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「バターン死の行軍」の罪を問われて銃殺刑に処された陸軍軍人・本間雅晴中将の生涯。
1887年、佐渡島の農家に生まれた本間雅晴。
本間は体格がよく、身長は176cm、体重90キロという巨漢でしたが、文学を愛し読書好きだった。
なんと中学生で新聞の懸賞小説に応募して当選したほど。しかもそのタイトルは「結婚」。
本間は軍人への道を進み、陸軍士官学校を経て1915年に陸軍大学校を三番の卒業で卒業。
ちなみに本間と同期の陸大卒業生には、やがて首相となった東条英機や、インドネシア攻略戦で勇名を轟かし、優れた軍政を敷いた今村均らがいた。
今村と本間は親友として深く交流することになる。
陸大卒業後の本間はエリート軍人として経験を重ね、台湾軍司令官を務めていたときに大東亜戦争が開戦し、本間は第14軍司令官となりフィリピンに向かうことになる。
破竹の勢いで進軍した本間率いる日本軍は、フィリピンの首都・マニラを占領したが、バターン半島での米比軍の抵抗は頑強で、食糧難やマラリアなどの病にも悩まされ、それ以後の攻略は思うように進まず、作戦を中断した。
そのため参謀本部では本間を非難する声が上がったが、本間は体勢を立て直して再びバターンを攻撃し、敵の総司令官、ダグラス・マッカーサーは密かに戦線を離脱し、マッカーサーに見捨てられた米比軍は降伏。
降伏した兵・一般市民・難民は10万人以上に及び、日本軍には捕虜をを収容所まで輸送するトラックはなく、炎天下の下を歩かせるしかなかった。
その距離は60キロに及び、その上彼らに与える十分な食料はなく、病気の影響もあり多くの犠牲者が出た。
本間は「逃げる者は追うな」と指示していたが、他の将校による異なった命令などもあり、末端の兵が捕虜を殴るなどの虐待をした事例もあったという。
本間はフィリピンを攻略したものの、日数を費やしすぎたことを咎められ、司令官を解任され、予備役に編入させられ、終戦に至った。
敗戦後、GHQにバターン死の行軍の責任者として召還、逮捕された。
GHQは日本への報復的な裁判のために戦犯探しに躍起になっていた。
なにしろ、GHQの最高司令官はマッカーサー。
誇り高いマッカーサーは自らの軍歴の最大の汚点であるフィリピン撤退の屈辱を忘れていなかった。
敵将・本間雅晴に報復することはマッカーサーの悲願だったのではないだろうか?
起訴され、マニラで裁判にかけられた本間はフィリピンでの「捕虜虐待」が罪状として挙げられ、1946年4月3日0時53分、ちょうど4年前に本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて銃殺刑が執行された。
多くの将校が囚人服を着たまま絞首刑に処されたが、略式の軍服で銃殺されたことは本間にとってせめてもの名誉だっただろう。
「部下の行為については喜んで責任を分かつ。戦場で死んだ幾千の日本軍将兵の仲間入りをしたい」
これは本間がマニラでの裁判の法廷で本間が言った言葉である。
また、裁判において弁護側証人として呼び出された本間の妻・富士子は、証言の最後をこう締めくくった。
「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。いつかは娘が本間のような男性とめぐり合い、結婚することを心から望んでおります。本間とはそのような人間でございます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」
巨躯な美男で、文学や英語に堪能だった本間雅晴。
温厚な性格ながら、その態度は毅然とした武人であった。
本間雅晴中将の辞世
「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」
「甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」
「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」
「予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」
「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」
参考
・「太平洋戦争人物列伝(昭和史研究会)」
・Wikipedia
・Webサイト数件
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こんばんは。
バターン死の行進はプロパガンダでした。当時を知るダニエル・ディソン氏の本を読んでもわかります。本間中将に合掌。
傑作・ツイート・TB
2010/12/24(金) 午後 9:51 [ JJ太郎 ]
こんにちは。
「バターン死の行軍」については通り一遍の知識しかありませんが、敗戦後の連合国軍による「戦争犯罪人」の検挙は適当の極みで、その「適当の極み」によって死罪に処される本間中将の誇り高い死に様は感動的です。
特にマニラ法廷での本間の言葉には感動しました。
2010/12/26(日) 午後 0:12 [ 左衛門督 ]