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花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生さ 井伏鱒二
もう、冬が近いけど寒さが身に沁みる。ベッドにはいって寒さに耐えている。左半身不随なので、左半身は猛烈せなに痛くて冷たい。ここで、倒れれば冥府への旅立つということだろう。生きるためには、血圧を上が130ー下が80にしておこないと血官が切れればお陀仏ですね。血圧の薬と脳出血の後遺症を悪くさせ゛いんないための薬を飲む。それに、市議会議員の頃から、県議、衆議院議員のときも飲んでいた精神安定剤を飲むことにしている。
今は、そんな、薬を飲んでいるけど。健康保険の適用のない薬もあるから、生きるためと言っても飲めない薬もある。脳神経の病気は癌のように何年か過ぎれば治癒したとならない。と言われる。坂下次郎の病との闘いは「冷たさ、痺れ、痛みという深刻なものだっさた。」でも生きる支えは、ヤスパースか哲学的に語るように「ひととの交わりであった」だからメールをしている。輝かしいと思う私の人生でこんなに落ち込んで寂しいというか、死んでもいいと思うのは、メールの返信がないことである。こんなに孤独なものがあるのだろうか。坂下が四回目の入院をして、気力と主治医のお陰で何とか生き抜いたときき、過去に好きだった女性から電話がきた。調度退院の時で、タクシーの中だった。彼女は田埼洋子という。「次郎君・・体どうなの。心配していたよ。脳梗塞なんでしょう。私の旦那も軽かったけど脳梗塞なの。救急車で病院に運ばれたのよと。愚痴ぽく語った。」田崎とは、市議会議員に三十歳で立候補する時。坂下は心から愛していた人でのある。最も一年間という短期間愛した人であり。その電話は最高のお見舞いの言葉であった。田崎洋子とその旦那さまのことを考えるとにっこりしてしまう。でも、彼女からも電話もメールもこ゛ょうなくなってしまった。毎日のように「俳句・詩を送信したり、哲学・人生論を論じている坂下のメールが煩わしくなったのだろう。病人は自己本位でしかないから。まわりの人は寄り添うことはできないのである。
よく、大病をすると離婚する夫婦がいる。そして、別な女のところに行くのだ。なぜだろうか、それは、病は人を弱くするからだ。寄り添ってくれる人がほしいのだ。病にどこまで気力で勝つかということだ。これから、寒い寒い日々をどうやって生きるなかのか、坂下次郎は「ベッドの中でメールをしながら返信を待つ・・・・返信がないとわかっていても。
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旅人
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吉田松陰「十七、十八の死が惜しければ、三十の死も惜しい。八十、九十、百になってもこわれで足りたということはない。半年という虫たちの命が短い、とは思わないし、松や柏のように数百の命が長い、とも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅なり」この言葉は、元会津若松市長・福島県議四期をして福島県副議長をした板橋四郎の選挙演説の中の一コマである。
坂下は板橋の自宅で書生みたいに居候をしていた。子どものいない板橋は会津市の選挙区で県議会選挙の運動に駒大一年生の坂下を個人演説会の司会とか、応援弁士とした。坂下は自分の政治家としての演説の仕方とか、内容とかは板橋の影響が大きかった。坂下が脳内出血で倒れて、総選挙に落選する前に、衆議院議員として板橋の葬儀委員長をしたことだけが板橋への恩返しと思っている。坂下は板橋に吉田松陰先生の死生観は、私の魂を震わせます。どうか、書生で使ってくださいと頼んはだのである。板橋は「二郎、俺の傍にいてもいい」と笑顔で語ってくれた。ここで、押せ得ておくべきことは、吉田松陰の死生観は革命思想としての「陽明学」との関係を述べる識者もいる。保守・民族派のシンパである坂下次郎は板橋を師とするのである。その思想が坂下の原点である。
リハビリ病院から、左半身不随で自民党公認候補として、再選を目指すのである。体は満身創痍である。倒れて、左側は感覚がないのである。大学病院でリハビリをしたり、しても、脳の視床出血なので、左半身は、顔、胴、手足も疼痛という癌の痛みと同じようなことになっていた。坂下は、その痛みに耐えるために、ある大学病院で、ガンマナイフの治療をした。脳の出血した場所ではなく、その場所の周辺を中性子をあてて神経を破壊したのである。それだけでも、痛みはとれなかった。完全に精神的に鬱状態になり、若くして死んだ父のことだけを考えたり、自分の存在と世の中との断絶はものすごい苦しみであった。そして。ドラック・チェックという、痛みをとめるためのモルヒネ等の鎮痛剤も治療した。その頃は、エムエスコンチンというモルヒネを朝、昼、晩と一日三回飲んでいた。当時はできることは何でもした。なぜだ。坂下は次の選挙は日本の大変危険な選挙だと感覚的に思っていたからである。政権交代、直前の参議院選挙で自民党は惨敗した。戦後政治の総決算を主張した安倍総理は教育基本法改正、真正保守の政治家であった。しかし、左翼勢力は、日本における真正保守政治を攻撃した。そこには、反自民党のためには何でもマスコミもしたのだ。だから、坂下は最後の勝負に出たのである。心根は自らの「いのちを燃やして」民主党という、できもしないマニフェストを徹底的に批判したいと思ったのである。人生は長いとか、短いのではないのだ。私が病魔と闘っているときに、会津市の伊東議長から「坂下代議士、貴方は畳の上では死ねない。だから、総選挙になったら立候補してくださいと言われた。それにしても、自民党政権の危機の中での厳しい日々に病魔とともに「いのちを燃やした」のである。
これは、あくまで小説でありフィクションです。
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よく過ごした1日が幸せな眠りをもたらずように、よく過ごされた生は幸せな死をもたらす。―ダビィンチ
リハビリ病院に入院しているとき、政界復帰を願った。坂下は、そんな希望をもって生きたけれども、こんなことをリハビリをしている。若くて笑顔の似合うリハビリの作業療法士の担当者が小さな声で語ったのである。「坂下次郎」さんこんなに、半身不随で体に器具をつけて厳しいリハビリ。大変ですよね。私は坂下さんのような大病をしたら、リハビリなんかはしません。人間に残酷ですよ」と、真実を語ってくれた。坂下は返答した「私の体は深刻だ。感覚が左はないし、気力も何にもない。でもね、生きてきた限り最後まで一所懸命生きるんだよ」と。
リハビリ病院で、本当はいかに自殺するのか考えてばかりいるのに。この病院で深刻に思ったのは、脳神経の関係で体に痛みというか、疼痛がでてきたことだ。これには悩まされた。夜寝る頃にあらわれるのだ。理学療法士の可愛い女の子は、オルゴールの音がいいみたいですよと貸してくれた。
皆の見ているときは、リハビリ病院では模範生みたいな感じて、自分としては全力投球なのである。日本でも優秀なリハビリ病院なので、元内閣総理大臣、長島茂雄さんとか、芸能人もいた。今でも、何とか歩けるのは、そのときの高度なリハビリができたと思う。坂下はサッカーのオシム監督もここにいたのだ。日本は格差社会といわれるけれども、日本の富裕層は混合医療・自由診療のようなものが実質行われているいうことだろう、坂下にとって、衆議院議員という立場で高額なリハビリ・医療を受けることができたのである。リハビリ病院から国会に行って。議会活動は真剣勝負をしたつもりである。坂下の心には、解散総選挙には「いのちを燃やして」闘いたいという願いがあったのである。それは、家族にも、支持者にも、秘書にも誰にも言わなかった。坂下は自分の人生だけでなく、「命の限りを尽くしたいと」いうことである。本当は「太く短く美しく死にたい」ということなんだれども、坂下は思う。そんなことを思っても、今の自分は58歳である。思想的にいえば、楯の会長阿部勉さんは、三島由紀夫さんも、石原裕次郎、美空ひばりさんも還暦まては生きていなかったよね。リハビリ病院でそんなことを思い。総選挙に出て自分の人生の、政治活動の終わりにしたいと。
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余の罪悪、貧窮、疾病は、決して個人の責任に非ず、 自分が四年前に脳内出血で倒れてそんな気持ちがわかるようになった。テレビで健康でない人は社会にいらないように「健康第一と宣伝されると」自分が恥ずかしいような、皆に迷惑かけていることを実感してしまう。でも、社会主義者の主張という言葉は保守主義・民族派の私にも共鳴できる。 初台のリハビリ病院は少しでも歩くようになりたい。それだけで、入院した。特別室とは言わないけれど贅沢な個室でリハビリをした。相当入院費もかかったと思う。その病院から富士山が美しく見えた。一生の間で、新年に富士山をゆっくり見たのは、二回目である。大学生の時、羽田空港の傍の倉庫にガードマンのアルバイトをしていたときに朝早く富士山を見た。学生の時の富士山は雄雄しく美しく、希望と浪漫に溢れた自分には励ましいなり嬉しかった。
初台でのリハビリ病院での、朝飯のときは、一言も話はしなかった。看護師さん・・・いや、私は看護婦さんと言いたいけど。昼間は妻が来ていろいろ話をしたれど。私は鬱になり・・・何にも考えたくなかった。妻は心配して、今後のことを相談していたがっていたれど、何にも返答したくなかった。夜は食事の時に、東京の公設秘書の春日直子さんがリハビリ入院中はほとんど来てくれた。病人は一番寂しいのは夜、一人で食事をすることだ。
代議士ちゃんとしてください。食事済んだら、足の屈伸やろう。リハビリの担当の人に、春日は「パンツを自分ではかれるようになるといいんですがね、とか。いろいろリハビリを協力してくれた。国会の事務所のことや、派閥のこと、国会の動きになると真剣に語ってくれた。自暴自棄してになっている私を助けてくれた。春日は30年間。私と共に政治活動を支えてくれた。恩人である。愛しさもあるれど、同志であった。ここ数年、何年も会うことができないれども。無冠の帝王になると、私のところに来たくてもこないんだろう。リハビリ病院で、夜遅くなると、選挙区の事務所の秘書の女性に電話をして、冠婚葬祭の話を聞き情勢を何回も聞いた。でも、二ヶ月近く入院していると発狂したくなる。つい最近のマスコミ報道によると、40代の女性が、19歳の男の子と心中をしたくて、自ら実行したくなり、その女性は男の子に包丁で刺され死亡した。男の子は包丁で刺すことはできても、自分は死ぬことはできなかったのだ。坂下次郎もリハビリ病院入院中は自殺したかった。人生の絶好調の日々奈落の底に転落したのだ。ある時、春日は「代議士、街を歩いていると元気に歩いている人を見ると悔しいです。二人で電車に飛び込みますか・・・・そのほうがいいよね」と真剣に語った。坂下は「そうだね。政治運動ができない。演説もできない。そんなことでは死ぬことも選択肢」だよねと笑顔で語った。二人はにっこり笑った。
その夜、地元選挙区の秘書である城山美恵子に電話して、城山さん、私はもう駄目だ。体半分だよとボヤイタ。
そしたら、城山は「代議士いいんじゃないですか。左が駄目でも、右は元気なんだから、話もできるし、本も読めるんだからと励ましてくれた。いや、城山さん、これでは、もう総選挙には出られない。保守・民族派として戦後政治から脱却して「天皇国日本」を本当の独立国家にする使命感が実践できないのだ。涙はこぼすことは脳内出血の症状だから、涙をこぼさないようにしていた。でも、涙であふれた。死にたいと思った。恩師の代議士の申し訳ないと思った、私のような人間を市議会二期、県議四期、そして、衆議院議員と56歳で当選したのである。選挙区の支持者にどうお詫びしたらいいのかと思っていた。還暦前出し限界だ許してくれと言ったら。城山美恵子は「私に厳しく怒った。もし、自殺したら。もう、魂もふるさとに帰れないからね」「そのリハビリ病院の部屋に閉じ込められるのよと」と。坂下は臆病だから城山美恵子の言葉に全身が震えた。
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精神障害、ことに内因性精神病の場合の自殺には多少特異な点があるが、一般的に言って、自殺しょうとする人は、自分に生きている意味がないときめこんでいるのであろう。このように、自分の生きている意味などというものを意識的にせよ、無意識にせよ、考えてみることができるのは、戦時下のような非常時より、むしろ考えるゆとりのある時代や境遇においてなのであると思われる。動物に自殺と現象が見られないらしいのは、動物がただ本能的に生きているからであろう。自殺とは考える能力を持ち、悩む能力を持つ人間に特有な現象であるといえよう。つまり人間は、動物のように、ただ食べてねて生きている。というのは耐えられない。平和な時代においてあまりの貧窮に追いつめられて自殺する人はただ食べるため、生きるためだけの苦労をしている生活に耐えられなくなるのではなかろうか。長年病床に臥す人が自殺を考えるのも、自分の病の不治を信じ、現在の生活を無意味に感じるからなのであろう。神谷美恵子「旅の手帖より」 長年病床に臥す人が自殺を考えるのも、自分の病の不治を信じ、現在の生活を無意味に感じるからなのであろう。と神谷美恵子さんは書いているが。坂下次郎は東京医科大学病院で心温まる献身的な医療を受け嬉しかった。でも、自分の志が挫折して、まったく歩くことも出来ない。明日の希望もなくなり、政治家として頂点である衆議院議員として郷土のために国家のために生きていたのに。左半身付随となった自分を認めたくなかった。家内や子供達も連日病院で看病してくれた。何の不満もないけれども、一人ぼっちになると自殺を考えた。それを防いでくれたのは、東京事務所・選挙区事務所の秘書の人たちの全力で支えてくれたことである。でも、新聞、テレビは見なかった。見たくなかった。おそらく、精神的には鬱病だったと思う。一番嫌なのは電話がかかってくること。人が見舞いに来ることであった。おそらく、政界復帰は絶対無理だと思ったけれど。国会の秘書と、地元の選挙区の秘書に、一日何回も電話して情勢を聞き自分なりに分析をした。坂下次郎は初台のリハビリ病院に転院することを自分なりに急いだ。でも、弱きにはなっていた。東京の秘書の春日直子は、坂下に内緒で電話をよこして、「もう生きるのが嫌ならばいつでも美しく散りましょうと」言った。この言葉は嬉しかった。だめだったら、一緒にもし死んでくれるならば、墓場はどこにでもある。覚悟しょうと思った。あの時は心中することが最高の幸せだったと思う。現在の生活が無意味に感じたのであろう。 |



