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故司馬遼太郎が小説『峠』のあとがきで次のように書いている。「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。「人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。(中略)明治期のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復しょうとするのもそれであろう」
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好きな・感銘した文章
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遠藤周作が純愛について書いています。ブルースという外国の作家がハッキリ言っているのである。「安定は情熱を殺し、不安は情熱をたかめると」と。二人の恋人がたがいに愛し合っても慕いあってもさまざまな運命のために結ばれない。だから愛情が燃え上がると。安定したら燃える愛はないということだ。
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「文化とは、ある時代に突如生まれて育ったものではない。ひとりのすぐれた人が同時代にすぐれた文化を築きあげたにしろ、彼はやはり先人の点検のあとを歩いてきている」立原正秋の「文化」とはなにかという文である。村松剛は、立原正秋は「勁切とか勁直とかいうような言葉は、今日はもはや古典的な枠組に入る」という。村松は、勁切、勁直だけでなく、克己、雄渾、剛毅もそうだろうと。そして、立原のような文人型の文学者は、いまは少なくなったと。立原氏はその伝統を踏む、最後のひとりかもしれないと。
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「しあわせ」と「生きがい」は矛盾するという会田雄次の書いたものを読んでいる。ロミオとジュエットの、あの灼熱の恋は、二人が知りあってから死ぬまで、わずか15日ぐらいの期間に燃えて、燃えつきたものだ。そのような短期間だからこそ、あの灼熱の恋が可能だったといえる。シーエクスピアの生きた16世紀、つまりルネッサンス時代の人生観はみなそういうものだったのだ。「ただ、のめのめと生をこの地上にむさぼるは、人の世を真(まこと)に生きしとはいいがたし。たとえ瞬間の間にすぎずとも、わが生命(いのち)のすべてを焼きつくす、誠の愛に生きんかな」15世紀の詩人ポリツィアーノはこううたっている。
「人生はすべてかなし。されどこのはかなき人生のその一瞬に全生命を賭けるとき、その一瞬は永遠へとつらなる。その瞬間に人は、神が人間に対する愛によって与えたもうた最善最美の世界を見る」・・。会田はそれがまた当時の新プラトン主義の帰結であったとしている。
会田の言いたいことは次のようなことである。生命力を集中すればするほど、私たちはより強く生きがいを感じる。だからもっとも短い瞬間に、全生命力を燃焼させることは最高の生きがいを知ることになる。だが、それを味わい得たものは、生命力をつかいはたしがゆえに死なねばならぬ。
会田はジーン・ウェブスターの「あしながおじさん」のジュディは恋人であり、恩人でもあるあしながおじさんへの恋文で、次のような意味のことをのべている。「いつか、私たちが老齢がき、死がやってくるでしょう。一人残されることでしょう。遠い遠い将来には。でもそのときは私たちは、あるいは残された一人はかずかずの楽しい思い出をもっていることでしょう。それが、私たちの老人期をささえ、一生を悔いなくさせることでしょう」
という文を紹介しながら、会田はジュディについて次のように書いている。この思いでに生きるという自信は、このジュディのような積極的にな、ひたすら理想を求めて激しく、努力を積み重ねた女性にしてはじめて得られるものなのである。
村松剛は「日本には肉体上の男性はいても、精神上の男性はいなくなった」会田雄次は慨歎(がいたん)していると解説で書いている。会田雄次は「アーロン収容所」を著わし戦争について、その極限状況を経験しながら、ルネッサンスの研究家としての深い洞察力で如何に生きるべきかということを (「しあわせ」と「生きがい」は矛盾する)としているのだ。
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アランの幸福論を読んでいる。アランは「ジル・プラスもの物語」を読むべきとしている。幸運も不運もあてにするべきでなく、船でいえば底荷をすてて、風向にしたがうべきことを教えてくれる。われわれの過矢の方がわれわれ自身よりもさきに消滅するのだと。
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