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一般的には荒木村重と岩佐又兵衛の関係が重要ですが、江戸時代以降の荒木一族の歴史も考えていきます。
   結論から述べますと、荒木村重の女房だしは、荒木村重の従兄弟荒木志摩守元清の妻の姪と考えられます。
   以下の内容を要約しますと、細川京兆家当主の細川晴元家臣の田井源介長次の娘の内、一人の娘は大坂本願寺の川那部左衛門尉に嫁ぎ、だし三姉妹が生まれ、田井源介長次のもう一人の娘は荒木村重の従兄弟荒木志摩守元清に嫁ぎ、四兄弟が生まれた、と考えられます。従って、だしは荒木志摩守元清の妻の姪になります。
   だしは荒木村重とは始めから縁続きであり、荒木村重はだしを幼少時から知っていた可能性があります。
   以下に詳しく論証します。
  太田牛一 『信長記(信長公記)』(『荒木村重史料』伊丹市役所、一九七八年)五一頁〜五四頁によれば、有岡城は、 織田信長勢に攻められて、天正七年(一五七九)十一月十九日に開城しました。有岡城に残っていた荒木村重一族は、十二月十六日京都六条河原で処刑されました。
   『左京亮宗継入道隆佐記』(『荒木村重史料』)四四〜四五頁には、
「出(だし)殿年廿四、たし殿いもうと二人、」
        「いまやうきひ(今楊貴妃)大坂にて川なう左衛門尉と申者むすめ
        なり、おとゝハ三人
ミかくへき 心の月のくもらねは 光と共に 西へこそ行
                  荒木女房ちよほ
                                たし殿廿四
    晴元の御内ニ田井源介孫共也、源介孫は此内ニ五人
    有、男女共ニ」
とあります。
  「だし達は細川晴元家臣の田井源介の孫達である。田井源介の孫は、この処刑者の中に五人男女共に有る。」という意味です。
  「晴元の御内ニ田井源介」とは、細川晴元家臣の田井源介長次の事であり、「證如上人日記」天文五年(一五三六)十一月九日に、細川晴元から本願寺への使者として名前が出ています(『石山本願寺日記上巻』清文堂出版、一九六六年、九六頁。柏床宜宏氏の御教示による)。
  この田井源介の孫の五人の内、三人はだし三姉妹と考えられます。
  太田牛一 『信長記(信長公記)』(『荒木村重史料』)五四頁には、京都六条河原での処刑者の車中にだし三姉妹が出ています。
  二番   廿一 たし
  七番   十三 荒木越中女房 たし妹    十五 牧左兵衛女房 たし妹
とあります。だしが「大坂にて川なう左衛門尉と申者」の娘であり、田井源介の孫である事から、だしの母が田井源介の娘と考えられますので、だしの妹二人も母が同じであれば、三人とも田井源介の娘の子供、つまり田井源介の孫となります。
   森本啓一「荒木ちょぼ(通称だし)の父「川な部左衛門尉」について」『村重第九号』(荒木村重研究会、二〇〇九年)一〜二一頁によれば、田井源介の娘が「大坂にて川なう左衛門尉と申者」つまり大坂本願寺の川那部左衛門尉に嫁ぎ、だし三姉妹が生まれた、という事になります。
   ただし、上記の『左京亮宗継入道隆佐記』(『荒木村重史料』)四五頁には「おとゝ(妹の意味)ハ三人」とあります。この翻刻ですと妹が三人で、だしを含めて四人姉妹となり、数が合わなくなります。
   『左京亮宗継入道隆佐記』(国民精神文化研究所編『立入宗継文書・川端道喜文書』国民精神文化研究所、一九三七年、二四八頁、国立国会図書館デジタルコレクション  コマ番号一三六)では「おととい(姉妹の意味)三人」とあり、三姉妹となって数が合うため、こちらの翻刻が正しいと思われます。
  田井源介の孫の五人の内、残りの二人は誰か、という問題になりますが、答は、荒木村重の従兄弟荒木志摩守元清の長男渡辺四郎と二男荒木新之丞と考えられます。
   『信長記(信長公記)』(『荒木村重史料』)五四頁には、京都での処刑者の車中に
  四番   廿一 渡辺四郎 荒木志摩守兄むすこ也、渡辺勘大夫むすめニ仕合(しあわす、結婚させるの意味)、則養子する也
            十九 荒木新忍(丞) 同弟
とあります。
   『新訂寛政重修諸家譜第一三』(続群書類従完成会、一九九六年)三六三〜三六九頁の荒木家系図には、荒木志摩守元清の長男は渡辺四郎 織田右府(信長)のために誅せらる、二男は荒木新之丞 兄四郎と共に誅せらる、三男は石尾治一(はるかづ)母は田井源助某が女(むすめ)、四男は荒木元満(もとみつ)母は田井源助某が女(むすめ)、とあります。
  古文書では漢字は基本的に宛字ですので、「この三男石尾治一と四男荒木元満の母の「田井源助」某が女が、長男渡辺四郎と二男荒木新之丞の母でもあり、「田井源助」がだしの祖父の「田井源介」と同一人物である」と仮定してみます。すると、長男渡辺四郎と二男荒木新之丞の二人は「田井源介」の孫となり、「源介孫は此内ニ五人有、男女共ニ」の文章と計算が合います。
   『信長記(信長公記)』に書かれている他の処刑者が「田井源介」の孫である証拠は、今の所見つかりません。
  であれば現時点では、「荒木志摩守元清の長男渡辺四郎と二男荒木新之丞の母は、だしの祖父の「田井源介」の娘である」と考えて良い、と思われます。
  田井源介の娘の結婚時期を推測する為に、荒木志摩守元清の四人の子供の出生年と、だし三姉妹の出生年を比較してみます。
  荒木志摩守元清は『新訂寛政重修諸家譜第一三』によれば、慶長十五年(一六一〇)五月二十三日数えで七十五歳で没していますので、天文五年(一五三六)出生となります。同書によれば天文四年(一五三五)出生の荒木村重の一歳年下です。
  長男渡辺四郎は『信長記(信長公記)』によれば天正七年(一五七九)、数えで二十一歳で処刑されていますので、永禄二年(一五五九)出生となります。荒木志摩守元清が数えで二十四歳の時に生まれています。
  二男荒木新之丞は、数えで十九歳で処刑されていますので、永禄四年(一五六一)出生となります。
  三男石尾治一は、『新訂寛政重修諸家譜第一三』によれば寛永八年(一六三一)数えで七十五歳で没していますので、弘治三年(一五五七)出生となります。
  四男荒木元満は、『新訂寛政重修諸家譜第一三』によれば寛永九年(一六三二)数えで六十八歳で没していますので、永禄八年(一五六五)出生となります。
  こう考えますと、三男石尾治一の出生年は、双子、年子まで考えて、永禄四年(一五六一)から永禄八年(一五六五)の間のはずであり、没年齢は数えで六十七歳から七十一歳であるはずであり、『新訂寛政重修諸家譜第一三』に数えで七十五歳で没した、とあるのは誤りの可能性が高い、という事になります。
  『信長記(信長公記)』によれば天正七年(一五七九)年、だしは数えで二十一歳、『左京亮宗継入道隆佐記』によれば二十四歳で処刑されていますので、永禄二年(一五五九)又は弘治二年(一五五六)出生となります。二十一歳とすれば荒木志摩守元清長男渡辺四郎と同年齢です。
  だし妹の牧左兵衛女房は数えで十五歳で処刑されていますので、永禄八年(一五六五)出生となり、荒木志摩守元清四男荒木元満と同じ年齢となります。
  だし妹の荒木越中女房は数えで十三歳で処刑されていますので、永禄十年(一五六七)出生となります。
  荒木志摩守元清の四人の子供の出生年と、だし三姉妹の出生年とを比較しますと、田井源介長次の娘は二人以上いて、一人の娘は弘治二年(一五五六)又は永禄二年(一五五九)以前に大坂本願寺の川那部左衛門尉に嫁ぎ、だし三姉妹が生まれ、もう一人の娘は永禄二年(一五五九)以前に摂津池田家臣の荒木志摩守元清に嫁ぎ、四兄弟が生まれた、と考えられます。
  つまりだしは、荒木村重の従兄弟荒木志摩守元清の妻の姪となります。
  さらに荒木志摩守元清は、細川晴元家臣の田井源介の娘との結婚と共に、或いはそれ以前に、摂津池田家臣を辞して、細川晴元家臣となった可能性があります。荒木志摩守元清の「元」の字は、細川晴元から偏諱を賜った可能性があります(柏床宜宏氏の御教示による)。この問題については後に考えていく予定です。
 柏床宜宏氏は『戦国大名池田勝正研究所』のブログで、摂津池田氏の歴史について詳細に研究しています。

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はじめまして

  2013年から2014年にかけて、「官兵衛・村重情報交流板」という、黒田官兵衛と荒木村重に関するサイトがありましたが、閉鎖されました。
  ここに私が書き込んだ話を中心に、荒木村重の一族について、今まで私が調べた話を少しづつ書いていきます。
  歴史の専門家ではありませんので、いろいろと誤りがあるかと思います。
  研究者、御子孫、関係者の皆様の御意見、御情報を心よりお待ち申し上げております。

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