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自己をめぐる無数の仮定的な実在(勿論自己の内面も含めて)を作品という決定的な実在に変容させる試みが芸術であるとすれば、それに先立ってまず、自我の分裂が必要とされる。即ち書く自我と書かれる自我と。作品の形成はこの書く自我と書かれる自我との闘争に他ならぬ。-川端康成論の一方法-三島由紀夫
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好きな・感銘した文章
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【作品紹介】 『ある微笑』 人生に倦怠している二十歳のドミニックには、ベルトランという情人(アマン)がいる。ある日、彼女は憂鬱で孤独な四十男のリュックに会って強く惹かれ、一時的な恋愛を楽しむ約束で出かけるが、彼女はリュックを真剣に愛するようになってしまう。長編2作目、1956年。 |
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《花をいけることで自分の身が清められるだけでなく、その場所も清らかな空閑になる。古来、清浄な空閑には神が宿るとされます。たとえ無意識にせよ、日本人は花に神を感じているのではないか、あるいは神をむかえるために花をいけているのではないかと思っています》川瀬敏郎花をいける
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図書館で面白いと本を見つけた。こんなことが書いてあった。テレビメディアの劇場型の「お祭り党」という騒動に対して「すれっからし」になることだと,「シラケつつノリ,ノリつつシラケる」したたかさ,この戦略が有効ということだろうと。「参考 劇場社会の構造 新井克弥 青弓社」
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「終りなき貫徹」の第一章に、吉田満は記している。《…ゐる、ゐる。戦友たちが。いづれも無言。こちらの瞼の中を見据ゑるやうに、どこか不安定な姿勢で、立ちつくしてゐる。彼らの眉は、かなしげな憤りで、濡れてゐる。唇が、黒く、固い。どうこたへたらいいのだらう。…。
近寄つて、肩を抱き,どんな力で、ゆすつてやったらいいのだらう。(中略)…死に果てたかれらの、いまはの心には、俺たちへの、精魂こめた希願が盛りこぼれてゐたのだ。もろともに捕らえられてゐたこの愚かしい狂亂のうちから、生きのこった俺たちに、その毒をきよめて新生ヲタ吹きこむちから…。 切望してゐたのだ。かれらは、も早ゐない。だがかれらを生かすも殺すも、ただ俺たちの生き方にあるのだ》 |





