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村上一郎は、「試行」が出来た経過とその時のことを書いている。思い見たまえ―60年安保といわれるあの大闘争の崩壊のあとに、四部五裂した系統図の、どんな流派ひとつとって見てさえ、たださかしらに自分らは総評とは違う、代々木とは違うというのみで、何が目くそか鼻くそか嘲笑するのやら。真の自立の生まれ育っていなかった日々。―
村上は60年安保闘争後の・・・・思いも書いている。戦いは殿戦(いわゆる尻ばらい)がもっともむずかしい。関ヶ原の役の日、敗軍の将島津一門は、みごとな殿戦を殿戦しつつ、遠く九州へまで退却・転進し得た。考え方いかんでは、楠正成兄弟の湊川の戦いぶりも、官軍の主勢力たる新田義貞の軍を、けっして恥をかかずに京都へ戻れるように仕組んだ。「義戦」的な殿戦の典型であったかもしれない。
試行の発行は、安保闘争の殿戦は終わりつつあった。転向する者、ただ代々木と対立すれば「左」派の名目は立つと考える者、サロン化する群、或るいは未来学とやらを先取りして大学の先生にでもなろうとする人、等々。さばえなすこの種のうから・やからを拭い切り、打倒してゆかねば、日本インテリゲンチャは、自立も、自主も、本体力もない軟体動物のような結果になることは明らかだった。それ故、内戦を伴う殿戦が戦われもした。
そのような、昭和36年8月の暑いさかりに、村上一郎の家の電話がなり、村上自身が出てみると、吉本隆明の声でいくぶんそわそわと、「同人雑誌やりませんか?」ということから「試行」が始まったということである。この文章で村上一郎は・・『此一戦』の著者水野広徳海軍大佐の言葉を掲載している。「理性に基づかざる思想は転勤する。明知の伴はざる信念は揺動する。伝統の感激や、自我の感情や、盲目の信仰や、教訓の強要や、形象の威嚇やの山に築かれたる思想や信条や信念やは、砂上の楼閣である。云々」ということらしい。村上一郎は戦前・戦中は帝国軍人として過ごし、戦後派も一貫して草莽の人だったのである。
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