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先日、購入した松永伍一の「一揆論」を早朝から読んでいる。
昭和初年の千葉県銚子の近くの高神村での具体的な事実で、松永は近世の一揆の暴力を浮き彫りにしている。「半農半漁の高神村は、海上郡の東端であった。かって県下随一の豊かな村といわれた高神村も打ち続く無頼な圧性に加わる村長・及び収入役、彼らに結託する数名の村会議員によって財政は極度に紛乱疲弊を招来して苦境のどん底まで落ちたのである。」そこで一揆が起こるのである。暴動には、不正に対して社会的自覚をもって反抗するものがあるといわれている。
「高神村事件のときの詩」
野原の芒のように騒ぐあいつ等はゲートル巻きサーベルをちゃつかせた
野菊がいちめんに咲いたそんなところへ卓上電話が置かれ
受話器を通して犯人は間断なく報告された
報告する蒼白な顔達あいつらの卑賤な口髭は軽蔑されていい
子供達は叩きのめされた役場や山口藤兵衛の家を見に行き万歳を叫んだ
万歳をあいつ等はサーベルをがちゃつかせ追い散らすのである
あいつ等がおいらのおとっさんや兄さんを縛った
そして子供達は憎しみを見る
そしてまた子供達の向こうをあいつ等のトラックが走っている
あとからたくさん縛られて行く者の目ががギロギロ光る
おとっさん・・兄さん
呼びかけは泣き声になる 泣け
部落はみんな犯人である
さぁ、みんな犯人だ 縛って行け
この詩はアナキストの詩である民衆の反逆を賛美している。この作者の伊藤和の詩集「泥」は官憲によって発禁になっている。あまりにもリアルに反逆を賛美しているからであろう。私は今の時代に「一揆論」に興味があるのは、世界の情報が「エシュロン」によって米国に管理され、世界は巨大にな大国によって管理され、情報の巨大な連鎖によって政治・経済も権力者によって管理されていく社会にあって、いわゆる民衆が自己の正当性をどう主張できるかということに関心があるからである。大企業・大都市・・大きいものには自己の存在を正しく伝えるものがある。でも民衆はどうだろうか・・。
私は政治の世界で民衆の立場で政治活動をしてきた・・これからもその「志」は捨てない。会津の豪雪・過疎地域の自然と共生しながらどんな境遇・どんな政治の貧困にも自分達が生きるために真剣に日々暮している。そのことを訴えていくつもりだ。
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