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修辞技法(しゅうじぎほう)、または文彩(ぶんさい)、あや (英語フランス語Figure)とは、スピーチおよび文章に豊かな表現を与えるための技法のこと。
限界状況(げんかいじょうきょう、Grenzsituation)とは、カール・ヤスパース実存哲学における用語のひとつで、ヤスパース哲学の起点となった基本概念。現存在としての人間が、いかなる人間の力や科学の力をもってしても克服できない、逃れることのできない状況、すなわち、これは人間を限界づけている普遍的な状況である。、争、責、由来、偶然など、われわれの日常的現実を粉砕してしまう状況のことである。

カタストロフ

〔補説〕 カタストロフ・キャタストロフィとも
[1]自然界および人間社会の大変動。変革。
[2]劇や小説の悲劇的な結末。破局。
純粋経験
 西田は『善の研究』の冒頭で、純粋経験を次のように定義している。
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を捨てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているのもその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態を言うのである。例えば色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している。これが経験の最醇なるものである。」(『善の研究』p.13)
 主観と客観が未だ分離していない、思慮や分別も加わっていない、事実そのまま、経験そのままの状態が純粋経験である。私という意識すらない、主観と客観の区別のない意識状態のことである。
 では、純粋経験とは刹那のものでしかないのであろうか。純粋経験における現在とは、「現在について考うる時、己に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである」(同上、p.16)ことから、純粋経験の範囲は、注意の範囲と一致する。更にこの注意は必ずしも一注意に限らない。具体的事例として、西田は「一生懸命に断崖を攀ずる場合」や「音楽家が熟練した曲を奏する時」(同上、p.16)をあげている。それは極めて注意が集中し、一動作から他の動作への移行が連続し、他の思惟の入る余地もない状態である。瞬間的知覚とこの状態を比較すると、注意の推移、時間の長短はあれど、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないと西田は言う。「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである」(同上、p.17) 瞬間的経験であっても、そこに何らかの思想が働いていれば純粋経験とは呼べないのに対して、比較的長い時間に渡る経験であっても、そこに意識の厳密な統一が保たれているのならばそれは純粋経験である。
 次に、意識の体系は統一的なものが秩序的に分化発展し、その全体を実現するものであるとし、この意識の分離状態も純粋経験と西田はしている。分化・発展の段階を純粋経験とみなすのは、最初の定義に抵触するようであるが、意識の発展において不可欠であるという理由と、一口に統一とか不統一とかいっても相対的であり、程度上の問題にすぎないという理由で、同じく純粋経験と呼ばれている。「いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。(中略)意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。しかし、この統一、不統一ということも、よく考えてみると畢竟程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろう。凡ての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の意識の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。(中略)判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となるのである」(同上、p.21)
 思惟や実在は常に無限の対立をもって成立し、無限の変化を生ずる能力をもっている。無限の対立は自己の内面的性質により必然的に生じ発展するが、この対立の根底あるいは究極的状態は統一であるからである。そしてその究極的統一状態が、真の意味での純粋経験であると考えられている。それは主客未分の状態というよりも、主客の区別を超越し包括した意識状態である。しかしこの統一的意識というのは曖昧であって、主客未分の状態は例えば幼児の意識における主客未分、また禅における「三昧」も主客未分の統一的意識である。「我々が物を知るということは、自己が物と一致するということにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明にするというは、自己の主観的臆断を捨てて、花其物の本性に一致するの意である」(同上、p.116)
 このように統一的意識と言っても様々な段階や種類の物があるが、西田は全て畢竟程度の差であるとし、いずれも同じく純粋経験であるとしている。
 純粋経験が普通の経験と異なるのはその意識の厳密な統一性にある。この統一性が純粋経験においては第一義的であって、時間的長短などは二義的なものである。
 そしてこのような統一は個人の意識に限定されているものではない。個人的な意識統一が存在するのと同様に、普遍的な意識統一も存在する。西田は個人的意識の背後に普遍的意識の存在を仮定し、個人的意識は普遍的意識の分化発展であると考えていた。「真の個人性とは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたものが個人性となるのである。一般的なる物は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。」(同上、p.231)
 純粋経験はこのように四つの局面を持っている。「言い換えれば『無意識的な』意識統一の状態から、『超意識的な』意識統一の状態にいたるまで、種々の段階を内に含んでいる。」(『西田幾多郎 その思想と現代』、p.84) 経験的事実に即し、徹しようとする立場から、究極的実在についての理論の提示といった観点を全て含んでいるが、西田はこれらを明確に区別することははなかった。

2−1
 西田は『善の研究』において何名もの近代西洋哲学者の名とその思想を例として取り上げているが、その中でもとりわけ何度も引用され、名前が挙げられる哲学者にウィリアム・ジェイムズがいる。
 ジェイムズの代表的にな著作の一つに『プラグマティズム』がある。プラグマティズムという語を初めて哲学に取り入れたのはパースであるが、それを一つの哲学にまでジェイムズは育て上げた。「それは合理論と同じようにどこまでも宗教的たることをやめないが、それと同時に、経験論のように事実との最も豊かな接触を保持することが出来る」(『プラグマティズム』、p.30)哲学であると彼は言う。
 経験や体験を受動的・受容的なものではなく、どこまでも能動的で自発的なものと考える点で、西田とジェイムズの考え方は共通している。しかし、普遍的経験の存在を承認し、個人的経験をその一部分と見なすという点では、経験を本質的に個人的と考える多元的なジェイムズの経験論とは対立している。

2−2
 純粋経験の思想から見て、西田の哲学は「意識」の立場に立ったものである。対してプラグマティズムは観念のもたらす実際的な「結果」、すなわち事実を元に観念を考えるものである。
 では、西田哲学の意識を中心とした考え方は何によるものか。西田哲学はヨーロッパ哲学の影響を強く受けながら自己の哲学を創造したものであるが、西田が参禅を行い、一つの公案を得た後に『善の研究』を記していることから、禅との関係を考えざるを得ない。
 純粋経験は感覚や知覚のような意識の直接的事実であるとともに、芸術家の神懸かりや宗教家の悟りの境地に見られるような意識の理想的な統一状態である。「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。」(『善の研究』、p.17)
 禅、すなわち仏教では、意識を五倶の意識と独頭の意識の二つに分類する。五具の意識とは、すなわち五感覚器官によって受け入れられて怒る心の働きであり、独頭の意識とは五官を離れて意識だけが独立して働くことをいう。この独頭の意識には夢中意識、独散意識、常駐意識の3つがある。この内、最後の常駐意識とは、禅定の時、意識が統一された時に起こる意識である。気を集中し、意識を純化していくときに現れる禅定意識であるという。この意識の統一状態、集中による意識の統一という考えは、西田の純粋経験の中に見いだせるのではないだろうか。
 また、仏教には阿頼耶識(あらやしき)という、寸時も休息し消滅することのない潜在意識があるという。睡眠中において、夢を見ない限り意識の働きはない。その間、意識は中断している。けれども目覚めた時すなわち再び意識が活動した時、睡眠に入る前の自己と目覚めた後の自己とが同一であると感じるのは、この阿頼耶識の働きである。阿頼耶識は活動した意識の痕跡をその内に留め、意識が断絶してもなおその根底に存在する。「純粋経験は体系的発展であるから、その根底に働きつつある統一力は直に概念の一般性そ者でなければならぬ」(同上、P.33)に見られる純粋経験の定義の一つである根底に働く統一力とは、この阿頼耶識の思想からと考えられる。


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