|
散歩して夜空を見上げ星涼し 篤人
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2013年05月22日
|
日本の美学では、かくされた部分、余白の部分にもしろ風趣を感じとろうということだろう。人生の余白、かくされら出来事で人間も評価すべきだ。
|

- >
- 芸術と人文
- >
- 文学
- >
- ノンフィクション、エッセイ
|
「ビルマの竪琴」を著した竹山道雄に関する「竹山道雄と昭和の時代」平川祐弘東大名誉教授の本を放蕩庵で、どこにもでないで読んでいる。竹山道雄はドイツ文学者だけれども、反共・保守の学者であつた。「昭和の精神史」では共産主義の欺瞞性と軍部の暴走を批判している。
竹山道雄はド欧米文学にも見識のある人であるが、神道への崇敬の念というのが尋常ではないのだ。彼は書いている。「神道は言挙げせず、教理としては貧弱だけれども、宗教感情の対世界態度をあらわすのはただ言葉には限らない。神社という形もそれに劣らず雄弁である」と。 竹山は書いている。われわれは神道についてはほとんど何も知らない。教わったこともない。神道が国体を顕揚し戦意を強化したなどというけれども、われわれは神道からなんの強制をうけたおぼえはなく、その教義すらはっきり聞いたことはない。 ただ森の中の空屋のような祠に、さまざまな名の神が祭ってあり、しかもその神はそこにはいず、代わりにその神を偲ばせる御霊代が御神体になっている。ぼんやりと曇った鏡などが懸っていて、正体は不明である。ふしぎな謎のようなものだが、それについても別に気にしないで無関心でいると。竹山は出雲の神魂神社について、その建築は大きくないが、純粋性という点から「比類ないもの」といった。
平川祐比呂は竹山道雄の神道についての思いを書いている。 あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉 という句に示されるような、理知には到達し得ない優越者に対する畏敬の念こそが神道的感情なのだろう。
自分たちをとりまく神秘の前で自分たち一個人の存在を小さくおしちぢめてしまうこと、自分たちのまわりになにかが臨在していて、それが儀礼と慎重な心づかいを求めていることを感ずること―それが多くの日本人の信仰心である。 |





