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中国文学は公が好きで、日本文学は私が関心があったと丸山才一氏は書いている。そして、このせいで彼らは恋愛小説を持たず、われわれは待つ。これはたしかに言へるでせう・・とも。
丸山氏はしかし、ここで西洋文学のことを考慮に「いれると、話は厄介なことになる。といふのは西洋の恋愛小説は、単に男女の愛欲のことだけではなく、それと同時に社会を描いたものが多いからです。あるいは、恋だけを描いてゐるつもりでも、いつの間にやら社会がはいつて来てしまふ。さういふ具合のいい構造になつてゐたと。
丸山才一氏は日本の近代文学はさうゆかなかつた。社会が未成熟で、人間のなかに公と私の双方があるのではなかつたから。私があるだけだつたから。さう言ひ切つていいと思ふ。それなのに敢えて社会を描かうと努力すると、明治の小説や昭和のプロレタリア文学のやうな強引なことになつて、破綻するわけであると。
でも、丸山氏は結論として、日本文学が社会が成熟し、人間の内部に公と私との両方があると言いともいい状況に近づいた。つまり恋と日本文学との関係は新しい時代にはいつたとしている。
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好きな・感銘した文章
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日本文学とは何かとよく訊かれるけれど、それは中国文学が、闇のなかで香りを放つだけでちつとも見えない夜の梅さながらに、恋をはつきり書かないのと違つて、朝日を受けて色美しく映える桜の花のやうに明日に恋を書く文学なのさ。「日本文学とは 丸山才一」
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"私にとって官能小説が本妻なら、自伝、エッセイは愛人のようなものだと思っている。この両輪がないと私の文筆生活は成り立たないと思っていた。"(「死んでたまるか」団鬼六」)
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文禄2年7月―渋紙に包まれた黒漆塗の小箱が、九州、博多の津に打ちあげられた。蒔絵がほどこされた立派な文箱が出てきた。肥前の名護屋城の在陣していた秀吉のもとへ届けられた。秀吉の祐筆役山中山城守長俊が書状をあらためると、肥前佐賀城主竜造寺政家の家臣瀬川采女の妻である菊子が、戦地にいる夫へ宛てた手紙だとわかった。読み終えて書状を畳む長俊の目に、感じ入る色が浮かんでいた。「いかがした。竜造寺に仕えておる者の妻女は愚痴めいたことでも書いておったか。」秀吉がなにげな訊くと、長俊は膝を進めて書状を差し出した。
長俊が差し出す書状を手にして読みだした秀吉は、興を覚えた表情をして目を輝かせた。
―床は海、枕は山とたちのぼる、胸のけむり晴るるまなき、涙の雨そそぎ、いつをかぎりの露の身の、消えやらぬほどもうらめし
と、趣のある奥床しい文字で認められた手紙には、夫を恋い慕う思いが連綿と綴られている。
―思へば思へば、添ひまゐらせぬ昔もありつるに、こは何のむくいにておはしますぞや。あさましかりつる我がこころかなとは思へども、よき止まらぬこころのくせとして、また恋しう思ひまゐらせ、
肥前佐賀城主竜造寺政家の家臣瀬川采女の妻である菊子が、戦地にいる夫へ宛てた手紙である。「汐の恋文 葉室麟 オール読物」で書かれている。
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大崎善生氏の「赦(ゆる)す人」読んでいる。故作家団鬼六氏のことを書いた本である。団鬼六氏のファンなので彼の書いたSMの本は読まないが、その他の本はほとんど読んだ。
〃ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ〃 大埼氏は次のように書いている。これは鬼六が生涯を通じて標榜してきた言葉である。江戸初期の小唄、隆達節の一節だ。本のタイトルになり、あちこちに書いているが、私はこの言葉を読むたびに、鮮やかな一瞬の光芒を潰して昭和のスターである高橋貞二のことと、あまりにも儚(はかな)い夫人のその後の運命を思い胸が痛くなると。
団鬼六氏の父信行は、相場で大損をして、女を追い掛け回し、信行は室町時代の「閑吟集」の一節である″一期は夢よ″の言葉を口ずさんでいたという。真面目くさって働いていたって何の意味もない、この世はどうせ夢のようなもの、ならばただ遊べ、ひたすら遊べというような意味であろう。団鬼六氏の生き方は破天荒のものだが、大好きな作家のひとりである。
鬼六も、父信行も ″何せうぞ、くすんで 一期は夢よ ただ狂え″ という生き方をした。
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