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カシュー国際酒店のお部屋は3泊分リザーブしてあります、今日は1日分の宿泊荷物をデイパックに入れて、トルファンへ移動です。その前に念願の「桜蘭の美女」と呼ばれるミイラに対面しなければ、何の為にこんなに遠いウイグルまで飛んできたのかと・・・・歴史好きは苦悶しておるのです。
朝食を済ませ、一階のロビーに9時に集まってもらいました。皆さんには少し待ってもらい、カウンターの女性従業員に「博物館」行きたいことと「公共バス」を使う、それにネットで調べた路線バスの「906路」のバス停を訪ねたのだ、おいらの下手な中国語で聞くと、いとも簡単に「対面」と答える、そうかホテルの前のバス停から博物館に行く906路が通っているのなら簡単だ、反対側の車線に渡り、バス停の路線番号を見てみるがどこにも906路が書いてない、走ってくるバスはみな路線番号が違うのだ。
バス待ちの中年の小父さんに聞くと「906路」はあっちだろうと、ホテルの反対方向を指す、ではと、その指を差された方へと行くがやはり「906路」のバス停はないのだ。
ホテルのロビーに戻り先ほど聞いた女性とは違う女性に聞くがやはり知らないという、ならば近くの雑貨屋が店開きをしているからウルムチの地図は無いかと聞くが「無い」という始末。
意を決し、もう一度反対側のバス停で学生風の女性に同じ事を聞くと、「何人ですか」と聞かれ「日本人」というと、「英語はしゃべれるか」という話になり「英語ならOK」です、中国語よりだいぶ意志疎通が・・・というわけで、彼女いわくこの先に5分ほど歩くと大きな交差点があり、その向こうに「51路」のバス停があります、目標は「鴨料理の店」の側です。
これには大助かりだ、すぐに現場確認をする、間違いなくバス停の路線図に博物館と書かれている、よしとばかりに皆が待つホテルのロビーへと急ぎ全員を連れだし、大通りを渡り、「51路」のバスを待ったのだ。
大きな路線バスがガーという音と共に止まった、しかし中国のバスはお客さんが待っているところにはまず止まらない、意地悪しているわけではないのだろうが、標識の前で止まることは絶対に無いと思った方がよい、案の定かなり手前に止まり、全員で駆け足だ。
乗り込んで一人「1元」、全部で12元を料金箱に押し込み空いていることもあり、皆さん座席に着いた、バスが走り出してから運転手さんに「到博物館」と聞くと・・・・ぎょっとした顔で、「反対」「反対」と!叫ぶ、えーこのバスは南行きで、博物館は北行きに乗らなければダメ・・・・遺憾!だいぶおいらも焦っていたのだ、真っ暗の深夜、ウルムチに着き方向感覚が・・・いや言い訳をいう場合ではない、次の停留場で急いでおり、道路を渡りあらためて「51路」に乗りなおしたのだ。
反対のバス停から乗り込むと今度は「青い目の中国人」ウイグル族の運転手さんだ、もちろんもう一度訪ねた「到博物館」と・・・「対」と答えが・・・あー、これで博物館に着く。
なんだか、今日はどたばたした朝となってしまったのだ。
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モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家
13世紀にモンゴル高原でチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンは帰順した。
チンギスは彼の帰順を歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした[38]。またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。
以後のモンゴル帝国でウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。
モンゴル帝国および大元大蒙古国では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン(Ūyghristān)」と呼ばれた。
2017/4/23(日) 午後 4:57 [ 日中国交正常化45年南京80年に学ぶ ]