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新年雑感

イメージ 1



新年あけましておめでとうございます。

昨年という1年を考えれば、屈託なくそう言ってよいものか、未だにためらいます。
生活に困窮している方々がいる一方で、何がおめでたいのか、そうも思います。
しかし、ともかくも年が明け、新しいスタートを迎えられたことを、
さまざまな想いをこめて、おめでとう、と言っておきたいと思います。

私個人としては、昨年は大きな病気もせず、比較的健康でいられたことが何よりでした。
40歳代も終盤に近づき、身体の随所に不調を抱えながらも、入院するほどの病気もなく、
1年を終えられたことは、ともかくも有難いことでした。

しかし、実は、そのことこそ最も大切なことであり、むしろ、健康さえ確保できたならば、
お金とか、仕事の成果とかは、それなりに何とかなっていればいいのではないか、
いえ、何とかなっていなくても、健康さえあれば、それでいいのではないか、
そう思うようになっています。

会社経営は、生来の不向きもあって、目覚ましい発展など望むべくもありませんが、
だからと言って開き直っているわけでもなく、毎日、課題に向き合い立ち向かい、
一方で困難に目をつぶり逃避し、そうやって、現実に触れたり避けたりしながら、
続けているというところです。

会社が成長していくのに合わせて、私自身が成長しなければなりませんが、
そうできているのかは、自分ではあまりわかりません。

ただ、信頼できる友人の励ましに満ちた言葉や、そもそも低すぎる自己評価を、半々にブレンドして、
自分を成り立たせている、といった感じです。

今年こそ、という気負った決意と、今年もともかくも健康に、という腰の引けた姿勢が、
私の中でせめぎ合っている――。そんな新年を迎えています。


今日、久しぶりに近くの公園をひとりで散歩して、自分が何者かを思い出そうとしました。
木や風や空と対話するように、さまざまな想いにふけりました。

自分の内部から聞こえてくる言葉に耳を傾け、その言葉を外気に触れさせて、
その冷たさで澄ませようとしました。

私自身の影が、冬枯れの草の上に映り、

イメージ 2


見上げれば、垂直に伸びる雲がありました。

イメージ 3



俳句を嗜まないので、ここで一句、というわけにはいきませんが、
そのかわりに、こうして写真を撮って、
今日のこの時間を記憶にとどめました。


明日から始まる仕事の日々の中で、
私はどう暮らしていくのでしょう。

きっと、現実に向き合いながら、
それなりに逃げながら、
でしょうか。


◆冒頭の写真は、今年の年賀状に使ったもの。
 「モネの幻影」とでも題したい、今年、湯布院で撮ったものです。




 

ただ魂のみが

2011.11.17

 物事自体は我々の魂にいささかも直接に触れることはない。
 また魂へ近づくこともできなければ、その向きを変えたりこれを動かしたりすることもできない。
 ただ魂のみが自分自身の向きを変え、身を動かし、なんなりと自分にふさわしく思われる判断に従って、
 外側から起ってくる物事を自分のために処理するのである。

              (マルクス・アウレリーウス『自省録』 神谷美恵子訳 第5章19)



 
 
4 悲しみについて‐1

悲しみとは、身を削るような慟哭だけのものではない。死だけが親しい絶望のものでもない。
私たちは、生きていることだけですでに悲しみに包まれており、明日を迎えるためにいつのまにか今日の涙を流している。

プッチーニ/弦楽四重奏曲「菊」

この曲は、ある人の死を悼んで書かれた曲だという。確かにそこには深い哀惜の気配が濃く、私たちはこの曲に愛する者との別れの悲しみを聴き取ることができる。

私はこの曲をFM放送で聴いた。まったく知らなかったこの曲に、それこそ電撃に打たれたような衝撃を受けたのは、今思えば、生きているだけでつきまとう悲しさが、音楽によって初めて呼び覚まされた瞬間 だった、と考えてみたくもなる。それほど、私はこの曲に、これまで言葉にできなかった悲しみを聴き、私の存在の根源のところに触れた。私とは悲しみ。私という存在のの根源は、悲しみそれ自体なのかもしれない…。

この曲に残された、喪失の悲しみ。過去への愛惜。そして、自己へのささやかな慰撫。

ここには、激情に巻き込まれた悲しみへの自己耽溺とはまったく異なる、まさしく過ぎ去った時への愛惜と言うべき悲しみがある。


しばらくして私は、この曲に捧げるオマージュを書いた。


 私は私の来し方を思う。

 甘美な思い出は多い。
 しかしそれらは私の記憶の中で、
 その甘美さを細く僅かに残しているにすぎない。

 そして今の私。
 その私が抱くもの。

 それは悲劇であることをすでにやめた、
 今は稀(うす)い悲しみ。

 私は泣きはしない。
 しかし、涙は
 私の頬を、ひとすじ流れていく。

 時は移り、
 私は、微(わず)かに振り向いてみるにすぎない。
                              (1995年7月)


勝手な当て字の「稀(うす)い悲しみ」という言い方にこだわったのは、それが、慟哭でもなく、絶望でもない、むしろ諦念とすら呼ぶことができるような、そんな「稀(まれ)な」悲しみがこのごく短い曲に表されているためだ。

私たちの悲しみは、私たちの地下で水脈となり、私たちの内部を常に流れている。振り返るべき過去は、ひとすじの涙となって常に私たちの現在に滲み出てくる。

私の生きてきた時間。私が失ってきたもの。愛してきた者。
悲しみとは、このように決して消すことのできない、私たちの過去への愛惜なのだ。




[演奏]
イメージ 1ルガーノ・カルテットは、この曲の像を等身大のまま描き出す。その悲しみをことさらに強調されることなく、この曲の持つ美しい旋律を大切にしながら諦念に彩られた過去への愛惜を私たちに示す。「悲しみ」とは、このように甘美なものであり、だからこそ人は過去の中に住むことすら可能だと夢見るのだ。私は過去を振り返る。しかし、そこには私の過ぎ去った時が横たわっているだけだ。私はただうっすらと涙を見せ、ひととき悲しんでみるに過ぎない。

イメージ 2デルメ四重奏団は、この曲の哀惜を、愛へのまだ冷め切れぬ嘆きとして表す。諦めてはみたものの、悲しみは寄せては返し、消えることはない。あるときは激しく慟哭し、あるときは深く沈みこむ。しかし、いずれにせよ私は失ったものを取り戻すことはできない。夜の暗さの中で嗚咽しても、その嘆きの中に住み着くことは、私には許されない。ここにある悲しみは、悲しみの中に留まることを許されない悲しみでもあるのだ。

イメージ 3ハーゲン四重奏団は、本来控えめな印象のこの曲を、表現の限界に挑むかのように音にする。プッチーニの悲しみは、チャイコフスキー交響曲の一つの楽章に匹敵する。ここでは、この曲の持つ「悲しみ」とは、諦念に満ちた過去への愛惜などではなく、まだ感情の昂ぶりも冷めぬまま激しく泣きつづける「悲しみ」である。私は過去を振り返っているのではない。未だこの過去を求めているのだ。決して諦めなどしない、まだ諦めてはいない、と。彼らの演奏からは、この曲が同時に、歌劇「マノン・レスコー」でもあることが、はっきり聞こえてくる。稀有な四重奏団の表現力が、歌劇の上演にも匹敵する。

イメージ 4アントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団は、この曲が歌劇となった経緯はとりあえず措いて、わずか7分ほどのこの曲の世界それ自体を描いてみせる。その音楽はまるで、「マノン・レスコー」が映画だとして、最後のタイトル・ロールのために流れるもののようだ。悲しみは現在のものではなく、振り返る痛みでもない。それは、今、そこから覚めたばかりの幻影。追おうともすでにそこにはない泡沫。私たちは、自らの痛みを懐かしむ悲しみだけを手にする。悲しみとは、あるいは、このような、痛みの痕跡への感触のことなのかもしれない。





★ こちらの過去の記事も、あわせてご覧ください。
  http://blogs.yahoo.co.jp/auferstehen4/22196796.html




 






 

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