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1、氏康時代
北条氏政は1538年(諸説あり)、北条氏康の次男として生まれた。(長男は早世したため、実質氏政が長男)
1554年に武田信玄の娘を妻に迎え、1559年に氏康に家督を譲られ、代替わり検地などを行っている。
家をついでも実験は氏康が握っていたが、その元で軍事活動や政治活動を行っている。
2、氏政の関東制覇
1571年、父氏康が死ぬと、これまでの上杉氏との同盟(相越同盟)を破棄し、再び武田氏と同盟を結んだ。
そのため上杉謙信と再び敵対することになり、謙信は年度も越山して関東に攻めてくるが、氏政も引けを取らずに戦い、謙信は北条氏に決定打を与えることは出来なかった。
1574年に梁田晴助・持助父子の関宿城を攻略し、梁田氏と和睦、同氏を水海城に退去させた。
簗田父子は氏康の時代から北条を苦しめ続けた武将で、氏康をして関宿城を攻略することを「一国を取りなされ候にも替るべからず候」と評価したほどなので、その関宿城を攻略したことの意義は大きかった。
この戦いののち、謙信と結んで北条氏と敵対する関東の諸豪族との戦いを優位に進めることになる。
1575年8月、北条氏と敵対する房総半島の里見義弘と常陸の佐竹義重が同盟を結び、さらに里見氏は謙信とも同盟を結んで北条勢力と対抗した。
12月、北条氏は下野小山氏を佐竹氏の下に追放した。
1576年冬、北条氏は本格的に上総に侵攻し、1577年には里見氏と結ぶ上総武田氏を従属させ、里見義弘が籠る佐貫城を攻撃した末に里見氏と和睦、同盟を結んだ。
里見義弘は1567年に氏政の大軍を敗走させ、その後房総で大きく勢力を広げ、関東の諸豪族の中でも佐竹氏と並んで「戦国大名」と呼べるほどの大勢力であり、その里見氏と和睦し安房・上総に押し込めたことの意義は大きかった。
3、武田氏との抗争
1578年3月、上杉謙信が死去し、謙信の甥で養子になった景勝、氏政の弟で謙信の養子になった景虎が上杉家の家督争いを起こした。
もちろん北条氏は景虎を支援するが、そのころ氏政は佐竹義重を主力とする反北条連合軍と対峙していたため、すぐに本格的な支援が行えなかった。
そのため、同盟者・武田勝頼に景虎支援を要請し、5月に武田氏は大軍を率いて進軍したが、勝頼は景勝と和議を結び、景勝と景虎の和睦の斡旋して、帰国した。
氏政は激怒し、この時点では北条と武田は敵対していないが、やがて敵対することになる。
8月になると氏政は弟、氏照と氏邦を景虎支援に派遣したが雪が降ると撤退し、翌年3月に景虎は自刃、景勝が上杉家を継いだ。
景虎が自刃したため、氏政は上野支配に方針を変えるが、武田勝頼は景虎との和議の条件で、上野を武田氏が領有することを認めていたため、ここにいたって武田氏と北条氏は完全に手切れとなった。
氏政は徳川家康と結び武田氏と対抗、勝頼は佐竹義重と同盟を結び北条氏と対抗した。
その後、氏政と勝頼は何度も対陣し、決戦には至らず両将とも撤退することが続いていたが、全体を見ると北条氏は武田氏に押されていた。
1580年3月、氏政は中央の織田信長に使者を送り、「関八州御分国に参る」と関八州の領有を認めてもらい、北条領国を織田領国のうちに参じると申し出た。
こうして北条氏は織田氏に事実上臣従した。
8月に氏政は氏直に家督を譲った。(実験は氏政が握っていた)
氏直は信長の娘と婚約しており、信長の婿となるべき氏直が当主になるほうが信長の覚えめでたいと考えたのであろう。
翌年、氏直は代替わり検地を行った。
1582年、織田氏の本格的な武田征伐が始まり(武田征伐について信長は北条氏に通知をしていなかった)、北条氏も氏規を駿河方面に、氏邦を上野方面に派遣した。
武田氏が滅亡すると、駿河は徳川家康に、上野は滝川一益に与えられ、北条氏が制圧した駿河東部も上野一部も北条氏の領有が認められず、北条氏に恩賞はなく、さらに既に北条氏が領していた東上野の領有も出来なかった。
北条氏は織田氏に虚仮にされたようなものだが、それでも氏政は「氏直に信長公の娘が早く輿入れしてほしい」と伊豆三島社に願文を捧げており、氏政は圧倒的な実力を誇る織田氏と結ばないと北条家の存続は不可能だということを認識していたのだ。
4、天正壬午の乱
1582年6月、本能寺の変が起こり織田信長が滅んだ。
氏政は、上野で関東方面を仕切っていた滝川一益に「北条氏に疑心を持つ必要はない。北条父子の相談したらいつでも協力する」という書状を送っているが、これは社交辞令で、既に氏政は武蔵に軍勢を派遣して滝川と戦う備えをしていた。
やがて滝川と手切れとなり、氏直を大将とする北条軍と滝川軍が激突した。
緒戦では北条氏の先鋒・氏邦が滝川軍に惨敗したが、氏直本軍が押し出すと北条氏が大勝した(神流川の戦い)。
氏直はそのまま軍を進め、上野、東信濃に進軍し、両方面の豪族は北条氏に服属した。
信長が死んだため、信濃、甲斐を治めていた信長家臣は逃げたり滅んだりしたため、両国は草刈場と化した。
北信濃に上杉景勝が、東信濃に北条氏直が、甲斐・南信濃に徳川家康が侵攻した。
7月、川中島で北条氏直と上杉景勝が対峙したが、氏直は南の徳川を懸念したため北信濃4群の領有を上杉に認めて和睦し、8月に南信濃に進軍し徳川を撤退させ、甲斐に乱入し、新府城の徳川家康と対峙した。
さらに北条氏は、氏忠を大将とした軍を武蔵から侵攻させたが、黒駒合戦で鳥居元忠、水野勝成などの徳川軍に敗れ、9月になると真田昌幸が徳川方に寝返り、北関東で佐竹義重が動き出し、さらに北条軍の兵糧も欠乏してきたため北条氏は不利となり、徳川と和睦し、同盟を結んだ。
条件は、信濃は徳川氏に割譲、上野は北条氏に割譲、さらに氏直と家康の娘との結婚。
この同盟によって、北条氏は関東制覇に全力で当たることができるようになり、上野一円の領有権を得た(但し、真田氏の領土問題は解決されなかった)。
5、北条氏の飛躍
徳川氏と和睦した北条氏は、下野の攻略にも取り掛かり、反北条の諸将を圧迫し、反北条の諸将は上杉景勝と通じ、羽柴秀吉と結びついた。
1582年12月に古河公方・足利義氏が死に公方家が断絶、公方家の領土は北条氏が直轄し、公方家の権力も北条氏に帰したため、北条氏はさらに大きな勢力を誇ることになる。
1583年、北条氏は南上野の由良国繁・長尾顕長の城を攻め、両氏と結ぶ下野佐野氏の攻略に取り掛かった。
1584年4月、佐野氏を支援する佐竹義重とその連合軍と北条氏直の軍が渡良瀬川をはさんで対陣した。
3ヶ月対陣し、両軍の直接戦闘はなかったが局地戦があり、北条が佐竹軍の退路である岩船山を落とし、また、佐竹を支援する上杉景勝が上野国境で動きを見せるなど、双方が対陣するには限界が来たので和睦し、兵を退いた(沼尻合戦)。
戦後は北条有利に展開し、1585年に金山城・館林城が落城し、由良・長尾顕長が北条に服属させ、真田領以外の上野を手中に収め、下野の宇都宮国綱を本拠の宇都宮城から退けた。
さらに下総作倉城の千葉邦胤の死去を受けて、氏政の4男・直重に千葉氏を継がせて千葉領を併合した。
こうして北条家は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ強大な領国を勢力化においた。
1586年の3月と11月に氏政は徳川家康と会見し(家康の申し入れ)、連携を強めた。
既に家康は秀吉と和睦しているが、しばらくは北条と事を構えたくなかったのだろうか。
6、挙国一致の交戦体制
1586年10月、秀吉は惣無事令を発し、大名の私戦を禁じた。
北条氏は惣無事令に従うか否かに対する明確な回答を避けつつ、北条領国全域にわたる防衛体制の構築を進めていた。
従来の人夫動員を超えた動員をしてあらゆる城の修築、補強をした。
さらに「人改めの令」を発し、領民15歳から70歳までの男子の名を書き出させ、挙国一致の体制で秀吉に臨んだのだ。
また軍備も強化し、八王子領では寺社に梵鐘を提供させて弾丸の原料としたほどだった。
しかも籠城戦のため、各支城の領主に領内の食料を城に搬入するように命じた。
1587年から1588年にかけての臨戦態勢は、羽柴軍の来寇が風聞に終わったためすぐに解除された。
後に1589年末から1590年にかけて再び同様の体制がとられる。
7、北条滅亡
1588年、秀吉は北条氏に聚楽第行幸の列席を求めたが、北条は断った。
そのためは芝の北条征伐の風聞が流れ、北条氏は臨戦態勢を取ったが、家康は起請文を送り北条氏を説得した。
1.家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
2.今月中に兄弟衆を派遣する
3.豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる
これを受け入れた北条氏は、8月に氏規を上洛させた。
北条氏もついに豊臣政権の大名となる動きを見せた。
1589年には北条氏が真田氏の沼田領の裁定を秀吉に依頼、秀吉は沼田領の3分の2を北条領国とすることで決着をつけた。
そして遂に12月、北条氏政が上洛することになったが、北条氏は上洛を遅らせようと秀吉と交渉していた。
そんななか11月に、北条氏邦の配下・猪俣憲邦が真田氏の名胡桃城を奪取する事件が起こった。
これに激怒した秀吉は24日に北条氏に宣戦布告、氏規は秀吉にひたすら謝罪したが聞き入れられず、遂に小田原征伐が始まった。
1590年春、征伐軍が北条領に攻め寄せ、北条氏が誇る支城群を次々と落とし、4月に小田原城を囲んだ。
小田原城内では降伏か交戦かの評定が延々と交わされ、厭戦気分が蔓延、内通者や逃亡者も出て城内は疑心暗鬼に包まれた。
もう戦い抜くのは不可能と考えた氏直は弟・氏房とともに7月5日に小田原城を出て秀吉の下に出頭し投降した。
氏直は自らの切腹と引き換えに城兵の助命を懇願した。
秀吉は「神妙」と感心したという。
小田原城は開城し、城兵と氏直は助命されたが、主戦派だった北条氏政、弟氏照は切腹させられた。
こうして、関東に覇を唱えた戦国大名としての北条氏は滅亡した。
氏政辞世「吹きと吹く 風な恨みそ 花の春 紅葉の残る 秋あらばこそ」
氏照辞世「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
参考文献
「戦国北条一族」黒田基樹著
WEBサイト数件
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里見氏の本拠・佐貫城を攻撃した末に里見義弘と和睦、同盟を結んだ。
ってのはおかしいぞww
里見の本拠はそんな所じゃない、久留里城だったと思う
それに里見の本拠を囲んだのは北条綱成だけで
氏康の時期ではなかったか?
あと信長の婿となるべき氏直が当主になるほうが信長の覚えめでたいと北条方が考えたのではなく、織田家から
『氏直は後継ぎに過ぎない、北条家当主でなければこの話は破談』
といわれてたみたいだったしw
2010/3/26(金) 午後 6:13 [ - ]
指摘どうも。
佐貫は「里見氏の本拠」というには不適切かもしれぬが、対北条の最前線の城であり、義弘が在城して北条と戦ったのは確か(まあ、「本拠」というのはおかしいかもしれないので訂正します)。
第二次国府台の戦いで里見氏の勢力が大きく減退した後、氏康の時代に攻められたこともあったかもしれないが、実際に責めて和睦したのは1577年ごろ。
<里見の本拠を囲んだのは北条綱成だけ
この文を見たらわかるように、「氏政の戦歴」というよりは「氏政、氏直の時代の北条氏の動き」を主体としているので、細かいことは気にするな。
決して「氏政が攻めた」とは書いてないので間違いではない。
氏直の家督問題
それは、単なる見解の違い
「氏直は後継ぎに過ぎない、北条家当主でなければこの話は破談」って、せいぜい(ここでの)あんたの情報源は伊藤潤氏の「北条氏照」でしょうが。。。
ちなみに、この文章を書くに当たっての参考文献は黒田基樹氏の「戦国北条一族」です。
これまでの知識との微妙な違いもあったようで書くときに迷ったりしましたが、取り立てて大きなミスはなかったと思います。
2010/3/26(金) 午後 10:51 [ 左衛門督 ]
伊藤潤氏の「北条氏照」
じゃなくて、主に氏政、氏直期は
『戦国時代の終焉〜北条の夢と秀吉の天下統一〜』
って本でほとんど勉強してます
あと最前線基地って佐倉城じゃなかったっけ?
2010/3/27(土) 午後 0:43 [ - ]
ほうほう。
「戦国時代の終焉」なかなか面白そうじゃん。探して見ます。
佐倉城と里見氏の関係はないので、佐倉城は里見の前線基地ではありません。
2010/3/27(土) 午後 10:50 [ 左衛門督 ]
ごめん、佐倉は北条方だったww
2010/3/28(日) 午前 0:24 [ - ]