音と言葉の草原

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若い頃には心の中を

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若い頃には心の中を自己憐憫や自己卑下で満たしていた。50歳に近づいて、それが賢くはないこともやっとわかった。そう理解したことよりもむしろ、自分憐れみ、見下すために必要だったエネルギーこそ「若さ」だったのだろう。
その活力が衰えた今、挫折を前にした自分の内面を満たすのは、若い感情の迸りではなく、ただ寂寞とした空虚だけだ。自分など消えてしまったほうが…、と呟いた途端、それが歪んだ認知であり、大げさな反応であることも理解してしまっている。自分の価値の低さをなげき、その情けなさにに身悶えして泣き叫んだ若さは今はなく、挫折を前に、ただ失意に身を浸す。それは悲しくもなく苦しくもない。おそらくは、ただ虚しいのだ。

写真は、大分空港の夕暮れ。2013年7月23日。

16 死について

16 死について

 「死にたい」。そう思うことは、私にとってあまりにたびたびで、もはや一つの記号のような意味しかない。死ぬこと。それがどういうことか知らないわけではない。そしてそれがどれだけ難しいことかを知らないわけではない。ならば、私は、死を現実のものとしてイメージできていないことは明らかだ。私にとって死へのイメージは、手軽な避難所であり、癒しの部屋に過ぎない。そこに入り、鍵をかけてしまえば、誰も入ってくることはできない。どんなに親しい人であっても、その部屋の鍵は持たない。私はその部屋の中でひとり、死のイメージの甘さを味わい、その部屋から決して出てこない。

 死の部屋に住むことで癒されようとする私は、自分では知らぬうちに、心の中に死の闇を染み込ませてしまう。そして、いつの間にかそれを拭い去ることが難しくなる。気づいたときには死はそれ自身、力を持ち始め、私の精神は、死への歩みを始める。私の中では、死ぬための理由と許可の確認が際限なく繰り返される。「死んだほうがいいんだ」「死のう」「死ぬことでしか幸せになれない」「死ぬことでしか人を幸せにできない」「いないほうがいいんだ」…。

 いつまでも繰り返される死のリハーサルは、それ自体が喜びと化す。死を近づければ近づけるほど、私の目は輝き、頬は高潮し、気持ちは昂ぶる。死を引き寄せれば引き寄せるほど、同じように生が引き寄せられる。そう私は生きている。こんなにも生き生きしている。しかしその私が死ぬのだ。なんという悲劇だろう。なんという甘美な死なのだ…。

 しかし、それは、いったん何かの拍子にその夢から覚めてみれば、あまりに陳腐な悲劇的想像に過ぎない。死ぬだって?本気でもないだろうに…!

 自分をそう嘲笑するものの、その笑いは乾いたように途切れ、私はその向こう側にしっかり住み着いた死の闇に怯える。私はいつか本当にそこへ引き込まれる。そこへ吸い寄せられる。私は頭を振る。いや、そんなことは妄想だ。ばかばかしい。誰がわざわざ本当に死ぬものか。

 そんな私を、今度は死の闇が嘲笑う。もうおまえには抵抗するちからは、残っていないよ、と。


シューベルト/即興曲作品90 第1番ハ短調
 この音楽は、確かにこのような死への妄想に寄り添うことはできる。この曲には、何よりもまず、死の悲劇性がある。だからこそ私は、私の葬送にこの曲を選ぶ。私の葬儀。嘆き悲しむ近しい人々。なぜこんなことを…。ばかな…。そのままで生きていて悪いことなどないのに…。人間など、生きているだけで、ただそれだけで価値があるのに。生きている、それだけでいいのに。それなのに、どうして…。

 しかし、また一方で、この曲には生への郷愁がある。かつてそこには決然たる生への意志があったことを私に教える。ただ死の闇に吸い寄せられ、抗えないままこの世から消え去るのではなく、死と生を拮抗させ、悲劇の中にあっても最後まで戦い抜いたことが、最後まで生き抜いたことが、はっきりと刻まれている。
 
 「私は生を全うした。これは悲劇ではない。私は安らかに死を迎える。私は、私の生きてきた生の場面を振り返り、今ここに命を終えようとしているだけだ。したがって私は、この曲を私の葬儀に選ぶ。私は幸せだった。誰も悲しむ必要はない。誰もいつかは命を終えるのだ。微笑んで見送ってほしい…」。

 私は、私の死の意味を、すなわち生の意味を、葬儀の日にこの曲に託す。その意味は、その日この曲を聴くあなたが、あなた自身で確かめてほしい。


[演奏]
イメージ 1内田光子は、この曲の姿を極限まで追い込む。この曲にある悲劇性も、天上の光も、すべてぎりぎりのところまで研き切る。しかしその結果現れたものは、意外なことにシューベルトの他の曲がもつのと同じ、彼特有の孤独や悲しみだった。最も悲劇的なこの曲の悲劇性を研くことが、最も純粋な孤独に到達する。音楽とはこのように、逆説的に存在することがあり得るものなのか。あるいは、むしろ悲劇とは、激しいドラマのその底に実は、一編の透明な詩を、そもそも内包しているものなのか。

イメージ 2ラドゥ・ルプーは、この曲を、シューベルトの一編の歌曲として弾く。ここでは、悲劇の闇も天上の声も、等しく表され、私は一人の等身大の人間として死を迎える。私は私の声で歌を歌う。それは、この曲が実は一編の詩、一編の歌曲と同じであることを教える。私は死ぬ。しかし私は、それをとりたてて悲劇とは思わない。他の生命の去り際と同じく、私もまた、私の生を物語る自分の歌を口ずさみながら、死を迎えるだけだ。

イメージ 3フリードリッヒ・グルダは、悲劇的な性格のこの曲から、シューベルトの弱さを取り出し、私たちに見せる。死を前にして、私はやはりこんなにも弱かった。一人の人間として、死を受け止めることなどできない。私は死を恐れ、死を嘆き、死に慄く。人間とはそのように弱い存在に過ぎない。しかし、その真実を糊塗してはならない。私たちが弱く、あるがままの存在である、その真実をこそ、音楽によって歌わなければならない。

イメージ 4ヴィルヘルム・ケンプは、この曲をことばで語る。確かに私はもうすぐ死ぬ。しかし、その前に私は、私の生きてきたその人生について話す。あんなにも幸せな時間があり、あんなにも辛い時期があった。私は私の歩んできたその人生を愛おしく抱く。自己憐憫だなどと言わないでほしい。私の人生を私が語り、私が抱きしめる。それが何の罪だろう。それが何の落度だろう。そもそも孤独に生まれ孤独に死にゆく私たちが、人生の去り際にかたる言葉を、いったい誰が責め得るだろう。見るがいい。私は泣いていない。今、雄々しくも自らの死に向かうのだ。思い出話に花を咲かせたそのあとは、向こう側へと力強く歩んで行くのだ。そんな最後の話を、私はあなたに聴いてほしいだけだ。

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