真正保守を訴える

日本を愛し、郷土愛に燃える。

学者・知識人

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全22ページ

[20] [21] [22]

[ 前のページ | 次のページ ]

須賀敦子さん

須賀敦子さんの、夫は ベッビ−ノという人です。残念ながら夫婦生活は五年で夫の死によって終わります。須賀さんは、ウンベルト・サバの詩が好きみたいです。
″NuIIa riposa deIIa Vita come Ia Vita″
「生きることほど、人生の疲れを癒してくれるものは、ない」と、訳されています。須賀敦子さんは、ベネチアについて書いてますが、私も二回行ってますが、船に乗って小さな橋、げんこつ橋、野菜船、いかすみスパゲティは食べた時、顔中真っ黒になってしまった。坂本幹夫さんと行ったけど懐かしい。須賀敦子さんについては、今、BS朝日で「イタリアへ須賀敦子の静かなる魂の旅」を見ている。
 タレントの永六輔さん(78)が16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)を骨折、入院していたことが分かった。17日、所属事務所が明らかにした。手術を要し、復帰までに約1か月かかる見込みという。出演予定だった24日の東京・丸の内の東京国際フォーラムでのコンサートは、2012年2月16日に延期される。読売新聞
 
永さんを芸能人というのではなく、脚本家、作詞家、あるいはエッセイストというマルチ人間である。私は今日も図書館で住井すゑさんと永六輔さんの対談「人間宣言」を貸してもらい読んでいる。永さんの進歩的・理想主義者だと思う。私は保守を思想とているので相反する考えもあるが。永さんのような・・・・人がいることが日本の素晴らしさであり誇りである。永さん早く退院して国民に含蓄のあることを語り、書いてください。
 川端康成はいろいろ毀誉褒貶はありますが、北条民雄が頑提ない子どものように、どうして『いのちの初夜』を書かなければ生きていけないんだと手紙を書き、小説を送ったりするのを正面から受け止めてなんとかして発表してやろうと尽くす。二人の交わりは年数でいえばわずかに二年ほど、でもすでに文壇で確固たる地位にあった川端があれほどまでに北条のために心を砕き続けた事実。発病して戸籍から名前を抜かれた北条と、文字どおり孤児として少年期から死を見続けていた川端の二人の魂が共鳴し合ったことを、僕はもう一度よみがえらせたといという欲求にものすごく駆られたんです。
 私は、福島県議時代、二本松の本屋さんで、高山文彦の「火花」という北条民雄のことを書いた本を読んで全身が凍てつくような感じになった。ハンセン病にかかり、社会から隔離されて、不治の病をもって生きたこの川端康成の愛弟子に、なんとも言えない虚空の風景を感じた。
 北条民雄 大正3(1914)年生まれ。20歳のときハンセン病を発病。昭和9(1934)年、療養所に入院し、この頃から創作に専念する。同年、川端康成に師事。昭和11年、「いのちの初夜」を「文学界」に発表し「文学界賞」を受け多くの作品を発表するが、翌年(1937年)、腸結核で24歳の生涯を閉じた。代表作に「いのちの初夜」「癩院受胎」。
 
 
■産経新聞アーカイブ(1999年10月24日 大阪府下版に掲載)
 一九四五年(昭和二十年)十一月。満州(現・中国東北部)ハルビンのキャバレーの前で靴みがきをする十六歳の少年がいた。
 名前を稲垣完治といった。「藤山寛美」という芸名で、四歳の時から新劇の舞台に立っていた。慰問芝居に訪れた満州で終戦を迎え、舞台を失った。少年は日本を離れたことを悔やみながら郷愁を深めていた。

 寛美は昭和四年、大阪・新町で新派俳優の藤山秋美の四男として生まれる。父を病気で亡くし、母親の独断で新派俳優に弟子入りさせられた。
 初舞台は九年。道頓堀の角座で上演の『人斬供養』で、雪の中、母親を追いすがる役だった。子役は貴重であちこちの劇に出演し、一人前のサラリーマン以上に稼ぎ、貧しかった家計を助けた。
 道頓堀近くの精華小学校に通ったが、舞台出演のため昼間から早退する毎日で、同級生から「今日も早退、役者の子」と冷笑されたこともあった。
 十一歳の時、二代目渋谷天外(故人)から「喜劇向きの顔」と説得され、喜劇系の松竹家庭劇に移籍、中座に立つようになった。
 二十年三月、中座や角座が空襲で焼け、少し前から考えていた満州行きを決断する。月給が二割増の百二十円というのも魅力だった。しかし、終戦とともに生活は一変した。

 

敗戦の地獄
 寛美は慰問先の奉天(瀋陽)から慰問団本部があったハルビンに戻ったが、ソ連の収容所に入れられた。一カ月後の九月には、牡丹江の収容所に移される。半月がかりの行進での出来事が、その後の人生観を決定づけた。〈出発から数日後、乳飲み子から七歳くらいの三人の子供を連れた開拓団の女性が列に加わる。雨の日、真ん中の子供が発熱で動けなくなってしまう。母親は観念したようにその子を道端の草むらに運んだ。
 「おまえがいると、あとの二人が生きられない。許しておくれ」
 草むらから母子の絶叫が響き、母親だけが涙も拭かずに戻ってきた〉
 寛美はそのときの心境について、自伝『あほやなあ』の中で次のように語る。
 《自分も含めて、人間というものが信じられなくなったような気がします》
 約三カ月後、解放されてハルビンに戻ったが、また足止めされる。生きるためにキャバレーの雑用やブローカーなどさまざまな仕事についた。その一つが靴みがきだった。

 

松竹新喜劇
 寛美が帰国したのは昭和二十二年十月。まもなく天外率いる「すいーと・ほーむ」に入団する。劇団は一年後には合併して「松竹新喜劇」になった。
 ようやく戻れた中座。二十歳を前にして、「自分はかまぼこといっしょや。この板の上から離れたらあかん」と誓った。
 初主役は四カ月後に回ってきた新聞記者役だが、人気が出たのはさらに二年半後の『桂春団治』の丁稚役だった。春団治宅にツケを取りに行った際のボケたやりとりが大受けする。丁 稚  払うとくなはれ
 春団治  お金がない
 丁 稚  なんでない
 春団治  遊びすぎてない
 丁 稚  師匠は女にようもてるそうでんな
 春団治  お前はえらい男になると思うな
 丁 稚  ほんまでっか
 以来、「阿呆(あほう)」がはまり役になる。
 三十四年にテレビ放送された『親バカ子バカ』が大ヒット。「新喜劇のプリンス」などと称され、東京にも進出した。私生活でも京都・祇園の元芸妓と所帯をもち、三十三年十二月には直子(藤山直美)が生まれるなど幸せ話が続いた。

 

放蕩から破産
 新喜劇の看板役者となった寛美だが、名前が売れるにつれて酒色が派手になっていく。昔の歌舞伎役者が暗がりで下駄を探す芸者のためにお札を燃やしたという話を信奉し、「宵越しの金を持たない」「遊びは芸の肥やし」とうそぶいた。おごられ酒は飲まず、人に頼まれると断り切れずに借金もした。
 「飲むときは財布に百万円と別にもう二百万を持ってました。連れの分も含めすべて自分で払い、ファンらから飲食を贈られると、必ずその場でおごり返してました」。約十五年間、付き人を務めた舞台役者の曽我廼家玉太呂(四四)は寛美の金払いの良さをこう語る。
自然に債務は膨れ、借用書が暴力団に回る。三十年代後半には強面の男たちが舞台の袖で見張っていた。もっとも、その男たちを芝居にのめり込ませて泣かせたこともあったのだが…。
 三十九年十月、大阪地裁に破産宣告が申し立てられ、四十一年四月には新喜劇を除籍された。その日、夫人にかけた言葉は「靴みがきしてでも子供とお前は守っていく」(平成五年九月、産経新聞連載『父の化粧鏡』から)だった。

 

夢を売る役者
 寛美は半年後の昭和四十一年十月に復籍、翌月から六十二年二月までの二十年四カ月間、ひと月も休まず公演を続ける。メーンの中座ではほとんど座長部屋に住み込み状態だった。
 しかし、家庭をおろそかにしたわけではなかった。「帰宅しない日は必ず電話をくれました。家に帰ったときは私たちによく質問し、学校行事などについても細かく聞きました」と直美は明かす。
 公演ではさまざまな企画を立てた。話題になったのは、四十六年四月から始まった「リクエスト劇」だった。当日の客が選んだ芝居を演じたため、役者もセットも準備が大変で、事前には賛否があった。
 新喜劇文芸部の脚本家、米田亘(五二)は「喝采のうちに初回の幕がおりたとき、寛美さんと目を合わせて、涙をにじませる役者さんもいたようです」と伝える。企画に一貫していたのが客本位の姿勢だった。上方喜劇の原点は俄(にわか=即興寸劇)で、底に流れる義理人情や人間愛を追求し続けた。演じる役には笑いのなかに涙があった。
 「俳優」という言葉を「人にあらず、優れている」と読み、「自分は夢を売る役者」とこだわった。身内以外の前ではだらしない格好は見せず、中座の隣の飲食店に行くにも背広にネクタイをした。
 「舞台役者はお客さんと一期一会で接するのが魅力。満州で人の世のはかなさを刷り込まれた寛美さんには、いっそうだったのでしょう」と玉太呂。
 のちに寛美は芸能記者のインタビューで“芸の肥やし”について問われ、「満州に行って地獄をみたこと」と答えている。
 そんな役者が追い求めた演劇観は「水の上に字を書いて波紋を起こすようなもの。もちろん波紋はスーと消えるけど、だからまた芝居しようという気になる」だった。

 寛美は生涯、愛して止まなかった大阪に対するこだわりをみせた。平成元年に紫綬褒章を受けた際には、「大阪もしっかりせなあかんぞ、という意味ではないかと思っています」とコメント。「ミナミあっての寛美」と道頓堀周辺の商店街連合会「八笑会」に百万円を寄付した。
 舞台で使う大阪弁にもうるさかった。生まれ育った地方の方言はなかなか直らないが、「橋」と「箸」の違いなど自分が納得するまで何度もやり直させた。

 平成二年五月二十一日午後十時四十四分、約一カ月前から入院中の大阪市阿倍野区の市立大学付属病院で肝硬変で急逝する。直美と二人でビデオを見ていて、ふと息がとまった。六十歳だった。
 翌日未明、遺体を乗せた車は、普段は通れない道頓堀の通りを進んだ。歓楽街は人通りが絶え、二カ月前、最後の演技をした中座の前も静まり返っていた。
 一週間後、劇団葬が同じ中座で営まれ、約八千人のファンらが死を悼んだが、葬儀の前、無効の印が押されたパスポートが大阪府から遺族に手渡された。申請されたまま、受け取りに行けなかったものだった。
 予定の旅行先は中国。この年の初め、かつて住んだハルビンの家が残っているビデオを目にして再訪を決めていた。
 『もう二度と満州に行きたくない。人生の小箱は開けん方がいい』(二年二月、産経新聞連載『話の肖像画』から)。
 前年の暮れまで、こう話していたにもかかわらず。産経新聞
 
 瀬戸内寂聴は、藤山寛美ほど「芸人」としての色気があり、破天荒な人間的な生き方はすべて芸のこやしになった人はいないと書いていたような気がする。寛美の芸は「自らが愚かな人間になったようなふうに見せて、遠くから自分の芸を第三者的に見ているようなものだった。「アホ・ぼけ・」という人間性を虚像でありニヒリズムの塊のようだった。荘子の蝶についての逸話があるが、「荘子が蝶になり、自由に飛び回り、自分にもどるまでのことで」ある。ラッセルは無政府主義はクロポトキンより、荘子の思想にあると喝破した。寛美は蝶になり舞台のすべてを見ていた。自由にアナーキーにデカタンス的生き方とニヒリックナな微笑みに寛美の芸人として完成された風景があったのである。
 

皇后さま喜寿誕生日に寄せた文書回答全文

2011年10月20日05時00分
 77歳の誕生日に際して、記者会の質問に皇后さまが寄せた文書回答の全文は以下の通り。質問部分の表記を一部改めたほか、読みにくい語に読みがなをつけた。
 【問1】今年は3月に東日本大震災、福島第一原発事故が起き、9月には台風災害として平成に入り最悪となった台風12号による豪雨被害にも見舞われました。一方、女子サッカーの「なでしこジャパン」がワールドカップ優勝の快挙を成し遂げるなど、震災後の日本を勇気づける明るい出来事もありました。この1年を振り返ってのご感想をお聞かせください。特に、甚大な被害をもたらした今回の大震災をどう受け止め、天皇陛下とともに慰問された被災地ではどんなことをお感じになりましたか。震災当日の天皇、皇后両陛下のご様子もお聞かせください。
 【皇后さま】今年は日本の各地が大きな災害に襲われた、悲しみの多い年でした。三月十一日には、東日本で津波を伴う大地震があり、東北、とりわけ岩手、宮城、福島の三県が甚大な被害を蒙(こうむ)りました。就中(なかんずく)福島県においては、この震災に福島第一原発の事故が加わり、放射性物質の流出は周辺の海や地域を汚染し、影響下に暮らす人々の生活を大きく揺るがせました。大震災の翌日である三月十二日には、長野県栄村でもほぼ東北と同規模の地震があり、これに先立つ二月二十二日には、ニュージーランドにおいても、地震により、多くの若い同胞の生命が失われました。
 豪雨による災害も大きく、七月には新潟、福島の両県が、九月の台風十二号では、和歌山、奈良の両県が被災しました。災害に関する用語、津波てんでんこ、炉心溶融、シーベルト、冷温停止、深層崩壊等、今年ほど耳慣れぬ語彙(ごい)が、私どもの日常に入って来た年も少なかったのではないでしょうか。
 二万人近い無辜(むこ)の人々が悲しい犠牲となった東北の各地では、今も四千人近い人々の行方が分かりません。家を失い、或(ある)いは放射能の害を避けて、大勢の人々が慣れぬ土地で避難生活を送っています。犠牲者の遺族、被災者の一人一人が、どんなに深い悲しみを負い、多くを忍んで日々を過ごしているかを思い、犠牲者の冥福を祈り、又(また)、厳しい日々を生き抜いている人々、別(わ)けても生活の激変に耐え、一生懸命に生きている子どもたちが、一日も早く日常を取り戻せるよう、平穏な日々の再来を祈っています。
 この度(たび)の大震災をどのように受けとめたか、との質問ですが、こうした不条理は決してたやすく受け止められるものではなく、当初は、ともすれば希望を失い、無力感にとらわれがちになる自分と戦うところから始めねばなりませんでした。東北三県のお見舞いに陛下とご一緒にまいりました時にも、このような自分に、果たして人々を見舞うことが出来るのか、不安でなりませんでした。しかし陛下があの場合、苦しむ人々の傍(そば)に行き、その人々と共にあることを御自身の役割とお考えでいらっしゃることが分かっておりましたので、お伴(とも)をすることに躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。
 災害発生直後、一時味わった深い絶望感から、少しずつでも私を立ち直らせたものがあったとすれば、それはあの日以来、次第に誰の目にも見えて来た、人々の健気(けなげ)で沈着な振る舞いでした。非常時にあたり、あのように多くの日本人が、皆静かに現実を受けとめ、助け合い、譲り合いつつ、事態に対処したと知ったことは、私にとり何にも勝る慰めとなり、気持ちの支えとなりました。被災地の人々の気丈な姿も、私を勇気づけてくれました。三月の二十日頃(ごろ)でしたか、朝六時のニュースに郵便屋さんが映っており、まばらに人が出ている道で、一人一人宛名の人を確かめては、言葉をかけ、手紙を配っていました。「自分が動き始めたことで、少しでも人々が安心してくれている。よい仕事についた。」と笑顔で話しており、この時ふと、復興が始まっている、と感じました。
 この時期、自分の持ち場で精一杯自分を役立てようとしている人、仮に被災現場と離れた所にいても、その場その場で自分の務めを心をこめて果たすことで、被災者との連帯を感じていたと思われる人々が実に多くあり、こうした目に見えぬ絆が人々を結び、社会を支えている私たちの国の実相を、誇らしく感じました。災害時における救援を始め、あらゆる支援に当たられた内外の人々、厳しい環境下、原発の現場で働かれる作業員を始めとし、今も様々な形で被災地の復旧、復興に力を尽くしておられる人々に深く感謝いたします。
 この度の災害は、東北という地方につき、私どもに様々なことを教え、また、考えさせました。東北の抱える困難と共に、この地域がこれまで果たしてきた役割の大きさにも目を向けさせられました。この地で長く子どもたちに防災教育をほどこして来られた教育者、指導者のあったことも、しっかりと記憶にとどめたいと思います。今後この地域が真によい復興をとげる日まで、陛下のお言葉のように、この地に長く心を寄せ、その道のりを見守っていきたいと願っています。
 (震災の日の陛下と私の様子をとのことですが、事後の報道にあったことに、特に加えることはありません)
 この一年の世界の出来事で、特に印象に残るものとして、チュニジアのデモに端を発し、エジプト、リビア始めアラブ世界の各国に波及した「アラブの春」の動きがありました。なお、案じられることとして、タイをはじめ近隣の国々で今も続いている豪雨災害があります。
 九月、日本とのつながりの深いケニアのマータイさんがなくなりました。丁度(ちょうど)日本訪問の思い出をつづったお便りと共に、長く関わってこられた植樹活動のDVDが手許(てもと)に届けられた直後の訃報(ふほう)でした。そして、十月には、「アラブの春」よりも早く、非暴力をもって独裁に対し、人権や平和のための活動を続けてきたアフリカ、中近東の三人の女性に、ノーベル平和賞の授与が発表されました。
 恵まれぬ環境下で、長く努力を重ねてきた女子サッカーチーム「なでしこ」のワールドカップ優勝、美しい演技で知られる日本体操チームの世界選手権での活躍、魁皇関の立派な記録達成等、今年のスポーツ界には、うれしいニュースが続きました。園遊会に出席の佐々木監督と澤選手は、あの日どんなに大勢の人から喜びの言葉をかけられたことでしょう。大きな魁皇関は、芝生の斜面に笑顔でゆったりと立っておられました。
 この一年間にも各界は何人もの大切な方たちを失いました。このうち五月に亡くなった坊城俊周(ぼうじょう・としかね)さんは、戦後間もなくより、兄上の俊民氏と共に、宮中の歌会始の諸役となられ、以来、長くこの務めに献身して下さいました。平和な今日と異なり、戦後の混乱期に、若い人々の手で伝統の行事を守り続けることには、想像を超えるご苦労があったと思われます。七月に亡くなられた冷泉布美子さんも又、戦中戦後を通し、長い歴史をもつ時雨亭文庫を守られ、冷泉家に伝わるさまざまな年中行事も、これをつぶさに今日に伝えられました。京都のお宅で、美しい七夕のお飾りを見せて頂いた日のことを懐かしく思い出します。
 【問2】4人のお孫さまは健やかに成長され、秋篠宮ご一家の長女眞子さまはまもなく20歳となり、成年皇族になられます。皇太子ご一家、秋篠宮ご一家とは最近ではどのような交流をされ、どんな思いで接しておられますか。初めてのお孫さまが成年を迎えられることで、何か感慨はございますか。
 【皇后さま】四人の孫たちは、秋篠宮家の上の二人、眞子と佳子が十九歳と十六歳、東宮の愛子が九つ、秋篠宮家の末の悠仁が五つになり、それぞれに個性は違いますが、私にとり皆可愛く大切な孫たちです。会いに来てくれるのが楽しみで、一緒に過ごせる時間を、これからも大切にしていくつもりです。
 質問にもありましたように、今年は秋篠宮家の長女眞子が成人式を迎えます。思慮深く、両親が選んだ名前のように真直(まっす)ぐに育ってくれたことを、嬉(うれ)しく思っています。
 
 【問3】7月初旬に左の肩から腕に強い痛みを訴えられ、9月に痛みが再燃し、北海道訪問を取りやめられました。天皇陛下は2月、心臓の冠動脈に硬化や狭窄(きょうさく)が見つかり、治療を始められました。喜寿を迎えられたわけですが、両陛下の現在のご体調はいかがですか。両陛下の健康管理、公務のあり方についてはどのようにお考えですか。
 【皇后さま】五、六年程前から、医師の警告を受けていた頸椎(けいつい)症より来る痛みが、七月初旬と九月初旬の二度にわたり発症し、幾つかの務めを欠いてしまいました。これまで比較的健康に恵まれてきましたが、この頃は加齢のためか、体に愉快でない症状が時折現れるようになり、その多くは耐えられないといったものではないのですが、日程変更の可能性を伴う時は症状を発表せねばならず、その都度人々に心配をかけることを心苦しく思っています。
 八年前、前立腺の手術をお受けになった陛下は、今もホルモン療法をお受けになっており、そのことが骨や筋肉に及ぼす悪い影響は避けられません。薬をお摂(と)りになる他、医師からは適度の運動も奨(すす)められており、私も毎朝の散策に加え、体調が許すようになりましたら、また以前のようにテニスコートにもお伴をしたいと願っています。この二月に冠動脈の狭窄が見付かった結果、これに対応するための投薬も受けていらっしゃり、運動もあまり長時間はなさいません。陛下も私も、時に体におこる不具合に対処する一方で、今持っている体力があまり急速に衰えぬよう体に負荷をかけることも必要な、少ししんどい年令に来ているかと感じています。
 陛下のお務めの御多忙がお体に障らぬよう、深くお案じ申し上げておりますが、他方、病気をお持ちの陛下が、少しも健康感を失うことなく、日々の務めに励んでいらっしゃるご様子を見上げますと、陛下の御日常が、ごく自然に公務と共にあるとの感も深くいたします。
 人々のために尽くすという陛下のお気持ちを大切にすると共に、過度のお疲れのないよう、医師や周囲の人たちの意見も聞きつつ、常に注意深くお側にありたいと願っています。

全22ページ

[20] [21] [22]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
真正保守を訴える。
真正保守を訴える。
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
友だち(86)
  • いのしし
  • 愛国を考える!
  • Nagoya
  • 金さん
  • junkie
  • 保守の会会長 松山昭彦
友だち一覧

標準グループ

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事