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1960年ごろから、改革を通して漸進的に社会主義を実現しようという構造改革論が社会党内で台頭すると、構造改革論の旗手・江田と対立していた佐々木更三は社会主義協会にてこ入れすることで、江田に対抗しようとした。当時、社会党の指導者は活動家たちを無視して、派閥抗争に熱中していたが、社会主義協会は代表の向坂自ら自宅を開放して、『資本論』を講義するなど、活動家の教育に力を注ぎ、活動家の心をつかんでいった。社会主義協会は元左派社会党党学校で両社統一により独立団体となった労働大学と関係を深め、活動家の教育機関として活用していたが、さらに活動家向けの雑誌『まなぶ』を創刊するなど、組織を充実させていった。1964年の社青同第4回大会では、社会主義協会の理論に基づく「改憲阻止・反合理化の基調」(議案修正案)が可決され、協会系活動家が社青同の執行部を握り、その後の勢力拡大の基礎となった。
社会主義協会はしだいに実践団体化していき、総会も大会と名称変更し、運動方針などを持つようになった。理論上もソ連型社会主義に接近し、1966年の第7回大会ではマルクス・レーニン主義を協会の基本理論とすることが決定された。協会のマルクス・レーニン主義化は、1961年・1965年の二度の訪ソで急速にソ連に接近した向坂逸郎と、水原輝雄ら後の太田派の中心となり協会の実践団体化をめざしたグループ双方の影響の結果とされる。平和革命論を中心とする社会主義協会の基本理論は、1967年分裂直前に一度決定し、1968年に正式決定した「社会主義協会テーゼ」に詳述されており、この中でプロレタリア独裁を明記した。社会党の綱領的文書「日本における社会主義への道」についても、1964年の決定や1966年のプロレタリア独裁を肯定する修正に、社会主義協会系党員が大きな役割を果たした。
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