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《ふるさとの 小野の木立に/笛の音 うるむ月夜や》いいな三木露風の詩です《青い眼をした お人形は/アメリカ生まれの セルロイド》そんな歌もありましたね。《起て飢えたるものよ 今ぞ日は近しい/醒めよわが同胞 暁は来ぬ》−この『インタ−ナショナル』の訳詞は、佐々木孝丸という役者が作ったんです。ロシア革命をはじめ、長いこと世界中の労働者に歌われたものですね。私は保育園の頃、母親と従兄弟の幸子さん。幸ちゃんに教えてもらい歌った。今も懐かしいですね。童謡から革命歌まで歌っていると冬も静かに過ぎてゆく。
ランボ−Ⅲ「人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。」ランボ−の地獄の季節は烈しい爆薬が仕掛けられている。小林秀雄がそんなことを書いているよ。 |
雑文
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もうすぐ人生六十年になる。高度経済成長の頃育ち、「夢と希望の時間を過ぎた」。「今日より明日へ」というように一日一日豊かになっていった。そして、今日の繁栄を築いたのだ。生活はいまいちだったのに国民も・地域も笑顔と喜びにあふれていた。ところが、今の日本は、一部マスコミの暴走と、自己中の政治家と、既得利得を守ろうとする官僚のへんちくりんな状態である。私が衝撃を受けているのは貿易収支の大幅な赤字である。この問題は民主党内閣が、危機対処の手段も力もないことを示している。「民主党よ国売りたもうなかれ」と言いたい。
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15歳で感化院に、18歳で多摩少年院に収監されるなど、荒れた少年時代を送った。予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院、三重海軍航空隊に入隊後海軍飛行予科練習生へ配属。1945年(昭和20年)6月、神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に志願し配属が叶い生死を伴う苛酷な訓練を受けるも、2ヶ月後に終戦となり、除隊。1946年(昭和21年)、法政大学に入学するが、翌1947年(昭和22年)退学し、仲間達と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作った。
1952年(昭和27年)、サンドイッチマンを手配していた東京宣伝社を発展解消し、渋谷に東興業を設立。当初は不動産や各種興行など真っ当な仕事を扱っていた(銀座に洋品店も開いている)が、やがて賭博の開帳なども仕切り始め、会社は次第に暴力団の様相を呈してくるようになった。これが世に言う「安藤組」の始まりである。
安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨し、刺青・指詰めを厳禁した等)で、当時の若者の絶大な支持を集めた。最盛期には500人以上の構成員が在籍し、中には大学生や高校生の姿も珍しくなかったという。安藤自身いわく、早大や、慶大の学生も多くいたという。安藤組の幹部には、後年 安藤組の回顧録『修羅場の人間学』(1993年には映画化もされた)を執筆した森田雅や、本田靖春の小説「疵・花形敬とその時代」の主人公として知られる花形敬らがいる。また作家の安部譲二が、中学生の頃から末端組員として安藤組に出入りしていたことが知られている。
1958年(昭和33年)、横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、その話し合いの席上での横井の態度に激怒した安藤は、組員に横井襲撃を命じる(横井英樹襲撃事件)。35日間の逃亡生活の末殺人未遂罪で逮捕され、1961年(昭和36年)前橋刑務所に収監。リーダーを失った安藤組は、警察の頂上作戦で幹部が逮捕されるなどあって規模縮小を余儀なくされ、そして3年後の1964年(昭和39年)、出所した安藤の意思で組は解散となった(余談だが、一部残党は解散後もしばらく東興業(安藤組)を名乗って活動していた)。
1965年(昭和40年)、たっての願いで松竹配給の『血と掟』で主演し映画俳優へ転向。同作品が空前の大ヒットを記録し松竹と契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で11本の専属契約を結んだ。短身だがその端整な顔立ちと有名な元暴力団組長という類を見ない経歴から、数々のヤクザ映画に出演し、人気を博した。松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持つ。主題歌を歌いレコードも数枚出したが、あまり上手ではなかった。俳優となった後も暗黒街との交流は続いていた。友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されている(安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたという)。 1979年(昭和54年)、「総長の首」出演を最後に俳優を休業。以後はごくたまにVシネマに出演する程度で、現在は専らVシネマのプロデュースや文筆活動の方に勤しんでいる。
私は中学生頃から安藤昇さんの映画を観てた。すごいんだから、鶴田浩二、高倉健、小林旭、というような人も魅力的だったけど、やはり、「やくざ」の美学があったようですね。本物のヤクザなんだから、ヤクザ映画に魅力を与えた人ですね。「インテリヤクザ」という言葉も彼のためにあった。私は大好きな・・いや、尊敬する人物である。私は高校生頃から右翼運動に興味を持ったし。学生時代はヤクザの人に知り合いもいた。暴対法・とか高級官僚・警察は「ヤクザ」を暴力団と同一視して圧力をかけている。それはそれでいいだろう。しかし、戦後の混乱期に英雄的なヤクザ「安藤昇」がいたことを忘れることはできない。彼の映画でどれだけの人が癒されたのか。そして、どんなことがあっても生きなければならないということを教えてくれた。今の日本はアウトロー・は生きることが許されないのだろう。
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東京は今日は天候も良く、朝早くから図書館で |
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妻とは別の女性・A子さん(32)との間に、今年2月に4才になる娘がいたことが発覚したフリーキャスターの宮根誠司(48)。女性セブンが宮根本人に取材を申し込むと、彼はいままで黙っていた苦悩を語ってくれた――
「ずっと黙ってるわけにはあかんやろうなと思ってました。私も取材する立場の人間ですからね。A子さんと知り合ったのは6〜7年前のことです。彼女は当時、夜のお店の接客スタッフとして大阪・北新地で働いていて、はじめはホステスと単なるお客さんという間柄でした。 ぼくは一緒にいて自分が楽しく過ごせる人がタイプなんですけど、彼女はまさにそんな女性でした。お店の仕事を必死に頑張っていて。お店のママにも信頼されていました。ぼくがお客さんをお店に連れていったりしても、失礼がないようにうまく場を盛り上げてくれたりして、すごく助かっていたんです。何度か通ううちに親しくなって、次第にお店が終わった後に、一緒に御飯を食べに行ったり、お酒を飲みに行くようになりました。そのうち男女の関係になって、彼女の家にも行くようになりました」 どんどん親密になっていった宮根とA子さんだが、彼には、このときすでに、現在の妻であるB子さん(40)という恋人の存在があった。 宮根は、1993年1月に元モデルの女性と結婚するも、2004年7月に離婚。当時、出版社に勤めていたB子さんとは離婚前に知り合い、前妻と離婚後に交際に発展したという。 「確かに、当時は独身だったんですけど、A子さんにはもともと『ぼくには、結婚を約束した恋人がいる』といっていたので、向こうも『ぼくとは結婚はできない』とは思っていたようです。まぁ…、恋人がいるのにそういうことをしちゃうのが、ぼくの馬鹿野郎なところなんですが…」 その後、宮根は2006年8月にB子さんと結婚した。だが、A子さんとの関係は結婚後も続いたという。とはいえ、新婚ということもあってか、以前よりもA子さんと頻繁に会うことはなくなっていた。そんなときに、宮根の人生を大きく変えることになるA子さんからの電話が鳴った。 「2007年の春ごろでした。ちょうど仕事が終わって夕方ぐらいに、ひさびさにA子さんから電話があって…。単刀直入に『子供ができた』といわれました。もちろん、その瞬間、『えっ?』とは思いました…。でも、それ以上に彼女も動揺していましたので、『とにかく1回会って、落ちついて話をしよう』といって電話を切りました。 それで数日後、ホテルの喫茶室みたいなところで話をしたんです。A子さんの気持ちの中には“中絶する”という選択肢はありませんでした。彼女には生死に関するつらい過去があったんです。だから、命を絶つという発想は一切なかった。 そのとき、ぼくが一瞬でも悩まなかったかといったら、嘘になるとは思います。正直、『困ったな…』とも思いました。だけど、尊い命が、すでに彼女のお腹の中にいると思ったら、ぼくがそれを奪ってええんかって考えて…」 ※女性セブン2012年1月19・26日号 芸人に、宮根さんに聖人であることをのぞまない。いいのですよ。ちゃらんぽらんで、私の好きな作家団鬼六さんは「ただ遊べ帰らぬ道は誰も同じ」と書いている。無頼派作家である団鬼六さんは「男性も女性も、その肉体と心に、それぞれ、どうしょうもない化物性を持ち合わせる悲しい生物なんだ」としている。男女の恋について他人がどうだこうだと言うことなしだ。と・・・・・。団鬼六先生は「男性たるもの絶対愛人をもつべし」としている。ただ遊べ帰れぬ道は誰も同じですからね。
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