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亡き母に 捧げたいのさ カーネーション 篤人
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雑文
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眠れないから本を読んでいる。大病をして4回も病院に入退院を繰り返した。夢破れ絶望の淵を流離った。愛する人とも別れた、去って行った人もいる。でも、人生に悔いはない。「悲しみをてこにして飛躍すること。悲しみや苦しみの中になずむな、それにきよめられ、きたえられ、優しくされよ」神谷美恵子お
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わが人生で大恩人がいるとすれば、故八田貞義代議士である。会津の素封家に生まれ、八田家は会津若松の農地用水である戸の口堰を私財を掛けて建設した。父親の八田宗吉も代議士を長く勤めた。戦前の会津の政友会の大物であった。陸軍参与官になったが、軍部の暴走には反対だったので、青年将校に命を狙われたこともある。政治信条は「真実一路」。清廉潔白で学者の良心を政治に生かすことを貫いた。 八田貞義先生は野口英世と同じ臨床医ではない、基礎医学・細菌学を研究して日本医科大学教授に就いた。八田貞義先生は代議士は9期当選をされ、池田内閣で官房副長官、農林政務次官自民党恩給制度調査会長、自民党政務調査会副会長、自民党社会部長、自民党商工部会長、衆議院商工・文教・環境の各常任委員長を歴任した。同じ選挙区に宏地会の同僚である伊東正義先生がいたので、前尾繁三郎元衆議院議長が宏地会内部の派閥闘争に負けて失脚して、大平正芳元首相が宏地会を握ってからは陽のあたる場に立つことはなかった。
私は、八田貞義先生の晩年に私設秘書になった。当選と落選と波乱万丈であった。そこで、人間政治家八田貞義先生との10年間は厳しいかったが、楽しい思い出も多くあった。八田貞義先生の地盤は、大東亞戦争での遺族会、傷痍軍人会、軍人恩給連盟であったが、いわゆる大東亞戦争で、祖国のために散華した英霊の遺族、戦争で傷ついた傷痍軍人、尊い青春を戦争に捧げた軍人恩給連盟である。これらの組織が私を会津若松市議2期、福島県議会議員4期当選の原動力になった。衆議院選挙に立候補した時は、遺族会、傷痍軍人会、軍人恩給連盟も会員減少で解散したものまであった。
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大病をして、生きていると、寂滅はまじかであり,現実のものとして受け止めている。命が永遠でない限り,いつでも覚悟している。諦めも必要だと思う。テレビでは、健康になるべき、長生きが幸せだと連呼している。自立死だ、介護はいらない。延命治療は無駄である。生は愛しき蜃気楼である。
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春の芽、と言われる野菜は、 わらび、菜の花、ウド、ふきのとう、タラの芽、筍ですよね。 |



