。 でも今書いたように、さっさとできたわけじゃありません。 本当はずっと時間がかかったと思います。 だって何度も怖い、と泣きましたから。 でも結果として、私はできたのです。 足が反対側のネットにかかったとき、もう大丈夫だ、と感じたあの安堵感と喜びは、短い人生の中で一番だったと思います。 空が、すごく青くて近かった気がしました。夢のようでした。 降りたとき、先生が抱きしめてくれたことを覚えています。 二人で手をつないで山を降りたとき、皆はタイヤの跳び箱で遊んでしました。 私が降りて行ったとき、みんなは遅かったねえと笑って言いましたが、私はおかしなくらい気分が高揚していたことを覚えています。 わけもわからずはしゃいでいました。 先生は次の年に、違う学校に転勤になりました。風のたよりに、お嫁に行って、違う苗字になったと聞きました。 先生は、とても元気で明るく、やさしい方でした。引っ込み思案で嘘つきな私を、明るい世界に連れて行ってくれました。 私はそのときから、クライミングネットを登れるようになりましたし、怖いと思っても「自分で手を離さなければ大丈夫」と思えば怖くなくなったのです。 今、私は先生をしています。その先生のおかげなのかもしれませんし、違うかもしれません。 でも先生のことは今でも心に残っています。とても会いたい。 こんなにふてぶてしく、たくましくなった私をお見せしたいのです。 私の大好きだった先生はイリノユリコ先生、といいます。 11歳はなれた私の妹の名前も、「ユリコ」。 妹の名前を呼ぶたび、先生を思い出します。
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