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吉田松陰「十七、十八の死が惜しければ、三十の死も惜しい。八十、九十、百になってもこわれで足りたということはない。半年という虫たちの命が短い、とは思わないし、松や柏のように数百の命が長い、とも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅なり」この言葉は、元会津若松市長・福島県議四期をして福島県副議長をした板橋四郎の選挙演説の中の一コマである。
坂下は板橋の自宅で書生みたいに居候をしていた。子どものいない板橋は会津市の選挙区で県議会選挙の運動に駒大一年生の坂下を個人演説会の司会とか、応援弁士とした。坂下は自分の政治家としての演説の仕方とか、内容とかは板橋の影響が大きかった。坂下が脳内出血で倒れて、総選挙に落選する前に、衆議院議員として板橋の葬儀委員長をしたことだけが板橋への恩返しと思っている。坂下は板橋に吉田松陰先生の死生観は、私の魂を震わせます。どうか、書生で使ってくださいと頼んはだのである。板橋は「二郎、俺の傍にいてもいい」と笑顔で語ってくれた。ここで、押せ得ておくべきことは、吉田松陰の死生観は革命思想としての「陽明学」との関係を述べる識者もいる。保守・民族派のシンパである坂下次郎は板橋を師とするのである。その思想が坂下の原点である。
リハビリ病院から、左半身不随で自民党公認候補として、再選を目指すのである。体は満身創痍である。倒れて、左側は感覚がないのである。大学病院でリハビリをしたり、しても、脳の視床出血なので、左半身は、顔、胴、手足も疼痛という癌の痛みと同じようなことになっていた。坂下は、その痛みに耐えるために、ある大学病院で、ガンマナイフの治療をした。脳の出血した場所ではなく、その場所の周辺を中性子をあてて神経を破壊したのである。それだけでも、痛みはとれなかった。完全に精神的に鬱状態になり、若くして死んだ父のことだけを考えたり、自分の存在と世の中との断絶はものすごい苦しみであった。そして。ドラック・チェックという、痛みをとめるためのモルヒネ等の鎮痛剤も治療した。その頃は、エムエスコンチンというモルヒネを朝、昼、晩と一日三回飲んでいた。当時はできることは何でもした。なぜだ。坂下は次の選挙は日本の大変危険な選挙だと感覚的に思っていたからである。政権交代、直前の参議院選挙で自民党は惨敗した。戦後政治の総決算を主張した安倍総理は教育基本法改正、真正保守の政治家であった。しかし、左翼勢力は、日本における真正保守政治を攻撃した。そこには、反自民党のためには何でもマスコミもしたのだ。だから、坂下は最後の勝負に出たのである。心根は自らの「いのちを燃やして」民主党という、できもしないマニフェストを徹底的に批判したいと思ったのである。人生は長いとか、短いのではないのだ。私が病魔と闘っているときに、会津市の伊東議長から「坂下代議士、貴方は畳の上では死ねない。だから、総選挙になったら立候補してくださいと言われた。それにしても、自民党政権の危機の中での厳しい日々に病魔とともに「いのちを燃やした」のである。
これは、あくまで小説でありフィクションです。
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旅人
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