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豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の真意に対する議論は絶えない。
戦前は、「大陸進出を行った偉業」と持て囃されたが、今では当然のことながらそんな史観は無く、秀吉の出兵の真意を探ろうとする動きが多い。
しかし、それでもまだ謎は解明されていない。
もっとも一般的な出兵理由は「秀吉の老耄」である。
「老耄した秀吉が、日本だけでは飽き足らず、朝鮮・明国を支配しようと野望を抱いた」と。
「農民上がりのなり上がりが有頂天になった」と表現されることもある
出兵前に、息子の鶴松、弟の秀長が死んだショックの憂さ晴らしなどとも囁かれる。
まあ、もっともらしいといえば尤もらしいのだが、いかに日本の最高権力者とはいえ、それだけの理由で前代未聞(に近い)の大陸進出を急遽行うことができたのだろうか?
実際は、もっと深い真意があったのではなかろうか?
という疑問は当然湧く。
そこで出た新説が「戦国時代のつけの精算」である。
大名が寸土を争って戦争を重ねていた戦国時代が秀吉によって幕を閉じた。
さあ、平和。めでたしめでたし。___では終わらない。
戦国時代は戦争が日常茶飯事であったため、大名は多くの兵を抱えていた。
その兵は必ずしも大名家の正規兵ではなく、陣借りをして功名を立てようとした牢人、土地を追われ傭兵として食いつなぐ民衆・・・などもいた。
戦争が無くなれば、大名家はそれらの兵を抱える意味はない。
そうなると、リストラが始まるのだが、そうなれば彼らはどうやって生きていけばよいのか?
泥棒?夜盗?___まあ、まともに生計が立てられない。
また、戦争が無くなれば、武具などの需要も減り、鍛冶屋などの経営が苦しくなり、経済が悪化する可能性もある。
それらを防ぎ、平和な時代への調整の役割のために行われたのが「朝鮮出兵」だという考え方である。
中世の大名体制や民衆について研究する専門家にもこう考える人が多いようである。
武将の活躍ばかり目立っていた安土桃山時代において、当時の細かい経済基盤などが考慮されたこの説は画期的である。
しかし、朝鮮に出兵したのはいいけど、その後はどうするのか?ただ出兵するだけでは根本的解決にはならないのではないだろうか?そもそも何故、朝鮮?といった疑問が湧き出てくるのである。
そのことについては私の頭脳では考えることが出来ないので、ここではおいておく。
上記の説は、「日本国内」の状況分析によるものだが、世界に目を向けた次のような説もある。
それは、「秀吉が、ヨーロッパ勢力を危惧した」というものである。
当時、ヨーロッパは大航海時代を迎えており、スペイン、ポルトガル、オランダ(この国が活躍するのはもう少し後だが)などの国が植民地政策を推し進めていた。
その国々の植民地政策は過酷を極めていた。もちろん、原住民は「虐げられる」と言う言葉では表現できないほど「虐げられ」ていた。
また、イエズス会のキリスト教布教も植民地政策の一環ともいわれている。
キリスト教を布教することで住民の心をつかみ、そこから少しずつ影響力を強め、万全を得たところで相手国家に圧力を加えていき、やがては支配下におさめる。といった構図である(簡単に言えば)。
日本も、九州では危なっかしい状況になっていた。
キリスト教信者は増え、キリスト教徒が仏寺を焼き討ちにし、大名がキリシタンになり、大村純忠にいたっては長崎の領土をイエズス会に寄進していた。
それだけでなく、国内の戦争で溢れた捕虜が、日本人奴隷としてヨーロッパの奴隷商人に売り渡されていたという恐るべき事実もある。
島津征伐のため九州に赴いた秀吉が、その実態に危惧を抱いたとしてもおかしくない。
以下は、ある作家の説である。__________
「ヨーロッパは、アジアにもっと勢力を広げる。明国がヨーロッパに取られたら終わりだ。」と危惧を抱いた秀吉は、貿易などを通じて明国と誼を通じようとした。
しかし、明国は事実上鎖国に近い状況である。
秀吉は諦めず、朝鮮に仲介を依頼したがスルーされ、「言うことを聞かないなら攻めるぞ」と脅しをかけてもびくともしないため、朝鮮に出兵し、明国も制圧しようとした。
ヨーロッパに取られる前に明国を制圧し、ヨーロッパの間の手から日本を守ろうとした。。。_________
「トンデモ説」ではないだろう。
日本の最高権力者である秀吉は「(事実上)日本国王」として海外の国の王と関係を持っていたため、そこから多くの情報を取り入れ、ヨーロッパに危惧を抱いたとしてもおかしくはない。
しかし、そんな「公然とした理由」がある朝鮮出兵に手を抜いたのは何故であろうか?
「手を抜いた」とは次のようなことを指す。
・朝鮮の情報を十分に下調べず、行き当たりバッタリで武力だけで制圧しようとした(調略を得意とした秀吉らしくない)
・(慶長の役で)戦争の最中だというのに、戦のことを忘れて、自分は上方で遊び暮らし、秀頼にデレデレしていた
「秀吉が老耄していた」「ボケた」といってしまえば終いかもしれないが、それにしても不可解である。
結果的に、朝鮮出兵の真意は歴史の闇の中である。
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俺の言いたいことはわかるよな?
2010/5/2(日) 午後 10:41 [ - ]
「秀吉は民を苦しめるウンコマンだ!!」ってか(笑)
まあ、李氏朝鮮の政治に比べたら(比べるのも秀吉に失礼だが)、秀吉の政治のほうがよっぽどいいけど。
「虚けの舞 〜織田信雄と北条氏規〜」伊東潤著
読んでみ。
小説としても面白いけど、秀吉の政治理念と北条氏の政治理念の違いについての一説があって、そこがかなり興味深いよ。
2010/5/2(日) 午後 10:51 [ 左衛門督 ]
虚けの舞は図書館にも本屋にもないww
2010/5/2(日) 午後 10:56 [ - ]
貸したろか(笑)
2010/5/2(日) 午後 10:57 [ 左衛門督 ]
どう考えても無理じゃんww
2010/5/2(日) 午後 11:11 [ - ]
通りすがりです。
関連記事を書いてます。どうぞ。
2012/12/28(金) 午前 11:20 [ 衛鴉瓏改竄の日本史を抉剔する ]
朝鮮出兵は豊臣秀吉がスペイン大帝国の侵略に備えた世界観から行われました。
まず、キリシタンの禁止は宣教師を尖兵としたスペイン大帝国の侵略の常套手段を封じるため、あるいはスペイン大帝国との手切れのため追放したとも言われています。
秀吉は当初はキリスト教を禁止しておらず、交流を深めていました。
スペインが明を侵略するとそれは日本にとっての脅威となるため、先に日本が占領してしまおうと秀吉は考えました。それで朝鮮半島経由で明を攻めることになったというものです。
1594年4月マニラ総督宛に秀吉が書状を送っておりその書状は残っています。内容はほとんど恫喝であり、既に朝鮮を占領したぞ、マニラに攻めることもできるぞ、スペイン国王に日本と友好関係を結ぶように進言しろ、というものです。
もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ、中国や朝鮮は、1600年代前半にスペインやポルトガルの植民地になっていたことでしょう。
2013/1/3(木) 午後 8:55 [ 底質汚染 ]
「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。
「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)
したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていた。
2014/7/27(日) 午前 9:05 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]