なぜ日本人は西欧の哲学を理解しにくいのか西欧の哲学や、思想や芸術を、日本人はいまいち理解できない。
その原因のひとつは、「ネイチャー」をよくわからないことだ。
これは奥行きの深い問題なので、じっくり掘り下げてみよう。
まず、ネイチャー(nature)。キリスト教では、Godがこの世界を「造った」と考える(『創世記』参照)。天も地も、山も海も、植物も動物も、人間も。Godに造られたものを、被造物(creature)という。造られたのだから、造ったGodの所有物。よって人間は、造り主であるGodの言うことを聞かなければならない。
ネイチャーは、Godの造ったそのまんま。「神のわざ」である。おおよそ、日本語の「自然」に重なる。これに対して、人間の活動がうみ出したものは、カルチャー(culture)。「人のわざ」である。もとは、土地を耕す、という意味だった。
さて「ネイチャー」は、日本の「自然」と、実は微妙にズレている。 日本語の「自然」は、もともと仏教用語。「じねん」と発音した。中国語で「おのずから」というような意味である。それがネイチャーの訳語に用いられ、天然自然の「自然」を意味するようになった。
英語の「ネイチャー」も、日本語の「自然」も、山や海、植物や動物を指す。
なんだ、同じじゃないか、という気がする。
「ネイチャー」は「カルチャー」の対義語ではないでも、日本語の「自然」は、「人為」の反対の意味。人間のやることは自然でなく、人間をとりまく環境世界が自然である、と考えるのが日本人だ。
いっぽう「ネイチャー」は、山や海だけでなく、太陽や月や星といった天体も含む。それから、人体を含む。人間の身体は、Godが造ったものなので、どこからどこまで自然である。
そればかりではない。人間の生まれついての性質も、「ネイチャー」という。辞書をひくと、「本性(ほんせい)」と訳してあるが、神がそう造ったという点では、山や海と同じことなのだ。
農業は、ネイチャーなのか、カルチャーなのか。人間が土地を耕している。耕される土地も、耕す人間(の身体)も、それ自体はネイチャー(神のわざ)だ。
けれども、人間が意思して、ここを耕そうと思って耕しているのは、カルチャー(人のわざ)である。つまり、農業は、神のわざに助けられて、人のわざをそこに上書きする行為。神と人の共同作業だ。
ただのネイチャーでも、ただのカルチャーでもなく、両方が重なっている。人間のわざ(人為)だから自然でない、とは考えない。この点は、工業も同じである。
ヨーロッパ・キリスト教文明における「ネイチャー」と日本の「自然」はズレている、ということがわかったろうか。
「ネイチャー」(自然)の理解こそが肝である法律でも、ネイチャーは大事なはたらきをする。「自然法」「自然権」と訳されているのがそれである。
「自然権」(ナチュラル・ライト)とは何か。
Godが、人間を造った。そのときに、人間一人ひとりに、キミはちゃんと生きていく権利があるのだよ、と「自然権」を与えてくれた。そのなかみは、生存権、自由権、幸福追求権、財産権、…。神から、創造のわざと同時に、一人ひとりに与えられた権利だから、「自然」権なのである。
神から、自然権を与えられた。ならばそれを、奪うことができるのは神だけ。
人間は、人から自然権を奪うことができない。そんな権限がない。人間の集まりである政府にも、そんな権限がない。聖書にも、ほかの本にも、はっきりは書いてないけれど、この世にはそうした、Godの決めた法律がそなわっている。
それを「自然法」という。人間も、政府も、自然法に違反してはいけない。もしも政府が、人びとの自然権を無視したら、そんな政府は打ち倒してよろしい。これが市民革命の考え方である。
革命によって、自分たちの政府を樹立する。その政府がまた暴れ出すといけないので、契約を結ぶことにする。この契約が、憲法だ。憲法に、人びとの権利はこれこれです、としっかり書き込んでおく。
この権利が自然権。憲法に書いてあるから権利がある、のではなく、すでにある(Godより与えられた)権利を念のため憲法に書いておく、のだ。この理屈、わかりますか?
キリスト教徒に、この理屈はわかりやすい。何百年もかけて、少しずつ考えを発展させてきたからだ。でも明治の日本人には、わかりにくかった。
明治の人びとは、自然権の思想を、「天賦人権論」と訳した。それなりに苦労した訳、と言うべきである。
「天」は、儒教の概念を借りてきた。儒教における天はそれなりに偉いが、キリスト教におけるGodほどではない。そして、天は人間を造らない。
そこで、こんなイメージになった。まず、人間がいる。すると天が、権利をくれた。ただで貰ったものなので、政府がこれを取り上げてもいい、みたいになる。自然権のような、自然法にもとづいた権利という重みがない。明治20年の帝国憲法の、第二章「臣民権利義務」の条文を見てみると、臣民の権利は《法律ニ定メタル場合ヲ除ク外》などと但し書きつきで認められている。法律によって取り上げることができる、という扱いである。自然法の考え方と大きく隔たっていることがわかる。
日本国憲法の第三章「国民の権利及び義務」をみると、そうした法律の但し書きはなくなっている。いちおう自然法の考え方に近づいている。まあ、アメリカのおかげだ。
憲法改正の盲点日本の法学教育では、自然法の考え方がおろそかになっている。
日本では歴史的に、法律は、制定された条文のことだった。自然法は、天地創造のときにGodが制定したものだが、条文がない。その視えない条文を、人間の「理性」が発見することになっている。理性に対する信頼、そして、理性をひとしく人間に与えてくれたGodに対する信頼がないと、自然法は機能しない。
日本では法律学は、条文の解釈のことである。条文の背後に視えない法がある、という考え方をしない。視えない法をみるのが、本当の法学者であるのに。
憲法は、視えない法を、目にみえる条文に置き換えることである。けれども最近、そういう能力のない人びとが、憲法改正と称して、条文の案をいじくっている。ネイチャーの考え方をまず学べ、と言いたい。
政治学者の丸山眞男も、ネイチャーがよくわからなかった。『日本政治思想史研究』をみると、自然と作為が対比してある。丸山の自然の概念の中身は、ネイチャーよりもむしろ、日本語の「自然」である。そもそもネイチャーは、Godの作為なのだから、作為と対比させるのはおかしい。
でも丸山は、ここから「である」ことと「する」ことという対比をひき出し、自分の政治思想の基礎にすえた。だから、こんなとんちんかんなことになる。このあたりのことは、『丸山眞男の憂鬱』(講談社選書メチエ、2017年)で詳しく論じておいた。
日本の法学部は、自然法を深く掘り下げない。「自然法はもう古い」からだ、という。とんでもない。西欧の法思想は、いまでも、自然法が基本になっている。
自然法を深く学ばないまま法学部を卒業した人びとは、公務員となり、国会議員となり、政府職員となって、法律を扱うことになる。調理師や栄養士の免許も衛生知識もないまま、学校給食を調理しているようなものだ。危険きわまる状態だと思うべきである。「橋爪大三郎 現代ビジネス」
Godが、人間を造って「自然権」を与えてくれた。そのなかみは、生存権、自由権、幸福追求権、財産権、…。神から、創造のわざと同時に、一人ひとりに与えられた権利だから、「自然」権なのである。現在の憲法学者には自然法の概念がないから法匪でしかない。 |
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