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東日本大震災と東京電力の福島原発事故以来、政府の仕事ぶりに疑問を抱かせる事例が続いています。政府を監視する仕組みを強化せねばなりません。
とても痛ましい光景でした。連休中に発生した関越自動車道のバス事故は居眠り運転の怖さを思い知らせてくれます。 運転手の刑事責任はこれから追及されるでしょうが、それとは別に、深夜未明に及ぶ運転という過酷な仕事について、政府の基準はどうなっていたのでしょう。 国土交通省の基準では、一人の運転手が一日に運転する最大距離を六百七十キロと定めています。この基準はどう決まったのか。 総務省が二〇一〇年九月に国交省に出した勧告が実態を暴露しています。それによると、国交省は全国のバス事業者から提供された運行データを統計処理し、そこから数字をはじき出していました。つまり、実態を基に算出した数字にすぎないのです。 本来なら「人間はどのくらい運転すると疲労がたまり、眠くなるか」といった要素も検討されて当然です。消費者や専門家の意見も考慮されませんでした。 総務省は問題ありとみて基準を「乗務距離が運転者に与える生理学的影響を踏まえたもの」に改定すべきだと勧告しましたが、なにも手が打たれないまま事故が起きてしまいました。政府の機能不全と言ってもいい。 実は、政府とは別に独自の厳しい基準を設けた地域があります。北海道です。ツアー客を乗せたバスの死傷事故が起きました。すると「このままでは観光に悪影響が出る」と心配する声が高まりました。そこから地元の労働基準局や警察、バス協会などが連絡会議を立ち上げ、自分たちで安全基準作りに乗り出します。 それは「一日の乗務距離は上限三百五十キロ。高速道路では四百二十キロ」という内容でした。政府の基準に比べて、37%も少ない。こちらの方が安全であるのは言うまでもありません。地元の強い危機感を反映した結果でしょう。一九九七年のことです。 似たような例は原発事故の後、食品でも起きています。政府は原発事故の直後、食品(野菜、肉、魚など)に含まれる放射性セシウムの規制値を暫定的に一キログラム当たり五〇〇ベクレルと定め、一二年四月から一〇〇ベクレルに厳しくしました。 ところが、心配する消費者の声を受けて「五〇ベクレル以上のものは販売しません」「今後はゼロベクレルを目標に」と一段と基準を強化する大手スーパーが現れました。 農林水産省は「消費者を混乱させる」として政府の基準に従うよう業界に通知しましたが、消費者の反発に遭うと、鹿野道彦農相が「強制力はない」と事実上、撤回に追い込まれました。これまで一定の権威を保っていた名高い霞が関の「行政指導」が通用しなくなっているのです。 これは何を物語っているか。 政府が「これが安全基準だ」と業界や国民に順守を徹底させようとしても、当事者が「それでは商売にならない」と判断すれば、効き目はない。そういう話です。 政府がどう言おうと、消費者がそっぽを向いてしまえば、商売になりません。バス事業者は客離れを深刻に受け止めたからこそ独自に動いた。スーパーも同じです。 政府には法的権限がありますから一見、万能に見えますが、オールマイティーではない。国民の支持がなければ結局、うまく機能しません。独裁国家の政府が「市場取引はダメだ」と言っても、人々は生き延びるために闇市場を開く話と似ています。 もう一つ、重要な安全基準があります。原発です。政府は関西電力・大飯原発の再稼働に向けて、原子力安全・保安院に新しい安全基準を作らせたかと思うと、枝野幸男経済産業相があっという間に「安全性の基準が満たされた」と宣言し再稼働に動いています。 保安院に象徴される政府の体制こそが事故の遠因だったのですから、その政府が何も変わらず安全と言っても、信じる人は少ない。それでも再稼働を強行すれば、どうなるか。基準を信じないだけでなく、今度は政府の信頼性が揺らぐでしょう。 どうすれば、信頼できる政府ができるのか。究極的には国民が選挙で選ぶのですが、その前に国会の役割を強化できないか。国会には決算行政監視委員会があります。重要案件については必ずここで議論するようにする。事務局体制も抜本強化する。 それに私たちメディアです。「政府の基準」を鵜呑(うの)みにせず、地方や民間、在野の議論をもっと大事にする。議論の土俵を広げていく努力を続けます。東京新聞
政府の機能が麻痺しているような感じがします。一時の競争社会賛美。市場がすべてだという。新古典派の考えが間違っているのではないだろうか。今の官僚達は、米国のハイエク、フリードマン、等の本当はアナクロニズムの考えが日本では本流である。緊縮財政も欧州の選挙で否定されるだろう。東京新聞は、権力の不正・機能不全を批判することが責務であると思う。考え方は異なるが。マスコミは新聞は権力と闘うことが大切である。 |
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若者たち
君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくいしばり
君は 行くのか そんなにしてまで
君のあの人は 今はもういない
だのになぜ 何を探して
君は行くのか あてもないのに
君の行く道は 希望へと続く
空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩きはじめる
高度経済を支えた歌何ですようね。この歌は、時がさっても、時代を超えた大切なものがある。昭和への郷愁がおこる。
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【広州時事】北海道電力泊原発3号機の発電停止で国内の原発が全て運転停止状態となることについて、細野豪志環境・原発事故担当相は5日、「東京電力福島第1原発の事故を受け、安全性を厳しく考えてきた結果だ」と語った。訪問先の中国・広州(広東省)で記者団の質問に答えた。
細野環境相は「電力は厳しい状況になるが、安全性を犠牲にすることはできない」と強調。新しく誕生する原子力規制庁で原発を厳格に規制することにより「ブレーキ役」を果たしていきたいと述べた。(2012/05/05-22:02) 細野大臣の無責任な発言に怒りである。いつ原子力規制庁ができるのか。原発事故をおこした政治家たちが、ポピリズムにのって、自己弁護しょうとしているだけだよ。安全を犠牲にできない。環境庁は、安全のことをどうするというのか。菅内閣の原発事故の責任は法的に責任を追及すべきだ。
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北海道電力泊原発3号機の5日の運転停止により、国内の商用原子炉が全て止まる「原発ゼロ」に突入した。東京電力福島第1原発事故後の原発再稼働に対する厳しい世論を読み切れず、野田政権が描いた早期の再稼働シナリオは崩れた格好だ。原発再稼働を妥当とした「政治判断」には、周辺自治体の首長や民主党内からも異論が続出。政府が原発の安全性をめぐり「地元」の理解を得るのは、今後も難航を極めそうだ。
泊原発の停止後、「原発ゼロ」のまま電力需要がピークとなる夏を迎えることになるのか。訪米中だった野田佳彦首相は4月30日、記者団に「(再稼働に)全く理解がいただけないならば、そういう選択肢はある」と明言した。 野田政権は当初、関西電力大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の再稼働をめぐり、地元対応を甘くみていた節がある。政府は、理解を求める「地元」の範囲をあくまで福井県など立地自治体と想定していた。原発から半径30キロ圏に入る滋賀県や京都府、さらに100キロ圏の大阪府、大阪市から、再稼働にブレーキをかけられることは予想外だった。(2012/05/05-23:15)時事 原発稼動をしないと、そこで、働いている人はどうなるのか。テレビの脱原発の異常な報道は国民の世論を惑わすことになる。
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昭和38年に完成した黒部ダムの建設を描いた木本正次氏の『黒部の太陽』を読んでいて、思わず首をかしげた部分があった。建設主の関西電力副社長がダムの必要性を説く。これから電力は火力が主、水力は従の時代になる。だから大きな水力ダムが必要だというのだ。
▼この「火主水従」の見通しは正しく、昭和37年には供給電力の50%以上を火力が占めている。それなら水力ダムなどもう時代遅れ、ムダではないかと素人は考えた。だがそれでも水力が必要だというのは、火力発電の特性からだった。
▼火力は燃料をたくので、コンスタントに運転している方が効率がいい。しかしそれでは、急に需要が増えた場合には対応できない。その点、水力は水をしっかりためておけば、瞬時に発電量を増やせる。火力よりも「小回り」がきくからだという。
▼その後は高度経済成長による急激な需要増で、水力が火力を補うのは限界となり、原子力がその役割を担うことになった。だが黒四ダムの建設には、片時たりとも電力を切らしてはならないという、当時の電力事業者の真摯(しんし)な思いがこめられていた。そんな証しであることは間違いない。
▼その原子力発電が稼働ゼロの時を迎えた。後は火力に頼るしかないが、このまま猛暑の夏になると、全国平均で0・4%、関西で15%前後の電力不足が見込まれる。しかも火力の特性を考えると、需要急増に対応できるのか、経済界も家庭も不安にさいなまれる。
▼むろん「原発ゼロ」を想定してこなかった電力会社の責任は大きい。だがこんな事態になっても、再稼働に指導力を発揮しようとしない民主党政権も異常である。「黒四」時代の人々の真剣さに見習うことは多い。産経新聞
民主党政権は、原発稼動しなくていいのか。産業も、国民生活も危機になる。政治は国民生活を守るべきである。 |





