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			<title>みのるん神父のよもやま話</title>
			<description>= みのるん神父の四方山話 =
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>みのるん神父のよもやま話</title>
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		<item>
			<title>C年聖霊降臨</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音書　14:15-16, 23b-26&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;そのとき、イエスは弟子たちに言われた。14・15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。&lt;br&gt;
23bわたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第一朗読は使徒言行録の聖霊降臨の場面です。新共同訳では、「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」と訳されています。この部分のギリシャ語は「ヘテライス　グロッサイス」という言葉です。グロッサリアは「異言」（日常語とは異なる言葉）のことです。パウロは「異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。」（1コリ14･22）と言っていますから、使徒たちはまだイエスを信じていない人たちに異言で語ったことになります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第二朗読は使徒パウロのローマの教会への手紙です。パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」と言いますが、この文脈で、神の霊はキリストの霊でもあることが分かります。イエスが洗礼を受けた時、「天が開けて、2 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」（ルカ3･21b-22）とルカは語ります。このイエスの霊を使徒たちは受けたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヨハネ福音書14章から16章まではイエスの弟子に対する告別説教の部分です。イエスは受難を前にして弟子たちに「父は別の弁護者を遣わ」すと約束します。弁護者と訳されているもとの言葉はギリシャ語のパラクレートスです。新約聖書で5回登場するすべてがヨハネ文書です。ヨハネ福音書14章16節、26節、15章26節、16章7節、1ヨハネ2章1節です。弁護者という言葉は法廷で被告の弁護をする人のことです。イエスの弟子となった者たちが逮捕、拘束されることをイエスはあらかじめ弟子たちに予告していることになります。その時、弁護者である聖霊はイエスの追随者たちにすべてのことを教え、イエスが話したことをことごとく思い出させ(14:26)、イエスについて証しを行い(15:26)、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにします(16:8)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さらに、1ヨハネ2:1ではイエス自身が「弁護者」とされます。この霊は洗礼者ヨハネが「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32）と証言した、イエスの上に天から降って、イエスにとどまる霊です。この霊はイエスご自身の霊であり、イエスの地上での宣教生活の原動力でした。この霊を受けることはイエスの使命を受け継ぐことです。この霊がとどまるとき私たちはイエスご自身が私たちと共にいてくださることが分かるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひとこと&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスがヨハネから洗礼を受けた時、霊が鳩のように天から下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」（マルコ1:11）という声が天から聞こえたとマルコ福音書は語ります。今日堅信を受ける一人ひとりに聖霊がくだり、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されます。神の言葉は真実で変わることがありません。わたしたちが生きているかぎり、順境の時も逆境の時もわたしたちは、神が愛される子であり、神の心に適うものです。たとえわたしたちが罪を犯し神を裏切ることがあったとしてもこの神の約束は揺らぐことがありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;聖霊の続唱&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。&lt;br&gt;
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。&lt;br&gt;
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。&lt;br&gt;
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。&lt;br&gt;
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。&lt;br&gt;
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、&lt;br&gt;
だれも清く生きてはゆけない。&lt;br&gt;
汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。&lt;br&gt;
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。&lt;br&gt;
あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。&lt;br&gt;
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、&lt;br&gt;
終わりなく喜ぶことができますように。&lt;br&gt;
アーメン。&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36478153.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 Jun 2019 11:06:27 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>ブログ変更</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot; color=&quot;#ff0000&quot;&gt;ヤフーブログの閉鎖に伴い、アメーバブログに移行をする予定です。今後も「私家版福音のひびき」を更新していく予定です。よろしくお願いします。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36473629.html</link>
			<pubDate>Thu, 30 May 2019 06:36:09 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年主の昇天</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;福音朗読　ルカ24:46-53&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;　46 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ルカ福音書のテーマはイエスの言行を福音として語ることにあり、使徒言行録はその福音を宣べ伝える使徒たちの言行がしるされています。両方の書の著者はルカです。イエスの昇天の記事はルカ福音書と使徒言行録の両方にあります。イエスの昇天の記事が両方の書のつなぎとなっています。従ってイエスの昇天は、「イエスの時代」を閉じる出来事であると共に、「教会の時代」の幕開けを告げる役割を果たしています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところでイエスが昇天したといってもどこか遠くの宇宙空間に行ったと言うことではありません。世界初の宇宙飛行をしたのはロシアのガガーリンでした。彼は、1961年4月12日に宇宙飛行をしたとき、「地球は青かった｣という有名な言葉を残したと言われます。さらにもう一つ彼が言ったとされるのは「ここに神は見あたらない」という言葉です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　１６世紀にガレリオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、教会から異端視され、裁判になったことはよく知られていることです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　天は文学的・宗教的概念であり、物理的概念である宇宙とは異なると私は考えます。宇宙は望遠鏡や探査衛星などで観測・計測可能であり、そのモデルを理論化することができます。しかし天を物理・数学的手法で調査･計測することは不可能です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスは、弟子たちに「天におられる私たちの父よ」と祈るように教えてました。この天は誰の上にもあるものです。しかし誰も天をつかむことはできません。この天から神である「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」（マタイ5:45）とイエスは教えました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　あまねくすべての人の上に広がり、悪人にも、善人にもすべての人に恵みを注ぎ、しかも、誰のものにも決してならない場が天です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　天に昇ることにより、時代、人種、性別、年齢、障害の有無によらずすべての人の救い主となられた主イエスをたたえる日が主の昇天の意義だと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエス様が守ってくださる天の下で、それぞれが生きています。わたしたちの上にはやがて帰る場所、天が広がっています。悲しいのはその天の下で人々が傷つけ合い、殺し合っていることです。天におられる父はそれをどのようにご覧になっておられるのでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36472683.html</link>
			<pubDate>Tue, 28 May 2019 09:15:53 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年復活節第6主日</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音　14:23-29&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;　〔そのとき、イエスは弟子たちにいわれた。〕23 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスの告別説教には繰り返し「愛」という言葉がでてきます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところでギリシャ語には「愛」を表す三つの言葉があります。それらは「エロース」、「フィリアー」、「アガペー」です。この三つは違ったニュアンスがあります。「エロース」は自らに欠けたものを他に求める「求める愛」を意味します。「フィリアー」は「友愛」を意味します。「フィロソフィア」の「フィロ」も同じ語根です。「アガペー」は本日のイエスの言葉です。これは利害関係なしに「与える愛」、「無償の愛」を意味します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　日本語の「愛」は愛欲の愛、愛憎の愛としての意味合いが強いように思えます。16世紀にフランシスコ・ザベリオをはじめとした宣教師が日本で活動を始めたとき、当初は日本語の愛を用いましたが、すぐに違いに気づき、「ご大切」と訳し変えました。私たちはイエスから命がけで大切にされているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　本日の福音に現れる言葉でもう一つ重要な言葉は「留まる」という動詞です。父である神がイエスに留まり、イエスが父である神に留まっているまどいの場に、イエスのうちに留まるものは引き入れられるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　26節の「弁護者」という言葉はヨハネ福音書だけで使われる言葉です。その弁護者とは聖霊、真理の霊を指していますが、ヨハネ2章1節ではイエスご自身が弁護者と呼ばれます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　聖霊はイエスを信じる人々にイエス（の言葉）を正しく理解させ、それに生きる力を与える霊だと言われます。聖霊はヨルダン川でイエスご自身に降りました。そのとき父である神がイエスを「これは、私の愛する子、私の心にかなうもの」と宣言しています。従って、私たちにとっては聖霊はイエスの霊そのものであるということもできます。イエスに活力を与え、十字架上の苦しみと死を堪え忍ぶ力を与え、復活のいのちをもたらしたのはまさにイエスに降った聖霊の働きによります。今、弟子たちの前を去る前に、その聖霊を弁護者として弟子たちに与えるとイエスは約束します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　また、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とも約束します。告別説教の時点ではその平和がどのようなものであるのかを弟子たちは知りませんでしたが、イエスの死後、ユダヤ人を恐れて、部屋に閉じこもっていた弟子たちを訪れたイエスが「平和があるように」と告げたとき、この平和が単なる挨拶の言葉ではなく、ご自分を裏切った弟子たちを裁くのではなく、赦しのことばとして「平和」をイエスは告げました。　イエスの与えた平和の力と弁護者の守りに支えられて、弟子たちは迫害を恐れることなくイエスの福音を力強くあかしするようになりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　今日の私たちにもイエスは弟子に与えたのと同じ平和の力と弁護者を与え続けておられます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; ケセン語訳福音書で知られる大船渡市にお住まいの山浦玄嗣先生は、弟子たちに言い置く言葉を語るイエスの言葉を次のように言い換えています。&lt;/div&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;「わたしを信頼しろ！わたしと天のお父さまとは同じなのだ」。わたしを信頼するということは、天のお父さまを信頼するということとまったく同じなのだ。その信頼の心が不足だから、お前たちはおびえて、肝っ玉が据わらない。堂々としていろ。びくつくな。神さまは人間が幸せになることをお望みでいらっしゃる。神さまが人間をお造りになったのは、まさにそのためであり、その他のことのためではないのだ。だから堂々としていろ。たとえそのために命を落とすようなことがあろうとも、それが何だというのかね。人は遅かれ早かれ必ず死ぬ。神さまのお役に立てた一生を送って死ねるなら、こんな無上の光栄があろうか。友のためなら命もすてる。これよりすごい生き方は他にはないのだ。」&lt;br&gt;
（山浦玄嗣『イエスの言葉』文春新書2011年12月）　&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36471080.html</link>
			<pubDate>Sat, 25 May 2019 12:17:41 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年復活節第4主日</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音書 10:27-30&lt;/b&gt;&lt;b&gt;&amp;nbsp;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;〔そのとき、イエスは言われた。〕10:27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」&lt;/blockquote&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　ヨハネ福音書10章は羊飼いと羊のたとえから始まります。本日の福音の箇所では「わたし」と羊との密接な関係が語られます。家畜としての羊には、自分を守る牙や爪がないので、絶えず肉食獣の餌食になる危険があります。また、盗賊などから略奪の被害にもあうこともあります。羊飼いの仕事は大変責任の重いものです。イエスはこの羊飼いと羊のたとえで、ご自分とご自分に付き従うものの関係を示しています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　他方、一般に羊飼いは自分の生活のために羊を飼うものです。羊を飼うのは、羊を売ったり、羊毛を取ったり、肉を食べるためです。雇われの羊飼いは、自分の生活のために他人の羊を飼います。それによって日当を得るこどができます。そうした意味で羊飼いにとって羊は生活の手段のはずです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところが、イエスは「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来た、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:10-11)と言われます。イエスは羊のために命をすてると断言し、しかも羊に「永遠の命を与える」と保証します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なぜなら、イエスにとって羊は父から与えられた「すべてのものより偉大」なものであり、だれも父の手から奪うことのできない存在だからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それぞれの羊はイエスがいのちを捨てるほど、イエスにとってかけがえのない存在、価値のある存在であることを忘れてはならないと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　私たちを守る忠実な羊飼いの声を聞き分け、その羊飼いにいつも付き従うことができますように。また、私たちの隣にいる人もイエスがいのちがけで守る貴重な羊であることを心から受け入れることができますように。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36463323.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 May 2019 05:33:24 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年復活節第3主日</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音21:1-14&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;　1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp; &amp;nbsp; 《15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。》&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第一朗読は使徒言行録です。「あの名によって教えてはならない」という脅しに、ひるむことなく弟子たちが宣教し、逮捕され、再び脅された「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」ました。復活したイエスとの出会いは、使徒たちに死や刑罰を怖れない勇気を与えました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第二朗読は黙示録です。ヨハネは幻視の中で、復活したイエスの栄光を見ます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヨハネ福音書では、復活したイエスはまずマグダラのマリアに顕現し、その後弟子たちに三度にわたって顕現します。最初は、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもる弟子たちへの顕現、二度目は、最初の顕現の時に居合わせなかったトマスと他の弟子たちへの顕現、三度目が本日の福音朗読箇所のティベリアス湖で漁をする弟子たちへの顕現です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　本日の朗読箇所は、三つの部分（2-6節、7-9節、10-13節）に分かれ、四つのテーマが関連しつつ展開されていると言われます。第一のテーマはシモン･ペトロの態度、第二はイエスに対する弟子たちの態度、第三は「食べるもの」についてのやり取り、第四は｢網｣に起こる変化です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;シモン・ペトロ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「わたしは漁に行く」とペトロはいいました。ここで使われている動詞はもともと「立ち去る」を意味しています。このニュアンスから考えるとペトロは、イエスとの生活を去り、漁師としての日常生活に「戻る」と決意をしたようにも受け止められます。ペトロは他の二人の弟子とともに漁に出かけますが、その日は何もとれませんでした。次の日の漁の時、イエスの愛しておられた弟子が「主だ」というと、上着をまとって湖に飛び込み、イエスの言葉に従って、大きな魚でいっぱいの網を引き上げます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　このペトロの態度の変化はまことに鮮やかですが、それは生きておられるイエスとの出会いの力によります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;他の弟子たち&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　最初、弟子たちは湖畔に立っておられるイエスに気づきませんでした。イエスの言葉に従って網を打ったとき、イエスの愛する弟子が、最初に「主だ」と気づきます。この弟子が「主だ」と気づいたのは、かつてゲネザレト湖でイエスの言葉に従って網を打った時に起こった出来事を思い出したのかも知れません（ルカ5:1-11）。その後、弟子たちはす全員それが主であると分かります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　弟子たちは、復活のイエスが共におられても気づくことができず、イエスのことばに従って行動したときに初めてイエスの存在に気づくのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イエスが準備する食事&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスが弟子たちに与えた食事のことも興味深いです。弟子たちが陸に上がってきたときにはすでに炭火がおこしてあり、その上に魚がすでにのせてあったのです。イエスは弟子にとれた魚を何匹か持ってくるように命じ、それを炭火の上の魚に加え、「朝の食事をしなさい」と言われます。弟子たちが自分たちの働きの実りを持ってくる前に、すでにイエスは弟子たちのための食事を用意をして待っておられたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスが「来て、パンを取って弟子たちに与え、……魚も同じようにされた」という描写は、感謝の祭儀（ミサ）のような典礼を暗示させます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;網&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　岸辺に立っている人から「舟の右側に網を打ちなさい」と言われ、その言葉に従って網を打つと思わぬ大漁となりました。ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、網の中は１５３匹の大きな魚で一杯でしたが、網が破れることはありませんでした。１５３という数字が何を象徴しているのかははっきりしませんが、当時知られていたすべての魚の種類だという解釈もあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスと弟子たちの会食は、かつてティベリアス湖畔でイエスがパンと魚を祝福して人々に食べさせたことを思い起こさせます（ヨハネ6章）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;ひとこと&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」という言葉で思い当たるのは、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチが描いた歴史小説『クォ･ヴァディス』です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「クォ・ヴァディス」はラテン語で「（あなたは）どこに行くのか?」を意味します。イエスに対しての実際にペトロはこの問いをしています&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」（13:36-38）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　小説では、暴君ネロはローマでキリスト教徒への残酷な迫害をしていました。当時ペトロはローマにいましたが、周囲の人々の強い願いを受け、しぶしぶローマを離れる決意をします。夜中に出発してアッピア街道を下っていると、夜明けの光の中で、イエス・キリストが自分のローマの方向に向かってくるのを見て、驚き、ひざまずき、「クォ･ヴァディス･ドミネ（主よ、どこに行かれるのですか）」と尋ねました。すると、イエスは、「お前が、私の民を見捨てるのなら、もう一度十字架にかかるためにローマに行く。」と答えました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ペトロはしばらく道に倒れていましたが、やがて、起き上がり来た道を引き返しまし、ローマで捕らえられ、十字架刑で殉教しました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　いよいよ十字架にかけられる時に、ペトロは「自分は三度もイエスのことを知らないといったのだから、イエスと同じ仕方で十字架にかかるわけにはいかない。逆さまに十字架に付けてくれ」と言い、逆さに十字架に付けられ殉教したと言われています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36456450.html</link>
			<pubDate>Wed, 01 May 2019 11:23:55 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年復活第2主日</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音20:19-31&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;　19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」&lt;br&gt;
　24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」&lt;br&gt;
　30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第一朗読は使徒言行録の使徒たちの宣教の場面です。使徒たちの宣教により大勢の人びとが主イエスを信じる様子が描かれています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第二朗読は黙示録です。主ご自身がヨハネに、「見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と命じます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　福音朗読はヨハネ福音のイエスの使徒トマスへの顕現の場面です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヨハネ福音書では時間や日にちに意味合いがあります。ヨハネ福音書20章の出来事は、すべて同じ「週の初めの日」に起こっています。20章は、1-18節と19-29節の二つの段落に分かれ、二つの段落が同じ構造を持っています。どちらの段落でも、先ず複数の弟子が関与する出来事（1-10節「空の墓の確認、19-23節「イエスの顕現」）が述べられ、その後に、ある個人が関係する出来事(11-18節「マグダラのマリア」、24-29節「トマス」が語られます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて、空の墓を発見したのはマグダラのマリアでした。その報告を受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は墓に出かけてその事実を確認しました。「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(20:8)とありますが、イエスと直接出会ったわけではありません。復活されたイエスが最初に顕現したのはマグダラのマリアでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　師であるイエスがユダヤ人の指導者たちによって逮捕され、十字架にかけられたのですから、イエスの弟子たちがユダヤ人たちを恐れて戸に鍵をかけていたことは理解ができます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところが、そこにイエスが突然現れて「あなたがたに平和があるように」と言われました。この言葉は日常の挨拶にも使われますが、復活されたイエスに出会う前の弟子たちの恐怖と混乱、心の闇を思うと、特別の意味があると思われます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスを裏切り、ユダヤ人たちの迫害を恐れ、罪意識と恐怖に震える弟子たちにとってそれは文字通り赦しと平和の宣言となりました。その平和はかつてイエスが弟子たちに約束された平和でしたが(14:27)、その意味内容は復活後のイエスの顕現によって弟子たちに初めて明らかになりました。弟子たちはイエスから赦しと平和を得て、赦しと平和の使徒として派遣されます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その日、他の弟子たちと共にいなかったトマスは、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。その八日後、イエスが再び弟子たちに現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というと、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白しました。そのトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスの復活を信じないトマスの態度は私たちの生き方と重なるように私には思えます。ヘンリ･ナウエンはその態度を次のように説明します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「死は死でしかない。死と死のにおいがするもの、それと関係ありそうなものは何でも、あらゆる犠牲を払ってでも避けるべきだ。死とそれ関係するものすべて──、痛み、病、戦争、抑圧、貧困、飢餓、その他──から遠く離れ、近寄らないほうが身のためだ。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この態度をナウエンは「ごくふつうの、誰もが選ぶ人間の態度」だと言います。弟子仲間の言葉を受け入れず、イエスの復活を信じないトマスにイエスが現れ、「信じない者のではなく、信じる者になりなさい」と言ったとき、トマスの中に、生きることへの新しい確信、新しい喜び、新しいいのち、新しい霊の力が生まれました。トマスは自分のいのちをかけてイエス･キリストを宣べ伝える使徒となりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひとこと&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　私は1985年に南インドのチェンナイに行く機会がありました。テゼ共同体の祈りの集いに参加するためでしたが、集いが終わって、その年のクリスマスのミサをマイラポールの大聖堂で様々な国の若者たちと共に祝うことができました。この教会の祭壇の下には聖トマスの墓があり、壁には聖トマスの大理石像がはめ込まれていました。そこには「わたしの主、わたしの神よ」という文字が彫られていました。復活したイエスと出会ったトマスは、南インドまで宣教に出かけ、この地で殉教したと伝えられていることに感動しました。トマスが潜んでいたとされる山はトマス山という名前が付けられています。彼はその山で殉教したと伝えられています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　命がけで福音宣教をするトマスの原動力は八日目の日、復活のイエスがトマスに現れたことによります。復活のイエスは今日も私たちと出会い、「平和があるように、信じる者になりなさい」と呼びかけておられます。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36453902.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Apr 2019 06:15:38 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年主の復活</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ルカによる福音書　24:1-12&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;1 週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;第一朗読は使徒言行録のペトロの説教です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; ペトロは「イエスが死者の中から復活した後、わたしたちはイエスと一緒に食事をした。」と証言しますが、イエスの死者の中からの復活という表現では、起こった事態を説明するには適当ではないと思われますが、他に表現のしようがないことも事実です。弟子たちは自分たちが裏切り、ローマ軍によって十字架刑に処せられ、墓に葬られたイエスが、自分たちと共にいて食事をしたことを証言します。弟子たちが共にパンを裂き合うとき、イエスが共におられることを実感しました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;第二朗読は使徒パウロのコロサイの教会への手紙です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　パウロは、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」といいます。このパウロの表現は、イエスの洗礼を思い出させます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ルカ福音書は、イエスが洗礼を受けて祈っておられるとき、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と述べます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ジョセフ・マートスという神学者は、「復活」とはわたしたちが死んだ後に実現する事態ではなく、洗礼を受けた私たちが、今ここで、聖霊をいただき、父である神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と認めていただくことだといいます。この世の価値観ではなく、父である神の力強い宣言を受け、聖霊の力に満たされて、今日を生きることこそ、キリストと共に復活させられたということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　福音朗読は婦人たちがイエスの墓を訪れた場面です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　マグダラのマリアをはじめとした婦人たちは、イエスの遺体に香油を塗り、最後の別れをするためにイエスの遺体を納めた墓に行きます。しかし、墓は空だったのです。空の墓にいた二人の輝く衣を着た人たちは婦人たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げます。そして、イエスが弟子たちに予告していた、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という言葉を思い出すように諭します。彼女たちはイエスを納めた墓で起こったことを使徒たちに告げましたが、彼らは婦人の話をたわごととして信じませんでした。ペトロは確認のために墓に行きましたが、そこで見つけたのはイエスの遺体を包んでいた亜麻布だけでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この後、エマオへ旅をする二人の弟子に彼らの気づかない間にイエスが共に歩きます。彼らは共に歩いているのがイエスだとは気づきませんでしたが、イエスは、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ました。二人は目的の村に着き、イエスはなお先へ行こうとするイエスを引きとどめ、一緒に食事をしたとき、イエスが「」パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」ると目が開けそれがイエスだと分かりましたが、イエスの姿は見えなくなりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　婦人たちをはじめとして弟子たち、使徒たちがイエスが復活していることを発見したのではなく、彼らが思いもよらない仕方で生きておられるイエスが彼らに現れます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　生きて語られるイエスとの出会いから弟子たちの新しい生き方が始まりました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　弟子たちは「木にかけられたイエスを神が復活させた」という出来事の証人として宣教活動を始めました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひとこと&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヨハネ福音書は復活したイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアだったと語ります。ヘンリ・ナウエンは復活したイエスのマグダラのマリアとの出会いについて次のように語ります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;&amp;nbsp;マリアの応答は「ラボニ」、つまり「先生」でした。ここから、マリアはイエスを自分の真の師としたいこと、自分の全存在の師としたいこと、すなわち、思考と感情、情熱と希望、最も深く隠し持っている感情においてさえも師としたいという願望が聞き取れます。彼女がこう語っているのが聞こえます「こんなにも私のすべてを知ってくださる方よ。来てくださり、私の師であってください。私の中の何一つ、あなたから離れたままでいたくありません。心の最も深いところに触れてください。私があなただけのものになるために」。&lt;br&gt;
　この出会いの瞬間が、どんなにか大きないやしをもたらしたか分かります。マリアは即座に、自分はことごとく知られ、この上なく愛されていると感じました。もはや知られても大丈夫な部分と、隠したほうがよさそうな部分の区別は存在しません。すべてがイエスの目にさらされながら、その日は赦しと憐れみと愛、そして無条件の受容の目であることを知ります。&lt;br&gt;
　ここに、この単純素朴な出会いに、真の信仰的な瞬間を見ることができます。すべての恐れは消え、すべてが愛になりました。そして、次のイエスの言葉以上に、それをよく言い表したものはありません。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハネ20:17)。ここにはもはや、イエスとイエスの愛する人々との違いはありません。イエスが楽しんでおられる御父との親密さの中に、人々を含めています。同じ家族に属し、神にあって同じ命を共有しています。&lt;br&gt;
　完全に知られ、しかも完全に愛されるとは何という喜び!　&lt;br&gt;
　イエスを通して神のものとされ、そうあり続けることができ、しかも完全に守られ、完全に自由でもある喜び。&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36444942.html</link>
			<pubDate>Tue, 16 Apr 2019 05:41:49 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年受難の主日</title>
			<description>&lt;div&gt;福音は受難の朗読です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　受難（枝）の主日は、最初に主のエルサレム入城の記念が行われます。教会の入り口に集まった信者たちに向かって、司祭は「キリストは、受難と復活を通して救いのわざを完成するために、ご自分の待ちエルサレムにお入りになりなりました。わたしたちに救いをもたらした主のエルサレム入城を、あつい信仰と敬けんな心で記念し、神の恵みに支えられて主の十字架を思い起こし、主の復活と新しい生命にもあずかることができるように、主の後に従って歩みましょう」と呼びかけ、会衆が掲げる木の枝を祝福します。続いて、助祭か、司祭がイエスのエルサレム入城の福音を朗読し、「主イエスを、歓呼のうちにエルサレムに迎えた群衆にならって、わたしたちも救い主イエスをたたえながら、主の過越の記念を行うために行きましょう」という司祭のことばにより、全員が聖堂へと盛式入堂します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　言葉の典礼の第一朗読は、イザヤの預言50章の主の僕の歌、答唱は詩編22の嘆きの歌、第二朗読はパウロのフィリッピ書のキリスト賛歌、そして福音はイエスの受難の朗読です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今日の典礼全体がまさにイエスの受難と死を中心にしています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　福音は長い受難の朗読です。ナレーター、イエス、他の配役をそれぞれの信徒、或いは司祭が、群衆の役割を会衆が引き受けて延々と朗読されます。これは一種の朗読劇ですが、後に、受難劇や受難曲に発展していきます。一番有名なのはバッハのマタイ受難曲でしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　第一朗読のイザヤ書を下敷きにしてルカの語るイエス・キリストの受難物語を聞くと、イエスがまさしく、迫害される主の僕として立ち現れてきます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ルカ福音書の受難の部分で特徴的なことは、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;1）イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と自分を殺そうとする者のゆるしを願うこと、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;2）同じ十字架にかけられた犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのに対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスが宣言すること、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;3）また十字架上のイエスが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫んで息を引き取られたこと、更に十字架刑を執行していた百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美することです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　マタイ福音書とマルコ福音書ではイエスの最後の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。この部分だけをとると、父である神にうち捨てられたことに絶望したイエスの叫びのように聞こえますが、このイエスの言葉は第二朗読の詩編22編からの祈りです。この詩編を下敷きにすると、イエスの最後の言葉は究極的には神の助けを信じ、祈る言葉であることが分かります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ルカ福音書の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」の背後には今週の第一朗読（イザヤの「主の僕の歌」）のような見方が控えています。第一朗読の「わたし」が迫害を甘受できるのは、朝ごとの神との交わりによって、神の言葉をとおして神の思いを知るからでした。そのとき、苦しみに対して「逆らわず」に、甘受することができます。苦しみを担うことが神の計画に参与することだからです。十字架に示された神の計画は、たしなめた犯罪人の言葉が示すように、何も悪いことをしていない人が同じ刑罰を受けることによって、すべての人の罪を贖うことにあります。そこに神の愛が示されており、十字架は神の愛を示す象徴です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　私たちはイエスの「彼らをお赦しください」という祈りによって救われているのだと思います。また救いは行いの義によるのではなくイエスの義に基づくものであることがこの犯罪人へのイエスの宣言によって明らかです。さらに、「本当に、この人は正しい人だった」と語ったのは、イエスの弟子たちではなく、十字架刑を執行していたローマ軍の百人隊長であったことも衝撃的です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;ひとこと&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　バッハのマタイ受難曲は何度聴いても感動します。音楽評論家の礒山雅さんは、高校生の頃にマタイ受難曲を聴き、深い感動を覚え、歌詞を理解するために大学でドイツ語を専攻し、受難曲の研究に25年の歳月をかけ、『マタイ受難曲』（東京書籍1994年）を出版しました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この本のはじめで、彼は次のように述べています。　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと、解き放ってくれる」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　礒山さんは、この本の中で次のように語ります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;background-color:rgb(238, 238, 238);color:rgb(75, 75, 75);font-size:1em;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;　マタイ受難曲は、バッハが作成した教会における礼拝のための音楽です。ユダによってユダヤ教の聖職者たちに売られたイエスがローマ帝国の地方行政区の長官や大衆によって十字架にかけられて死ぬところまでを描いています。信仰に厚い女性がイエスに香油をかけたり、ローマ帝国の地方行政区の長官の妻があの人は正しいからかかわらないでと長官に伝言したりするエピソードなどが挿入されています。&lt;br&gt;
福音書記者が語り手の役割を果たして場面々々を説明していきます。イエスのほかにも弟子のペテロやユダのセリフもあります。イエスの処刑という現象をあとから振り返り、イエスの処刑に（宗教的な）意義付けをしている（ように思える）視点も独唱や合唱を利用して挿入されています。&lt;br&gt;
ソロ歌手の独唱の主語は「私」になっていますが、それはペテロでもあり、ユダでもあり、直接的な当事者たちからは一段上に立つ普遍的な人間でもあるように思えます。　&lt;br&gt;
マタイ受難曲は、曲というよりは、「台本」や「叙情詩」と言ったほうがイメージが伝わるかもしれません。受難曲のはじまりは、聖書の朗読のようです。一人でも多くの人に聖書を理解してほしかった聖職者が、聖書を朗読するときに、イエスのセリフの部分は低い声で、ペテロのセリフの部分は高い声で、地の文はさらに別の声でというように使い分けて語り聞かせました。しだいに、聖職者は地の文だけを語り、イエスのセリフは別の人が、ペテロのセリフは更に別の人がというような分業がなされるようになりました。&lt;br&gt;
……受難曲は、教会の中で演奏されることもあれば、教会の横の広場で劇のような形で上演されることもあったようです。いずれの方法であっても、聖書の理解と信仰を深めるという目的は果たされたようです。受難曲は、芸術作品として鑑賞されることは目的にはしていないように感じました。&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36442559.html</link>
			<pubDate>Fri, 12 Apr 2019 23:36:21 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>C年四旬節第5主日</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;b&gt;ヨハネによる福音8:1-11&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;〔そのとき、〕1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」&lt;/blockquote&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　律法によれば、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」(レビ記20:10)、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」（申命記22:22）と規定されています。つまり姦淫は当事者の男女とも死刑ということが決められているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ところがイエスの前に引きずり出されたのは女性だけです。不倫相手はどこにいるのでしょうか。ともあれイエスの前にはひとりの女性だけが立たされています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　罪に対する刑罰があらかじめ律法で明確に規定されているにもかかわらず、律法学者やファリサイ派の人々がイエスに問いかけるのは、公衆の面前でイエスが人々に説いていた罪人への愛とあわれみを否定するか、律法を公然と否定するか「イエスを試して、訴える口実を得る」ためでした。二者択一しかないと思われたこの問いに対して、イエスは彼らの想定外の答えをします。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　こう言い放って、イエスはまた「身をかがめて地面に書き続けられ」ました。これは勝ち誇ったように女性を引き立ててきた人々に自分を振り返る時間を与えるためだったのかもしれません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　するとイエスと女性を取り巻く人々は、年長者から始まっていなくなり、イエスと女性だけが残されます。実際この女性を罰することが出来るのはイエスだけです。イエスはこの女性に向かって「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と声をかけます。それは無言で立ち尽くす女性は初めて周囲を見回し、「主よ、だれも」と答えます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と宣言します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　人は誰しも生きている限り罪とは無縁にはなりませんが、イエスと出会うことによって、罪のゆるしを宣言されます。その結果、罪ではなくイエスを着るものとなるのです。私たちの罪はイエスの前で、ゆるしと恵みに出会う機会となります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この後、この女性がどうしたのか、福音書には書かれていません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　公の面前で姦通罪でさらし者になったこの女性は、イエスによって罪のゆるしを宣言されたとはいえ、これまでと同じように自分の町で住むことはできなくなったはずです。この婦人はイエスに付き従う一人になったのではないかとわたしは想像します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　律法によれば石殺しの罰に値する絶体絶命の罪がきっかけになって、イエスと出会い、罪を赦され、イエスに付き従う全く新たな生活が始まったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　アウグスティヌスは「ああ、幸いなるかな罪」(O Felix Culpa)とイエスに出会える機会となった自分の罪について告白しています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;按手と祈り&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　主イエス・キリスト、あなたは罪を犯した一人の女をゆるし、新しい生き方に導いてくださいました。洗礼の泉に近づき、いのりの糧を臨む洗礼志願者を聖霊で満たし、信じる心を強めてください。あなたに従う生活を通して、神との交わりを深めることができますように。アーメン。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひとこと&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　司祭になってまもないとき、ある方とこの聖書の箇所を読む機会がありました。すると、この方は、全く私が予想しなかった質問をしました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「先生、この女がもう一度姦通を犯したら、イエスはどうするのでしょうか」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しばらく経って、私は、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「イエスは、また同じようになさったと思います」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　と、思わず答えさせられました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　回心は、悔い改める人間の努力ではなく、罪人を赦し続ける、傷ついたいやし人であるイエスの力によって生じるのだと思います。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/augustinemo/36435769.html</link>
			<pubDate>Thu, 04 Apr 2019 06:28:47 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
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