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「心臓が二十億回打つと寿命がくる。人間は長くて百年近くの歳月を生きて落葉樹が散る様に死んでしまう。これが、36億年の生命の歴史で眺められた人間の歴史である」柳澤桂子の「いのち」についての抜粋である。今日から寒の入りである。大病して後遺症と戦っている私は辛い日々である。『流転して身は草臥れて運命の旅黄昏の旅 篤人』36億の時を見据えて泡沫を生きるのである。
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旅人
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『心中は、おそらく人間の心理のなかで、最もエゴステイックでナルシスティックな極致に違いない。その昇華の瞬間は一種の狂気だろうが、そこには、常人には考えられないエネルギーが潜んでいる。』渡辺淳一. 心中は男と女の最高の幸せだろう。大病しても、リハビリをしても、愛する女性と生き・死にたいというのがわかるような気がする。
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心中といふ甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす(石泉).
芥川、太宰、三島、川端、の死生観を考えてしまう。
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渡辺淳一の書いた小説で一番美しい自殺の仕方は何かと述べている。それは、睡眠薬や、首つりでも、切腹でもないと云う。美しいのは、雪の中で凍死することであるとしている。雪という大自然のモザイクは生きる人を宇宙の奇跡というもので死者を覆ってくれるからだと思う。そうなのだ、寒さは凍死は人間の身体を自然死をさせてくれるのである。西行は桜の下で世を終わりたいと云ったというが、冬から春になり自然・生物が魂を再生・復活して生命溢れるときにそこが生の終焉だというのは、凡人の俺には理解不能である。
数日前、夢を見た。三十年以上、俺を影・日向になって面倒みてくれたS女史が俺にいうのだ。今すぐ死んでくれ、高齢になり、脳内出血で左半身不随で苦労している俺の姿を見たくないということだ。代議士になり、県議を四期して、市議を二期をした青年政治家の輝いていた、志高かった俺のことと歩んできたから、今の俺の潰れた精神と、破壊された肉体を見たくないということだ。S女史は言うのだ「貴方は、もう貴方ではないのだ。江藤淳だって、そう言って風呂場で自殺した」。ことを語り、もう長生きしないでと叫んだ。・・・俺は泣いてわかったと言った。評論家の福田和也氏は江藤の母方の祖父が海軍だったから、水ということで、風呂場を関連づけたようである。いつでも、覚悟して生きていると、爽やかな気持ちになった。
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寺山修司は「自殺」にこだわっていた。青少年のための自殺学入門はランボーの「地獄の季節」を超えた悪魔の書である。寺山は「自殺」より「心中」を美しいものであると書いている。寺山は一人の自殺は簡素な場合が多いが二人となると、場所選びも書置きにしても方法にしても工夫がこらされる。歌舞伎でも(道行)の場となると、ひとき見せ場としての演出がこらされている。寺山は「心中」とは語源的には深く真実に想うということであるとしている。ただの逃避行とは、はっきり峻別されると。また、寺山はマルクス主義に自殺論はなく・・・・右翼にはあるとしている。右翼の農本主義者の橘孝三郎の天皇論に「心中は、あはれふかい、しかしだにふがいなきものでも、女々しきものでもなく一面に於いて実にたけあるものたけだけしものであるのだ。」ということになる。
坂下次郎は、師走のはじめに、一人の妹のように親しく付き合っていた女に電話をした。「あら・・・元気。あなたの親しかった女の人達はもう、あなたとはもう遠い存在なのよ。メールも携帯電話も出ないでしょう。メールも見ていないわよ」。そうなんだ。そんなことは分かっている。30年間も政治的同志として共に政治活動をしてくれた女。県議から衆議院議員に出馬するときに、家族ぐるみで応援してくれた人たち、みんな、それもこれも夢なのか、誰にも言えないけど、愛しい、好きな、あこがれの女のひとたちがいたから政治家として衆議院議員までなれたのである。
それなのに、あの女の人達の笑顔も励ましも、もう、まったくなくなにってしまった。30年間共に歩んだ女の人は、衆議院議員として死んだほうがいいと語った。「江藤淳が脳梗塞になり、」「今の江藤淳は本当の江藤淳あらずとして」自ら命を絶った。坂下次郎も今の自分もそんなことを想っている。もう、ペットに座り、パソコンをしながら、自分の人生をふりかえりながら、考えているのだ。懐かしい人達がどこに行ったのか。もう。ふるさとには存在しないのだ。坂下はトボトボとだれもいない冥府に歩き続ける。もう、誰もいないのだ。ランボー詩集を読みながら、どこかに旅立っていったのである。人生なんて・・・・サヨナラだ。
これはフィクションです。
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