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4 悲しみについて‐1 悲しみとは、身を削るような慟哭だけのものではない。死だけが親しい絶望のものでもない。 私たちは、生きていることだけですでに悲しみに包まれており、明日を迎えるためにいつのまにか今日の涙を流している。 プッチーニ/弦楽四重奏曲「菊」。 この曲は、ある人の死を悼んで書かれた曲だという。確かにそこには深い哀惜の気配が濃く、私たちはこの曲に愛する者との別れの悲しみを聴き取ることができる。 私はこの曲をFM放送で聴いた。まったく知らなかったこの曲に、それこそ電撃に打たれたような衝撃を受けたのは、今思えば、生きているだけでつきまとう悲しさが、音楽によって初めて呼び覚まされた瞬間 だった、と考えてみたくもなる。それほど、私はこの曲に、これまで言葉にできなかった悲しみを聴き、私の存在の根源のところに触れた。私とは悲しみ。私という存在のの根源は、悲しみそれ自体なのかもしれない…。 この曲に残された、喪失の悲しみ。過去への愛惜。そして、自己へのささやかな慰撫。 ここには、激情に巻き込まれた悲しみへの自己耽溺とはまったく異なる、まさしく過ぎ去った時への愛惜と言うべき悲しみがある。 しばらくして私は、この曲に捧げるオマージュを書いた。 私は私の来し方を思う。 甘美な思い出は多い。 しかしそれらは私の記憶の中で、 その甘美さを細く僅かに残しているにすぎない。 そして今の私。 その私が抱くもの。 それは悲劇であることをすでにやめた、 今は稀(うす)い悲しみ。 私は泣きはしない。 しかし、涙は 私の頬を、ひとすじ流れていく。 時は移り、 私は、微(わず)かに振り向いてみるにすぎない。 (1995年7月) 勝手な当て字の「稀(うす)い悲しみ」という言い方にこだわったのは、それが、慟哭でもなく、絶望でもない、むしろ諦念とすら呼ぶことができるような、そんな「稀(まれ)な」悲しみがこのごく短い曲に表されているためだ。 私たちの悲しみは、私たちの地下で水脈となり、私たちの内部を常に流れている。振り返るべき過去は、ひとすじの涙となって常に私たちの現在に滲み出てくる。 私の生きてきた時間。私が失ってきたもの。愛してきた者。 悲しみとは、このように決して消すことのできない、私たちの過去への愛惜なのだ。 |

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こんにちは!私にはちょっと難しいですが、復活さんらしい熱情を感じさせる内省的な文章を味あわせていただきました。プッチーニに、こういうカルテットの作品があることも知りました、ぜひ聴いてみたいものです。ご紹介に感謝!
2011/11/13(日) 午前 8:10 [ アズライト ]
断電池亭さん、このシリーズは、独りよがりな文章で恐縮ですが、若いころの情熱をブログに残しておこうと思い、アップしている次第です。気恥ずかしい文章に少しだけ手を入れて載せました。
プッチーニの「菊」は、知らずに済ますにはあまりに残念な名品。機会があればぜひお聴きになってみてください。
2011/11/14(月) 午前 11:14