真正保守を訴える

日本を愛し、郷土愛に燃える。

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『米英にとっての太平洋戦争』(草思社)で指摘しているように、太平洋戦争とは、アメリカと英国と日本が三つ巴になって、将来のアジアの支配を争った戦いという側面があったわけである。
世界は危機に遭遇している。私たちの全てが破壊に向かっている。地球が破壊しかかっている。この危機や破壊や壊滅の中に私たち、人間、共に生きてきた愛する動物、植物、この風、この空、土、水、光が永久に閉ざされ続けるのか。何か大きく間違っていたのだ。近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。
 
私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する、人間は裸で母の体内から生れた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ、生れたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。
霊地熊野は真の人材を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光。熊野の水、熊野の風。岩に耳よせ声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る柱古の物語を聞こうそこに熊野大学が誕生する。

武田清子さんの天皇論

廃止か存続か。天皇制の扱いは太平洋戦争中から連合国で論争になっていた。その成り行きを追ったのが『天皇観の相剋(そうこく)』(1978年)だ。戦前からのキリスト者である筆者が、いち早く各国の史料を集め、まだ生きていた関係者から聞き取って再現した思想のドラマ。昨年刊行の古川隆久『昭和天皇』は「現在でも十分な価値がある」と評価する。
    ◇
 天皇制は、私の一貫した研究課題です。15年戦争のころの天皇は神として絶対化され、キリスト教の信仰にとって一番の障害でした。
 執筆には約10年かかりました。アメリカだけでなく、各国が天皇制をどうとらえたか客観的に知りたかった。当時、世界教会協議会の役員をしたり、英米の大学に講義に呼ばれたりで、いろんな国に行く機会がありました。公文書館などで史料を探すのと並行し、関係者に「今度日本から行くのでお会いしたい」と手紙を書きました。
 オーストラリアのマクマーン・ボール(連合国対日理事会英連邦代表)はご自分の山荘でお食事に招いてくださった。アメリカのカーター・ビンセント(極東地域委員会委員長)は、駐日大使だったライシャワーさんがハーバード大のオフィスから電話をかけてくださったので、すぐに会えました。
 多くのアメリカ人は丁重に迎えてくださった。いろんな史料もいただきました。他方イギリス人はなかなか意見を言ってくれない。ただ、イギリスの公文書館の職員は実力がありました。日本の真珠湾攻撃がイギリスへの「恵み」だったというチャーチル首相の覚書は、職員が「役に立つんじゃないですか」と探し出してきてくださった。サッと見てビックリでした。
 1945年前後の連合国では、天皇観が対立していました。アメリカの中国専門家オーエン・ラティモアは『アジアにおける解決』で、天皇制を廃止しなければ日本の民主化はできないと主張しました。オーストラリアも天皇制廃止論の強い国の一つでした。一方で、アメリカの駐日大使だったジョセフ・グルーは、天皇は秩序維持に不可欠な「女王蜂」であり、右翼や軍国主義者を排除すれば天皇がいても日本は民主化できる、と楽観的でした。
 この相剋の帰結は、天皇の人間宣言や象徴天皇制となりますが、実は外国という鏡に映った日本の中の相剋だったというのが私の見方です。そもそも明治維新のシンボルとしての天皇観に対立があった。吉田松陰は「天下は一人の天下」と絶対主義的な天皇観であり、山県太華は「天下は天下の天下」と制限君主的な天皇観でした。
 明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。「万世一系ノ天皇」は「神聖ニシテ侵スヘカラス」だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す。これはその後、超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解していきます。
 二重構造の天皇観が、敗戦で連合国という異質の文化と出会い、民主化というドラマが始まりました。その時、連合国と共演した日本人は誰なのか。私は、天皇の側近だったようなオールドリベラリストではなく、大正デモクラシーや天皇機関説でインパクトを与えられ、民主化への希望を懐に持っていた一般民衆だったと思いました。そういう人たちが新憲法を支持した。
 外でも内でも思想が相剋する中で、近代日本の歩みが刻まれてきたんじゃないでしょうか。日本を理解するにはいい勉強になったと思っています。
(聞き手=編集委員・村山正司) 朝日新聞
     ◇
 たけだ・きよこ 1917年、兵庫県生まれ。国際基督教大名誉教授(思想史)。戦前に米国留ル学し、キリスト教と日本人との関係を見つめてきた。著書に『人間観の相剋』など。
 
日本のリベラリストの一人である武田清子さんは、日本の思想史である、最大のテーマである「天皇制について」論文を著したことは、学者としての良心だろう。と考える。
「コンプュターは抑制のきかない市場を地球規模の怪物に仕立て上げ、国境を粉砕して、・・・・中略・・・・国に自国の将来を決めることは許されず、誰にたいしても責任とることなく世界の政治を抜きにして世界経済を動かそうとしているのである。サイパースペースは国の手の届かないところにある。国際的な管理を行う機関もない。民主主義はいったいどこにあるというのだろうか。」
■アルプスの山荘と世紀末ウィーン
 −−そもそもヒトラーに興味を持ったのは
 中島 電気通信大学で「差別の哲学」という講義を持っていて、そのときにユダヤ人差別を扱ったんです。ヨーロッパの歴史を見ると、十字軍の時代からユダヤ人虐殺は起きている。そういう土壌があって、ヒトラーが出てきた。
 −−ヒトラーを語るのにホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の問題は避けて通れません
 中島 私が専門にしている哲学者のカント(1724〜1804年)も、(現在の基準からすれば)反ユダヤ主義者です。当時はみんなそうだった。ヒトラーの時代のウィーンにはごく自然に反ユダヤ主義が存在しており、ほとんどの市民は大なり小なり反ユダヤ主義者だった。だから、青年期以前のヒトラーについて残っている乏しい資料から、反ユダヤ主義的な態度の片鱗(へんりん)を探しだそうと必死になるのは、あまり意味があるとは思えない。問題は、なぜヒトラーが、ホロコーストに至る特殊ヒトラー的反ユダヤ主義に転換したのかという点です。
 −−いつだと見ますか
 中島 もちろん、はっきりとは分からない。ただ、ウィーン体験がなければヒトラーのユダヤ人観はだいぶ違ったものになっていたのは確か。ヒトラーの性格で顕著なのは、さまざまな面での異常な潔癖症。われわれが「世紀末ウィーン」として称賛する文化的爛熟(らんじゅく)も、彼は「道徳的退廃」として心底嫌悪した。『わが闘争』でも述べているけど、ウィーンで衛生的でないユダヤ人街や至る所で売春が行われている下層社会の光景を実地に見て、持ち前の潔癖症から憎悪を募らせた、というのは一つの理由だとは思う。ただ、『わが闘争』は記述の時系列の錯誤が著しいので、本当に当時の感情なのか執筆時点の考えなのかという問題があり、そのまま信用はできませんが。
 −−そのヒトラーの反ユダヤ主義を、大衆は受け入れました
 中島 よく言われるように、ヒトラーを支持したのは特殊な人たちではないですね。最も健全なドイツ人、ちゃんとした職に就き、国を愛する人たちが、軒並み反ユダヤ主義になって、ヒトラーの側に付いた。
 《ナチスドイツは当時、禁煙運動や定期検診、アスベスト使用制限、食品安全基準の策定など、世界最先端の健康政策を推し進めていた。中島さんは、ヒトラーの潔癖症と異様な健康志向は、「不衛生なものの排除」という形でユダヤ人排斥に直結しているとみる》
 −−彼が目指した国は
 中島 ヒトラーの理想を具象化したのが、ドイツ南部のベルヒテスガーデンにあるヒトラーの山荘「ケールシュタインハウス」の景色でしょうね。一度行ってみるとよく分かりますよ。青いアルプスの山々に囲まれた山荘からの眺望は、この世のものとは思えない絶景です。すべてが非の打ち所なく健康的で清潔で明るい、彼にとっての「ドイツ人のドイツ」を象徴する眺めなのでしょう。その対極に、世紀末ウィーンがある。
 −−主観的には良いことをしていると確信していた
 中島 ヒトラーの中には、冷酷無比な感情が私利私欲のない純粋さと同居している。私が関心があるのは、対立する属性が同居するその人間としての不可解さ。この分からなさが、今に至るまで多くの人の関心を呼んでいるんでしょうね。−『ヒトラーのウィーン』はヒトラーが軸の一風変わったウィーン案内としても読めます
 中島 やはりウィーンとヒトラーは、ちょっとやそっとの関係じゃないですよ。(1938年にドイツと合邦した)オーストリアは、戦後ずっとナチスドイツの犠牲者だという立場を押し通し、ヒトラーとの縁を極力消したがっていたけど、だんだん通じなくなってきた。今はちょっとしたインテリなら、ヒトラーとオーストリアの深い関係について知っていますよ。
 −−ウィーンについての著書を多くお持ちです
 中島 私にとってのウィーンは、ある意味でヒトラーの場合と似ていて、育ててくれた場所であると同時に、憎しみの対象でもある。今も家を持っていて、なんであんな所にまだ行くのかと思うけど…。パリや京都もそうだといわれているけど、すごくイメージと実際が違うところですね。日本ではずいぶん美化されているけど、住んでみると、差別をはじめ人間が持つすべての悪徳がこびりついている。逆に言うと、それが私の趣味に合っているのかもしれません。
 −−どんな街ですか
 中島 すごくしたたかでずるがしこく、絶対滅びることがない。自分の所にある文化的なものを最大限に利用し、パワーポリティクスの中を生きていく。昔の現地の教科書には、すごいことが書いてありましたよ。ウィーンが滅びたらヨーロッパは滅びる、と教育している。つまり、古代にはローマ帝国の拠点で、文明と野蛮を隔てる砦(とりで)だった。その後、オスマン帝国の欧州侵攻を防ぎ、冷戦中は共産主義に対する砦になった。いつの時代もウィーンは文明の砦である、と。今でもハプスブルク家をはじめ、古い貴族が生きている。その頑固さ。パリやニューヨークと違って、今やまったく世界の政治、文化の中心地じゃないですよ。だからこそ、古いお話にしがみつくんでしょうね。
 −−ヒトラーはウィーンに挑み、挫折しました
 中島 今も昔もウィーンは芸術家にとって大変なところです。音楽青年をはじめ、野心を抱いた若者がいっぱいいる。そんなプライドの高い青年が、やることなすことすべて裏目に出たとき、「社会が悪い」と都合良く解釈して憎悪を燃やす。それは今でもよくあることでしょう。しかしウィーンの造形美術アカデミーもだめだね。ヒトラーを受からせていればよかったのに。本人のためにも世界のためにも。たぶん、二流の画家ぐらいにはなっていましたよ。(磨井慎吾)
 
ヒトラーはなぜ支持されたのか、中島先生は独自の分析をされている。反ユダヤ主義・ヒトラーの人間性・さらに、ヒトラーの潔癖性についても語っておられた。中島先生にお聞きしたいのは、ハイデッカーについいて、どうしてヒトラーと関係が出来たのか。さらに、カール・シュミットとの関係も聞きたいですね。ヒトラーのこれらの政策は理解できる。《ナチスドイツは当時、禁煙運動や定期検診、アスベスト使用制限、食品安全基準の策定など、世界最先端の健康政策を推し進めていた。中島さんは、ヒトラーの潔癖症と異様な健康志向は、「不衛生なものの排除」という形でユダヤ人排斥に直結しているとみる》これからの時代ナチスのような全体主義はいかに排除できるのか。考えなければならない。
 

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