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「安らぎ」という言葉が何を意味するのか。
そんなことを考えてみようとすること自体が、そもそも「安らぎ」から最も遠い場所にいることの表れだろう。「安らぎ」とはおそらく、すべてをあるがままに任せ、世界に対する自分の判断をすべて揚棄した後に訪れる、重荷を下ろした安堵のようなものではないか。
もしそうだとすれば、「安らぎ」とは、いったんこの現実生活をカッコに入れて、この現実世界ではない場所に求めるべきものだということもできる。そのために人は、今すんでいる街を抜け出し、自然に囲まれ(すなわち現実世界が目の前にない状況に身を置き)、「安らぎ」を探し求めるのだろう。自然が私たちにほとんど間違いなく「安らぎ」を与えてくれるのもそのような理由あってのことだろう。
音楽もまた、しばしばそのような安らぎの場になり得る。現実生活から切り離された空間(たとえばコンサートホール)や、あるいは一方、現実生活の場そのもの(自宅のオーディオの前に座って)であっても、音楽は、私たちを日常生活から切り離し、すべての判断を音楽に委ねることを求める。
音楽は、私たちに感覚すべてを開くことを求め、それゆえに私たちを癒しもする。私たちは音楽を聴くその間、日々の私たちであることをやめ、ただ一個の感覚体となって、日常とは異なる世界へと旅立つのだ。
メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 第二楽章。
この音楽が、エルベ川のほとりの小高い河岸で奏でられるのを、私は偶然あるテレビ番組の一場面として見た。川をはるかに見下ろすその場所で、ヴァイオリニスト千住真理子の奏でる音楽は、エルベの川面に反射する陽光と混ざり合うかのように、柔らかい光となって私を満たした。緑に満ちた世界が音楽とともに光に満たされていくその映像と音楽は、私の感覚の記憶に今もはっきりと残っている。
言ってみれば、そのときエルベはひとつの境界だったのかもしれない。それはまるで私たちの現実世界と、その向こうにある安らぎに満ちた世界を分けるひとつの境い目のようであり、音楽はそこへ向けて奏でられ、光と融けあい、安らぎで満たしていた。
安らぎとは、私という存在がこの境界にあって、このように光で満たされることなのだと、私は気づいた。向こう側に行ってしまうことはできない。死という永遠の安らぎを求めているのではない。私は、この現実世界で生きるために、生きていくために安らぎを求めている。その体験は、したがって、すべての感覚を開き、魂を陽光の下で解放するような、光に満ちた体験でなければならないのだ。
この音楽の下ですべてが許され、私は光で満たされた安堵に身を任せる。
[演奏]
ヨーゼフ・シゲティ(vl)、トーマス・ビーチャム/ロンドン・フィルは、癒してやろうと大げさな身振りでこの音楽を奏でたりはしない。ここでは安らぎとは、私たちが、あらゆる生命と同じくほんの小さな存在だということを知らせる。嘆いても自分を憐れんでも何も変わりはしない。そうわかってはいても自己を否定する道を選んでしまう私に、ただ、光の一粒たれと諭す。私がこの一個の生命だけで十分に満たされているのだということを私に知らせる。安らぎとは、そのようにあるがままの等身大の生命として自己を見つけることなのだ。シゲティは、メンデルスゾーンの音楽を光で満たし、安らぎの時間を祝福してくれる。
アイザック・スターン(vl)、ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管は、安らぎをもたらすこの旋律が、実は紛れもなく天上から届けられたものであることを私たちに教える。彼は、彼の目の前にある音楽を奏でる。しかしその音楽は彼の一人のものでもなく、私たちだけのものでもないことを、彼は私たちに語りかける。そして、メンデルスゾーンの音楽がこのように幸せに満ちた音で奏でられるとき、この音楽は単にロマン派の先取りとしてではなく、かといって古典の名残としてでもなく、メンデルスゾーンそのものとしてだけ響く。スターンは、メンデルスゾーンの音楽を、他と取り替えることのできないものとして、私たちに送り届けてくれる。
ウト・ウーギ (vl) 、ジョルジュ・プレートル/ロンドン響は、安らぎが、悲しみや孤独から切り離されたものでは決してないことを、私たちに伝える。悲しみや孤独といった感情を遠くへ押しやるのではなく、私たちは、それらを抱えたまま、安らぎへ辿り着く。安らぎとは、悲しみや孤独を知る者の許を訪れる陽光のことだ。陽光は、人間の根源的な孤独を暖かく照らす。私たちの中に夜という闇があるからこそ、陽光は安らぎとなり得る。私たちは悲しみに満ちている。絶対の孤独と向き合っている。ウーギは、その私たちをそのまま受け入れ、安らぎで満たしてくれる。
チョン・キョンファ(vl)、シャルル・デュトワ/モントリオール交響楽団は、安らぎが単なる弛緩とは異なることを私たちに教える。生きることは私たちに緊張を強い、私たちはその緊張の持続の中を生きている。私たちが束の間安らぐとき、私たちは、生きることそれ自体から「おりる」のではなく、生きながら、あるいはまさに生き続けるために、ほんの一時、光に満ちた時間の中に身を置く。光は、私たち全体を包み、私たちは光を身体全体へ行き渡らせる。安らぎとはそのような、生きる強さを支える、光に満ちた時間のことなのだ。
イェフディ・メニューヒン(vl)、エフレム・クルツ/フィルハーモニア管弦楽団は、安らぎが、現実とは離れたどこか遠いところにあるのではないと教える。私たちは生きる。喜びと苦しみがおそらくは半々の人生を生きる。やすらぎとは、その生きることの襞に潜んでいて、私たちはそれに気づかない。しかし、喜びにも苦しみにも安らぎはそもそも含まれている。安らぎとは、生きることの向こう側にあるものではなく、生きることそのものがそうであれと、私たちが毎日希求するものなのだ。メニューヒンは、すべての音において、「人生よ、そのまま安らぎたれ」、そう希っている。
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